koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

3.11・・・

2018年03月11日 13時57分26秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・


 
7年目のこの日を迎える。
前日である3月10日は,約10万人が完全なルール違反である無差別爆撃によって命を失った東京大空襲の日であるから(莫迦な侵略戦争を日本が始めたから,元を云えばそれが悪いという論調は今でも「美味しんぼ」を初めとして今猶聞くが,それがお門違いであることだけは書いておく),3月は鎮魂の月でもある(3月17日は硫黄島陥落の日でもある。戦死者は米軍のほうが多い)。


勿論あの日のことは,鮮明に記憶している。
金曜だったので,夜は食料品の買い出しに行き,週末ガソリンが安いので車に給油しようとも考えながら(それが失敗だった),職場の2階にある一室に籠もって,必死になって月曜日締切の書類の作製に取り組み,14時30分過ぎ頃にすべてを終え,ほっと一息ついた途端に緊張が緩んだのか,トイレに行きたくなり(この時,使用していたソフト-一太郎だったかExcelだったか-の上書きボタンを押していたことが幸いした),用を足して仕事場に戻ろうとした途端,小刻みな揺れが始まった。
実はその前々日の昼近くに,震度4クラスの地震が起きている(前日には,コント55号の坂上二郎さんが亡くなっていた)。
今考えると,それが不吉な前兆だったのだろう。
今を去る40年前の宮城県沖地震の際も,直前に小さな地震が起きていたし・・・。
小刻みな揺れは収まること無く間断無く続き,それどころか急激に振幅を増していく。
あちこちでものが倒れて落ちる音がし始めた。
「こいつは強い」
と,直感して机の下に潜ったのが先だったか(無駄にでかいので苦しかった),照明が消えたのが先だったか,この時点で多分発生から30秒ぐらいだと思われる。
身体を折り畳むようにして窮屈な机の下に潜っていたのだが,一向に揺れが収まる気配が無い。
このまま建物が倒壊したら,間違いなく圧死すると判断し,身一つで外へ飛び出そうと判断する。
途中,階段や上の階が崩落する畏れも考えられたが,ここに居ても同様であると考え,誰も居ない一室を飛び出す。
その際バランスを崩して,左側の壁に嫌と云うほど左肩を打ち付け,その場に転倒したが,幸い怪我もなく,そのまま階段を駆け下りて,1階廊下を突っ走って非常口から外に出た。外に出ても揺れは収まらず,次々と建物から同僚が飛び出してくるのを呆然と見つめる。約2分は揺れていたと思う。
地面には至るところに地割れが起きていた。
幸い職場の建物には殆ど被害は無く,高いところに積もった埃が落ちてきた程度で済んだが,それからが大変だった。


取り敢えず携帯(私が使った最後のガラケー)は生きており(前日充電を忘れるという失態),仙台空港が津波にのみ込まれたニュースは知っていたものの,夜には各地のUPS(補助電源供給装置)の電源が途絶えたせいか,20時以降は圏外表示になり,3日間使用不能になった。
市の広報車が
「大地震発生。避難所に向かってください」
と走り回ったのは,その後だっただろう(今考えると,何と莫迦なことを言ったのだと思う)。
近隣の住宅地や商業施設には,窓が割れた以外は大きな被害は認められなかったが(柱が歪んだ家もあったらしい),そのせいか避難所になっている近隣の小学校に住民が集まってきた。
避難所に行って,避難してきた人たちの世話をする指示を待つように上司に言われたのが17時頃だっただろうか。
固定電話は繋がらず(相方はよりによって携帯を家に忘れた),家族の安否が一切分からぬまま,女性は勤務解除を命じられ,保育所に下の子を迎えに行く必要のある私は,18時30分に一時帰宅を許可された。
近くの橋が崩落したという情報も流れ(崩落したのは極一部分だった),遠回りしながら保育所に向かう。
信号の消えた街は異様な雰囲気であり,ガス管が破裂したのかガス臭が充満しており,点火プラグから引火したら車ごと吹っ飛ぶのでは・・・と,地雷原の上を走るような恐怖感が有った・・・。
通常20分で着くところを,倍の時間を掛けてようやく到着した保育所はもぬけの殻で,隣の小学校の体育館に職員と児童が避難しており,発電機が唸りを上げているせいか,煌々と照明が点いていた。
無事に下の子を受け取り(私が一番最後だった),途中実家に寄って両親の無事を確認し,帰宅したのは20時近くだった筈だ。
相方は私が迎えに行った直後に保育所に行き,私が来たことを知ったそうで,実家に寄った私より先に帰宅していた。
莫迦なことに,当時中一だった上の子は,明日卒業式と云うことで午後は部活も無く,野郎5人で我が家の居間でゲームをしていたらしい。
それで地震発生と同時に5人でテーブルの下に潜ったため,唯でさえ汚い部屋の中が余計目茶苦茶になっていた。
PCデスクの上のプリンタが空を飛んで落下するのを見たらしい(幸い壊れなかった)。
取り敢えず家族の無事が確認できたのを幸いに,職場と近くの避難所に戻る。
20時30分過ぎのこの時点で,M8.8と報道されていたと記憶している(M9.0となったのは翌朝だろう)。


