koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

天地人-第47回「愛を掲げよ」(最終回)

2009年11月22日 21時27分54秒 | 天地人

珍しく夕方5時台に食事を済ませたので,家族全員で見ました。
さあ,何が出てくるのか最終回。
毎回毎回のサプライズの応酬に,ちょっとやそっとじゃ驚かないぞ・・・と,期待に胸を弾ませて見ました・・・。


時は豊臣家滅亡後の元和元(1615)年秋。
おっと,竹松もとい景明-否,字(あざな)だと平八か-元気じゃねーか。
生来病弱だったんじゃなかったのか・・・。
・・・で,
「人望が厚いのは父親譲りじゃの」
と来たもんだ。
お得意のとってつけたような兼続・景明賛美。
何の伏線も無いので,私は未だに兼続が何で人望があって家老に抜擢されて,一切合切を任される程の人物なのか,このドラマからは理解できませんでした・・・。
尤も,景明は大坂の役から二ヶ月後の同年7月12日に逝去しているので,秋(7月は確かに旧暦で秋ですが)にああして領内を走り回っていたとは思われません。
TVとは異なって前年の冬の陣(鴫野の戦い)で感状貰う程の活躍をした後に江戸で療養していたと思われるので,多分米沢へは帰らず江戸で逝ったのではないでしょうか・・・。
因みに継嗣にはめぐまれませんでしたが,景明は妻帯していました。
近江膳所城主戸田氏鉄の女と伝わっており,景明没後は京都所司代板倉重宗に再嫁したことになっています。
そのあたりは全く触れられず,短い生涯を独身だったという設定だったのでしょうか・・・。


やがて大御所家康も斃れます。
駿府に兼続が見舞いのため登城したのは事実のようです。
ただ,政宗と一緒に呼ばれることはなかったと思うのですが・・・。
で,家康が後事をこの2人に託すとも思われないですし,直江状のことを十数年ぶりに混ぜっ返したり,政宗の肚はお見通しみたいなことを家康が言うとは思われないのですが・・・。


おねいさんが訪ねてきたのはその2年後でした。
頭が白くなった兼続に対して,おねいさんは全く変わっていないというのは,いかがなものでしょうか・・・。
幸村姉という設定ですから,兼続と同世代の筈ですが・・・。
かつて豊臣政権の黎明期に,真田が北条と結ぼうとした際に(註:そのような事実は全く無く,むしろ逆です)それに反対して家を追われたという設定だったようなので(忘却の彼方),弟が大坂の役で討死した際も出なかった・・・ということでしょうか・・・。
で,南蛮に行くとは・・・。
ま,強引な帳尻合わせですな・・・。


元和4(1618)年,兼続がすべてから解放されて越後に夫婦で・・・というくだりと,景勝が兼続を岩屋に連れて行った部分は必然性のない創作でしょう。
前々回だかに,突然独眼竜が米沢にやってくる場面がありましたが,幕府は常に諸大名の動きに目を付けており,自由に夫婦で旧領を見て回るなどということは不可能,と断言しても差し支えないと思います。
また,初代謙信を初めとする歴代藩主の墓は,最後の「天地人紀行」にあったように米沢市内の上杉家廟所にありまして,春日山城にも米沢領内にも毘沙門天を祀った岩屋が有るとは到底思われません。


・・・ということで,最後の最後まで突っ込んでしまいました。
いろいろと評判の芳しくない「天地人」でしたが,毎回の突っ込みどころだけでも十分私は楽しみましたので,今となってはそれも良かったか・・・と思います。
いずれにしても,一昨年の「風林火山」に次ぐ大河コンプリートとなりましたので,めでたしめでたし。
次の「龍馬伝」はどうでしょうね・・・。
岩崎弥太郎が竜馬に関与したのは長崎時代以降だから,せいぜい2年程度・・・。
それを強引に絡ませるとしたら苦しいかな・・・。
それよりも,来週からの「坂の上の雲」です。
阿部寛の秋山好古と高橋英樹の児玉源太郎は,やはり格好良い。
村田雄浩の伊地知幸介と竹中直人の小村寿太郎,江本明の乃木と渡哲也の東郷は見てみないと何とも言えませんが・・・。


天地人-第46回:大坂城炎上

2009年11月16日 19時42分37秒 | 天地人

一昨日は飲んで帰り,その煽りで昨日は使い物にならず,2日空けてしまった・・・。
故に本日のエントリと相成った次第。
・・・で,今回はもの凄く突っ込みどころ満載で・・・。


最初にことわっておきますが,兼続の位は陪臣に過ぎません。
大名の家老とはいえ,将軍や大御所に直接お目通りしたり,秀頼と対面したりすることなど有り得ないのではないでしょうか・・・。
百歩譲ってそうした機会を持ち得たとしても,当時の礼法である室町流をもってすれば,同室することすら禁じられる筈であり,仮に同室・同席したとしても
「面を上げよ」
の声がかかっても顔を上げてはならず,顔を上げたとしてもその時既に大御所・将軍・右大臣である彼等の姿はそこには無い・・・ということになっていたと思われます。
当時,家康と語ることができたのは,謀臣である本多正信・正純父子と黒衣の宰相と呼ばれた臨済僧の金地院崇伝ぐらいではなかったかと思われます。
だから,父と違って秀忠が如何に良い人であったとしても兼続をもって家康を説得したりすることは有り得ないでしょうし,外様大名である福島正則がわざわざ駿府城まで来て,家康に直訴して,
「二度とその面見せるな!!」
と足蹴にされるなど,絶対に有り得ない,と断言しましょう。
周知の通り,正則は広島50万石を失い,信州高井野4万石に落とされて失意の内に世を去りますが,それは秀忠の代になってからのことで,家康に直訴した咎を責められたわけではありません。
兼続に対して開き直る家康と,兼続を頼る秀忠。
このあたりで既に私は「どじょっこほい」状態となっておりました。


そして,千姫救出。
兼続献策とは唯々恐れ入りました。
ここまで歪曲,いえ創作と言えば宜しいでしょうか・・・。
幾ら何でも視聴者を嘗めていやしませんか・・・。
坂崎出羽守と本多忠刻のことは,本論から外れるので書きませんが,真田が炎上する大坂城から出陣・・・という場面ではもう何をか言わんや・・・。
せっかくなので,慶長20(1615)年の大坂夏の陣の経緯を記しておきます。


