koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

旧小田郡紀行-其乃参「奥州仕置」

2015年08月17日 22時42分06秒 | 旅行,および「鉄」

黄金山神社と天平ろまん館を後にして,R346(通称佐沼街道)を戻る。
そして,県道173号線を江合川沿いにほんの僅か北上すると,涌谷城跡だ。
県道からは城らしき建物がよく見えたが,勿論清洲城や伏見城同様,何の歴史的根拠もないRC造りの観光城である。

但し,ここに城があったことは事実だ。
室町幕府の奥州探題職として,東北一円に睨みを利かせた大崎氏の氏族にして家臣である涌谷氏の居城であったという。
やがて16世紀の伊達氏の勢力伸長により,形骸化していた大崎氏の支配は終わり,政宗の代に,亘理重宗が涌谷城に入り,この一体を支配していくことになる。
亘理氏は,保元の乱や源平合戦に功のあった千葉介常胤の三男武石胤盛を祖とする平姓であるが,伊達家お得意とも言える名跡乗っ取りによって,伊達一族の重宗が継いでいた。
重宗の子の代で伊達姓に復し,これを涌谷伊達氏と呼ぶ。
元禄年間に失火で天守が焼け,以降再建されなかったらしい。
城跡の南端に残る隅櫓は,小規模ながら唯一当時の遺構と言えよう。
涌谷城は,ざっとこのような歴史を辿ったのであるが,伊達氏は藤姓(北家魚名流),大崎氏は斯波氏の一族であるから源姓足利氏族である。
さっき述べたように,亘理氏は平姓千葉氏族だ。
つまり本来は,関東地方を本拠地としていた筈の一族である。
それが何故東北に進出するに到ったかは,大きな理由がある。


武士の起こりは,平安時代初期の9世紀ころだったとされる。
所謂平氏は桓武天皇の子孫,源氏は清和天皇(近年の研究では陽成天皇)の子孫と言われている(その他,平氏には仁明天皇系等,源氏には嵯峨天皇系,村上天皇系,宇多天皇系等があるが,桓武平氏と清和源氏をここでは狭義の平氏・源氏とする)。
つまり後続の子孫が姓を賜り臣下となり,中央政界での栄達の為にも(或いはそれを諦めて),地方での実利を取ったということだと思う。
平氏は伊勢や伊賀といった畿内から近いところに,源氏は摂津,大和,河内に起こり,中でも河内源氏は,摂関家に仕え頼信-頼義-義家と,前九年の役や後三年の役で東北の紛争に介入し,関東から東山道諸国に勢力を伸ばした。
特に,東北とも縁の深い八幡太郎義家の三弟,新羅三郎義光の子孫は各地に繁栄した。
有名なところを挙げると,常陸の佐竹氏,上野の新田氏,下野の足利氏,信濃の平賀氏,甲斐の武田氏等である。
いずれも源平合戦に於いて頼朝に従い(佐竹氏や新田氏のように当初は従わず,後に従い)鎌倉幕府の御家人となつた。


一方,平氏は伊勢・伊賀地方で勢力を扶植する一方で,源氏同様東国に基盤を求めた。
関東での独立を図った平将門や平忠常が有名であるが,それらの一族の系統も関東に多く根を張った。
伊豆(関東ではないが)の北条氏,相模の三浦氏に波多野氏,中村氏,土肥氏,鎌倉氏,上総の千葉氏,上総氏,下総の相馬氏,常陸の大掾(だいじょう)氏,武蔵の秩父氏等である。
坂東(関東)は源氏の国・・・という先入観があるが,坂東八平氏と言われるくらいであるから,むしろ平氏の国・・・と言った方が良いのかも知れない・・・。
それらの殆どは源平合戦の際に頼朝の麾下に参じ(波多野氏や鎌倉氏の一族の大庭氏のように従わずに滅ぼされたり,上総氏のように謀殺されたりした例もあるが),鎌倉御家人に名を連ねるに到った。


このように,武士はそもそも宮廷の番人であったのが地方に散じたのであるが,さらに大規模にそれを動かしたのが鎌倉幕府の進めた守護・地頭制である。
例えば,私の義理の母の実家は板橋姓であるが,これは現在の東京都の板橋区から起こった平姓秩父氏の一族であるが,おそらく鎌倉幕府草創期に陸奥国名取郡を領した裔であると考えられる。
おそらく名取郡某荘の地頭職だったのではないだろうか・・・。
平安京から各地に散った武士は,こうして鎌倉幕府によって更に遠方へ散り,それぞれの地を支配しながら勢力を伸ばしていった。
例えば,仙台藩主である伊達氏であるが,常陸国伊佐郡,或いは下野国中村荘を領していたが,頼朝による奥州征伐の際,石名坂の戦いにおいて常陸入道念西が功を上げ,奥州伊達郡を支配したことに始まると言われる。
また,上記奥州征伐後に,頼朝から奥州総奉行に任じられたのは,平姓秩父一族の葛西清重である。
清重は,石巻の日和山に館を築き,登米に移ったという。
その子孫は長く奥州の有力な守護として栄え,秀吉の小田原征伐によって改易されるまで続いた。
また,その葛西氏や伊達氏と境を接して争った大崎氏は源姓足利氏族の斯波氏より起こったことは,先に述べた。
そして,清重と共に奥州総奉行に任じられたのが伊沢家景である。
伊沢氏は,藤原北家道兼流であるが,陸奥国の留守職を務めたので代々留守氏を名乗り,現在の仙台市の岩切城を根拠地とした。
この留守氏も,やがて伊達氏に乗っ取られることになる。


