koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

『風林火山-河越夜戦』

2007年06月10日 22時13分10秒 | 風林火山

「冗談じゃない!」を録画しながら見ました。
先週の分を6日ためたのとは大違いです。



河越城主北条綱成の弟が福島彦十郎ということに関しては私の認識不足でして,花蔵の乱まで遡って考証を進める必要があります。
ただ,綱成は幼名を福島勝千代といい,花蔵の乱の敗戦に際して弟の彦十郎とともに相模に逃れたと考えられます。
その彦十郎が,河越城から勘助を「父の敵」と,虎の子の種子島で狙撃してしまうのですから,たまげてしまいました・・・。


ま,勘助が客将として北条陣中にいるというのも無理がありますし,氏康と仲が良すぎるのも変ですので,やはり原作以外の部分でストーリー的につらいものがあるようです。
真田を仇である武田家に斡旋したのは勘助であることになっていますが,その時期ははっきりしていません。
ただ,いずれにせよ,関東管領家の没落と共に真田が小県の旧領を回復したのは事実でしょう。


しかし,あの上杉憲政,おねいさんをあげて騒いでいて北条軍にやられたのは仕方ないとして,いくらなんでも老けすぎではないでしょうか。
大永3(1523)年の生まれですから,はっきり言って晴信や勘助より若いのに,あれは配役ミスです。
でもって,やがて上州白井城を追われて,越後の長尾景虎を頼って管領職を譲り,その結果上杉謙信(最初は政虎,後輝虎)の誕生と相成るのですが,それはこれより10年後の弘治年間のことです。
来週はいよいよGakct謙信の登場ですが,どういった形で出てくるのやら・・・。
天文15年(1546年)時点で数えで17歳。
ちょっと無理があるのでは・・・。


いずれにしても,退屈で居眠りを禁じ得なかった「功名が辻」と比べると45扮間あっという間に過ぎてしまいます。
来週は上述の如くGackt謙信の登場ですが,それも楽しみにしたいと思います・・・。


あ,そうそう,真田幸隆の忍びの者(草の者と云うべきか)の葉月とかいうおねいさん,どっかで見た顔,と思っていたら,何と千葉真一と野際陽子のご令嬢だったとは恐れ入りました・・・。
お母さんそっくり・・・。
また出るんでしょうかね。
ぜひ鮮やかな殺陣を見たいものです・・・。

 

             すみませんが,明日より泊まりの出張で3日程留守にします・・・。


『風林火山-三国同盟』

2007年06月09日 22時31分22秒 | 風林火山

何と6日たった本日,やっと見ることができました。
本来なら日曜夜のエントリとすべきなんでしょうけど,いろいろとありましてすぐに見ることはかないませんでした。
ついでに,前回の「冗談じゃない!」も録画したまま見ていませんし,昨夜の「田中3号」も同様です・・・。


いやー,今回の白眉は何と言っても久々のご登場だった谷原義元でした。
まず,これまた久々の伊武雅刀扮する太原崇孚雪斎にまたもや感心。
あのダークな雰囲気がたまりません。
殆どフォースの暗黒面に堕ちたような感じで,身震いするような感動を覚えました。
「ヤマト」のデスラー総統とも「のだめ」の峰のとうちゃん(「裏軒」の親爺)とも全く異なる役作りの巧さがこの人の持ち味なんでしょう。
その雪斎に全く引けを取ることなく堂々と対峙したのが谷原義元でした。
「ぼくにまかせてよ~」
などと言う筈もなく(当たり前だ),磯次郎さんや「ごくせん」での役とはひと味もふた味も違う絶妙な役作りをしていたのには感服させられました。


甲駿相の三国同盟は実際には天文23(1554)年に締結していますので,河越夜戦前夜であるその数年前に勘助を登場させて今川と北条に使わすのはかなり無理があるような気がします。
おそらく,いずれ善得寺会盟と呼ばれる三国同盟の正式締結シーンも出てくるでしょうが,この同盟によって,三国ともそれぞれ実があった訳ですから,これを演出したとされる太原雪斎はやはり只者ではないということになります。


では,同盟締結によってそれぞれどのような利を得たのでしょうか。


まず北条氏。
次回はいよいよ河越夜戦ですが,古河公方と関東管領の山ノ内扇ガ谷両上杉が同盟して北条に対抗してきます。
西の憂いを断つことで,関東の攻略に専念することができるようになり,河越夜戦に勝利することで関八州の覇者としての地歩を固めることになります(尤も,常陸の佐竹と安房の里見,そして西上州は真田が侵攻したため,領有できませんでしたが)。


逆に西に勢力を伸ばしたのが今川です。
遠江~三河に侵攻。やがては尾張へ,ということになります。
尤も同盟締結以前から,信長の初陣である小豆坂の戦い等,今川家の矛先は西を向いていたのですが,東西両面作戦は得策ではないということでしょう。