4/26 西軍大野治房,筒井定慶の大和郡山城攻略。
  28    同     堺を焼き討ち 
  29 樫井の戦い。紀州藩浅野軍に,西軍淡輪重政,塙直政討死。
 5/6 若江・八尾・誉田・道明寺の戦い。西軍木村重成,後藤基次討死。真田勢・毛利勢・長曽我部勢撤退
  7   天王寺・岡山合戦。毛利・真田の奮戦により,本多忠朝・小笠原秀政討死。岡山の徳川本陣が大混乱となるも真田信繁討死により西軍総退却。
  8  大坂落城。秀頼・淀君・大野治長・毛利勝永等自害。千姫,西軍堀内氏久(紀州の新宮行朝の一族?)と東軍坂崎直盛に救出さる。
                   
             (改行がうまくいかず,お見苦しい点はご容赦ください・・・)


・・・ということです。
大坂城が炎上する際,真田は既に討死していた訳で,あのようなシチュエーションは絶対に有り得ない訳です・・・。
さらに言うなら,千姫は西軍にとって和議の為の最終兵器ですから,いくら淀殿が良い人だとしても,みすみす逃がすようなことは有り得ないと思います。
山里郭での豊臣一族の最期にしても,鉄砲を撃ちかけられて和議(というか命乞い)が適わなかったと判断してのものだった筈ですので,千姫救出は無論真田と兼続によるものなどということは有り得ない,ということは今更述べるまでもないでしょう・・・。


兼続自室のミニ鎧櫃上に飾ってある「愛」の兜,落城後の大坂城に立っていた六連銭の旗,家康の御前で兜をとらない兼続等々,今回は山のように突っ込みどころやわざとらしい演出が満載でしたが,その突っ込みも来週で終わりのようです。
予告を見ると大団円のような雰囲気ですが,果たしてどうなるのでしょうか・・・。
来年の「龍馬伝」とやらも期待薄のようですし(昭和43年の「竜馬がゆく」を凌ぐ映像,北大路欣也を凌ぐ俳優に出てきて欲しいものですが・・・),やはりここは「坂の上の雲」に賭けるしかないかと・・・。


あ,そうそう,夏の陣の際,上杉勢は確かに京都守護を命じられておりましたが,郊外の八幡(男山八幡宮がある南北朝時代の激戦地)に居ましたので,確かに落城の火は見えたかもしれません。
ただ,昨日は洛中から・・・という設定のようでした・・・。
それこそ男山の陰になって見えないのではないでしょうか・・・。


天地人-第45回「大坂の陣へ」

2009年11月09日 21時29分53秒 | 天地人

豊臣家世襲の関白職を家康が剥奪・・・??
はて,確かに秀吉と秀次は関白だったけど,秀頼は右大臣だったけど関白になっていないし,基本的に藤原北家しか関白にはなれないので,秀次の後は所謂五摂家(一条,二条,九条,鷹司,近衛・・・受験の知識が役に立った・・・)の世襲だった筈で,そこに強引に割って入ったのが秀吉と秀次だった訳だから,秀次死後はしばらく任命無しで,また五摂家に戻ったと記憶しているので,剥奪というよりは逆に位打ちにして,高位に祭り上げておいて・・・とした方が妥当では・・・と思いました。
秀吉が秀頼を関白にしなかったのは,単に幼少だったからでしょう。
で,江戸政権確立後は,大坂から何だかんだ言われても,より高位に・・・という大義名分でのらりくらり躱していたのではないでしょうか・・・。


秀忠に呼ばれる兼続。
松田独眼竜も一緒。
何か,この3人には凄みが全く無いのはなんだかなぁ・・・って感じです。
で,秀忠ですが,いい人ですね・・・。
独眼竜が止めにかかってもずけずけとものをいう兼続を,全くとがめない・・・。
何か善悪をはっきりさせて,分かりやすさを狙っているのか,それとも脚本家の趣味なのか・・・。


  善
淀殿
三成
秀忠
幸村
政重


  悪
北政所
秀吉
家康
正信
政宗
正則


・・・と思ってしまうのは,私だけでしょうか・・・。
前後しますけど,陪臣たる兼続が,如何に全権任されているとは言え,諸大名が近寄らない大坂に単身出向くとは・・・。
でもって,千姫のわざとらしい台詞・・・。
このあたりで,かなり引きました・・・。


・・・で,あっという間に5年たって,与六もとい竹松は景明になって,政重が出奔。
え゛,きちんと挨拶を述べている・・・。
ついでに,景明(次回で出番終わりか)にも
「お前が世継ぎぞ」
と来たもんだ・・・。
出奔だろ,出奔。
丁重な挨拶している場合か・・・。
それに,何で出奔するのか理由が全く語られず・・・。
ただ一言,
「(向背定かでない)上杉にいても,困るだろう・・・」
と物わかりの良い兼続・・・。
だいたい,政重はどう考えても,上杉家に打ち込まれた楔でしょうから,きっと潮時なので退散せよ,という指示でもあったのでしょう・・・。
そのあたりが全くはっきりしないのは困ったものです・・・。


・・・で,「国家安康 君臣豊楽」まで行っちゃいました。
足かけ9年。
もっと語るべきことがあったような気も・・・。
例えば慶長15年の二条城の会見とか・・・。
この頃までは,清正にしても輝政にしても,はたまた幸長にしても,豊家を陰ながら支えようとする人物は居た訳ですが,この3人が相次いで世を去ってからは,5年保たなかったですし・・・。
しかし,豊臣を討つ大義名分ができたと大喜びする松方家康・・・。
このあたりがえぐいというか,わざとらしいというか,私なんか引いてしまいます・・・。家康はもっともつと老獪で,一見愛想が良さそうでいて実は肚の底までは分からない・・・というある種の凄みを持っている・・・と私なんか勝手に思っているものですから・・・。


・・・ということで,ラスト2回のようです。
次で大坂城炎上・・・。
駿府城で家康に足蹴にされて仰け反っていたのは,兼続だったのでしょうか・・・???
鴫野・今福の戦いに上杉勢は出陣していますが,そのあたりは描かれるのでしょうか・・・。
え゛・・・,千姫救出は,兼続が幸村に頼んだ・・・???
一時的な講和の際に,幸村と兄信之は会っている筈ですが(ついでに叔父信尹も),兼続と幸村が会った・・・。
ま,講和は講和なので,可能性は無いとは言いきれないでしょうが・・・。


天地人-第44回「哀しみの花嫁」

2009年11月01日 20時20分54秒 | 天地人

予想通り一番打たれたくない,そして打たせてはならない稲葉に一発浴びて,解説になっていない解説陣を莫迦騒ぎさせることに・・・(2アウトから4点も取られやがって・・・)。
野球の神様は,すべてハムに味方したようだ・・・。
なので,即刻入力を切り替えて,6時から録画していた「天地人」に切り替える・・・。