ようやく勤務解除を告げられ,幸運なことに職場に泊まらずに済んだのは,多分同僚では私ぐらいだったと思われる。
21時過ぎに帰宅。
残っていた数缶の缶詰のうち一つを開け,朝炊いたご飯で遅い夕食。
電力の回復を願って(宮城県沖地震ではその夜のうちに復旧した)体力温存のために,寝ることにした。
この時点で,ガスも水も問題無く出たので,何だ電気だけか・・・と思ったのが,大きな間違いだった。


翌朝,水もガスも止まっており,前日朝に洗濯機を回しながら仕事に出たせいか,風呂水も殆ど無かった。
携帯も完全に圏外表示となり,見通しが甘過ぎたことを痛感させられた。
天気が良いのだけが救いといった感じで,情報は車載のラジオのみ。
朝7時前に起床して,取り敢えず近くのコンビニに行ってみたら長蛇の列。
この時初めて,三陸から宮城県内~福島県沿岸部にかけて壊滅的な被害が有ったことを知った。
以下は,
https://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/34fc9a86f514827f48443b34669a63f0
に書いた通りなのだが,当時から被災された方々のことを思うと心が痛み,今猶7万人を超える人々が元の生活に戻ることが出来ないことを思うと,殆ど被災していないに等しい私なぞ,本当にすまない気持ちでいっぱいになる。
そして,このまま交通インフラの復旧が回復せず,物流が滞ったままだと,最悪の場合栄養失調による餓死も考えられる・・・というあの日あの時に感じた暗澹たる予感は ,今でも忘れては居ない。
ライフラインが分断されると,途端に無力化する現代人というのも問題なので,備えを充実させて,防災力を高めておかなくてなるまい。


・・・ということで7回目のこの日のために一曲貼って,この長ったらしい駄文を結ぶ。ドイツ鎮魂曲~第2楽章 Denn alles Fleisch, es ist wie Gras(人は皆草の如く)-聖書「ペトロ書」,「ヤコブ書」,「イザヤ書」による(J・ブラームス 1833-97独)
通常ラテン語の歌詞のレクイエムを敢えてドイツ語にした白皙の美青年だった若きブラームスの革新性と覇気を聴く。
間もなく訪れる14時46分に合掌・・・。


感謝のバトン5

2015年04月20日 21時52分00秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

いよいよ最終回です。
間一日置きましたが,何とか続けることができました。
最終回だからと言って,特別なことを書くわけではないですし,何か仕掛けがあるわけでもありませんが,平常心で淡々と綴っていきたいと思っております・・・。

⑬東北楽天ゴールデンイーグルスに感謝
73~78年という短い期間でしたが,東京球場を失ったロッテオリオンズが,仙台を準フランチャイズにしていた時代(否,それ以降も),何度か試合を見に行きましたし,自然にロッテのファンとなりました。
以来幾星霜,川崎~千葉とロッテが去った後,ようやく地元球団が出来たという夢のようなことを味わうことが出来ました。
一体何がどうなったのか,一昨年は球団創設9年目にして遂にリーグ優勝+CS突破+日本一・・・を味わうことができました。
強くても弱くても・・・否,負けが込む程,ファンで有り続けたいと思います。
願わくは,長期展望に立ってチームを強化するとともに,地域に密着したファンのための球団となって欲しいものです。
これからの季節の楽しみは,左翼席上段の「聖地」にて,目一杯声を張り上げて歌って応援をすることです。
そうした機会を得ることができたのも,おらほの球団があってこそです。
唯々感謝です・・・。

⑭知り合えた皆様に感謝
現在複数のSNSを掛け持ちしていますが,多くの方々と出会い,喜びや楽しさを共有してきました。
私のような者のところに来てくださる皆さんには,感謝以外の何もございません。
本当にありがとうございます。
私自身は誠に微力ながら,これからも皆さんと仲良くできるよう努力をしていきたいと思います。
どうぞ,宜しくお願いします。

⑮生きていることに感謝
未曾有の国難とも言うべき大震災より4年。
私がこうしていられるのは唯の偶然であり,沿岸部ではなく内陸部にいたから・・・ということになります。
なればこそ生きなくては・・・と,当時強く思いました。
多くの方々が犠牲になったあの大災害を経て,自分のやるべきことを全うすることこそ重要であり,今なお心の傷が消えぬ方々の為にも,自分のできる何らかのことを模索して行かなくてはなりません・・・。
そのためにも生きていることに感謝・・・否,生かされていることに感謝しなくてはなりません・・・。