・・・ということで,全くまとまらない内容となってしまったが,伊達氏や留守氏がこの地方に来た根源を辿ると,鎌倉幕府の守護・地頭に端を発しているのである。
それがなければ,歴史は大きく変わっていたに違いない。


城跡からは南側の眺望がよく利いた。

江合川と鳴瀬川に囲まれた低湿地は,長年の先人たちによる努力によって,美田へと変貌し,全国有数の穀倉地帯となった。
そしてその大崎平野の東端に位置する涌谷は,城山から俯瞰すると,山と川のある美しい町として今日も残った。
どうしても仙台市に一極集中になりがちな我が県ではあるが,こうした地方都市にも他にはない歴史や伝統が今も脈々と息づいているのである。
そうしたのも,私が声高に批判した地名の消滅同様に大切な文化遺産である。
それを守っていくのも,我々に課せられた使命であり,今回の仕事が微力ながらその一端を担うものとなれば嬉しい話だ・・・。
涌谷-美里-大郷-大和と,旧小田郡から黒川郡を経て,宮城郡へ帰る帰途,そんなことを思いつつ愛車を駆った・・・。


◎ようやく終了です。
たった4時間程度の行程を書き記すに,膨大な字数を要しました。
そして,余計なことばかり書いたという・・・。
ま,何時ものことではあるのですけど・・・。
また気が向いたら,書くかも知れません。
唯,出掛ける機会が無いのと,もう一つ,県北に残る旧奥州街道の本陣を訪れる仕事が有るのですが,なかなか機会を見付けられないで居ます。
JR駅から近いので,鉄道で出掛けるのも一興かも知れません・・・。


旧小田郡紀行-其乃弐「くがねはなさく・・・」

2015年08月14日 22時04分54秒 | 旅行,および「鉄」

私が蛇蝎の如く忌み嫌う平成の大合併により,全国各地では郡や町が消滅して,新たに市や町が誕生した。
我が県も例外ではなく,市に編入されたり町村合併して別の名前になったところは数多くある。
隣県では,私の故地である山形県飽海郡平田町は,酒田市に併合された。
本当に由々しき事態である。
地名という文化遺産を,合理主義の謳い文句で簡単に消し去ったのだから・・・。
地域住民にとって,大きな恩恵がある筈も無く,住民税は上がる等,良いことなど何も無いのでは・・・とさえ思えてくる・・・。


・・・と,怒りを混ぜっ返すためにこの話題を出したわけではない。
律令時代の現宮城県は,多分以下の郡に分けられていたと思われる。
北から,栗原郡,本吉郡,登米郡,玉造郡,遠田郡,小田郡,加美郡,桃生郡,牡鹿郡,黒川郡,宮城郡,名取郡,柴田郡,亘理郡,刈田郡,伊具郡である。
そのうち栗原郡と登米郡,玉造郡,牡鹿郡,名取郡が消滅。
仙南の各市町村は,合併せず孤塁を守り抜いている。
かつて私が住んだ伊具郡丸森町は,隣接する角田市との合併を拒み,古代史に名を残す伊具十郎以来の歴史遺産を見事に守った。
そして,律令時代に小田郡という聞き慣れぬ郡が存在し,それはやがて多賀城を中心とした中央政権の東北支配に際して,遠田郡に併呑されていったことは,意外に知られていない。
私が小田郡なる名称を知ったのは,多分高校3年の時に,日本書紀の大仏建立の章を見た際に,陸奥国小田郡・・・というのを見た時が最初だったと思う。
そして,今回の踏査で,かつて旧遠田郡の南部を小田郡と呼び,古代政権下で遠田郡に併呑されたことを初めて知った。
この県に住む者として,迂闊以外の何者でもなく,平成の大合併に異を唱えるなら,これくらいのことはとっくに知っていなければならない・・・と,猛省しているところである。現在,村田,大河原,柴田の3つが合併して柴田市を形成する動きがあるそうだが,絶対止めて欲しいと思う。
既に新潟に新発田市があるので,語呂でも被ってしまう・・・。