さて,いよいよ婿入りです。
所詮は政略結婚と,全く受け入れない政重(既に勝吉か・・・)。
・・・で,「愛」の兜を見つけ(鎧櫃のミニチュア??に入っていた・・・),与六もとい竹松に,
「愛の兜にございます。仁愛の愛と聞いております・・・」
と,またまた言わせるとは・・・。
「わしのせいでそなたは家督を継げなくなったのでは・・・」
「よいのです」
決然と答える竹松。
で,治水工事を自ら手伝う政重・・・。
・・・で,米沢生まれの政宗に聞きに行く・・・。
紅葉した急峻な山脈が映りましたが,陸羽の境は蔵王ですから,あんな山ではありません。
米沢から仙台に向かうには二井宿峠越えが最短でしょうから,南蔵王越えとなるとしてもあれでは困ります・・・(一体どこの山なのか・・・)。
それに仙台城は山城ではありません・・・(尾根の東端の平山城)。


あっさり於梅が逝ったと思った途端に斃れる於松・・・。
享年21とは哀れです・・・。
阿梅が3月に逝き,於松は同年の9月に逝ったようです。
そんでもって,心を開き,徳川との間に立って努力を約束する政重・・・。
・・・で,
「そなたに見せたいものがある」
と,兼続が連れて行ったのは,何と白布温泉の鉄砲密造所(これは史実です)。
感銘を受ける政重・・・。


さらに赤崩山に単身やってきた独眼竜。
あれでは陣屋と城をくさした後,治世を褒める・・・。
突然の回想シーン。
置賜盆地と被る魚沼平野・・・。
感動の終幕・・・の筈なのに全く萌えないのは何故でしょう・・・。
赤崩山は,米沢市の南方にある小高い丘です。
ですから,あそこまでの雄大な景観は楽しめないと思います・・・。
因みに,眼下を流れていた松川を遡ったところには大平温泉という秘湯があります・・・(20年程前に行ったことが有ります・・・)。


さて,次回は何と「国家安康 君臣豊楽」までいってしまうようですが,それって慶長18(1613)年のことですから,前々年の政重出奔はどうなるのでしょう・・・。
政重は,関ヶ原以前は宇喜多秀家や大谷吉継に仕えており,役後は福島・前田に仕えるという前歴を持っています。
番組ではあれだけ胸襟を開いた兼続に対して,どのような経緯で出奔するのか丁寧に語られると良いのですが・・・。
今見たら,再来週が大坂城が炎上して,22日が最終回のようです。
つまりあと3回・・・。
どのように展開するのか,全く予想が付かなくなってきました・・・。


・・・で,私の気持ちは既に「坂の上の雲」に行ったりしておりまして・・・。
本日は,ブックカバーなどをダウンロードして参りました・・・。
さて,スケート見るか・・・。


天地人-第43回「実頼追放」

2009年10月25日 21時53分06秒 | 天地人

関ヶ原の役と江戸開府も終わり,景勝実子誕生と実母四辻氏逝去が足早に語られました。
その頃,大坂では実頼が福島正則と飲んだくれていました。
で,泉沢に説き伏せられるも,何と本多正信父子の面前で縁組み破棄を申し出る(口あんぐり・・・)。
・・・で,何で榊原康政が応対に出るんだ・・・。
タカビーで陰険な榊原は,嫡子人質を要求。
直江家のことで,上杉家の問題ではないと申し開きをする兼続。
取り潰しに値する,実頼の首を持てと要求がエスカレート。
随分ひどい役・・・と少々気の毒に・・・。


後世の私たちから見れば,実頼とは何と大局の見えぬ男か・・・,と思いますが,実際時代を同じくした者にとっては,必死でその時その時を生きてきた訳ですから,結末の分かっている後世の我々には云々できないと思います。
ただ実頼は,確か伏見で政重を迎えるための使者を斬って出奔した筈です。
原作を読んでいないので何とも言えないのですが,これって本多に対しては何もしていない,つまり直江家家中の出来事として始末したのが真相ではないでしょうか・・・。
本多父子を目の前にして,実頼が暴言を吐いたとしたら,確かに今回のような謀反騒ぎになるでしょうから・・・。
つまり,実頼は確かに不祥事を犯したので断罪された,しかし,上杉・直江家の基本方針に何ら変わりは有りませんので,どうぞいつでも米沢へどうぞ政重様・・・となったのでしょう・・・。


実頼は高野山へ追放・・・というより,出奔して辿り着いたのではないでしょうか・・・。
今回のように,真田父子(何なんだ,あの髪型は・・・,というか,流人の真田に書状など出せるか・・・)と会ったかどうかは分かりませんが・・・。
その後の実頼については諸説が有るようで,兼続の没後許されて米沢で没したとも,実はこの事件の前年に没していたとも言われています・・・。
実頼には娘が一人いて,兼続の養女となって,於松没後に本多政重を婿に迎えたという事実は,いかにも皮肉です。
で,その後の政重については,本編の根多バレとなるので自粛しますが,実頼の後の大国家は,何と兼続・実頼兄弟の弟(字は余八?)である樋口秀兼の子光頼が継ぎ,現在まで残っているのは番組冒頭で語られた通りです。
はて,ビデオ消してしまったので確かめられないのですが,この方でしたっけ・・・??


天地人-第42 回「将軍誕生」

2009年10月18日 21時30分53秒 | 天地人

1598(慶長3)年    お船の方,兼続居城米沢城へ戻る。
1600(慶長5)年9月    関ヶ原の戦い
1603(慶長7)年2月  家康征夷大将軍宣下
1604(慶長8)年3月    景勝正室菊姫(甲州夫人)逝去
              6月    上杉定勝生誕
              8月    景勝側室(定勝母)桂岩院(四辻氏)逝去


これらが今回のエピソードの背景となっています。
つまり,瀕死の菊姫が世継ぎ誕生の為に景勝に側室を設けることを薦めたのはどう考えても時系列としては合っている計算になります。
当時,正室に世継ぎが生まれない場合は,確かに正室が側室を主人に薦めるのは武家の美徳と考えられたでしょうから,有り得ないことではないでしょう。
ただ,あそこまでお得意の上杉家ホームドラマを演出するならば,側室(四辻氏)について触れても良かったと思います(出自は公家)。
定勝誕生と四辻氏逝去は来週語られるのでしょうか・・・。