・・・ということで,本家に投稿して,別のSNSにはリンクを貼りましたが,読んでくださった方に最後の感謝を送って,5日に渉った駄文の山を閉じたいと思います・・・。ありがとうございました。


感謝のバトン4

2015年04月19日 21時11分27秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

4日目。
ここまで来ると少し先が見えてきたかな・・・(と思いたい・・・)
さっそく書いてみませう・・・。


⑩文芸すべてに感謝
私に感銘を与えてくれた文学,音楽,映画,美術(これはそうでもないか・・・?)・・・といったものすべてに感謝したいです。
「信長の野望」や「実況パワフルベースボール」をプレイしてクリアしたとしても,感銘はありません。
所詮はゲームだからでしょう(勿論,それでも好きですが,そういうものを求めるものではないということでしょう)。
その点でも,文芸全般には人の心を動かす力があります。
本物だからに他なりません。
例えば,今まで心を揺さぶられたり,ガツンと頭を殴られたような衝撃を与えられた映画作品を挙げたら,枚挙に遑がありません・・・。
そうした作品は,やはり制作者の志が高いものばかりです。
感謝の言葉もありません・・・。

⑪愛車に感謝
5代目となる愛車に,丸9年間乗ってきましたが,故障もなく一応表面もてかてかのままです。
ま,たまに擦ったりしたこともありましたが・・・。
街乗りの四駆なので燃費は良くないですが,長距離クルージングでは一気にそれも解消。1時間運転すると飽きる私が,隣県から3時間のドライブで疲れを然程感じなかったのも愛車のおかげです。
9月の車検,どうするか迷いに迷っています・・・。

⑫野球に感謝
子どもの時から,するのも見るのも野球が一番・・・と思ってきました。
幾多の名勝負・名場面を見ることができたと共に,近年では地元球団を応援し,日本シリーズを観戦・・・という得難い体験もできました。
シューレス・ジョーが出て来る「フィールド・オブ・ドリームス」とか,ルー・ゲーリッグを扱った「打撃王」等,野球の映画が多いのは,やはりロマンをかき立てるスポーツだからであり,武道や格技の立ち会いにも似た絶妙の「間」があることが日本人に浸透した理由かと思います。
悪いけど,サッカーではそうはいきません・・・。


・・・ということで,極力悪い癖である大暴走しないように,極力シンプルに書いてきたつもりです(本当か?)。
これで4/5。
明日で終えることが出来るでしょうか・・・。


感謝のバトン3

2015年04月18日 22時53分44秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

3日目です。
中1日置いたけど無効・・・ってのもありなんでしょうか・・・。


⑦食べ物に感謝
以前も震災関連で描きましたが,幾ら米飯を食しても空腹感が無くならないことをあのとき知りましたし,如何に贅沢をしていたか,食糧が無い辛さを今まで知らなかったか・・・を痛感しました、
あのまま交通インフラが復旧せず,物流が回復しなかったら,最悪栄養失調や餓死も有り得る・・・という暗澹たる予感を忘れてはならないと思います・・・。
なればこそ,食べ物に感謝です。
出されたものは,文句を言わず全部食べる。
勿論何でも食べるし,食べられることに唯々感謝しか有りません・・・。

⑧仕事に感謝
はっきり言って薄給だし(泣),ストレスも少なくないけど,こうして20数年定職に就いていることに感謝しなくてはなりません。
若い頃は,幾らで仕事したいと思ったし,平気で9時10時まで残っていましたが,家族のある今は,何としても子どもの起きている時間に帰宅して,出来れば食事も・・・と思っています。
それも仕事が有ればこそ・・・です。

⑨IT全般に感謝
ここ20年で最大の生活の変化が,IT関連でしょうね。
PCに関して言えば,四半世紀前のMS-Dosの時代,初めてPCいじったときは,私の手に負える代物ではない・・・と思いましたが,Windiwsの出現は大きかったです・・・(Macでは,それ以前から同様のことが出来た訳ですけど・・・)。
個人的には,PCの無い生活は考えられません。
携帯有ればPCは不要・・・という人を見ますが,私からすれば絶対にそんなことは有り得ません・・・。
カメラが,銀塩からディジタルに移行したことも,私にとっては大きなエポックでした・・・。


・・・ということで3/5まで来ました。
いよいよ根多が尽きてきたかな・・・。


感謝のバトン2

2015年04月16日 21時18分24秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

1/5終了ということで,いよいよ第2弾です。


④この国に生まれたことに感謝
四季があり,水が綺麗で,山紫水明白砂青松。
世界に冠たる美しい国に生まれたことに感謝です。
自虐史観を教え込まれることもなく,周囲が反体制を唱えても,中韓に謝罪せよと言っても,結局耳を貸しませんでした。
勤勉で高潔な国民性を保持する国でもあるわけですから,これからも胸を張り,日本人であることに誇りを持って生きていきたいと思います。