涌谷の街は,県内の典型的な地方都市の様相で,栗駒山系に源を発する江合川沿いの段丘上に,駅を中心として石巻街道(R108)と佐沼街道(R346)の交差点付近に開けている。
北東は箟岳を中心とした丘陵が走り,三方には美田が広がる。
特に南は,江合川と鳴瀬川の間の低湿地が長い年月を掛けて開墾し,藩政時代は仙台藩主の肝入りで新田開発が行われ,仙台平野北部の所謂大崎平野は,全国有数の穀倉地帯となるに到った。
自然との共存・共生のため,多くの犠牲を払いながらも叡智を傾け,このような美田を公正の我々に残してくれた先人たちには,感謝以外の何も無い・・・。
藩政時代は支城が置かれたのは,やはり大崎と石巻を結ぶ要衝だったということだろうし,何よりも守護領国制の時代(鎌倉~室町)に築かれた城塞があったのだろう。
これについて述べてしまうと,またとんでもないことになりそうなので後に回すが,国内の大移動という点でも中世の開幕=武家政権の誕生は,日本史上の一大エポックであったことは疑いない。


そして,第一の目的である天平ろまん館は,街の北東の箟岳旧領の麓にあった。

朱塗りの太い柱が,平城宮の大極殿を想起させる。
砂金を産出したという黄金山神社の直ぐ隣に,20年程前に建てられたらしい。
今でも有料だが砂金採りが体験できるとのことで,建物の裏手でやっているらしい。
展示は,天井の高い贅沢な造りの展示室に分かれており,実に見やすい。
年代的に,多賀城市の東北歴史博物館と被るのは仕方がないであろう。
それにしても,例えば佐渡とか伊豆とか駿河梅ヶ島とか,江戸時代までの我が国は,世界有数の金の産出国であったことは疑いがない。
11世紀末から100年に亘って東北を支配し,完全な独立国であった平泉奥州藤原政権の背景にあったのが金と馬であり,それらによって中央政権が摂関家~院~平氏と替わっても,独立をうまく保つことが出来たのだろう・・・。
学芸員は丁度留守だったが(帰り際に会うことが出来た),窓口に書類を頼み,仕事は難なく終了。
隣の黄金山神社を訪れる。

延喜式かなんか分からんが,鬱蒼たる木立に囲まれた古社の雰囲気は格別であり,流れる小川で砂金が・・・というのも納得だった。

須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久
(すめろきの みよさかえんと あづまなる みちのくやまに くがねはなさく)
(天皇の 御代栄えんと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く)

なる大伴家持の歌は有名であるが,涌谷で金が産出されたのが天平21(749)年であるから,多分家持は越中の国司だったと思われる。
陸奥按察使持節征東将軍として,任地である陸奥国府(多賀城)に赴いたのは,それから30年を経てからだったと思われる。
既に時は桓武帝の代となっていた。
でもって,さらに迂闊極まりないことに,私は家持が陸奥按察使持節征東将軍のまま,延暦4(785)年10月に多賀城で没したことを知らなかった・・・。
てっきり平城京で没したと思っていたが,任地の多賀城で・・・というのが定説らしい。尤も,在地に下る国司ではなく,都に在って代理人を地方に遣わす遙任であり,平城京で欲したのでは・・・とも言われているらしい。
没後すぐに造営中の長岡京にて,藤原種継暗殺事件が起こり,連座を疑われた家持は官籍からも除名され,埋葬も許されず,子の永主は隠岐へ配流となつたというから気の毒な話だ。
尤も,長岡京造営計画がぽしゃり,平安京への遷都後の延暦25(806)年に名誉が回復され,官位は戻ったというが,その時点で永主が存命であったかどうかは定かではない・・・。


・・・ということで,たかだか半日(というか4時間)のことを書くのに,既にワープロ4ページ以上を費やしてしまった・・・。
明日は実家泊まりだから書けないだろうが,記憶が鮮明なうちに書き留めておきたいものだ・・・。


旧小田郡紀行-其乃壱「穀倉をゆく・・・」

2015年08月12日 22時15分52秒 | 旅行,および「鉄」

久々に東北道を北上。
・・・と言っても,家から5分の仙台宮城ICから2区間だけ乗って,大和ICで降りたのだが・・・。
途中,青葉区と泉区の境で豪雨に遭う。
数100m手前で,前線が通過して雨を降らせているのが見えた・・・。
ワイパーを最高速にしても,辛うじて前走車の尾灯が確認できる程度だったので,さすがに危険を感じて泉PA(ETC専用ICのところ)に非難。
二輪が続々と入ってきた。


10分程待ってリスタート。
避難の甲斐あって,前線は東に去り,雨はほぼ上がった。
大和ICで高速を降り,そのまま吉岡街道を東進する。
目的地は遠田郡涌谷町。
今まで通過はしたものの,下車して見たことは一切無いほぼ未知の地だ。
目的は2つ。
仕事絡みのフィールドワークと,天平ろまん館の学芸員に会って,仕事を依頼することだ。周知の通り,涌谷は古代の産金地として知られ,奈良の大仏の金が涌谷産であることは極めて有名である。
現地の者に頼んでも良い仕事ではあったのだが,責任者として一度も天平ろまん館や小金山神社を見たことがないというのも問題なので,ぜひこの目で・・・と思い立った。
だから,どうでも良いけど,今回は全くの奉仕である。


