不思議活性

『若き日の詩・その後』

 『愛すべきものであることを』1981年(昭和56年)6月。『恋慕』1984年(昭和59年)5月。『生誕』1989年(平成元年3月)からの抜粋です。



 ○ 『愛すべきものであることを』

 「手のひら」

やさしい手のひらから
降りたったわたしたちは
それぞれの心象スケッチを
   あおぞらいっぱいに刻み込むでしょう

光とともに歩み 光を持つ
 わたしたちの心が
燃え尽きるまで


 「ひとつ」

ひとつが
すべてであることを
風に運ばれたたんぽぽの実を
感じられるわたしは
一輪の花とともに
甦る純情を
ささげる。

 「真空媒体」

よせくる波に
胸おどらせば
ふたつの心は 波間に
浮び上がるからだであることを
忘れつつ おもいは
さやかなる
向日葵のごと。

 「一握りのパン」

白い雲に似た
きのうのおもいでを
ひとにぎりにして
口のなかにほうり込んでみた
洗い流された
爽やかな朝。

 「離れていても」

僕がいつまでも
子供であるのだろう
遠く離れていても
枕元から話かけてきた
おふくろの声

どうしても
上京するといい 仕事の当てもなく
つきそわれてきたのを最後に
おふくろのことは忘れていた
それでもうら盆と正月には
いつも戻っていた自分だが(ことしは例年になく
皆が田舎へ帰ったようだが)
僕はこの何だか薄らいだ夏景色のなか
小さい頃のあの太陽の光や
深い森の清流は
聞こえないが
この街並みも
若者となった僕の胸のなかをよぎる風と連なり
真新しい喫茶店やブティックなどと古い建物が
交錯するあるがままの夏景色

去り行こうとしている
うら盆の夜明け方 僕は枕元に
忘れていたおふくろの声を聞いた。

 「瞑想」

坂道を
上がった
僕の腕にすがる
きみのぬくもりに
あるがままの
すてきな
心象となって
開かれていた―― 愛・喜び・平和。

 ○ 『恋慕』

 「恋慕」

山頂をも
照らし出す
雲海の彼方の白い夕陽は
麓を走る
  有機交流電燈の
  列車の窓にも
  微笑みかけ
モダニズムな雑誌を
めくる
白髪紳士の頭も洗う
と、
こんもりとした
おだやかな山々が、霧のようなもやに
朧に浮び上がって、しっとりした
若葉の群れが
ひんやりとした冷気のなかに
漂い
漏らした精液の匂い

 「秋だったか」

秋だったか
胡桃の木がある
店先の外灯に照らされ
幼子を乗せた
若いかあさんが自転車で
通って行った
茅葺屋根の下、(きっと夢みた楽しき
           おもい・・・・・・)
やがて、下弦の月が軒先に――

 「桔梗」

あの饐えた
夏の匂いを
忘れていた
裏山の一軒屋
桔梗が咲いていた

 「深みのなかで」

深みのなかで
夕暮れの 陽ざしが恋しい
まどろみのなかで
螺旋階段の陶酔は
笑顔を忘れ
しばし
桃源郷を彷徨い
ひんやりとした魚が飛び跳ねる
古池に佇めば
もはや
目醒めることを忘れ
何時か 古水に映る 仄かな月を

 「午前零時」

ダ・ビンチの
やさしい聖アンナの眼差し
が 光であった
遠い過去からの 記憶
わたしが捧げた 忘れられた
おもいが
呼び醒まされることのない 意識
いったい
眠る夜を目醒める意識が 何を
考えるのだろう
ジョルジョーネのテンペスタの
稲妻のように
永遠は 語らず
生きてあることの沈黙と
何気ない
眠り

 「沈黙」

おもわぬことによって
満たされていたおもい
おもうことによって
すり抜けたおもい
悔やむことのない
やってくる
忘れられることの
会わないことの

賢者の沈黙

 「覚醒」

ともかく言葉をもって無の片鱗を窺わせる。あるいは、言葉
を無と親しくするというのが、詩というもののひとつの姿だと、
私は思うのですが・・・・・・。
そうですね。
私が書かれた言葉によって詩を感じるというのは、書き現わ
された言葉の意味がわかったというより、書かれた言葉から
ある種の感慨が呼び覚まされた、ということにあるのだと思う
のですが・・・・・。あの無というものに対して、別に何もしないで
いられればそれでいいのであり、絵を描きたくなったら絵を描き、
詩らしきものを書きたくなったら詩らしきものを書くという、その
なにもないようなのがいいですね。

・・・・・・覚醒。

 ○『生誕』

 「配達された封筒の無明」

偏在する自由を
絶対の内面の超理性を
霊峰の放棄された肉体を
観察する俺ではない無分別な我は
眠りを眠りとして 夢を追いかけてはいけないお前は誰か
(静止した進化の脳髄は、感覚器官のパルスが唱える
機械の恍惚状態に?)