⑤東北に生まれたことに感謝
何よりも海の幸が美味しいのが最高です。
肉を食べなくても良い・・・と言い切るくらい,魚好きになったのは,東北に生まれたからに他なりません。
体内に流れる猛き蝦夷の血に感謝です。

⑥アルコールに感謝
別に飲まなくても生きていくことができる訳ですけど,やはりあの美味しさを知らないのは不幸では・・・と,余計なことを思ってしまいます。
和洋中を問わず何でも好きですが,味わいも香りも最高なのは,やはり日本酒では・・・と思っています・・・。


よし,2日目完了。
明日は実家泊まりだから書けないでしょうけど,明後日気力が有れば続きを書きたいと思います。


感謝のバトン1

2015年04月15日 21時06分17秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

某SNSでお世話になっている方よりバトンをいただきました。
以前に比して,執筆意欲が著しく減退しているので,続くかどうか分かりませんが,これで数日は根多に困らないかも知れません・・・。
唯,ずぼらで怠惰な私のすることですから,3つの内容×5日間は続かないかも知れません。
その時は,やっぱりな・・・と,笑ってやってください・・・(笑)。
ま,日々の生活でも感謝することは多いのですが,果たしてどれぐらい書けることやら・・・。
ま,やってみましょう・・・。


①両親に感謝
 父は一昨年物故し,母も相当な老齢ですが,この世に生を与えて貰ったことに関しては,唯々感謝しかありません。
 生命の誕生は,神秘にして偶然であり神の領域と思いますが,その偶然に感謝しつつ,これからの人生を歩んでいきたいと思います・・・。

②祖父母に感謝
 私が生まれた当時は,初孫ということで,それはそれは大層な喜びようだったとのことでした。
 祖父母とも,私が高校に入った年に物故しましたが,今後も感謝の念を忘れては駄目だと思います・・・。

③家族に感謝
 家族が居るからこそ仕事で踏ん張る気にもなるし,早く切り上げて帰らなくては・・・とも毎日思います。
 家族有っての,家族に支えられての自分の生活であることを痛感させられます・・・。


・・・ということで,何か第一回目は月並みな内容となってしまいましたし,果たして5日も続けられるのか・・・という疑念は,一層大きくなりました。
明日書くことができるでしょうか・・・。


蚊が飛ぶ・・・

2015年03月30日 20時20分15秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

先々週金曜から目に異常を感じた。
丁度,午前中仕事を休んで,母を病院の内科外来に連れて行き,待合室でぐったりしていたときのことだ・・・。
目の前に,麦藁色の蚊が飛んだ。
ん・・・と思って払ったが,猶も飛ぶ。
目を閉じると,左目の奥に飛んでいるのが分かった。
そう言えば,弟が同じ症状だったことを思い出す。
緑内障かと思ったが,飛蚊症(ひぶんしょう)なる網膜の病気と分かった。
週明けの月曜夕方,1時間休みを取って眼科に行こうと予定したが,前述の通り,母の再入院騒ぎが起きてしまい,フイにしてしまった。
ようやく眼科に行ったのが木曜の夕方で,車で行ったので瞳孔を広げての精密検査は出来ないと言われ,日を改めて車を置いて来院するように言われた。
その時点で,左目の網膜に少し薄くなっている箇所があり,それが飛蚊症の原因になっているとも言われた。
そこで,本日車を置いて,約3kmちょい離れた眼科に精検に行ってきた。
その結果,少し眼圧が高い他,特に以上は無いので緑内障の視野の検査だけして,後はそのままでよいと言われた。
今も盛大に蚊が飛んでいるが,大丈夫だそうで,投薬も無かった。
今日1日車の運転は控えるように言われ,帰途は好天の下3kmちょいを歩くと,瞳孔が開いているせいか眩しくて仕方がなかったが,1時間程で緩和したので,午後は車を動かし仕事に行き,母を見舞ってもきた・・・。


休みを取っての遠出がフイになったことは,昨日SNS上で述べたが,眼までおかしくなってしまい,母の入院も重なって兎に角ろくなことがない。
せっかくなので明日も強引に休みを取って,憂さ晴らしに出掛けてこようと思う・・・。
因みに,一昨年夏に逝った父は,60代から緑内障を患い,点眼はしていたように見えたが,晩年は殆ど視力を失っていたようだ。
なので,後半生の楽しみのためにも眼だけは大事にしていかなくては・・・。