実際のところ,景勝と菊姫の夫婦仲はどうだったのでしょうね・・・。
菊姫の墓は林泉寺にありますし,質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人であったという記述を読んだ記憶がありますし,米沢藩全体がその死を悼んで喪に服したという逸話も伝わっています。
また,逆に景勝が男色が過ぎるので,夫婦仲が冷え切っていたという説と,嫡子定勝を生んですぐに四辻氏が亡くなっているので菊姫の怨霊によるものという説も有るそうですが,いずれも根拠の無い俗説と思われます・・・。
だいたい男色はこの時代の流行ですし(私はご勘弁願いたいですが・・・),興味がなかったのは秀吉ぐらいです。
養父の謙信は,司馬遼太郎説では兼続を寵童にしていたということで,上杉ファンの顰蹙を買っていたようですが,男色は別段不思議なことではなかったようです。
そう言えば,甥である畠山義真との養子縁組(天正11年)については,何も触れられなかったようです・・・。


次回は,いよいよ実頼出奔のようです。
今回,兼続と本多政重との養子縁組の話がなかったので,うっかり忘れるところでした・・・。
伏見で,政重を迎えに来た使者を斬るんでしょうかね・・・。
お家のためにやむなく徳川に従った兄と,あくまでも屈しない弟との対比が描かれるのでしょうか・・・。


天地人-第41回「上杉の生きる道」

2009年10月11日 21時14分16秒 | 天地人

今日も6時からリアル視聴。
毎度毎度突っ込みを入れつつも,楽しみにしている自分がいます・・・。


米沢移封,30秒で終わってしまいました。
あっという間に会津若松から米沢へと,TVは便利です。
多分,最短ルートである檜原湖から白布峠を越えたか,現在の国道121号線で大峠を越えたかいずれかでしょう・・・と思ったら,檜原湖が磐梯山の噴火で出現したのは明治20年代なので,この頃は今とは違う地形だったことでしょう・・・。
しかし米沢移封ということは,兼続の城へ殿様を迎えるということなのですが,そのあたりが全く語られませんでした。


・・・で,米沢城ですが,何か見覚えのある光景・・・と思ったら,昨年の「篤姫」で使われた場所(峰,もとい尚くんの屋敷の前だったような・・・)ではなかったでしょうか・・・。
それは良いとして,斜面を登っていたようですが,米沢城は「天地人紀行」にもあったように,完全な平城です。
ですから,斜面を登っている構図は恰好な私の突っ込みどころとなってしまいます・・・。謙信公の御遺骸については以前述べました。
春日山直送ではありません・・・。


後半はお得意の直江家ファミリー劇場となってしまいましたね。
どう見ても,ひ弱で病弱には見えぬ与六もとい竹松。
自分が家を継げないと知って家を飛び出し,雨に打たれて倒れた後で取って付けたように,
「生まれつき病弱で・・・」
というわざとらしい台詞。
むしろ,翌年急死した姉の於松の方がやばいのでは・・・と思っているうちに,狭いながらも楽しい我が家の直江家を見て安堵したように逝ってしまう父ちゃん・・・。
回想シーンに与六共々いっぱい出てきたのを見て思ったのですが,何やら高嶋弟さんと妻夫木くんがやたら似た雰囲気に感じられたのは私だけでしょうか・・・。
この高嶋弟,やたら評判がよいようですが,私としては12年前の「君が人生の時」(このドラマ知っている人居るかな・・・。ブレイク前の松嶋菜々子と奥菜恵が出ていて,高嶋弟は古谷一行と親子だった・・・)を見て以来,ずっと「いい人」役ばかりなので???なのですが・・・。
前後しますが,娘の婚礼の
「踊るぞ」
で,よもや・・・と思ったら,案の定でした。
「水が良ければ稲も良い。稲が良ければ顔が良い・・・。」(笑・・・・・えない・・・)
・・・と来たあたりで,仰け反りかけたら・・・やはり・・・(絶句)。
与六もとい病弱な竹松まで踊り出す・・・。


さて与六改め竹松(ちと違うか),今回廃嫡でショックを受けていたようですが,実は・・・と根多バレは止めておきましょう・・・。
その時にでもまた述べられたら・・・と思います。
それより来週は,いよいよ菊姫がやばいようです・・・(個人的に残念・・・)。
そう言えば景勝の側室は全く出てこないし,嫡子誕生もまだ・・・。
来週はどのようにして落ち着かせるのでしょう・・・。
それにしても,あと数回は,悲劇の直江家物語となりそうです・・・。
大坂の役までやるんでしょうかね・・・。
やったとしても,冬の陣の鴫野の戦いは,また20秒ぐらいで終わるんだろうな・・・。

最後に,「天地人紀行」について。
嬉しいことに米沢と高畠でした。
銘酒「東光」の酒蔵を発見。
真新しい町標(旧町名)は,どうやら最近(去年か今年)町興し用に作られたものでしょう。以前は有りませんでした。
高畠の亀岡文殊も心なしか立派になっていたような気もします・・・。
今まで二度ばかり訪れていますが,そう言えば兼続が歌会をやったと書いてあったような気がします。
丁度3年前,子どもの秋休みを利用して米沢に一泊して,市内と高畠を回って帰ったことがありましたが,また機会を見て訪れてみたいところです・・・。


天地人-第40回「上杉転落」

2009年10月04日 20時24分49秒 | 天地人

F1日本GPとか中川昭一元財務相の急逝とか話題に事欠かぬ日で,F1にするかこちらにするか迷ったのですが,やはり日曜は「天地人」ということでエントリします。


上杉を取り潰すと家康にもの申す者が居なくなる,故に上杉を取り潰してはならぬ・・・と小早川と福島が結託(上地くんと与六で視聴率稼ごうとして,戦後は良い人にしてここまで引っ張ったのでは・・・と勘繰りたくなりました・・・)。
金様は淀の御方を動かし・・・。
え゛,秀頼の一言・・・(絶句・・・)
それが米沢30万石か・・・。


しかし,何で遠山がこんなところで得意になって出てくるんだ。
おまけに,本多佐渡の息子が直江家の養子に・・・。
これが兼続の必殺技とは・・・。


例えば前田家の例をとると,確かに家老に幕臣(現時点でまだ幕府はありませんが)を入れることでお家の安泰を計ったといったことはありましたが,兼続がそれを提案したとは思われません・・・、。
おそらく,上杉の家名を残す代価として,徳川から沙汰があったというのが真相ではないでしょうか・・・。
それにしても,何故上杉家は取り潰しにならなかったのでしょう・・・。
今までは,謙信以来の名家を潰すに忍びない,ということで減封というのが通説でしょうが,無論現実主義者である家康がそんな感傷に流されるとは思われません(確かに家康は名家好きでしょうが)。
浅学にして真相はこれ,とは言い切れませんが,本多佐渡に敗戦直後に取り入っていたとか,会津を焦土にしての徹底抗戦を主張したとか,きっといろいろな要因があることでしょう・・・。