大郷の道の駅で土産の野菜を買い(トマト,茄子,胡瓜で320円),R346を鹿島台へ向かう。

周囲は一面の田んぼだ。
先週までの暑さのせいか,今年は稲穂の実りが良いのだろう。
既に黄金色に輝く田園風景が,遠く県境の船形連峰まで続く。
宮城県が全国有数の穀倉地帯であり,米の生産量で全国トップクラスなのも,この美田を見れば頷ける。
勿論,それは以前からそうであった訳ではなく,吉田川,鳴瀬川,江合川,迫川,そして北上川に挟まれた低湿地であった仙台平野北部は,古来幾度となく大きな洪水に悩まされてきた。
そして,それらの流れを変えるという大土木工事が藩政時代より幾度と為された。
近代では,品井沼の干拓に尽力した鹿島台の村長鎌田三之助の業績がよく知られている。
草鞋村長と呼ばれた三之助の銅像は,鹿島台の中心部に道路に面して立っていた。


鹿島台の中心部を抜けR346(通称佐沼街道)を北上して鳴瀬川を渡ったところが,旧南郷町である。
今は,南郷高校(かつては南郷農業)が辛うじてその名を留める。
平成の大合併により,県内北部は多くの市町村名が消滅したが,私に言わせるととんでもないことである。
地名の起源は,おそらく大和朝廷の時代に遡るだろうし(部,曲部とか),全国を五畿七道に分けて国名が付いたのは律令政権の時代だ。
つまり,地名とは1400年以上の歴史を有する文化遺産に匹敵する大事なものである筈だし,地形や氏姓等を伝承する往事を知る手掛かりともなる。
それを安直にも変えてしまうなどということが有って良いのだろうか・・・。
例えば,涌谷町に入る手前は美里町だが,これなど単なる語呂であり根拠のある地名ではない。
小牛田町と田尻町で何が悪いのか,行政上の理由など私には到底理解できん。
同様のことが,全国各地で行われているのが,実に堪えられない。
静岡県伊豆市と伊豆の国市だと・・・??
田方郡天城湯ヶ島町の方が,余程川端康成や井上靖の文学が香るではないか・・・。
山梨県南アルプス市だ?
愛知県に出来かけたという南セントレア市はぽしゃったのだろうか・・・。
とんでもない愚挙としか思われない。
勿論,上記のように私には理解の出来ない行政上の理由は大きいのだろう。
しかし,大多数の国民・市民がこれらに対して無関心であることの方が問題ではないだろうか・・・。
何の根拠もない地名を新しく付けて平気なのだから,信じられない。
その土地の方には申し訳ないが,山形県南陽市(赤湯で駄目なのか),東京都武蔵野市(吉祥寺の方が余程由緒がある)なんて地名は,必然性が何も無いとしか思われない(後者の場合は,武蔵野特有の雑木林が諸所に見られるから・・・という理由付けもあるかもしれないが・・・)


そんなことを憤りながら,出来川という小さな川を渡ると,涌谷の街に入る。
県内の未乗路線の1つである石巻線(小牛田-前谷地,石巻-女川間のみ乗車)の踏切を越えると,西側に涌谷駅の跨線橋が見えた。
如何にも良い意味での地方都市然とした駅を中心とする商店街を通り,江合川を渡るとかつて見た記憶のある城郭風の建物が目に入る。
涌谷城跡だが,鉄筋コンクリートの観光城だろう。
中は郷土館のようだが,帰途に寄ることにする。
涌谷城主について書き出すと,如何程の分量となるか全く見当が付かないので,次回に回そうと思うが,又してもほぼワープロ2ページを小一時間で書き殴ってしまった。
肝心要の天平ろまん館については,次回書けると良いのだが・・・。


關西紀行-其之廿六:お土産編弐-洛中編

2015年02月04日 22時44分32秒 | 旅行,および「鉄」

関西へ旅した帰途はいつも京都駅。
近鉄の下で,新幹線乗り場にも程近い近鉄名店街みやこみちが便利であることは以前も書きましたが,その中でも一番手前にあるHarvesなる近鉄系の店(近商ストア) によく行きます。
土産物コーナーと食料品コーナーがあるのですが,後者は地場産のお菓子やお総菜が割と安く手に入ります。
最終日の夕食は,よくここで求めますし,酒も置いています。 
200円しない蕎麦ぼうろとか,一袋100円前後の一味唐辛子(今回買うのを忘れた)とか,数が欲しいときに重宝しています。
・・・ということで,今から紹介したいと思います。

ご存じ京ばあむ。豆乳+抹茶が最高。

進々堂謹製黒糖ラスク。値段は内緒・・・(爆) 



關西紀行-其之廿伍:お土産編壱-南都編

2015年02月03日 20時16分56秒 | 旅行,および「鉄」

これこそ,画像が無いとどうにもならないのですが・・・。
奈良で求めたのは,以下の通りです。
丹波黒を奈良で買うというのも変だけど,お洒落なパッケージに惹かれて・・・。寛永堂は京都三条が本店だった・・・。
これは紛れもなく奈良だ。三笠だから・・・
シールの奈良の文字が怪しいけど,これも地場のもの。大仏殿の前の出店で買う。 