そして武田。
この時期の晴信は,上田原の戦いや戸石崩れでの屈辱的な敗戦から立ち直り,塩尻峠に信濃守護職小笠原長時を破り,筑摩地方へ侵攻。
そして,埴科・更級といった北信地方-つまり善光寺平(長野盆地)へ侵攻,という川中島の会戦への準備期間だったと言えるでしょう。
勘助による海津城築城もこの時期と思われますし,信濃侵攻に専念する武田家にとって実に好都合だったということでしょう。


次回の河越夜戦ですが,関東圏の方以外にはちょいと馴染みの薄い少々予備知識を入れておく必要がありそうです。
古河公方の起源は結城合戦まで遡るでしょうし,関東管領上杉家の分裂(扇ガ谷と山ノ内),小弓御所と鴻之台(国府台)合戦,里見義堯と北条氏康の確執等,明日夜までおさらいできるでしょうか・・・。


『風林火山』-生か死か

2007年05月06日 22時59分55秒 | 風林火山

冗談じゃない」を録画しつつ,久々に日曜のうちに視聴。
こういう点,HDDは便利です。


某サイトによると,30代以上に「久々の大河らしい大河」ということで評判がよい,ということですが,確かに現時点で視聴者に阿らない配役と,短い原作の内容を無理なく(でもないか・・・)膨らませた脚本がその一因かと思います。
悪いけど,原作のテイストを微塵も感じさせてくれず,極めて中途半端な印象のみが残った昨年の「功名が辻」とは段違いではないでしょうか・・・。
大河はやはりこうでなくてはなりません。
決して視聴者に媚びる必要などない訳で・・・。

 

甘利虎泰が来て,身を挺して由布姫を晴信の側室にするのを拒もうとして失敗したと思いきや,今度は三条ちゃんまでやってくるとは,ほとんど幽閉というか軟禁状態の虜囚に対して要人が簡単に会いに行くことができるんか,と突っ込みたくなりました。
ま,晴信が諏訪御寮人を側室にしたのは,無論諏訪領民たちに対する人心収攬の意味合いも有ったかもしれませんが,ま,一言で言えば美しさに参ってしまったからなのでしょう。晴信には三条夫人と諏訪御寮人の他に,禰津御寮人とか油川氏息女(後で番組にも出てくることでしょう)とか伝わっているだけでも数人の妻女が居たということですので,かなりお盛んだったでしょうから,やはりそれしかないと・・・。


晴信が信濃で領有したのは諏訪郡,伊那郡,木曽郡,佐久郡,小県郡,埴科郡,更級郡と
筑摩郡の一部と思われます。
その際,諏訪,高遠,木曽,平賀,村上といった豪族たちを放逐,或いは懐柔したわけですが,現地での評判が今はどうなのか聞いてみたい気がします。
例えば,東信地方(小県・更埴)へ武田を手引きしたのは真田でしょうから,現在の長野市や坂城町(村上義清の葛尾城があった)での武田晴信の評判はいかがなものでしょう・・・。
番組終わりにもあった所謂信玄堤でもわかるように,晴信は民政家としても一級でした。その晴信が新たに領有した地でどのような施策をしたのか興味深いことではあります。


最後に突っ込みというか,わからないことを一つ。
三条ちゃんが生んだ三男が死産だったとのことですが,三男の西保三郎信之は天文(1543)-同22(1553)と思われますので,死産ではなかったのでは・・・。
信虎・晴信・信繁・義信・勝頼・信勝以外の武田一族について,いずれ稿を改めて述べてみたいと思います・・・。


「風林火山」-勘助仕官

2007年03月28日 22時17分26秒 | 風林火山

ようやく原作の冒頭までたどり着きました。
見覚えのある台詞が出てくると,思わずにやりとなります。


青木大膳が金をせびりにやって来るのも勘助が彼を陥れたのも原作通りでしたが,トラップを仕掛けるとは勘助もかなり狡猾です。
原作だと,板垣信方を襲った大膳を勘助が斬って恩を売ったのが天文11年の8月で,武田家から仕官を進める使者が来たのが翌年2月ですが,あっという間に亀晴信に気に入られて仕官してしまいましたね。
破格の厚遇で仕官した後,重臣たちによるいじめが始まって,
「迷惑至極」
と言ったのも原作通りでしたが,真剣でしか勝負しないと言って墓穴を掘ったり,何故か原虎胤が相手をしよう,と出てきたりしたのはオリジナルです。
墓穴を掘ってしまった勘助は,どう切り抜けるのでしょう・・・。


一つ気になっていたのですが,冒頭で亀晴信が,
「この戦国乱世」
という言葉を使っていましたが,当時「乱世」はともかく「戦国」という言葉は使われたのでしょうか。
「戦国」と言えば中国の春秋時代を指す言葉でしょうから,我が国の「戦国」時代という呼称は江戸時代になってからのように思われるのですが,果たしてどうなのでしょう。
そう言えば山岡荘八の歴史小説でも横山光輝のコミックでも,「戦国」という言葉が使われていました。