どんと祭・・・

2015年01月14日 21時20分21秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

 14日はどんどん焼きの日であった。どんどん焼きは昔から子供たちの受け持つ正月の仕事になっていたので,この朝は洪作と幸夫が下級生たちを指揮した。子どもたちは手分けして旧道に沿っている家々を廻り,そこのお飾りを集めた。本当は7日にお飾りを集める昔からのしきたりであったが,この頃はそれを焼くどんどん焼きの当日に集めていた。 
橙を抜き取ってお飾りだけ寄越す家もあれば,橙は保つ論,串柿までつけて渡してくれる家もあった。 
 お飾りは,田圃の一隅に集められ,堆高く積み上げられた。幸夫がそれに火をつけた。 
火勢が強くなると, 
「みんな書初めを投げ込め」 
 幸夫は怒鳴った。子供たちは自分が正月二日に書いた書初めを,次々にその火の中に投げ込んだ。 洪作も幸夫も投げ込んだ。そして,その仕事が終わると,くろもじの枝の先端に付けた小さい団子をその火で焼いて食べる。このどんどん焼きの中で一番楽しい仕事へと移っていった。 
 この日は男の子供も女の子供も一緒だった。1年のうちで,男女の児童たちが一緒になるのは,この1月14日しかなかった。 
      (井上靖著「しろばんば」後編第二章より,新潮文庫刊) 

1月14日が訪れると,若い頃読んだこんな作品の一節が思い出されます。 
大正時代初期の子供たちの生活の様子が,淡々とした筆致ながら生き生きと活写されており,思わず引き込まれてしまいます。 
井上靖の自伝的作品の舞台は,彼が幼少期を過ごした伊豆半島の湯ヶ島が舞台ですが,「どんどん焼き」なる名称は静岡県から山梨県南部にかけてのものらしいです。 
検索をかけてみると,西上州をはじめ関東地方では「どんど焼き」なる呼称のようですが,私のところは「どんと祭」と呼んでいます。 
上記の伊豆地方田方郡との決定的な違いは,神社の境内で堆く積まれた正月用品に火をつけることでしょう。 

私の住まいから車で30分以内のところには,結構な数の神社があります。 
社殿が国宝に指定された八幡宮,当然日光の本社から江戸時代初期に分社した東照宮(門前は宮町,という古式ゆかしい町名),伊達政宗勧請が二社,そして加茂神社と,全国展開している社が散在しています。 
帰宅して夕食を早めにとったまでは良かったのですが,週末疲れでのびてしまい,お参りに出発したのは9時近くでした。 
遅くなったので,もう人出のピークは過ぎた,と判断して国宝指定の八幡宮へ向かったところ,何と渋滞に遭遇。 
つい3年程前までは,この時間帯だと絶対そのようなことはなく,境内の駐車場まで直接車を乗り付けることができたのに,それだけ生活全般が夜型になって来ているということなのでしょうか。 
渋滞にお付き合いするほど気が長くないので,急遽Uターンを敢行。 
家の前を素通りして,北隣の区まで走ること10分。 
こちらも全国区の熊野神社へ。 
全国展開の末社ながら,私の地域でも知る人ぞ知る穴場的存在です。 
駐車場もがらがらで,静かで小さな社殿へお参りし,無事お正月用品を火にくべることができました。 

神道にも,他の宗教同様多くの宗派があるのでしょうし,今の神道のもととなったのが伊勢の度会神道(鎌倉時代に体系化された)とは言え,熊野神社は熊野(和歌山),加茂(賀茂)神社は京都,東照宮は日光(栃木),諏訪神社は諏訪(長野)・・・といったふうに,異なる神様の筈です。 
このあたりを考えないのは,私も含めて不信心・無宗教の典型的日本人だな,という気がします。 
ま,日本の神道は,ギリシャのオリンポスの神々同様,一神教ではなく八百万の神々が鎮座ましますから,これで良いのか,と勝手に納得したりしていますが・・(全然良くない)。


抜かずの剣こそ,平和の誇り・・・

2014年07月21日 22時40分53秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

久々に組んだものを忘れていました。
航空自衛隊制空戦闘機F15Jイーグル。
百里基地第305航空隊所属機。
305SQのF15は,以前も組みましたが,同様に広い主翼全面にわたって,茨城県花である梅が遇われています。


20世紀後半を席巻した史上最強の鷲と言われたF15。
その性能は,実戦で未だに1機も撃墜されていないという現実からも証明できます。
湾岸・イラク戦争や未だに戦火の絶えないガザ地区での戦闘がそれでしょうが,米空軍の主力がF22ラプター(猛禽類の意)に,空自の主力機がF35Jライトニング(電光)IIとなっても,支援戦闘機としてまだまだ現役で居ることでしょう。
日本は,米国に次ぐF15保有国となっていますし・・・(200機以上ある)。