關西紀行-其之廿(最終章)「浄瑠璃寺の春・・・」

2015年01月29日 21時54分15秒 | 旅行,および「鉄」

州見台・梅美台という2つの団地を過ぎ,小高い丘に挟まれた県道44号線を東に向かう。
京都府なのに奈良市のベッドタウンとなっているというのも妙と云えば妙だが,行政区はともかく生活圏としては明らかに奈良市となるのだろう。
やがて県道752号線に入ると,道幅は狭くなり勾配も登りとなる。
浄瑠璃寺が近いことを思わせるが,2~3度,道端に鎌倉期の石仏群を垣間見ることができた。
山里の路傍の石仏とは,何とも言えない鄙びた味わいがあり,存在自体が嬉しい。
残念なことに,シャッターを切ってもうまく撮影できなかったのだが・・・。


そして勾配がピークになると,バスは浄瑠璃寺前の駐車場に滑り込んだ。
所要時間30分ちょい。
心地良い路線バスの旅であった。
完全に認識不足だったが,目の前にマイクロバスが停まっており,岩船寺行きだそうだ。
岩船寺は,ここより数キロメートル先の山寺で,半分ぐらいの乗客はそのまま乗り換えていた。
後で知ったのだが,帰途は浄瑠璃寺まで歩くらしい。
私が乗ったバスだと,11時前に岩船寺に着き2時間半で2つの寺を見て,1時奈良駅前発の折り返し便で奈良へ帰るというコースのようだ。


比較的長い浄瑠璃寺の参道を歩く。

2,3の土産物店と畑が有る他は何もなく,如何にも山里へ来たという雰囲気だ。
天気が上々なのも有難い。
やがて小さな,しかし味わいのある山門が見えてきた。

山門をくぐってゆっくり中へ入ると,別世界が広がっていた。
先ずは広々とした中央宝池を中核とする見事な庭園(史跡,特別名勝)が眼前に広がる。

本堂である阿弥陀堂(国宝)は,1047(永承2)年の創建と伝わり,何と1,000年近い歴史を持つらしい。
池の周囲をゆっくりと一周すると,小高い場所にこぢんまりとした中にも堂々とした構えの三重の塔(国宝)が鎮座し,その下辺りから対岸の阿弥陀堂を眺めるのがベストアングルと思われた。


せっかくなので,拝観料を払って阿弥陀堂に入る。
九体の阿弥陀如来像を安置するので,九体寺なる別名もあるらしいが,寺名の由来は,薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」から来るという。
北国人の私からすると,関西の日射しは十二分に明るく暖かいのであるが,阿弥陀堂内の空気は凛とした冷ややかさが有り,仏像の表情とも相俟って,一種独特の雰囲気を醸出していた。
誰もが一様に静かに見入っている。
そうするのが至って自然であるような空気感も,そこに存在していた。
今まで中宮寺の菩薩半跏思惟像や秋篠寺の伎芸天,そして新薬師寺の十二神将像に相対した際に感じたものと同種にして異なる雰囲気・・・とも言えた。
飽くことなく静かに見入った後,心静かに庭園へ戻った・・・。


 傍らに花さいている馬酔木(あしび)よりも低いくらいの門,誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木,秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉(たの)しいことのようにしている寺の娘,どこからかときどき啼なきごえの聞えてくる七面鳥,――そういう此のあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも,それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら,――其処にいかにも平和な,いかにも山間の春らしい,しかもその何処かにすこしく悲愴な懐古的気分を漂わせている。
 自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが,長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して,いまはそのわずかに残っているものも,そのもとの自然のうちに,そのものの一部に過ぎないかのように,融け込こんでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば,第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか? ――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりの考えであったろう),いまの自分にはなんとなく快い,なごやかな感じで同意せられる。……
 僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き,ひとりだけ先きに石段をあがり,小さな三重塔の下にたどりついて,そこの松林のなかから蓮池をへだてて,さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。

堀辰雄「大和路・信濃路」~浄瑠璃寺の春より,新潮文庫刊


凡百たる私が百万遍もの駄弁を弄するより,昭和の文豪に語っていただいた方が良いに決まっているのは自明の理なので,ここで引用させていただいた。
昨日も書いたが,堀辰雄の諸作品に填ったのは,20代前半の頃だったと思うが,「風立ちぬ」にしても「美しい村」にしても「楡の家・菜穂子」にしても,全編を貫く透徹した視線が何とも薄ら寒く,軽井沢や富士見高原のサナトリウムの印象とも相俟って,何とも暗い雰囲気を漂わせているのであるが,この文章は穏やかで明るい。
初版が昭和18(1943)年7月の刊行だそうだから,堀辰雄がここを訪れたのは戦中と云うことになる。
暗い世相など一切感じさせない静かな明るさと清澄さを感じさせるのは,戦局悪化前であることと,昭和19年秋より前の我が国は,空襲も散発的でありまだ平和であったと云うことだろうか・・・。
いずれにしても,若い頃からの宿願の1つをかなえることができた・・・。