でもって,減封によってリストラに怯える家臣たち。
兼続が,「解雇」を全く出さずに米沢へ向かったのは事実でしょう。
きっと兼続は自分の判断により,上杉家が減封された責任を誰よりも感じていたことでしょう。
城下の街割り,殖産興業と治水事業,白布温泉での鉄砲密造等,兼続の米沢での業績は少なからぬものがあります。
ただ,今月と来月でそれを一つ一つ取り上げるとも思えませんので,きっと脚本家お得意のホームドラマの色合いを益々強めていくことでしょう・・・。
そう言えば,大坂城での上杉家審議の席に諸侯がずらりと居ないのも変ですし(何故か福島は必ず居る),一切謝罪せずに退席する景勝・兼続主従に対して諸侯が,
「さすが上杉」
と褒めるあたり,残念ながら脚本の底が見えたような気がしてなりません・・・。
以前も,三成を前にした兼続のへんちくりんな踊り見てを,泉沢等が,
「どじょっこほいだ!!」
と嬉しそうに言って踊りに加わるどん引きしーんがありましたが,それと同等の恣意を感じてしまいました・・・。


・・・ということで,今回も突っ込んでしまいました。
莫迦にするなら見るな,とも言われそうですが,これで結構楽しんでいますので,どういった展開になるのか,見ものではあります・・・。


で,最後の突っ込みを・・・。
若松城天守閣はCGでしょうが,蒲生時代に五層の天守が落成していますのでおかしくはないと思います。
問題なのは,背後の磐梯山。
何と,スキー場が見えます・・・。
東側斜面なので猪苗代スキー場でしょうが,CG処理で何とかならんかったのでしょうか・・・。
ま,些細なことですけど・・・。


天地人-第39回「三成の遺言」

2009年09月27日 21時01分59秒 | 天地人

あれ,三成捕らえられてしまっている・・・。
伊吹山中を彷徨い,飢えと痢病に苦しんでいるところを田中吉政の手勢に発見された筈だし,家康の手勢の訳ありません。
で,家康面前で取り調べ・・・ということですが,場所は多分大津城でしょう。
福島正則が晒し者となった三成を・・・というエピソードも事実と思われますが,詮議の場に外様系では福島と黒田,そして小早川ぐらいしか居ないのは(確認していませなが)どんなものでしょう・・・。
三成がおどおどしている秀秋を一喝した,という話も伝わっていますが,やはり
「小早川秀秋」
と言ったのは,違和感ありありでした。
「金吾中納言」
でなくてはなりません・・・。


・・・でもって,上洛した兼続のもとへやってきた福島。
突然,三成とのことを話し始めます。
・・・で,何と晒し者の三成と杯を酌み交わす・・・(目が点)
「今宵ばかりは,お受けいたそうかの・・・」
で,ぶっ飛びました・・・。
仲良く昔語りをする二人・・・。
そして正則後事を託す三成・・・。
一体何なんだ・・・。
「わしも阿呆よの・・・」
と正則が思ったのは,ずっと後年のことでしょう・・・。


さらに脳天気な金様に会う兼続(大津城で三成に面罵されて出番終わったと思った)。
え゛,裏切るつもりはなかった???
もう勘弁してくれだと・・・。
じゃ何しに会いに行ったのか・・・と思ったら,ここを開けろという三成・・・。
もう一度正義のいくさをとは・・・。


前後しますが,三成の最期はおねいさんによって兼続に伝えられます。
六条河原に忍んでいって,というのは良いとしても,三成の最後の一言が
「兼続に伝えよ」
で,介錯人が即刻・・・というのも???でした。
せめて
「水を一杯所望」
と言ったエピソードぐらいは入れて欲しかったです・・・。


・・・ということで,あと10回ぐらいで終わりでしょうか。
戦後処理と上杉家減封とそれ以外に何かエピソード有ったでしょうか・・・。
大坂の役ぐらいしか思いつきませんが,与六(もとい子ども店長)も出てきたし(視聴率上がったかな),いずれにしてももういくさは有りませんね・・・。


天地人-第38回「二つの関ヶ原」

2009年09月22日 22時01分50秒 | 天地人

連日の野球観戦で,エントリがすっかり遅れてしまいました。
放送当日にほぼリアルタイムで視聴していたのですけどね・・・。


・・・ということで関ヶ原です。
何か盛り上がらないまま家康は小山で軍を帰してしまうし,敵を背後から襲うのは義に反する・・・といった理由で景勝は追撃を主張する兼続以下の提言を退けるし,あっという間に慶長5年9月15日を迎えてしまいました。
しかし,北方の抑えにしぶしぶ承知した結城秀康を配したとか,東海道沿線の豊臣恩顧の大名たち(中村一氏,堀尾吉晴,山内一豊,田中吉政等)が城を明け渡したとか,はたまた大坂では細川ガラシャ夫人の悲劇と東軍に従軍した大名の奥方脱出作戦(加藤清正室,黒田長政母と室)とか,多少語られても良いと思うのですが・・・。
また,予想通り第二次上田城攻防戦は全く戦闘シーン無しでしたね。
これでは真田幸村を以前から登場させた意味がありません・・・。


・・・で,岐阜城が簡単に落ちて(如何にも福島正則が落としたようですが,最大の勲功は,以前城主だった池田輝政でしょう),杭瀬川遭遇戦はカットで関ヶ原へ。
序盤の最大の戦闘は,福島vs宇喜多(西軍最大の軍勢-実際は家康譜代の井伊直政軍が物見と称して福島を出し抜いて先陣)。
石田陣からは何と大筒が撃ち込まれて東軍を粉砕(をいをい)。
如何にも三成が頑張って優勢を維持しているように描かれていますが,実は宇喜多勢が再三にわたって福島勢を初めとする東軍(加藤,井伊,本多)を押し戻し,天満山に松尾山を陣所とする石田・小西勢に地の利があったのが理由と言えると思いますし,最右翼に布陣する大谷勢(三成が吉継と呼ばず形部と呼んでいたのは正解)も奮戦し,前半は西軍がやや優勢だつたと思われます。
それを覆したのが,松尾山の小早川勢ということなのでしょうが,実は開戦前から小早川の動きに西軍は疑いを持っていたようです。
伏見城攻防戦で小早川勢が奮戦したため,疑いが晴れた,という説もあるかもしれませんが,実は松尾山麓に陣する大谷吉継は,秀秋の裏切りを警戒して新手の六百を温存しており,秀秋が家康に撃ち込まれた鉄砲に驚愕して西軍の横っ腹を突こうとした時も,松尾山の麓まで小早川勢を押し戻したと言われています。
西軍の敗戦を決定的にしたのは,小早川の裏切りによって東軍に寝返った赤座,小川,朽木,脇坂といった小大名たちと言っても良いかもしれません・・・。


