薩摩と言えば西郷や大久保,或いは人斬り半次郎と怖れられた桐野利秋に田中新兵衛,陸軍の重鎮でもあり大村益次郎暗殺の黒幕疑惑もある海江田信義(有村俊斎),もうちょっと後だと黒田清隆とか東郷平八郎,といった名前が浮かびますが(西郷弟の従道も),小松帯刀という名は彼等ほど一般的ではないかもしれません。
幕末の薩摩は,長州のように藩ぐるみで暴発したり土佐のように勤王派を露骨に弾圧したりせず(文久2年の寺田屋事件のようなことはありましたが),親藩の会津藩と手を結んだかと思うと,坂本竜馬の斡旋で長州との同盟を果たして倒幕の急先鋒に転じたり,と,常に怜悧な計算でしたたかに幕末維新を乗り切った印象があります。
こうした維新回天の業績は,ついつい島津斉彬が素地をつくり,彼が下級武士から登用した西郷と大久保が完成させたと思いがちですが,薩英戦争で攘夷の不可能を悟り公使パークスを通じて英国に近づき,国力を高めることで勤王第一藩として西郷・大久保が自由に動いて存分に力を発揮することができた陰には,家老であった小松帯刀の名を忘れることはできないと思います。
「薩長同盟・大政奉還・・・,ありゃ竜馬が一人でやったことさ・・・」
と,竜馬の師匠ともいうべき勝海舟が維新後に述べた話が伝わっています。
確かに,犬猿の仲にして仇同士でもある薩長が同盟して倒幕に当たる,というのは,日本史上の奇跡と言って差し支えないと思いますが,その竜馬が元治元(1864)年の禁門の政変以来長州藩の桂小五郎とともに,新撰組や見廻組にとってブラックリスト級のお尋ね者となった際に,京阪での活動を円滑にしたのも小松の後ろ盾あってのことでした。
小松帯刀-本名は清廉,尚五郎。
天保6(1835)年薩摩国下原良村にて上士肝属兼善の三男に生まれ,安政3(1856)年,前年に琉球を視察中に客死した小松清猷の養子となる。
やがて島津久光にその才を見出され,力を奮うことに。
今回も,於一に振り回されるかなり情けない役柄での登場でしたが,峰くん,もとい瑛太くんは,こうした役柄がぴったり填っていました。
ま,西郷吉之助(小澤Jrは父と違ってごつくて○)や大久保一蔵(原田泰造かよ・・・)との接点に関しては作りすぎのきらいもありますが,こうした人物に焦点を当てるのも良いかもしれません。
慶応4(1868)年3月,江戸を戦火から救ったのは,品川の薩摩屋敷に於ける勝と西郷の会談であったことは有名ですが,おそらく西郷のバックに小松が,そしてその小松と幕府高官の勝の背後に於一こと天璋院があった,という設定にもっていくのでしょうが,前回のナレーションにあった,於一がやがて日本を救うことになる,というのはちと大袈裟というか,言い過ぎのような気がします・・・。
調所が服毒自殺したのは史実通りでしたし,琉球の抜け荷や偽金造りの全責任を被って薩摩を救ったという設定も悪くありませんでした。
しかし,如何に上士とはいえ,妙齢の男女が頻繁に会ったりすることがこの時代可能だったとは思えないのですが・・・。
突っ込みついでに,もう一つ。
本編終了後の小松帯刀屋敷の紹介の際,小松が「寺田屋事件」で負傷した坂本竜馬を鹿児島へ招待した,とありましたが,招待は事実としても,「寺田屋事件」とは京都近郊の伏見の寺田屋で,文久2(1862)年4月に薩摩藩尊攘派志士が藩主久光の命で粛正されたことを指すものと思っていました(筆者註:久光は藩主ではなく,久光の子忠義が藩主でした。1/22)。
TVで語られたのは,慶応2(1866)年1月に薩長会盟という大事業を果たした竜馬が,長府藩士で小槍の名手として知られる三吉慎蔵とともに同じく伏見の寺田屋に投宿中,新撰組をはじめとする幕吏に踏み込まれ,短銃で応戦した際に左手親指を負傷したものです(手前味噌ですが,こちら参照)。
で,これを果たして「寺田屋事件」と呼ぶのでしょうか・・・。
呼ぶとしたら「寺田屋事件」二度あったことになります・・・。
このあたりは,識者の見解を聞きたいところです・・・、。
次回は,いよいよ「お由羅騒動」でしょうか。
どのように薩摩が分裂するのか楽しみです・・・。