不思議活性

 『両性のための楽園の門』ウィリアム・ブレイク 3

  『両性のための楽園の門』ウィリアム・ブレイク 3

   12

おお布教師よ 神はかような報復を行うのか
私の牢獄の底に 父と子とを閉じこめた

・中央の老人は“神曲”地獄篇33章のウゴリノ伯爵、両脇に二人の孫をかかえ、前面の二人の息子も悲嘆にくれている。この投獄をブレイクは宗教による拘束の標示にもちいているわけである。

   13

恐れと望みは―霊視である

・宗教の課した牢獄で、自らの罪が死に価しないかをおそれ、あるは神の救いに一縷の望みをかけたりもするが、それらの意識も実は霊現なので、これによって人は死の床でも天上への示唆を感じとることが出来る。
 死ぬことのない不滅の人を私が一たび見つけたとき。

   14

旅人は夕暮れ時を急ぎゆく
私の日の労を閉じ

・錯誤の旅路に日を過ごしてきた旅人ではあるが、一たび霊現を仰いでは、もはや何物を考慮するいとまもなく、ひたすらに死に望みをかけて、日暮れの道を急ぐだけである。

   15

死の扉をくぐる
老廃の身を撞木杖によせかけて 

・彼は見すてられたのではない。錯誤の支配下にある地上人としては、この扉の奥にこそ過程が絶たれる、という神意に従ってゆくばかりである。
 私は死の扉を開いて、土中に機織る蚯蚓を見出した。

   16

私は蚯蚓に言った 汝はわが母 わが姉妹である


・「汝は性の闘いを夢に織り、生の敷物を嘆いている、胎内から私の母、墓場までの私の妻、姉妹、娘である。」

 彼は土に還り、彼の物質身(錯誤の外被)を蚯蚓(ミミズ)の食むにまかせたが、これによって初めて今までの過程が女性的(生死繁殖)のものであったことを悟る。徹底した錯誤の犠牲となることの中に更生への智恵が秘められていることを。


   * * * * * * * *

 以上、ウィリアム・ブレイク『両性のための楽園の門』の紹介でした。

 若かりし頃、私はブレイクの残した幾つかの詩に出会い、戸惑ったことが思い出されます。それから、どのくらいの月日が過ぎたでしょう。今回、積読になっていた書籍から、ふと改めて手にしました。
 
 例えば、

禁欲は いちめんに砂をまく
赤らんだ手足 燃える髪の上に
しかし 満ちたりた欲求は
そこに生命と美の果実を植える

わたしは見た 総黄金造りの礼拝堂を
わたしは見た 一匹の蛇が その扉の
白い丸柱の間をつたい よじのぼるのを
ぬるぬるの胴体を ながく引き
ついに 純白な聖壇の上へ

毒気を 吐き出す
聖餐のパンの上に 葡萄酒の上に
そこでわたしは 豚小屋にはいり
豚の間に 身を横たえた


 また、今回の『両性のための楽園の門』ですが、やはり、ちょっと難しいというか、どうすれば、人は『楽園の門』に入ることができるのかなと思ったりしました。
 でも、読み返していくと『楽園の門』の六話に、小児が翼をもち、地上にも霊性の出発はありえる。第十六話の、この悟りは右手に握られた棹によって示されている。などとあり、誰もが、『楽園の門』に入ることは出来るのだと思った私です。
 ブレイクが言う「母」は性という事に関連する生産(生死繁殖)過程―これは錯誤中のものであり、「男」もまた性の錯誤の他の反面である妄執的な理念を標示し「幻像」と呼ばれているのであることに気づけば・・・・。

 次のブレイクの言葉です。

ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる

よろこびを わが身に縛りつけて離さぬやからは
天がける生命を 死滅させるが
飛ぶ一瞬のよろこびに 口づけするものは
永遠の日の昇りに住む

 そして、『楽園の門』に関連して、ふと何故か、ヒエロニムス・ボス(1450年頃~1516年)の『快楽の園』を思い出しました。ブレイクの言う性の錯誤が、『快楽の園』として描かれているのではと・・・・。
 また、『楽園の門』は天国にあるのではなく、この世にこそあるべきだということで、この世を楽園の門として描いた多くの画家たちの姿を、『一枚の絵画と詩』で紹介している私です・・・・。



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