意識の・・・・・限定されない、サンスクリット語のフリダヤ(hridaya)

(放棄)

進化の継続
(・・・・・対象の、残存の印象の、・・・・・微細な椅子と机の、
・・・・・角に頭をぶつけた豆腐が、・・・・・三日後に鞘となり・・・・・?)

―― 再生。


 「黎明」

浅間の麓の

―― 夜明けの冷え込みはマイナス八度

地軸の傾きが
夜明けの薔薇である大空を
内蔵の朝露として
引力をひき絞める
夜明け

 「銀河」

流れる銀河の
銀青色な日輪の
昇る
黄金色の
朝焼けに
放つ
目覚める聖霊の
清き訪れ

 「菩薩生誕」

沈んだばかりのやさしい残照に
きみの面影を
オーバーラップしていた
ぼくの心象を
レントゲン写真なんかのように
透かしてみても
今は ただ 
秋風が 吹き抜けるのをみるばかり

ひるがえって 
数えきれないほどの
たまってしまった手紙の文面から
きみのおもいを摑まえようとしても
まるで 読んで行く先から 消えてしまう
透明なインク で この頃は さっぱり
うつつのあわいに 浮かぶ 
心象も おぼつかない?

ならば 積みあげられた 
きのうに サヨナラする
激しい情熱が 
焼き尽くす 

心象の 灰のなかから 
甦る 
微笑みを

  *

菩薩生誕

 「ゴッホ巡礼」

空虚なおもいと呼んでもいい
空虚を
摑まえることなく
離してしまえば
金縛りにあった時、必死で
意識を肉体のすみずみまで戻したのと違い
もう だした手紙の返事が返ってこなくとも
気にすることのない
三月三十一日
明日が四月馬鹿なんていはない

ぼくは
セザンヌは好きだが
ゴッホの方がもっと好きだ
色が色であることの喜びをあらゆるものに反映させて
もの自身がものであることに
我がもの顔だから

そう 玉葱ひとつにしても パイプにしても
ものそれ自身になってしまって
空虚なおもいが
離れているということ が、ゴッホの自画像の眼差しが
虚空を見つめているのは
まれなる悲劇の 偉大さの証だろうか?

でも
何といっても
刈入れの絵が一番いい(実物を見たわけではないが)

「・・・・・このぼんやり見える人物は 仕事を終りにしようと 炎暑
のなかを鬼みたいになって働いているのだが ぼくはそのとき 
この人物のなかに死の影像を見た つまり 人間が刈りとられる
麦のように思えたのだ
しかし この死には悲しみというものがなく すべてを うつくしい
黄金色の光でひたす 太陽のあかるい輝きのなかの出来事なのだ」

そう、そこでは空虚と呼ばれるものは、完全に消失し、虚空は光で
再び 満たされているのだ

創世記のはじめのように

 「奇跡」

明け方
病院へむかう前
窓の外で
鳥の鳴き声が
ピィピィとするので
表へまわってみたら
やっぱり?
つばめの飛来――

それから
おふくろと交替の おやじの看病であるが
いつになったら おやじは意識を取り戻すのか?
俺は、
新しい職を探さなくては・・・・・などと
半ば無意識に
車を走らせた
目の前は
朝靄に
おぼろの山やまと
田植えのすんだ 
鮮やかなきみどりいろと
一面に引きこまれた
水のやさしさ

  *

そう、
それからだった
幾日かたった ある朝、
脳梗塞で倒れてしまった おやじが
驚くべき回復力によって
奇跡的に口を 
開いたのは


・生きるということに悩んでいた若き日々でした。『生誕』1989年をまとめてからは、詩らしきものを書くということから遠ざかりました。思えば、誰に詩を見せるということはなく、自分の心の日記だったのです。それから、まもなく縁あり結婚となり、生活に追われる日々となり、詩を書くということはなくなったのでした・・・・。

 その後、インターネットは、1995年にWindows 95が発売されたことをきっかけに一般に普及し始めました。とあるように、自分も2005年頃からでしょうか。ネットでのブログに出会い、顔も知らない人たちとのネットでの出会いが、再び詩を書くように私を誘ったのです。そして、そのネット上での『趣味の部屋・詩と私』ですが、2008年(平成20年)から2018年(平成30年)の間でした。
 早いもので、いつのまにか、古希を迎え、現在に至っています。今では、詩を書くことはほとんどないのですが、若き日の詩をこうして顧みることが出来るのもブログがあるからで、ネットの存在は大きなものです。詩は書かなくとも、生きていることに、詩的な何かを感じられるって、いいなあと思うこの頃です・・・・・




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