以上で,今回の紀行は終わりとする。
お昼過ぎに奈良市内へ戻り,近鉄駅前から前々日と同じく春日大社表参道前までバスに乗り,飛火野の風物を愛でてから東大寺を訪れ,下の子と大仏殿を訪れた後,しかまろくんに鹿せんべいをあげるのに付き合い,ホテルに戻って荷物を取った後,3時近くのJR奈良線で京都へ向かい,新幹線を乗り継いで,年が変わる直前に慌ただしく来宅・・・というばたばたした日程だった・・・。


・・・ということで,相変わらずの竜頭蛇尾で私に相応しい終わり方となってしまいました。
紀行文の特徴というのは,訪れた地の風物の紹介や描写ではないかと思うのですが,そうした点では全く役に立たないものを書いてしまった・・・という印象は否めません・・・。
ま,私の書いたものですから,誰もそのようなことは期待しないでしょうが・・・。
あとは,拾遺集が書けたら良いですね。
全くたいしたものは食べていないのですが,グルメ編とかお土産編とか・・・。
SNSへの画像のうpも終わっていないし,結構やるべきことが残っていたりします。
そう言えば,今日で出立した日から丁度一ヶ月となりました・・・。


關西紀行-其之壱拾九「京都へ・・・?? 」

2015年01月28日 22時09分54秒 | 旅行,および「鉄」

この春,僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは,奈良へ著いたすぐそのあくる朝,途中の山道に咲いていた蒲公英や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって,なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で,二時間あまりも歩きつづけたのち,漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに,丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
 最初,僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端,その門の奥のほうの,一本の花ざかりの緋桃の木のうえに,突然なんだかはっとするようなもの,――ふいとそのあたりを翔け去さったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが,自分の目にはいって,おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。

         (中略)

阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。
 うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色(こんじき)の九体仏を一わたり見てしまうと,こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して,妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て,陽あたりのいい縁さきで,裏庭の方かなんぞを眺めながら,こんな会話をしあっている。
「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。
「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。

堀辰雄「大和路・信濃路」~浄瑠璃寺の春より,新潮文庫刊

高校1年の時,現代国語の教科書に載っていて,心に留めておいた一文です。
堀辰雄の浪漫主義文学に填ったのはもう少し後ですが,当時から旅行好きだった私の心の琴線に触れた作品でした。
以来幾星霜,一度は訪ねてみたいと思いつつも果たせずにおりました。
この「大和路・信濃路」には,斑鳩の中宮寺(法隆寺の隣)や奈良の秋篠寺等,私のお気に入りの寺が多く掲載されており,観光ガイド風読み物としても役に立つと思います。


2014年最後の日となった12月31日。
夕刻には奈良を出立して,京都から6時台の新幹線に乗るので,何処に行くか検討した結果,コストパフォーマンスに圧倒的に優れる浄瑠璃寺に決めました。
バス代は片道580円。
それを600円の1日乗車券で往復できる訳ですから,行かない手はありません。
1日目は奈良公園を中心とした古都奈良の代表的風物を見せて,2日目は日本の古代国家成立の地である飛鳥を見せるという目的は果たしたので,今度は私の行きたかったところへ行かせてくれ・・・ということで,午前中は浄瑠璃寺を往復して,午後はしかまろくんに鹿せんべいをあげることに味を占めた下の子の意見で,奈良公園へ行き,私が大仏を見せることに決まりました。
以下は,その紀行文(と言える代物かどうか・・・)となります。
文体も,敬体から平叙体に戻します。


ホテルのチェックアウトを済ませて,奈良交通の営業所でバスの1日乗車券を買う。

浄瑠璃寺へ行くバスは,JR駅の西口バスプールより出発する。

乗車客は僅か数人。
皆1日乗車券利用者だろう。
例によって,携帯の地図を開いて,首っ引きとなる。
便利な時代になったものだが,紙の地図が進行方向を向けて自在に回転できたのに対し,携帯の地図は,画面自動回転を切らないと,同じことができない。
昨年の旅行の際は,前の機種だったので1年半程使用したリチウムイオン電池が相当へたっており,半日使うと電力が1/3ぐらいに落ちたのだが(野球観戦の時なんか,最後まで保たなかった),今回はフル充電して持って歩いた補助電源を一度も使わずに済んだ。
機種変更は正解だった。
一度誤って,洗濯機の中で回転させてしまったのだが・・・。


バスは二条通とも言うべきR369を東進し,近鉄奈良駅のすぐ手前で左折し,通称やすらぎの道へ入る。
奈良育英高校を過ぎると,小高い丘を登るが,このあたりを佐保山(我が街にも同名の団地有り)とか佐保路とか言うらしい。
そしてその丘の頂点に位置するのが,陸上競技場と野球場を中心とする鴻池運動公園であり,その手前にある奈良YHには以前宿泊したことがある。
20年前のことだが,初めてバスカードというものを知ると同時に,翌年我が街でも採用となったことを思い出す。
その東側が,私が生まれて間もない頃にできた奈良ドリームランドである。
当時はディズニーランドを模したかなり本格的なテーマパーク(勿論そんな言葉は無い)
であり,幼少の私も行ってみたくてならなかった程である。
特に,モノレールという乗り物は,SF映画や冒険小説の中のもののようで,近未来的で滅法格好良く思われたものである。
奈良市の公売でも入札が無く,完全な廃墟と化しているらしいが,何とかならないものだろうか・・・。
そう言えば,我が街にも秋保温泉ドリームランドなる温泉レジャー施設が有って,小学校3年の時に遠足で行ったものだが,これはいつ無くなったのだろう・・・。
20代半ばに通ったときは既に廃墟だったし,私が学生だった頃に無くなってしまったのかも知れない。
船橋ヘルスセンターだの向ヶ丘遊園,小山遊園地に宝塚ファミリーランドだのも無いらしいし,こんなところにも世の無常というか,栄枯盛衰を感じてしまう・・・。