願わくは,Su29だのF15Kだのとやり合うことなく,その使命を終えて欲しいものです。
抜かずの剣こそ,平和の誇りです故・・・。
 


隣県で草刈り・・・

2014年06月11日 20時39分21秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

もろもろの事情から,休みを取って隣県の生地へ行ってきました。
私の生家です。
建物は平成初期にほぐしたのですが,放置しておくと雑草が繁茂するので,定期的に刈りにに行かなくてはなりません。
土日は駄目なので,平日休みを取って,午前中に草を刈り,午後に早々と帰宅しました。
どのような状態だったかは,画像をご参照ください。
昼食は,ご当地ならではのものを食してきました・・・。
凄い状況・・・
2時間後・・・
酒田市東中の口「満月」の塩ワンタン麺。極旨・・・。


 


鎮護の鷲・・・

2014年05月22日 21時01分50秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

先月組んだものですが・・・。
航空自衛隊制空戦闘機F15Jイーグル。
小松基地第6航空団第303飛行隊所属機です。


F15Jは,本来F15Cをベースに,我が国の運用指針に沿って改修したものですが,生産数は200機を越え,韓国やサウジ,イスラエルよりも多く保有していることになり,アメリカに次いで第2位の保有数ということになります。
但し,性能的にはアメリカ本国のものに比べると,わざとスペックを落としていると言われています。
まるで,本家を脅かさないようリミッター付きのフェラーリエンジンを供給されているザウバーのような状況です・・・。
韓国のF15Kは,後発であるぶんF15Jより性能がよいそうですが,パイロットの練度等は,空自が上でしょう・・・。


今回の作は,小松基地の開庁40周年を記念しての塗装で,スコードロンマークは,前身の第6飛行隊のコールサインから採ったドラゴンで,機首にも大きく描かれています。
また,垂直尾翼に描かれたのは,加賀の名峰白山です。
エアクラフトグレーを基本としたロービジ迷彩に,さらに三色追加してあるので,さぞやカラフルかと思いきや,全体に色調的には映えないものとなってしまいました。
このあたりが制作スキルの限界なのでしょう・・・(泣)。


日本の空を鎮護して30余年。
後継機のF35ライトニングIIも決まりましたが,まだまだ空の護りはF15が主役です。
戦闘で未だ1機も撃墜されていないというF15ですので,ぜひその剣を抜くことなく,退役までの任務を全うして欲しいものです・・・。
 


日高見紀行-其之参:番外編・・・

2014年04月15日 21時38分35秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

少しでも被災地の助けになるなら・・・ということで,石巻で散財してきました。
・・・と言っても,微々たるもんですが・・・。


まず,壊滅的な打撃を受けた,硯の産地である雄勝地区では,仮設商店街隣にあるNPO法人が建てたカフェで,一休みしてきました。
相方と下の子は,高さ30cmのパフェを頼み,私は少しでもダメージの少ないもの・・・と思い,壇蜜もとい餡蜜にしました。
旧石巻市内と旧河北町の境辺りにあった道の駅上品(じょうぼん)の里では,地場産品を買い,少しでも地元経済が好況になれば・・・と,思いました。
季節も良くなってきたので,近いうちに少し北の南三陸町志津川地区を訪れて,微力ながら散財してきたいと思います・・・。

雄勝地区のカフェ「縁」の圧巻パフェ。水にはレモンを溶かす心遣いが・・・。
壇蜜もとい餡蜜も美味・・・。
ウッディな外観。内部も木の香りが・・・。変な格好で写りおって・・・

鯨を買って帰る。
胡瓜とじゃこ天。宇和島は仙台と姉妹都市で伊達領だ。じゃこ天は名産。


日高見紀行-其之弐「石巻市大川・釜谷地区・・・」

2014年04月14日 22時36分26秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

今回のエントリの題名である日高見とは,釈日本紀に載っていた古代の日高見国のことだが,日高見=北上という説を唱えたのは,大国語学者の金田一京助だったらしい。
東北大学教授で,豊田武博士と並ぶ古代~中世史の権威だった高橋富雄氏(私の友人の東北大生たちは,考えが古いと批判していたが)も,その説を支持し,日高見川=北上川という説を唱えたようだ。
維新後,北海道に日高支庁や日高山脈が制定されたように,日高見は北の国というイメージが固着したと思われる。


思えば,北上川は多くの歴史抗争を見てきたと言える。
前九年の役での安倍氏と源氏の抗争や,義経関連の平泉を舞台とした政争は,この北上川畔で起きた。
後世になると,芭蕉も河口の町である石巻に泊まり,平泉の義経館跡である高舘に登り,悠然と流れる欧州一の大河を見たのは間違いないだろう。


その北上川が運ぶ土砂によって,沖積平野である広大な仙台平野が形成された訳だが,当然のことながら川は厄災も潤いももたらす。
河口の石巻平野の水害緩和のため,支流の追波川を掘削して,石巻平野北部の山地の北で追波湾に注ぐように工事を行ったのは,明治末期から昭和初期にかけてのことであった。
広大な川幅をもつ旧追波川は,新北上川と命名された。
これによって,北上川の増水は緩和されることになり,河口の町である石巻は,水害から随分と救われることとなったのは,想像に難くない。
そして,開削から80年足らずの将来,この新北上川を何kmも遡上した津波によって,大きな悲劇が起こることなどを予測した者は,誰も居なかったことだろう・・・。