この関ヶ原のシーン,今までの「天地人」の中では最も長く,そして充実したものとなっていましたね。
不謹慎の誹りを覚悟で言いますが,やはり大河はいくさあってのもの,と思ったりします・・・。
ただ,三成は佐和山城に着きましたが・・・というナレーションはいただけません。
着いてないですよ。
それに落城を果たして見たのかどうか・・・。
佐和山落城は18日,三成捕縛は21日とすると可能性は無いと言いきれないものがありますが・・・。


後は,島津の敵中突破撤退とか,佐和山城攻撃の主力は小早川を初めとする裏切り諸将であったとか(本丸に突入したのは田中吉政だった),詳しく述べられると良かったです(関係ないか・・・)。
ようやく島左近にまともな活躍の場と台詞が・・・と思ったら,終わりでした・・・。


・・・で,やっと出羽の兼続です(関ヶ原の敗報は15日後に出羽にもたらされたようです)。
寡勢の長谷堂城を落とせなかったことで,兼続の武将としての才覚を訝る節もあるそうです。
殿軍を務めたのは事実のようですが,撤退作戦はうまくいかず,最上勢の反撃に遭ったらしいです。
で,
「会津へ撤退」
は,どう考えても無理でございましょう。
取り敢えず,自領の米沢へ帰還するのが第一だし,景勝の本軍のためにも米沢城は開けておかなくてはなりません。
そして,得意になって攻めてきた独眼竜。
実は政宗は家康から東軍加担を条件とした百万石のお墨付きを得ていたので,これ以上戦闘を継続する意志はなく(逆に自領に攻め込まれた最上は,やる気満々だったでしょう),実は上杉軍と和睦を考えていたそうで,実際に笹谷峠(現在の宮城・山形県境)を越えて山形盆地を睥睨するところまで来たこともありましたが,直接戦闘には及びませんでした(食わせ者の政宗のことですから,漁夫の利を狙っていたのでしょう)。
一説によると,兼続は自害を考えたそうですが,何と前田慶次郎によって押しとどめられた,という説もあるそうです・・・。


・・・ということで,天下分け目の戦いは東北と美濃の二カ所で起きた,と思われそうですが,実は九州でも四国でも北陸でも起きているのです。
その辺を語ることができたら楽しいかもしれませんが,ちょっと考証を進めなくてはなりません。
次回は三成被斬と戦後処理でしょうか・・・。
兼続は家康に謝るのでしょうかね・・・。


天地人-第37回「家康への挑戦状」

2009年09月13日 21時54分18秒 | 天地人

ついに慶長5(1600)年到来か・・・と見ていたら,何とあっという間に7月までいっちゃいました・・・。
神指城築城,直江状,革籠原防塁,白石城攻防戦,そして家康の上杉討伐軍発進と関東大返しまで,ちょっと先を急ぎすぎというか,来週はこれでは関ヶ原まで一気にいってしまい,三成捕縛で終わりそうな感じです・・・。


まず神指城。
普請現場が2分程度で終わってしまいました。
何故,平城の若松城ではなく,もっと西の丘陵地帯に目を付けたのか,説明があっても良かったと思います・・・。


続いて直江状。
現存するものはすべて写本であるそうで,内容の信憑性に疑問符が付くらしいですが,家康(及び本多佐渡)を激怒させた内容であるのは事実でしょう。
こちらのサイトなど,関西弁の訳が実に面白いのですが・・・。
で,諸大名と奥方に送った・・・???
送り先は,秀吉や家康の政治顧問であり,対上杉の折衝役だった臨済僧の西笑承兌(さいしょうじょうけい)でしょうし,彼が家康に奏上したと思われますが・・・。


革籠原防塁。
古来,東国と奥州の境はご存じのよう白河の関でした。
現在の白河市内とその関跡の間の丘陵に作られたのが,革籠原の防塁でした。
それにしても,あのロケ地はどこなのでしょう。
見事な段丘です・・・と,今ビデオ回したら新潟県,山形県,福島県の他に栃木県岩舟町となっていました。
成る程,岩舟山でしたら,あの地形は納得です。
尤も,上杉軍は革籠原だけで東軍を迎撃しようとした訳ではなく,下野の高原・塩原や現須賀川市内の長沼城でも迎撃を考えていたらしいです。
兼続以下が東軍追撃を主張する中,景勝は断腸の思いで踏みとどまります。
義に背く戦はできん,と格好良く言い放ちますが(私もそれが史実と思ってきましたし,実際にそう伝えられてきました),おそらく伊達・最上が南下して背後を突いてくるので,それどころではなかったというのが真相ではないでしょうか。
佐竹氏と連合するのは,この後の8月らしいですが,義重も義宣も出てこないのは一体どうしたものでしょう。
関東で唯一西軍に与した佐竹の存在は,極めて大きいと思うのですが・・・。

白石城攻防戦。
伊達との北の境である白石城を守っていたのは,パパイヤ甘粕でした。
で,一説によると景勝の命で若松に行っていたとも,妻が亡くなったので若松に戻っていたとも言われており,その隙を伊達軍に突かれたということだそうです。
この甘粕景継,その後は冷遇されたらしく,米沢移封後は自害したという説もあり,キリシタンだった次子信綱は寛永年間に刑死しています。
いずれにしても,虚を突かれての敗戦だったのでしょう。
映像では1分程度で終わってしまいました。
やはりタイトルバックを凌ぐ長さの戦闘シーンは無いのでしょうか・・・。
次週の関ヶ原も,上杉が居ないのですっ飛ばされそうな気がします・・・。
松田政宗が白刃を振るっておりました。
総大将自ら白兵戦やるのは一体何なんでしょう・・・。