さらに地名について。
今川家の居城は駿河の府中です。
駿河府中-即ち駿府ですが,これはいつ頃からそのように呼ばれたのでしょう・・・。
江戸期に整備された東海道五十三次では,府中-鞠子・・・と宿駅が続きます。
・・・ということは城は駿府城で宿場が府中なのか,或いは幼少期の家康が人質時代を送って太原雪齋の弟子となっていた頃から駿府と呼ばれていたのか・・・。
地元の方ならご存じかもしれません・・・。


同じことは武田の居館(断じて居城ではない)がある躑躅ヶ崎館の場所にも言えます。
甲斐の府中-即ち甲府ですが,果たして天文年間に甲府という呼称は有ったのでしょうか・・・。
後に信玄の後を継いだ勝頼によって,武田氏創業以来の城が韮崎の笛吹川の段丘上に建造されます。
対信長戦略なのか示威活動なのか諸論はあると思いますが,そこを当時新府と呼び,現在もJR中央本線の駅名として残っています。
対して,躑躅ヶ崎館のあった現在の甲府市を「古府中」と呼びました。
「風林火山」原作には「甲府」という名は一度も出ず,「古府中」で統一しています。
ただ,新府-古府中という観点で言えば,天文年間は「古府中」という呼称は変だと思いますし,「甲府」という呼称も江戸期に柳沢吉保がいた頃以降ではないでしょうか・・・。
これも地元の方やご存じの方にうかがってみたいことです・・・。


・・・ということで,ドラマの内容をそっちのけでまたしても突っ込んでしまいましたが,はっきり言って途中で眠くなってしまった「功名が辻」に比べ,ドラマとしての出来は格段に違うと思います。
来週も実に楽しみです。


・・・で,最後にまた余計なひとこと。


板垣信方の子孫は土佐出身の板垣退助・・・???。
さて,本当でしょうか。


「風林火山」-晴信謀反

2007年03月12日 21時17分35秒 | 風林火山

いや,正直言って昨日のは結構面白かったです。
ま,武田家臣団が信虎か晴信の択一を迫られて,暴君の信虎を切り捨てて晴信に将来を託す,ということですが,やはり少々の喰い足りなさを感じてしまいました。
信虎は上機嫌のまま駿府まで行ってしまったようで,それを捨て石の勘助が迎えに行くという設定のようですね。
いつもの藁の眼帯付けてねーぞ,と思ったら,信虎を討つ,とばかりに付け替えていましたね。


駿府城と町並みは明らかに「えさし藤原の里」でのロケでしたね(躑躅ヶ崎舘はどこなんだ)。
駿府の場面はとにかく伊武雅刀の太原雪齋に今回も釘付けでした。
とにかく上手いですので,毎回出て欲しいです。
もしかすると,幼少時の家康(というか竹千代)との絡みが出てこないでしょうかね。
勘助が駿府を去ったのが天文年間の1540年代後半とすると,もしかすると勘助と家康の接点は,ぎりぎりのところで無かったと考えるのが普通かもしれません。
谷原義元(磯次郎ともいう・・・笑)は,もしかすると,
「僕に任せてよ!!」
と言ったりしないか期待したのですが,残念でした(言うわけねーだろ)。
そう言えば,花蔵の乱の時だったか,ちょい役の今川兵に扮した近藤芳正(弦之介ともいう)が出てきたことがあって,思わず笑ってしまいました。


しかし,飼い殺しで破れ寺に住んでいるとはいえ,駿府から甲斐を縦断して,あっという間に信濃の小県へ行ってしまうとは,さすがTVです。
一瞬でした・・・。
真田幸隆は城を捨てて上州へ脱走しますが,これは史実です。
ただ,海野棟綱を幸隆の祖父としていましたが,これには諸説がありまして,
 棟綱(海野)-頼昌 (真田)-幸隆
という説や,棟綱の子である幸隆が真田頼昌の養子になったとか,頼昌の娘婿だったとか様々です。
ただ,真田頼昌は,武田・村上の小県侵攻より先んずること18年の大永3(1523)年に没しており,10歳に満たない幸隆が頼昌の養子となっていたとは余り考えられず,やはり共に上州に落ち延びた海野棟綱の子と考えるのが妥当だと思うのですが・・・。


来週は,怒った信虎が甲斐に攻め寄せて,晴信と一騎打ちをするようですね(何か無茶苦茶だ)。
信繁も父ではなく兄を選んだということでしょうか。
信繁は勘助と運命を共にしますが,信玄に生き写しの容貌で,影武者を務めたとも言われているらしいです・・・。


「風林火山」-勘助討たれる

2007年03月05日 20時26分39秒 | 風林火山

サザエさん症候群に苛まれる日曜夜の楽しみでございます。
もう,あのテーマを聴くだけで熱くなる今日この頃です・・・。
「風林火山」の旗が立てられ,粛々と駒を進める武田騎馬隊を正面からバースを効かせて撮影した映像を見ると血が騒ぎます・・・(何の・・・)


