koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

旧小田郡紀行-其乃弐「くがねはなさく・・・」

2015年08月14日 22時04分54秒 | 旅行,および「鉄」

私が蛇蝎の如く忌み嫌う平成の大合併により,全国各地では郡や町が消滅して,新たに市や町が誕生した。
我が県も例外ではなく,市に編入されたり町村合併して別の名前になったところは数多くある。
隣県では,私の故地である山形県飽海郡平田町は,酒田市に併合された。
本当に由々しき事態である。
地名という文化遺産を,合理主義の謳い文句で簡単に消し去ったのだから・・・。
地域住民にとって,大きな恩恵がある筈も無く,住民税は上がる等,良いことなど何も無いのでは・・・とさえ思えてくる・・・。


・・・と,怒りを混ぜっ返すためにこの話題を出したわけではない。
律令時代の現宮城県は,多分以下の郡に分けられていたと思われる。
北から,栗原郡,本吉郡,登米郡,玉造郡,遠田郡,小田郡,加美郡,桃生郡,牡鹿郡,黒川郡,宮城郡,名取郡,柴田郡,亘理郡,刈田郡,伊具郡である。
そのうち栗原郡と登米郡,玉造郡,牡鹿郡,名取郡が消滅。
仙南の各市町村は,合併せず孤塁を守り抜いている。
かつて私が住んだ伊具郡丸森町は,隣接する角田市との合併を拒み,古代史に名を残す伊具十郎以来の歴史遺産を見事に守った。
そして,律令時代に小田郡という聞き慣れぬ郡が存在し,それはやがて多賀城を中心とした中央政権の東北支配に際して,遠田郡に併呑されていったことは,意外に知られていない。
私が小田郡なる名称を知ったのは,多分高校3年の時に,日本書紀の大仏建立の章を見た際に,陸奥国小田郡・・・というのを見た時が最初だったと思う。
そして,今回の踏査で,かつて旧遠田郡の南部を小田郡と呼び,古代政権下で遠田郡に併呑されたことを初めて知った。
この県に住む者として,迂闊以外の何者でもなく,平成の大合併に異を唱えるなら,これくらいのことはとっくに知っていなければならない・・・と,猛省しているところである。現在,村田,大河原,柴田の3つが合併して柴田市を形成する動きがあるそうだが,絶対止めて欲しいと思う。
既に新潟に新発田市があるので,語呂でも被ってしまう・・・。


涌谷の街は,県内の典型的な地方都市の様相で,栗駒山系に源を発する江合川沿いの段丘上に,駅を中心として石巻街道(R108)と佐沼街道(R346)の交差点付近に開けている。
北東は箟岳を中心とした丘陵が走り,三方には美田が広がる。
特に南は,江合川と鳴瀬川の間の低湿地が長い年月を掛けて開墾し,藩政時代は仙台藩主の肝入りで新田開発が行われ,仙台平野北部の所謂大崎平野は,全国有数の穀倉地帯となるに到った。
自然との共存・共生のため,多くの犠牲を払いながらも叡智を傾け,このような美田を公正の我々に残してくれた先人たちには,感謝以外の何も無い・・・。
藩政時代は支城が置かれたのは,やはり大崎と石巻を結ぶ要衝だったということだろうし,何よりも守護領国制の時代(鎌倉~室町)に築かれた城塞があったのだろう。
これについて述べてしまうと,またとんでもないことになりそうなので後に回すが,国内の大移動という点でも中世の開幕=武家政権の誕生は,日本史上の一大エポックであったことは疑いない。


そして,第一の目的である天平ろまん館は,街の北東の箟岳旧領の麓にあった。

朱塗りの太い柱が,平城宮の大極殿を想起させる。
砂金を産出したという黄金山神社の直ぐ隣に,20年程前に建てられたらしい。
今でも有料だが砂金採りが体験できるとのことで,建物の裏手でやっているらしい。
展示は,天井の高い贅沢な造りの展示室に分かれており,実に見やすい。
年代的に,多賀城市の東北歴史博物館と被るのは仕方がないであろう。
それにしても,例えば佐渡とか伊豆とか駿河梅ヶ島とか,江戸時代までの我が国は,世界有数の金の産出国であったことは疑いがない。
11世紀末から100年に亘って東北を支配し,完全な独立国であった平泉奥州藤原政権の背景にあったのが金と馬であり,それらによって中央政権が摂関家~院~平氏と替わっても,独立をうまく保つことが出来たのだろう・・・。
学芸員は丁度留守だったが(帰り際に会うことが出来た),窓口に書類を頼み,仕事は難なく終了。
隣の黄金山神社を訪れる。

延喜式かなんか分からんが,鬱蒼たる木立に囲まれた古社の雰囲気は格別であり,流れる小川で砂金が・・・というのも納得だった。

須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久
(すめろきの みよさかえんと あづまなる みちのくやまに くがねはなさく)
(天皇の 御代栄えんと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く)

なる大伴家持の歌は有名であるが,涌谷で金が産出されたのが天平21(749)年であるから,多分家持は越中の国司だったと思われる。
陸奥按察使持節征東将軍として,任地である陸奥国府(多賀城)に赴いたのは,それから30年を経てからだったと思われる。
既に時は桓武帝の代となっていた。
でもって,さらに迂闊極まりないことに,私は家持が陸奥按察使持節征東将軍のまま,延暦4(785)年10月に多賀城で没したことを知らなかった・・・。
てっきり平城京で没したと思っていたが,任地の多賀城で・・・というのが定説らしい。尤も,在地に下る国司ではなく,都に在って代理人を地方に遣わす遙任であり,平城京で欲したのでは・・・とも言われているらしい。
没後すぐに造営中の長岡京にて,藤原種継暗殺事件が起こり,連座を疑われた家持は官籍からも除名され,埋葬も許されず,子の永主は隠岐へ配流となつたというから気の毒な話だ。
尤も,長岡京造営計画がぽしゃり,平安京への遷都後の延暦25(806)年に名誉が回復され,官位は戻ったというが,その時点で永主が存命であったかどうかは定かではない・・・。


・・・ということで,たかだか半日(というか4時間)のことを書くのに,既にワープロ4ページ以上を費やしてしまった・・・。
明日は実家泊まりだから書けないだろうが,記憶が鮮明なうちに書き留めておきたいものだ・・・。


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