そして,その佐保山を越え,元明・元正両帝の御陵の間を抜けて下りになると,周囲は完全に新しい団地となり,奈良市のベッドタウンとなる。
住所は木津川市州見台。
木津川市-つまり奈良市ではなく,京都府である。
そう,本日の目的地である浄瑠璃寺の所在地は,京都府木津川市加茂町西小札場。
奈良ではなく,何と京都の寺へ向かっているのであった・・・。


・・・ということで,引用文が多いのですが,今日はここで終了です。
明日,浄瑠璃寺について書くことができると良いのですが・・・。


關西紀行-其之壱拾八「さらば飛鳥・・・」

2015年01月27日 22時20分39秒 | 旅行,および「鉄」

いよいよあと1時間ちょいで飛鳥駅まで戻って,自転車を返さなくてはならない時間帯になったが,しぶとく観光を続ける。
西日本は日没が遅いので,つい一週間前に冬至が終わったばかりのこの時期でも,周囲はかなり明るい。
近鉄に程近い欽明天皇陵と吉備姫王墓を目指す。
地図によると,猿石なるものがあるという。
猿の形をした石なのかどうか,全くの予備知識もないまま出掛けたので,全く迂闊なことに何も知らなかった・・・。


吉備姫王とは誰なのか全く分からなかったが,どうやら斉明天皇の母ということで,天智天皇の祖母,そして欽明天皇の義理の娘ということのようだ。
没年は大化の改新直前の643年ということは,山背大兄皇子と同年だが,関係は無いだろう・・・。
でもって,猿石を幾ら探しても見つからなかったのだが,相方が吉備姫王墓の陵内で見つけた。

猿に見えないことはない4体の石像だ。
渡来人だという説もあるらしい。
「女」,「山王権現」,「僧侶」,「男」という名称がついているが,田の中から発掘されて,明治期に現在の場所に置かれたという。


それにしても,なにゆえこのようなものが作られたのか今猶謎である。
飛鳥の石像物には謎が多すぎる・・・。


欽明天皇陵は上から俯瞰すると西向きの前方後円墳であることが分かる。

周囲の堀は,満々と水を湛える。

夕暮れ時,誰も居ないこの地を訪れるのもなかなか味わいがあるものである。
6世紀の人のようだが,随分と立派な陵墓で,仁徳・応神陵のような巨大さは無いものの,十二分に朝廷の威風は伝わる。
静かな初冬の夕暮れに,余り知識がないのが残念ではあるが,古代の飛鳥王朝に思いをはせることができたというのは,大きな収穫であるかも知れない・・・。


そして6時間にも及ぶ自転車の旅も終わりである。
自転車を返す際に店番のおばさんに,
「いや~,暖かくて快適でした」
と言ったら,今日は寒いと言われた。
やはり畿内と北日本では体感温度がまるっきり違うようである・・・。
急遽バスを取り止めて自転車にしたわけであるが,正解であった。
1時間に1本の亀バスでは,どうもならなかったであろう。
やはり飛鳥の旅は,レンタサイクルが便利だし,効率よく回れる。
高松塚古墳-亀石-橘寺-石舞台-川原寺跡-飛鳥板葺宮跡-酒船石-飛鳥寺-水落遺跡-甘樫の丘-鬼の爼-鬼の雪隠-猿石・吉備姫王墓-欽明天皇陵と,6時間でこれだけ回ったのだから,ほぼ飛鳥の要地を回りきったことになる。
しかも行動力にハンデのある家族連れでである。
あと見ていないのは,高松塚の南の文武天皇陵,キトラ古墳,そしてそのさせらに南の霊異記で知られる壺阪寺,石舞台から東に登った多武峰(とうのみね)にある談山神社,明日香村役場の東の山の中腹に有る岡寺,そしてその北東にある明日香資料館あたりだろう。東部は山なので,自転車はきついが,レンタカーでも借りれば何とかなりそうだ。
そして,南朝悲史に思いを馳せるなら,さらに南の吉野も訪れてみたいものである。
車が有れば,壺阪寺から鷲野へ抜けるルートを通れば効率よく回れそうだし,その奥の天川や十津川まで足を伸ばせるかもしれない・・・。


・・・ということで,飛鳥紀行は終わりとなり,あとは奈良市内へ近鉄を乗り継いで帰ったのであるが,教訓としては,やはり橿原神宮前駅を起点とするのが便利であることが改めて分かった。