しかし,勘助さん,晴信や板垣にあんなふうに思われてしまってどうするのでしょう。
数年後にどうやって帰参(原作では初めて出仕)するのでしょうか・・・。
冬の佐久や巨摩地方で行き倒れになったら即刻凍死ですが,どうやって駿府へ行き今川の領国で「無為に」日を送ることができるのでしょう。
それにせっかく知己を得た真田からも出奔してしまってはどうにもならないではないですか・・・。


でもって早くも由布姫のご登場となりました。
柴本幸なるおねいさんのことは寡聞にして全く知らなかったのですが,何と柴俊夫と真野響子ご夫妻のご令嬢でございました。
慶大卒の才媛だそうですが,残念ながら個人的にタイプではございませんでした(をい)。にしても,信虎が側室に所望するとは由布姫は当時幾つなんだ・・・。
晴信よりも絶対年下でしょうから,下手すると十代前半では・・・。
如何に創作とはいえ,信虎がロリコン親父になってしまうではありませんか・・・。


来週はいよいよ信虎弾劾のようですね。
亀晴信が
「父上に謀反致す」
と豪語しておりましたが,あの状況ではどう考えても実権は信虎にあるし,継嗣問題を含めて晴信の評判はさほどではないようです(海ノ口城を落としたにしても)。
ですから,やはり家臣団が信虎の圧政に耐えかねて,次代を託す晴信を祭り上げて信虎を駿河に追った,とした方が自然だと思うのですが・・・。
勿論原作には無いことですので,来週どのようになるのか楽しみではあります・・・。


「風林火山」-奇襲!海ノ口

2007年02月26日 21時25分20秒 | 風林火山

八ヶ岳山麓を走る小海線に乗ったのは随分前になります。
旧国鉄最高地点である野辺山駅を含む山岳路線で,折しも夏の真っ盛りであったせいか,沿線最大の人気スポット清里まであまりの混みように二両増結ということまであり,旧国電(現在はE電)並のラッシュに遭ったことが思い出されます。
その小海線ですが起点の小淵沢を出るとしばらくは八ヶ岳の勇姿を見ながら甲信の境を越えます。
清里-野辺山で殆どの客を降ろした列車は信濃側-つまり旧佐久郡に入ってからは千曲川の上流に沿って川を下るように進み,佐久盆地へ降りていきます。
武田晴信初陣の地,佐久海ノ口城は千曲川の流れが麓を洗う要害の地にあります。


平賀氏は以前述べたように源義光を祖とする信濃源氏で,保元・平治の乱には盛義-義信父子が従軍。
鎌倉初期には義信四子朝雅(正)が京都守護職に任ぜられる等幕府に重用されますが,その後信濃や越後の地頭職として地域に根を張って16世紀を迎えたと思われます。
創作的な内容の多い「風林火山」ですが,天文6(1536)年に武田軍が海ノ口城を囲み,晴信が初陣したのは事実です。
さらに,折からの雪によって武田軍が撤退。
殿軍を務めた晴信の手勢300が海ノ口城に引き返し,勝ち戦に油断していた平賀源心を討ち取ったのも多分本当でしょう。
源心は捕らえられて,甲斐へ護送される途中に斬られたという説もあります。


この源心の子孫が奥州に逃れて伊達氏に仕え,やがて伊達秀宗の宇和島移封によって四国に渡り,讃岐に根ざしたのが平賀源内の一族,という説もありますが,かなりの無理があるような気がします。
また,上杉謙信家中に平賀左京亮の名を見ることができますが,これは上記平賀(源)盛義の長子有義(義信は三子)の系統だそうで,現在の新津市付近を本拠地とした新津氏の一族になります。


・・・で,ようやくドラマですが,源心役の菅井俊さん,初めて聞く名前ですが,堂々たる荒武者ぶりで,史実通りと思われる入道頭も似合っていました。
こうした名脇役がドラマを締まったものにするということでしょう。
奥方役の女優さんも知らない方で,娘が助かるのは何かの伏線なのでしょうか・・・(何も無さそうですが)。
勿論,勘助が籠城していたのも,源助が晴信を狙撃しようとしたのも創作でございます・・・。


あの海ノ口城のセットは秀逸でしたね。
ロケ地は北杜市と佐久市ということですが,どこに作ったのでしょう・・・。
また,武田軍が進軍するのは,以前の「武田信玄」でも使用された佐久の棒道と思われますが,これって晴信の代に整備されたのではなかったでしたっけ・・・?