下野小山大返し。
ただのごろつきにしか見えない福島が,いきなり怒鳴り込んできて家康にその気にさせられていました。
私はてっきり,東海道沿線の城を明け渡す,と言いに来たのかと思ったのですが(実際は山内一豊が堀尾忠氏の策をちゃっかりいただいて献策し,福島が真っ先に同調して諸将に同調を促した),違いましたね。
当然,真田父子の犬伏陣所での別れも,結城秀康の対上杉抑えもなく,家康はあっという間に東海道を西上した模様です。


うーん,特に最後の東軍大返しは,戦略上極めて重要なことだっただけに,もっと丁寧に描いてほしかったです。
また,大坂城に東軍諸将の妻子を集めたようでしたが,そのまま屋敷に帰したんでしょうかね・・・。
細川ガラシャ夫人の悲劇はどうなるんだろう・・・。
また,毛利が総大将で宇喜多が副将というのも史実通りですが,広島,岡山の大大名が何故西軍の中核となったのか,さらに島津は・・・と,完全に描き込み不足は免れません・・・。
そして,本日最大の突っ込みは,藤田信吉が全く登場しないことです。
慶長5年の正月の拝賀に,景勝は重臣であった藤田を上洛させ,家康に籠絡されたことが,関ヶ原への伏線の一つとなると思うので,やはり欠落は大きいかと・・・。
あと,大谷刑部が佐和山城に寄ったのは,居城敦賀を発って東軍に合流する途中の筈です。
ですから,ただ立ち寄ったというのはどうでしょうか・・・(今回も左近は台詞一言のみ。おねいさん削っても左近出せと言いたくなります・・・)。
ま,これだけ突っ込んでも,45分楽しんだので良いのでしょうけど・・・。


天地人-第36回「史上最大の密約」

2009年09月06日 20時35分35秒 | 天地人

家康が牙をむいちゃいました・・・。
前田利家薨去の夜,豊臣家の武断派大名(加藤・福島・黒田・細川等)が三成征伐を目論んで決起しようとしたのは事実ですし,三成が捨て身の戦法に出て家康の元に転がり込んで,武断派大名たちが手出しできなくなったのもその通りです。
ただ,家康の元に転がり込んだ三成が家康と対峙するようなことは無かったと思います。
狐と狸の化かし合いのような出来事ですし,家康も三成に対して「ご安心召されい」と鷹揚なところを見せたでしょうし,三成も「此度は痛み入ります」とばかりに殊勝なところを見せたのではないでしょうか・・・。
で,家康としては,三成を佐和山に蟄居状態にして実をとったわけですし,三成は三成で反家康派の西国大名と連絡を取りながら雌伏していたということになります。
秀吉が死んですぐに家康と三成の反目があり,あっという間に関ヶ原・・・とはならないのです。
このあたりは,策士同士の腹の探り合いというか,やはり狐と狸の化かし合いというか,相手を倒すために権謀術数を巡らすという歴史の醍醐味を感じるのは私だけでしょうか・・・。


上杉が帰国となったのは,家康の命だけではないでしょう。
実際に三成は秀吉没後は慶長の役の戦後処理に奔走した訳ですし(これだけ三成をよいしょしておきながら,そのことに一言も触れない脚本は言語道断です。三成なればこそ撤退作業がうまくいったのでしょうから・・・) ,諸大名の帰国は朝鮮の役出兵により疲弊した領国を立て直す意味合いで,何も上杉に限ったことではないのですから・・・。
また,帰国途中の兼続が佐和山城に立ち寄ったというのも,有り得ないことではないと思います。
ただ,何なんでしょうあの島左近は・・・。
先週も書きましたが,若林豪さんというこれ以上ない配役を得ながら今回は台詞すら無し。おねいさんの台詞を削ってでも謀議に参加さすべきと思ったのですが・・・。
ま,反論覚悟で書きますが,私は関ヶ原の東西呼応は兼続と左近がシナリオを書いたと思っています。
陪臣同士ということと,どちらも謀将でしょうし・・・。
三成には秀吉に対する義理立てが多分山のようにあったでしょうが,兼続や筒井家に仕えていた左近にはそんなものは無かったことでしょう。
また,天下国家万民のためとか義とか正義といったものはあくまでも建前であって,上杉が東西呼応に踏み切ったのは何といっても野望以外の何者でもないでしょう。
或いは,海道一の弓取りと言われた家康に一泡も二泡も吹かせてやろう,という後年の真田幸村に通ずる賭けもあったかもしれません。
家康を糺す,というのはあくまでもお題目ということで,家康とて秀頼のために逆臣三成を討つというのが建前だったわけですから・・・。


・・・ということで,来週はいよいよ関ヶ原前夜というか,上杉が迎撃態勢を整える段となりそうです。
そう言えば,東西呼応のこと,景勝はまだ知らないのですよね・・・。
次回納得させるのでしょうか・・・。
それとも,何事も兼続に任せる・・・ということだから良いということでしょうか・・・。


最後に,恒例の突っ込みを・・・。
佐和山城で碁石を使った謀議をしていた時に使った地図ですが,三成が尾張,秀頼が伊勢あたりに位置していました。
ま,それは正確な地図ではないから,ということで良いとして,真田信之というのは何なんだ・・・。
慶長4(1599)年当時,真田家は昌幸が当主で信幸は上州沼田城主でした。
で,信之と改めたのは関ヶ原以降で,西軍に与した父昌幸の幸を徳川政権下で憚った為,と思われます。
何せ,信之室である小松姫は家康養女にして本多忠勝の娘ですから・・・。
こんなことを私の如き素人に突っ込まれるようでは困るのですが・・・。


天地人-第35回「家康の陰謀」

2009年08月30日 20時28分24秒 | 天地人

秀吉が薨去。
家康が三成に対して露骨な挑発行為に出ます。
それを止める利家。
確かに利家がもう少し存命であれば,その後の歴史は違ったものになったことでしょう。


松方家康,存在感は抜群なのですが,やはりえぐ過ぎるような気がするのは私だけでしょうか・・・。
この時期の家康は,それまでの律儀者の仮面をかなぐり捨てて,何食わぬ顔で法度を破り,「はて,そうだったかのう・・・」
などと,すっとぼけている・・・といった感じかと思っていたのですが(多分,四半世紀以上前に見た「関ヶ原」の森繁のイメージが残っているのかもしれません・・・),散々三成を挑発するわ,ふてぶてしいを通り越した態度で秀頼面前に出るわ,ちょっと露骨すぎる,というか悪役に過ぎると思います・・・。


