残念なことに,遂に終わってしまいました。
終わってみれば,1時間枠の最終回だったにもかかわらずあっけない感じが残りましたが,何だかんだで1年間楽しませてもらいました。
川中島のロケ地は何処なんでしょうね。
タイトルバックにある何処かなんでしょうけど,なかなかああした何もない丘陵地帯というのは,本州ではなかなか見られないかもしれません。
ただ,千曲川西岸から犀川南岸にかけての川中島は,私が現地で見た限りはあれほどの起伏は感じられない平原でした。
逆に海津城は千曲川東岸の段丘上に築かれたので,東側の菅平や四阿等上信国境の山々に続く斜面となります。
したがって,海津城(松代城)方面こそ丘陵地帯になると思います・・・。
それにしても,だだっ広い丘陵地帯だけに,上杉軍の陣容がやたらしょぼく見えたり,礼の「三太刀七太刀」の場面なんか,武田の本陣が信玄以外誰もいなくなったところを襲撃されるし,襲ってきたガッくんは単騎で丘陵のてっぺんに立っているし,もう突っ込みどころ満載でした。
予想通り,勘助の最期に平蔵が絡んだのは予想通りでしたが,ちょっと長々と引っ張りすぎのような気もしました。
勘助に,討てと言われた平蔵が背中に矢を受けて一撃で倒れた,と思いきや,生きて戦場を北に向かったり(最後は力尽きたと思われますが・・・),鬼美濃助けたおばばが戦場稼ぎにうろうろしていたり,変なの・・・という印象でした。
で,第四回川中島の会戦はどっちが勝ったのか,ということですが,前半上杉・後半武田の勝ち,とよく言われるところです。
武田は,啄木鳥戦法の失敗により,勘助・信繁・両角を失っているので,上杉軍の誰か(はて柿崎だったか齋藤だったか・・・)が言ったように上杉の勝利と見る向きもありますが(現に上杉軍は善光寺で勝ち鬨を上げている),激戦地だった八幡原から退却しているわけでもあり(武田軍が八幡原に残り勝ち鬨を上げたのは史実通り),やはり戦術的には引き分けと見るのが妥当ではないかと思います。
そして,善光寺平の大半は武田領となったのですから(数年後に飯山城の攻防があったような・・・),戦略的には武田の勝利と言っても差し支えないのでは,と思います。
にしても,勘助と人格者として知られた典厩,歴戦の強者である両角豊後を失ったのは大いに痛いです。
その前の割ヶ嶽城攻防で鬼美濃も重傷を負って,引退(3年後没)を余儀なくされましたし・・・。
その後の武田家について最後にありましたが,永禄~元亀~天正にかけて,義信と飯富が組んで信玄追放を画策し,義信が東光寺に幽閉されて怪死を遂げる(病死とも自害とも)という内訌を経て,武田家は最後の光芒とも言うべき版図拡大を図ります。
その結果,駿河ほぼ全域と西上州を領有し,東美濃の一部へも侵出。
上杉に次いで小田原城を囲んだことも,よく知られています。
そして天正元(1573)年の西上。
自分が今川義元と同様に,二度と故地を踏めないであろうことを信玄は予見していたのでしょうか・・・。
勘助亡き後,武田家の重臣として重きを為したのは馬場信春(教来石改)と山県昌景(飯富の弟),そして高坂弾正だったのでしょうか・・・。
板垣・甘利→勘助・飯富→馬場・山県といった具合に武田家臣団も世代交代が進み,由布姫の子である四郎勝頼の代で天目山田野の露と消えるのは周知の通りです。
そして,勝頼を滅ぼした織田信長も,その二ヶ月後にこの世の人ではなくなるのですから,何と言ったら良いのでしょうか・・・。
武田家は天目山で滅んだのでしょうか・・・。
勝頼のその他の兄弟たち-油川夫人や禰津御寮人の子たちはどうなったのでしょうか・・・。
それもいずれ機会を見て書いてみたいものですが・・・。
そして,幸隆の後の真田一族の興亡についても興趣が湧くところです・・・。