・・・ということで,次回は由布姫のご登場ですね。
信虎追放が初陣の確か5年後ですから,ちょっと登場が早過ぎやしないでしょうか・・・。勿論本名は不明で,海音寺潮五郎の「天と地と」では単に諏訪御寮人,新田次郎の「武田信玄」では湖衣姫となつており,上諏訪市だか下諏訪町だかに「湖衣姫」まつりなるものも有るらしく,昭和63(1988)年以降はこちらの呼び名が定着してしまったようですが,果たしてこれからはどうなるのでしょう・・・。


「風林火山」-晴信初陣

2007年02月19日 22時04分39秒 | 風林火山

今週もリアルで見ることは叶わず,本日ビデオ回しました。


勘助が氏康といきなり飲み出したのには参りました。
氏康に危機管理能力は無いのか・・・一応,家臣は陰に控えていたようですが・・・。
で,やはり氏康に「若殿」は無いのでは・・・。
朝から酒飲んでどうするんだ,若殿・・・。


氏康の間者となった勘助は関東から碓氷峠を越えて信州へ入ります。
これはてっきり上杉もとい長尾景虎のもとへ,いよいよGackt謙信登場か!!と思いきや違いました。
考えてみたら,この年景虎はまだ数えで7歳ですからあり得ません。


小県郡,と言えば真田です。
松尾城主真田幸隆は勘助とすっかり意気投合。
この時代,真田は独立した信州の一土豪で,北に埴科郡の村上義清(葛尾城),南に佐久郡の平賀源心(海ノ口城),西の上州吾妻郡に北条系の大名(沼田万鬼斉はもっと後か・・・)・・・と領国経営に腐心している時期だったと思われます。
後に幸隆の三男昌幸と孫の信幸(後信之)と信繁(幸村)が徳川軍を散々に打ち破る舞台となる神川に於いて,村上義清軍と戦った,と幸隆が述べる場面がありましたが,さもありなん,というところでしょう。


しかし,あの真田庄のロケ地はどこでしょう。
斜面に棚田の広がる農村風景はどこか懐かしく郷愁を誘います。
ロケ地から判断すると岩手県遠野市か福島県耶麻郡猪苗代町あたりでしょうか・・・。
長野県佐久市か山梨県北杜市かもしれませんが・・・。
ああした我が国の原風景のような景色を見ることはもはや困難なのかもしれません。
私なんかは子どもの頃に見た風景が鮮やかに蘇ってくるのですが・・・。


勿論,今回の内容も全くの創作であるわけですが,真田は後に勘助の手引きによって武田へ降り,東信~北信地方へ武田軍を侵攻させるのに大いに功があったわけで,世の上杉謙信贔屓の人たちは一様に真田が嫌いなようです・・・。
幸隆役の佐々木蔵之助さん,迂闊にも初めて聞く名前でしたが上手いですね。
地味ながら演技派を揃えたこのドラマらしい配役と言うべきでしょうか。
奥様の名前が忍芽とは安易ですね。
真田=忍び,というイメージなんでしょうが・・・。
私はてっきり松尾城近くで忍術修行でも行われているのでは・・・と憶測してしまいました・・・(な訳ないだろ・・・)。


真田氏は一応信濃の名族滋野氏族(清和天皇の皇子が祖)・海野氏族ということになっていますが,これはおそらく江戸期に松代藩が作り上げた系図と思われ,現在の菅平西麓を領有する土豪だったと思われます。
信濃源氏諸族が輩出した平安末期には真田姓は起こって居らず,とにかく幸隆の父以前は謎と言って良いでしょう。
僅かに,応永年間(1400年)の信濃大塔合戦(信濃守護小笠原氏に国人たちが抵抗した)や嘉吉年間(1440年)の結城合戦(結城氏朝が管領足利持氏の遺児を奉じて下総結城城に籠もった-「南総里見八犬伝」の端緒)に実田や真田という名が見られ,出自はともかく小県郡の真田に土豪が住んでいたことは事実でしょう。
でも考えてみたら,天文年間は幸隆じゃなくて父と思しき海野棟綱の代じゃなかろうか・・・。
武田軍によって真田父子は一度上州に追われる筈だし・・・。


・・・とついつい真田にばかり話がいってしまいました。
肝心の晴信初陣ですが,赤糸威の甲冑に(楠木正成のような多聞天を模したような三枚鍬形でした)栴檀の板と鳩尾の板が付いた大鎧風でした。
鉄砲伝来以前のこの時代ですから「胴丸」と呼ばれる具足はまだ出ていなかったので考証は正しいか,と思いきや胴丸風でした・・・。
海ノ口城のセットは結構土塁っぽくて見事でした。
平賀源心というのは,信濃源氏の平賀氏の子孫なのでしょうか・・・。
穂源・平治の合戦に参加した源盛義-義信父子とその子の朝雅が有名ですが,おそらくその末裔かと思われます。


・・・で,晴信と真田の食客となった勘助が使いとして海ノ口城に入り,晴信に
「軍師はだれか」
と言わせる次回のエピソードはちょっと出来過ぎかと・・・。
ま,毎回突っ込みつつも,楽しんでいます。
さて,今夜も寝る前にあの格好いいタイトルバック見るか・・・。


「風林火山」-仕官への道

2007年02月12日 20時03分55秒 | 風林火山

先刻ビデオを回し終えました。


前回も感じたことですが,勘助が今川家に仕官を希望したのはミツを信虎に殺され,武田憎しのため,という設定はかなりの無理を感じますね。
あっさり還俗した義元に仕官を断られて(庵原に付け-つまり陪臣でということでしょうが),すぐさま北条家に行ってしまうのもどうしたものかと・・・。
しかし,青木大膳がもう出てきて良いのでしょうか。
確か原作では,今川を見限って武田につてを求める勘助が,亡命中の信虎のご機嫌伺いに駿府滞在中の板垣信方を斬ろうとする大膳を仕留めるところから話が動きます。
その伏線ということでの登場なのでしょうけど・・・。