南三陸地方の漁村は,何処も壊滅的な打撃を蒙ったわけだが,その1つである旧雄勝町(現石巻市雄勝町)も例外ではなく,漁港は未だに岸壁のコンクリートが3年前のままで,浜には家もなく,伝統的な工業製品たる雄勝硯も,高台で細々と頑張る職人さんが,伝統を繋ぐに至っている。
その雄勝から,峠のトンネルを2つ越えたところにある集落が,石巻市大川地区である。


悲劇は,平成23年3月11日の15時30分過ぎに起きた。
地震発生の約50分後である。
石巻市立大川小学校のある釜谷地区は,海抜僅か1m。
児童と地域住民が校庭に避難し,数m高い新北上川の堤防の上にある新北上大橋付近に避難を開始した直後に津波が襲来。
児童80数名と,職員10名が命を失った・・・。


私が,被災直後の大川小学校の映像を見たのは,多分震災後2週間程経った時だったと思う。
ネットの映像ニュースで,モダンな鉄筋2階建ての校舎が廃墟と化していたものだったが,リアス式海岸地形の特徴で,裏山は木を伐採した斜面だった。
何故,ここに逃げずに,津波が遡上する鉄橋を目指したのか・・・という疑問が先ず湧いた。
これに関しては,多くの情報が飛び交っているが,どうやら地震発生直後,緊急避難所と鳴っていた大川小学校には,近隣の避難民たちが多くやってきた。
引き渡しやら点呼やら,或いは地域住民を交えての二次避難場所の検討で,30分以上を費やすことになったらしい。
その結果,裏山は倒木があるし,余震も頻発していることから,避難には適さないという判断が為され,校庭より数m高い新北上大橋前(通称三角地帯)へ行くことに決定したという。
この時点で,市の広報車から津波が5mから10mに訂正されたということも伝わったとある。
勿論,現地に伝わっていたかどうかは分からない。
追波湾の河口までは数km。
よもやここまでは・・・という考えがあったのかどうか・・・。
実際に行ってみて分かったのだが,校庭から上記新北上大橋まではすぐ,というか,学校の隣が橋という感じだった。
幾らも避難しないうちに,押し寄せた津波に流されたのだろう。
新北上大橋が津波に飲まれる動画がアップされていたが,橋の袂の「三角地帯」に辿り着いたとしても,助からなかっただろう・・・。


真新しいお地蔵様が立つ献花台が2カ所にあり,線香をあげた後に,裏山への道を辿ってみた。

法面はコンクリートで固められた擁壁となっており,その両脇に辛うじて人間1人が通り抜けられるスペースがあり,その上は木を伐採した跡のある急斜面となっていた。
3時15分頃に強い余震があり,倒木の危険性は確かにあったと思う。
それと同時に,よもやここまで津波は・・・という感覚が果たして有ったのかどうか・・・。
震災前は,さぞやモダンな造りの校舎だったのだろう・・・。中央部,コンクリートの円柱がばっきり折れ,倒れている。津波の脅威だ・・・。

勿論,後で事実を知った私に,その場で判断をした人たちを批判する資格は無い。
かつて,岩手県内陸地震の際,私は野球の試合に行く上の子と相方を,海浜の野球場に送った帰途,地震に遭遇しているが,その時に津波が・・・という感覚は,全く持ち得ていなかった。
震源が内陸だったので,その時に津波は起きなかったが,今回の震災で,その海浜の野球場は,跡形もなく津波に飲まれた。
勿論,偶然であるが,もし,地震の順序が逆だったら,私は確実に家族2人を失っていたのである・・・。


鎮魂と復興への願いを具現化するために出掛けた訳であるが,敢えてこうした何とも言えない思いをすることで,少しでも震災への理解が深まり,香華を手向けることと,僅かながら現地で散財することで,被災地の方々のためになれば・・・と思う。
そして,今回は時間の都合で行くことが叶わなかった南三陸町志津川地区へ行きたいと思う。
香華を手向け,僅かながら地場で散財してきたい・・・。
それが殆ど被災していないに等しい我々の出来ることと思う故に・・・。


日高見紀行-其之壱・・・

2014年04月13日 23時18分36秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

3年前から,何としても行きたかった。
被災していないに等しいからこそ,被災地を見て何らかな得るものが有る筈だし,それが絶対に必要だと思ってきた・・・。
最初に被災地を目の当たりにしたのは,3年前の5月だった。
市内東部の港を中心に歩いたのだが,瓦礫や流された車両が放置され,積み上げられた状態で,罹災の爪痕が痛々しく且つ生々しく残っている時期でもあった。
翌年秋には,県南部の空港近隣まで愛車を駆った。
交通インフラ自体の復興は目覚ましく,道路も空港設備も,そしてアクセス鉄道も何事もなかったかのように稼動していたが,一歩海岸に近づくと,ひしゃげた橋の欄干や,空港周囲のフェンスに,まだまだ罹災の後が色濃く残っていた。
そして,3年経って,ようやく重い腰を上げ,一番被害が大きかった沿岸部の南三陸地方へ足を伸ばすことができた。