・・・で,三成が家康襲撃・暗殺を画策。
諫める兼続・・・。
せっかく島左近を登場させ,しかも若林豪というこれ以上ない配役を得たにも関わらず,出番はこれだけ・・・(泣)。
で,四大老・五奉行にて家康包囲網を敷く三成。
この辺で,さすがにもう驚くのは止めましたが,家康の肩を揉む政宗とおちょくっているようにしか見えない利家を見舞う家康,そして短刀を家康に突きつける利家・・・。
さて,次は何が起こるのか・・・。
・・・と思ったら終わってしまいました。
利家逝去の日に大変なことが起きた,とは,武断派大名等による三成暗殺計画(というより襲撃テロに近いか・・・)のことでしょうね・・・。
来週,散々三成を挑発しまくる家康がどのように三成を庇う(その代わり中央政界から追放する)のか,兼続はどうやって反家康を決めるのか,楽しみです・・・。


さて,最後に今日の最大の突っ込みどころを二つ。
「これからは,あの淀の思い通りに・・・」
なる北政所の台詞,「淀」とは以前にも述べましたように,淀城を秀吉に建てて貰ったために世の人々が呼んだ名前です。
ですからここは「茶々の」と言わなければなりません。
もう一つは,
「幸村」
です。
前も述べたとおり,ここは「左衛門佐」でなくてはなりません。
或いは,若い時を知っている兼続なら「源次郎」もありかと・・・。
そう言えば,春日山を出奔したことになっていたのですね・・・。
大名の次男坊が,五大老の面前で・・・と突っ込むのは野暮でしょう。
陪臣の兼続だって同様だし・・・。


さて,開票速報見るか・・・


天地人-第34回「さらば越後」

2009年08月23日 19時54分36秒 | 天地人

遂に慶長3(1598)年まで来てしまいました。
秀吉の没年ですので,関ヶ原へ僅か2年です。
会津移封は史実でもこの年になりますので,上杉氏の会津統治は足かけ4年ということになります。


で,
「三成」(治部とか治部少と呼ぶべき)
とか,
「兼続」(山城とか城州と呼ぶべき)
とか呼ぶのはもう良いとしても(良くないですが),
「会津若松城」
はないでしょう・・・と思いきや,若松という地名は蒲生時代につくられたということで,あながち間違いではなかったようです。
但し,会津若松と呼ぶようになったのは市制ががしかれた明治時代になってからと思われますので(それまで若松というと北九州と混同されたとのこと),そうした意味では,若松城若しくは芦名・伊達時代の黒川城という呼称の方が良いと思われます。
私の住む地域では,小学生が修学旅行に行く土地でもありますので,よく「会津」と呼んでいますが,会津とは旧郡名であり福島県西部全域を指す地名ですので,大いなる過ちとしか言いようがありません。
ですから,
「会津と喜多方へ行ってきた」
といった具合に言われますが,これは間違いで,
「若松と喜多方へ行ってきた」
或いは,
「会津若松と喜多方へ行ってきた」
と言わねばなりません。


・・・と,話が逸れました(汗)。
実際のところ,会津移封に伴って,上杉家中のメンタル面は今日の番組の通りだったと思われます。
謙信公縁の地を離れる,しかも手塩にかけた領国経営を行い,御舘の乱で国力が疲弊した越後の農政と経済を立て直した後だけに,青天の霹靂だったことでしょう。
ただ,秀吉による家康牽制策のようなことを言っておりましたが,実際は蒲生氏郷亡き後の伊達と最上といった南東北の大名に対する楔というのが第一でしょう。
特に伊達は,自力で取った会津を秀吉に召し上げられていますので,折りあらば・・・と虎視眈々会津を睥睨していたでしょうから・・・。
松方家康はさすがに巧いですが,どうも単なる悪役のようでもの足りません。
おのれの心底を絶対見せぬような抜け目のなさこそ家康の真骨頂であり,さらには普段は律儀者として通っていた訳ですから・・・。
尤も,来週は伊達が家康の肩を揉み,病床の前田が家康に斬りつけていたようでした・・・(絶句)。
あと13回で終わりですが,神指城築城とか慶長奥羽合戦をきちんと描いてくれるのでしょうか・・・。
何か非常に心配です・・・。
今日も,越後を離れるに当たって,おねいさんと仲良くしていたし・・・。


天地人-第33回:五人の兼続

2009年08月16日 21時03分40秒 | 天地人

まず,秀次切腹および一門斬殺。
確かに,石田三成謀略説というのも有りでしょうが,どうも兼続同様三成を美化するあまり,三成一人が敢えて泥を被るような描き方はどんなものでしょう・・・。
伊達政宗を詰問した結末は描かれませんでしたが(詰問したのは事実と思われます),小栗・松田の対峙は,直後の松方・冨司のそれに比して何と小者であったことか・・・。


・・・で,五大老・五奉行が兼続の献策を三成が・・・というくだりでぶっ飛びました・・・。
五大老・五奉行の任命は,秀吉が衰弱した慶長2(1597)年と推定されます。
本来は秀吉が自分の没後に家康の専横を抑えるために,合議制を打ち出したものです。
ですから,兼続の献策した六大老が後の五大老のもととなった・・・などと,国営放送がまことしやかに述べては困ります・・・。
さらに,慶長2年当初の五大老は,徳川家康,前田利家,小早川隆景,毛利輝元,宇喜多秀家の5人で,同年に隆景が没したため(この人もあと数年の寿命があったら,関ヶ原は起こらず,歴史は違ったものになっていたことでしょう),上杉景勝が加わったというのが実態でしょう。
兼続を歴史の表舞台に常に絡ませるのはどだい無理があります。


・・・で,一つ気になるのは,三成と兼続はどっちが豊臣家中で格が上か・・・ということです。
秀次が没落した文禄4(1595)年当時,三成は近江佐和山19万石の大名です。
さらに太閤秀吉の覚えもめでたく,上杉家の家臣である兼続よりは遙かに家格は上の筈です。
確かにこの二人は同い年ですが,タメ口をきくのはどうか・・・と思ってしまいます。
どうせなら,この時期の三成には島左近(勝猛・清興)が軍師として居ますので,こちらと兼続を絡ませて,後の関ヶ原東西呼応の伏線とするなどとした方が自然で面白いと思うのですが・・・。
どうやら前田慶次郎も島左近も出ないまま終わりそうです・・・。


次回は,いよいよ会津移封のようですね。
秀吉が倒れ,とせのような経緯で国替えが語られるのか楽しみではあります。
伊達との絡みはどのように扱われるのでしょう・・・。
新潟の方には残念かもしれませんが,今度は会津が注目を集めそうです(因みに,昨年までは会津若松では,上杉は蒲生以上に注目されていませんでした。伊達と加藤は全く名前すら聞かず・・・)。