登場した役者たちは相変わらず皆芸達者ですね。
小山田信有役の田辺誠一格好良すぎです。
さすがメンノンのモデル出身だけ有ります。
考えてみたら小山田氏は甲斐東部の郡内と呼ばれる地方を領有した国人衆です。
甲斐にしては珍しく武田氏族ではなく,何と桓武平氏秩父一族出身ですから,武蔵発祥ということになります。
考えてみたら,信有(先代も同名の信有)の子が,勝頼に引導を渡した岩殿城主信茂ですから,北条氏とも密接な関係を保っていたのかもしれません。
何せ郡内の南は富士五湖を隔てると相模なのですから・・・。


前後しますが,タイトルバックの秀逸さについつい熱くなります。
そこだけ見たさにビデオを回すこともしばしばです。
フルCGだった昨年の「功名が辻」と違い,CGを最小限に使ったのが良かったのでしょうか。
百足衆の旗印や不動明王に炎がオーバーラップしたり,各色の風林火山の御旗がさっと立つ場面や,武田騎馬軍団を正面から映した絵,そして南アルプスの風景が実に感動的です。
あの美しい滝はどこでしょう・・・。
軽井沢の白糸の滝に似ているような気もしますが・・・(甲斐から遠くないけど多分違うでしょう・・・)。
或いは同じ白糸の滝でも,甲斐からさらに近い朝霧高原のものかもしれません・・・(自信・確信皆無)。
背後に流れる千住明の楽曲も実に格好良く,前作の小六禮次郎の曲よりもずっと出来がよいような気がするのは私だけでしょうか・・・。
小六氏の曲は爽やかで良いと知人が言っておりましたが,「天うらら」にしても「秀吉」にしても「さくら」にしても私のツボではありませんでした。


次回は,晴信の初陣がメインとなるのでしょうが,原作まで程遠い(8年)ので脚本を書くのも一苦労なのでしょう。
何せ,原作は文庫本で275ページしか無く,大幅な脚色が目立ちまくった「功名が辻」のる四分の一以下です。
原作読み直したついでに,「天目山の雲」と「真田軍記」(いずれも角川文庫刊)を読み直そうとしたら,どこにしまい込んだか(実家か?)見つけられませんでした。
ついでに,新田次郎の「武田信玄」と「武田勝頼」も実家の押し入れに眠っているのか,発掘できずに終わりました・・・。


「風林火山」-駿河大乱

2007年02月05日 21時44分52秒 | 風林火山

今回は「花蔵の乱」でしたね。
今川家の内訌ですが,ここで駿河守護とも言うべき今川家について述べてみたいと思います。

 

武田氏同様に清和源氏の名門です。
武田が八幡太郎義家三弟の義光を祖とするのに対し,今川は義家の次弟義国を祖とする足利源氏です。
足利将軍家に継嗣が無い場合は同族の吉良家から将軍が出で,吉良家にも継嗣が居ない場合は今川家から出ることになっていたと言われ,南北朝時代に九州探題として南朝方と戦った今川了俊が有名です。
出自は吉良家や一色家同様三河湾沿岸と思われ(細川氏は豊川沿い),これは鎌倉時代に足利家が同国の守護であったからでしょう。


その今川家の内訌が1536(天文5)年の「花蔵の乱」です。
8代目の若い当主今川氏輝(享年24)と次弟彦五郎が何と同日に死亡。
五男で僧籍にあった・栴岳承芳(せんがくしょうほう)が家督継承に動き出し,太原崇孚雪斎や庵原氏の協力で,四男で庶子の玄広恵探(げんこうえたん)と味方する福島(くしま)一族を討って駿河の実権を手中にした,というのがその内容です。
この栴岳承芳が後の三国の太守といわれた今川義元になります。
7代目氏親の室にして義元の母が寿桂尼で,京の名門土御門家の出身ですから,義元時代駿府に花開いた京風の文化の基礎はこの母が築いたと言っても良いのかも知れません(この辺は永井路子著「姫の戦国」参照)。
尤も,義元と雪斎は共に京五山の一つで曹洞宗の総本山である建仁寺で学んでいるので,その影響も大きかったことでしょう。
今川家の全盛期は,はっきり言ってこの雪斎の力に寄ることが大きく,雪斎没後5年後の桶狭間の戦いは彼が生きていたら有り得なかったかもしれません。
また,岡部則綱や朝比奈泰能といった戦闘力に優れた武将と関口親永(家康岳父)のような官僚をうまく使ったのも,雪斎の裁量だったのかもしれません。
また,山岡荘八著「徳川家康」では幼い日の家康が雪斎に師事したことが語られていました(尤も横山光輝のコミック版しか読んでいないのが悲しい・・・)