県東部の石巻市は,震災当日,津波によって沿岸部が壊滅的な被害を受けた。
津波が真東から来たのなら,南東に突き出た牡鹿半島に当たって,仙台湾全域は被害が減殺されたかもしれない(勿論,牡鹿半島東岸は,大変なことになっただろう)と,素人ながら思うが,完全に直撃で,市街地は海水に飲まれた。
特に,北上川河口に程近い南浜地区から門脇(かどのわき)地区にかけては,完全に街が消えてしまった・・・。
日和山(私の生まれた山形県酒田市を初め,港湾都市にはよくある地名)南麓にある門脇小学校は,炎に包まれたという・・・。
門脇小学校は,養生シートが。校庭ではソフトボールの試合が行われていた。
門脇地区の献花台1
門脇地区の寺院。屋根瓦と壁が痛々しい・・・
門脇地区の献花台2


隣の女川町では,地元銀行の支店が港に2つ有ったが,1つは高台にある町立病院に行員が避難して九死に一生を得た。
しかし今ひとつの方は,支店長の判断で2階だか3階に避難した結果,全員が津波にのまれるという痛ましい結果になった・・・。
女川港には,ファミリーマートが1軒有ったと記憶しているが,勿論跡形もなかったし,洒落た造りの町庁舎とマリンパルとかいう名前の多目的施設は,完全に取り壊されていたし,3階建てのビルが90度ひっくり返っていた・・・。
未だに震災の爪痕が痛々しい女川港


陸中(三陸)海岸(三陸とは,旧陸奥国を明治時代に分割した陸奥・陸中・陸前の総称)の最南部は,上述牡鹿半島になる。
鋸の歯のようなリアス式海岸の典型であるが,それが故に入り江が深く,沿岸は切り立った崖となり,入り江の奥が天然の港となる。
平和極まりない雄勝湾・・・
切り立った狭い入り江なればこそ,津波は高さを増し,それらの港に牙を剥いた・・・。
若い頃から何度となく訪れてきた女川湾や御前湾,そして雄勝湾といった地域は,海苔や牡蠣の養殖が盛んであったが,壊滅的な打撃を蒙ったことは言うまでもないだろう・・・。
本日訪れたそれらの港には殆ど建物が見当たらず,小高い場所には仮設住宅が建ち並んでいた・・・。

雄勝支所跡の仮設商店街。愛車は昨日夏タイヤに換装。
少しでも被災地支援になるなら・・・という思いで,雄勝支所跡に出来て間もない木造の瀟洒なカフェで一休みする。
木の香りのする明るい雰囲気の建物で,席からは春の陽光に輝く雄勝湾が望めた。
何事もなかったかのような平和極まりない雰囲気だが,あの日は街が1つ,忽然と消えたのである。
痛々しく残る建物の基礎が,それを僅かに物語っていた・・・。
風が冷たく,仙台市内では12~3℃あったものの,沿岸部は5~6℃で,はっきり言って寒かったが,折からの好天で,西から差す陽光の下,入り江の下の海は,穏やかなただずまいを見せていた・・・。


・・・ということで,簡単に書いてきたが,ワープロで1ページ半となったところで,今日はお終いにする。
行程の2/3は終わりだが,この石巻市雄勝地区から峠を1つ越えたところに行くことが,今回の主たる目的の1つであった。
それについては次回述べたいが,上記石巻市門脇地区と女川町の港地区には献花台が設けられており,線香をあげてご浄財をしてきた。
何の力にもなれないことは重々承知だが,行動を起こさずにはいられなかった・・・。


出掛けてきます・・・

2014年03月28日 23時23分40秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

バタバタしているうちに,年度内の業務が終了した。
ようやく暖かくなり,春の到来を実感した昨日は,職場の送別会で1時迄飲んで帰宅。
今朝は定時出勤して,残務を片付け,午後は休みを取った。
で,明日は所用で遠出をすることになった。
昨年秋に行った福井に,単身向かうことになる。
なので,今日は最寄り駅のみどりの窓口へ行き,
仙台-東京-米原-福井-金沢-湯沢温泉-大宮-仙台
という,めちゃくちゃな切符を作ってもらった。
一筆書きだともっと安いのだが,仙台-大宮だけダブるので,仕方がない。
初の踏破路線は,北越急行と上越新幹線だ・・・。


・・・ということで,明日早いので,寝ることにします。
始発のローカル線に乗るために,5時には起きないと・・・