7年目のこの日を迎える。
前日である3月10日は,約10万人が完全なルール違反である無差別爆撃によって命を失った東京大空襲の日であるから(莫迦な侵略戦争を日本が始めたから,元を云えばそれが悪いという論調は今でも「美味しんぼ」を初めとして今猶聞くが,それがお門違いであることだけは書いておく),3月は鎮魂の月でもある(3月17日は硫黄島陥落の日でもある。戦死者は米軍のほうが多い)。
勿論あの日のことは,鮮明に記憶している。
金曜だったので,夜は食料品の買い出しに行き,週末ガソリンが安いので車に給油しようとも考えながら(それが失敗だった),職場の2階にある一室に籠もって,必死になって月曜日締切の書類の作製に取り組み,14時30分過ぎ頃にすべてを終え,ほっと一息ついた途端に緊張が緩んだのか,トイレに行きたくなり(この時,使用していたソフト-一太郎だったかExcelだったか-の上書きボタンを押していたことが幸いした),用を足して仕事場に戻ろうとした途端,小刻みな揺れが始まった。
実はその前々日の昼近くに,震度4クラスの地震が起きている(前日には,コント55号の坂上二郎さんが亡くなっていた)。
今考えると,それが不吉な前兆だったのだろう。
今を去る40年前の宮城県沖地震の際も,直前に小さな地震が起きていたし・・・。
小刻みな揺れは収まること無く間断無く続き,それどころか急激に振幅を増していく。
あちこちでものが倒れて落ちる音がし始めた。
「こいつは強い」
と,直感して机の下に潜ったのが先だったか(無駄にでかいので苦しかった),照明が消えたのが先だったか,この時点で多分発生から30秒ぐらいだと思われる。
身体を折り畳むようにして窮屈な机の下に潜っていたのだが,一向に揺れが収まる気配が無い。
このまま建物が倒壊したら,間違いなく圧死すると判断し,身一つで外へ飛び出そうと判断する。
途中,階段や上の階が崩落する畏れも考えられたが,ここに居ても同様であると考え,誰も居ない一室を飛び出す。
その際バランスを崩して,左側の壁に嫌と云うほど左肩を打ち付け,その場に転倒したが,幸い怪我もなく,そのまま階段を駆け下りて,1階廊下を突っ走って非常口から外に出た。外に出ても揺れは収まらず,次々と建物から同僚が飛び出してくるのを呆然と見つめる。約2分は揺れていたと思う。
地面には至るところに地割れが起きていた。
幸い職場の建物には殆ど被害は無く,高いところに積もった埃が落ちてきた程度で済んだが,それからが大変だった。
取り敢えず携帯(私が使った最後のガラケー)は生きており(前日充電を忘れるという失態),仙台空港が津波にのみ込まれたニュースは知っていたものの,夜には各地のUPS(補助電源供給装置)の電源が途絶えたせいか,20時以降は圏外表示になり,3日間使用不能になった。
市の広報車が
「大地震発生。避難所に向かってください」
と走り回ったのは,その後だっただろう(今考えると,何と莫迦なことを言ったのだと思う)。
近隣の住宅地や商業施設には,窓が割れた以外は大きな被害は認められなかったが(柱が歪んだ家もあったらしい),そのせいか避難所になっている近隣の小学校に住民が集まってきた。
避難所に行って,避難してきた人たちの世話をする指示を待つように上司に言われたのが17時頃だっただろうか。
固定電話は繋がらず(相方はよりによって携帯を家に忘れた),家族の安否が一切分からぬまま,女性は勤務解除を命じられ,保育所に下の子を迎えに行く必要のある私は,18時30分に一時帰宅を許可された。
近くの橋が崩落したという情報も流れ(崩落したのは極一部分だった),遠回りしながら保育所に向かう。
信号の消えた街は異様な雰囲気であり,ガス管が破裂したのかガス臭が充満しており,点火プラグから引火したら車ごと吹っ飛ぶのでは・・・と,地雷原の上を走るような恐怖感が有った・・・。
通常20分で着くところを,倍の時間を掛けてようやく到着した保育所はもぬけの殻で,隣の小学校の体育館に職員と児童が避難しており,発電機が唸りを上げているせいか,煌々と照明が点いていた。
無事に下の子を受け取り(私が一番最後だった),途中実家に寄って両親の無事を確認し,帰宅したのは20時近くだった筈だ。
相方は私が迎えに行った直後に保育所に行き,私が来たことを知ったそうで,実家に寄った私より先に帰宅していた。
莫迦なことに,当時中一だった上の子は,明日卒業式と云うことで午後は部活も無く,野郎5人で我が家の居間でゲームをしていたらしい。
それで地震発生と同時に5人でテーブルの下に潜ったため,唯でさえ汚い部屋の中が余計目茶苦茶になっていた。
PCデスクの上のプリンタが空を飛んで落下するのを見たらしい(幸い壊れなかった)。
取り敢えず家族の無事が確認できたのを幸いに,職場と近くの避難所に戻る。
20時30分過ぎのこの時点で,M8.8と報道されていたと記憶している(M9.0となったのは翌朝だろう)。
ようやく勤務解除を告げられ,幸運なことに職場に泊まらずに済んだのは,多分同僚では私ぐらいだったと思われる。
21時過ぎに帰宅。
残っていた数缶の缶詰のうち一つを開け,朝炊いたご飯で遅い夕食。
電力の回復を願って(宮城県沖地震ではその夜のうちに復旧した)体力温存のために,寝ることにした。
この時点で,ガスも水も問題無く出たので,何だ電気だけか・・・と思ったのが,大きな間違いだった。
翌朝,水もガスも止まっており,前日朝に洗濯機を回しながら仕事に出たせいか,風呂水も殆ど無かった。
携帯も完全に圏外表示となり,見通しが甘過ぎたことを痛感させられた。
天気が良いのだけが救いといった感じで,情報は車載のラジオのみ。
朝7時前に起床して,取り敢えず近くのコンビニに行ってみたら長蛇の列。
この時初めて,三陸から宮城県内~福島県沿岸部にかけて壊滅的な被害が有ったことを知った。
以下は,
https://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/34fc9a86f514827f48443b34669a63f0
に書いた通りなのだが,当時から被災された方々のことを思うと心が痛み,今猶7万人を超える人々が元の生活に戻ることが出来ないことを思うと,殆ど被災していないに等しい私なぞ,本当にすまない気持ちでいっぱいになる。
そして,このまま交通インフラの復旧が回復せず,物流が滞ったままだと,最悪の場合栄養失調による餓死も考えられる・・・というあの日あの時に感じた暗澹たる予感は ,今でも忘れては居ない。
ライフラインが分断されると,途端に無力化する現代人というのも問題なので,備えを充実させて,防災力を高めておかなくてなるまい。
・・・ということで7回目のこの日のために一曲貼って,この長ったらしい駄文を結ぶ。ドイツ鎮魂曲~第2楽章 Denn alles Fleisch, es ist wie Gras(人は皆草の如く)-聖書「ペトロ書」,「ヤコブ書」,「イザヤ書」による(J・ブラームス 1833-97独)
通常ラテン語の歌詞のレクイエムを敢えてドイツ語にした白皙の美青年だった若きブラームスの革新性と覇気を聴く。
間もなく訪れる14時46分に合掌・・・。