・・・ということで,太原雪斎役の伊武雅刀に感心しました。
「陰陽師2」にしても「のだめ」の峰の父ちゃん役(「裏軒」の親父)にしても,はたまた「宇宙戦艦ヤマト」のデスラー総統にしても,この人は何て器用で役作りが上手いのだろう,と毎度毎度感服させられます。
しばらく続く勘助の今川家編では毎度のように出てきてもらいたいものです。


福島越前,誰かと思いきやテリー伊藤でした。
勘助兄の光石研ともども上手かったですね。
それから,小山田信有役の田辺誠一も◎。
とにかく武田も今川もヴェテランが実に良い味出しまくりです。


来週は,武田・今川の同盟締結と共に北条軍が富士川以東に侵入する泥沼状態の「河東一乱」でしょうか。
勘助が庵原直胤の親戚とは無理が有りすぎ,と突っ込みつつも楽しんでいます・・・。


「風林火山」

2007年01月28日 21時27分28秒 | 風林火山

風林火山」(井上靖著),何と20数年ぶり,初読からだと30余年ぶりに再読了。
ご存じ,今年の大河ドラマの原作ですが,原作が50を過ぎた勘助が武田家への仕官をするところから始まるので,TVは4月過ぎまでオリジナルの内容となっています。


井上靖(1908-1991)は旭川に生まれ,軍医だった父の仕事の関係で,豊橋,天城湯ヶ島,浜松,三島等幼少期に各地を転々としますが,このことは一連の自伝的作品集に盛り込まれています。
それ以外ですと,本作のような歴史小説も重要なレパートリーとなり,本作のような戦国ものと「楼蘭」,「敦煌」等の西域もの,そして「額田女王」,「天平の甍」といった古代ものに分かれるようです。
特に,甲信地方の山々に対する愛着はずっとあったようで,実際の山岳事故を扱った「氷壁」も有名ですし(長野県大町市の山岳博物館で切れたザイルを見ました),本作の続編とも言うべき「天目山の雲」や「真田軍記」といった上甲信地方を舞台とした歴史ものもあります。


新宿から中央本線に乗るといつも感じることですが,相模湖を過ぎて「郡内」と呼ばれた甲州に入ると車窓の景色は勿論,列車を取り巻く空気までもが一変するような気がします。大月駅からは武田氏滅亡の直接の原因となった小山田信茂の居城があった岩殿山がよく見えますし,メルシャンのワイナリーがあり信玄の叔父である五郎左衛門信友も住んだであろう勝沼(今は勝沼ぶどう郷),信玄亡き後の重臣であった釣閑斎の出身地と思われる長坂,といった歴史的に由緒のある地名も存在しますし,春は桃の花が,秋は葡萄が実り,南アルプスや八ヶ岳の紺青の山肌とも相俟って,地味ながらしっとりと重厚な色彩感が感じられる風景です。
作品の内容も,こうした沿線風景と同種の印象が感じられます。
過度に熱くなることなく,あくまでも淡々とした筆致でそこに豊かな情感を盛り込んだもの,といった印象を今回も受けました。
ですから,はっきり言って「ちょっと見」に面白いものではなく,TV見て面白いと感じた人が読んでも面白いかどうかは疑問です。


また,戸石崩れや上田原の戦いがあくまでも武田側の視点で述べられていますので,上杉謙信や村上義清を好む人からは反感を買うかもしれません。
あとは,読む時は隣に甲信地方の地図を置くことをお薦めします。
Mappleのような道路地図でも良いですし,PCの地図サイト(mapionとかmaofanのような)でも良いでしょう。
結構,上甲信地方の地名が出てきますので,それを追いかけているだけでも楽しいですし,何よりも理解が深まります。
高島城(諏訪市),内山城志賀城(佐久市),海野平(上田市周辺),上田原(同西郊),戸石城(同),海津城(長野市松代),葛尾城(坂城町)といった地名や城の位置を知ると楽しくなること請け合いです。


そう言えば,ヒロインにして信玄第二夫人の名は本編で『由布姫』ですが,新田次郎原作の「武田信玄」では湖衣姫になっておりました。
昭和62(1987)年の大河ドラマでは南野陽子が演じたからかどうか47%という大河史上最高の視聴率を記録しており,諏訪市のイヴェントにも『湖衣姫まつり』なるものがあったりして,もしかするとこちらが地元では定着しているのかもしれませんが,湖-諏訪湖に安易にかけた気がして私にとっては違和感ありありのネーミングです。
その点,由布姫の方が根拠は無いにせよしっくりきます。
因みに,昭和44(1969)年の大河ドラマ原作(というより角川映画原作といった方が知っている人多いかも-とんでもない駄作でしたが・・・)の海音寺潮五郎原作「天と地と」では,ただ『諏訪御寮人』とのみなっていました。


・・・ということで,TVを録画しつつ愚にも付かぬ文章をまたしても書いてしまいましたが,今夜から「天目山の雲」を読んでみようかと思っています。
では,最後に印象的な部分の一部を抜粋で・・・,

 

 前方から早馬一騎が現れた。その騎馬武者は部隊の中央に居る勘助のところまで来ると,転げ落ちるように馬から降りて,
「由布姫さま,昨夜,ご他界なされました」
と言った。思いがけない諏訪からの使者であった。
勘助は己が耳を疑った。そんなことがあって堪るかと思った。
「もう一度言ってみろ」
「由布姫さまは-」
使者は同じことを言った。
「姫さまがお亡くなりになったと言うのか,あの姫さまが!」
勘助はその時,烈しいいななきと共に後脚を高く蹴上げた馬から危うく落ちそうになった。馬の尻には,矢が一本立っていた。
「姫さまがご他界,あの,姫さまが!」
矢は何本か彼の周囲を掠めて走った。
喊声が遠くで聞こえている。
「引け」
勘助はきびしく部隊に命じたまま,自分はそこに立っていた。やがて彼は馬から降りると,自分の手で,馬の尻から矢を抜いた。そうしている彼の傍らを部下たちは全速力で退避していた。
「引け,引け」
勘助は怒鳴り続けた。
 彼が再び馬に跨った時,全く思いがけず,丘陵の向うから,ばらばらと十数名の敵の一団が抜刀して迫って来るのが見えた。
「姫さまが,ばかな,そんなことがあった堪るか」
由布姫の死は現実の事件として,勘助には受け取れなかった。


                   ~中略~


 姫が!
  勘助は跳び起きると,あたりを見廻した。先刻由布姫の急逝を告げて来た使者の姿を探した。が,そこには誰も居る筈はなかった。見はるかす拾い原野のただ中に,勘助は自分以外のいかなる人間の姿も見なかった。真昼の冬の陽が弱くあたりに散り,霜枯れた雑草の中に,夥しいすすきが,銀色の穂を光らせているばかりである。風がないのかその銀色の旌旗はさゆるぎもしない。
 勘助は改めて先刻使者から出た言葉を自分の口から出してみた。-由布姫さま,昨夜,御他界なされました。
 確かに,それを自分の耳は聞いた筈であった。由布姫が他界したとは,由布姫が呼吸を断ち,この世から姿を消したことではないか!あの美しい気高いものが,この地上から消えて失くなってしまったことではないか!莫迦な!


                                  井上靖著「風林火山」十章より,新潮文庫刊


「風林火山」其之壱

2007年01月07日 23時57分54秒 | 風林火山

子どもを寝かしつけてから,22:00のBS2で見ました。
因みに「功名が辻」は,10月以降の10回は未だHDDの中でして,最終回は録画に失敗しました・・・(総集編は録りましたが・・・)。


原作を読んだのは30年以上前でした。
井上靖の作品らしく淡々とした筆致で,無用に声高になることもなく,それでいて情感がにじみ出るといったものでしたので,血湧き肉躍るような興奮とは無縁でちょっと見に面白いものではありませんでした。
増して天下統一ものではなく,甲駿信(或いは越)諸国しか舞台になりませんので極めて地味な印象です。
300ページに満たぬ内容ですので,如何に話を膨らませて1年という長丁場を保たせるか,山本勘助(ATOK2005偉い!!一発変換した)という実在すら疑われている(最近の考証で実在が確かめられたそうですが軍師といった要職にあったかどうかは疑問だそうで・・・)人物像を如何に作り上げていくかが課題となりそうです。


しかし,主役の内野聖陽を筆頭に,Gacktを除くと(謙信はオ○マか??)極めて渋くて地味な配役でしたね。
仲代達也と千葉真一の武田主従の渋さに驚嘆,というか感嘆しました。
竜雷太の甘利虎泰,加藤武の両角豊後守に至っては極渋を通り越していますし,唯一青臭いかと懸念された宍戸開の原虎胤も父親そっくりの恰幅の良さと押しの強さがあり,実に見映えがしました・・・。
ま,内容はしばらくオリジナルが続くということで,
「北条軍が山中湖渡って騎馬で突入するか」
等,突っ込みながら楽しもうかと思います。


前後しますが,オープニングのモノローグと続く千住明によるテーマは秀逸でしたね。
テーマは高関健指揮N響ですが,劇中の演奏はワルシャワフィルとは豪華版です。
タイトルバックの映像もフルCGの「功名が辻」とは違って,実写をベースにしたCGでしたので実に見映えがしました。
南アルプスの風景(紅葉の名所月夜の段も映っていたでしょうか)と山麓の里(北杜市でしょうか)を見ていると,我が国は山紫水明,実に美しい国であることが再認識されます・・・。


・・・ということで,今回はこれぐらいにしておきます・・・。
・・・というのも,武田も今川も北条も・・・つまり,語るには私は知識不足でして・・・(汗)
せめて信玄二十四将を諳んじているとか,北条家と今川家の被官を5人知っている,ぐらいの知識がないと辛いですので,ちょっと勉強してきます・・・。


それにしても,去年民放で正月にやったやつは,勘助が既に今川に仕官している・・・という原作通りの設定でしたが,やはり3時間枠だったからでしょうか・・・。