唯,飛鳥駅前の方が適度に鄙びた感じがあり,自転車で走りやすかったので,飛鳥駅前で自転車を借りて,橿原神宮前で返すことができればベストだったかも知れない(開いていなかったので,飛鳥駅前に戻すしかなかったのだが)。
そうなると,猿石を先に行って,甘樫の丘から橿原神宮を目指すことになっただろう。
そして橿原神宮前を起点にするならば,藤原京跡へ行くのが便利とも言えよう・・・。


近鉄8000系の車内ではさすがにビールを飲むことができず,近鉄なら駅で降りて,結局桜通なる賑やかな商店街を歩いて三条通で夕食をとり,ようやくホテルに帰ってビールにありついて1日が終わったのであった。
あっという間の2日間,ベッドの寝心地は相変わらず良くなかったが,それ以外は実に快適なホテルであった・・・。


・・・ということで,ようやく2日目修了です。


關西紀行-其之壱拾七「歴史追想・・・ 」

2015年01月26日 21時36分02秒 | 旅行,および「鉄」

圧倒的な思いを残して,甘樫の丘を後にする。
途中別の登り口と,立派な駐車場を発見する。
20年前に行ったのは,一体どっちだったのだろう・・・。
展望台も南と北があるようで,私が登った北側が高さとしてはピークのようだ・・・。


後は,亀石のあった交差点まで戻り,明日香村立聖徳中学校(皆賢くなりそうな名前だ)の前を通って,鬼の俎と鬼の雪隠へ行く。

伝承では,この辺りの鬼が人間を捕らえ爼手で料理して,雪隠で用を足した・・・というものたが,どうやら元々は1つの古墳の横穴式の石室(雪隠)と蓋とも言うべきその上部だったらしい。
そう言われてみれば確かにそうだ。
道路を挟んで数10mしか離れていないので,雨で盛り土が流れ落ち,露出した蓋が出水か何かで流された・・・と考えるのが普通だろう。
蓋である爼の方が高い位置に有るのではあるが・・・。


緩やかな下り坂を西に向かう。
見事な夕陽が西の山の端,葛城・金剛山系の彼方に落ちつつあった。

葛城・金剛という名を聞いて,空母と戦艦,或いはエヴァの葛城ミサト嬢を思い出した方は,私と同種の人種である・・・(笑)。
その2つの間を抜けるのがR310であり,水越峠を越えると千早赤阪村となる。
つまり元弘年間,おそらく20数倍もの鎌倉幕府軍を相手に奮戦した楠木正成の籠もった赤坂城やその奥の千早城はあの裏となる。
かつて,飛鳥資料館や平城宮跡を見た学生時代の踏査実習に於いて,観心寺を訪れたことがあり,楠木正成所縁の寺と聞いて,ふ~んと思っていた無知な自分を恥じると同時に,何と勿体ないことをしたか・・・と,悔いが残ってならない・・・。
地図を見ながら旅行するという習慣がまだ無かったので,一体自分が何処に居るのかが全く分かっていなかったし,河内長野市のPL教団本部を見ても,何とも思わなかったくらいである。
今なら携帯の地図と首っ引きだったであろう・・・。
観心寺の奥には,正成の息子3人(正季,正家,正儀)が仕えた後村上天皇の陵墓もあり,ここでも何も知らなかった当時の自分を悔いることになる・・・。
鎌倉幕府の大軍を前にして,一歩も引かなかった正成の勇は正に壮として讃えるべきだし,そのゲリラ的な戦術眼にも見るべきものがあると思うのだが,それでいてあの人間の欲望や損得が露骨に渦巻く南北朝時代に於いて,その清々しい生き様は一体何だったのか,何らかの根拠や拠り所がが有ってのことなのか・・・と,ついつい思ってしまう・・・。
正成のような幕府御家人ではない地方(じかた)武士は,当時悪党と蔑まれていた。
そうした中であのような卓越した戦術眼を持つに至ったことと,当時としては極めて珍しい清廉潔白な志を保ち続けたことの根拠について,作家の海音寺潮五郎氏は「武将列伝」に於いて,朱子学の素養を持っていたからではないか・・・という説を展開しておられた。河内の片田舎の下級武士に過ぎなかった正成だが,実は教養人であった・・・というのがその主張であった・・・。
その真偽の程は,私の如きド素人が考えられる筈もないが,当時の被差別民であったの民等にも領主として平等に接していたという話も聞いたことがあるし,吉川英治の「私本太平記」に於いてもそのような庶民の思いや願いを大切にする領主である正成が描かれていた。
正成の思いは,紛れもなく寝食を共にし,時には共に土にまみれて農作業に力を尽くした河内の民に対してあったのであろう。
なればこそ,建武新政権と旧鎌倉御家人の代表でもある足利尊氏(当時は高氏か)の間で,さんざん心が揺れたことであろう・・・。
餅は餅屋というのに,軍師たる正成の絶妙な作戦を一切支持せず,自爆としか言いようのない兵庫出兵を強いた建武新政府の瓦解は,この時点で決定的となったと言える・・・。
後世の大坂の陣もそうだが,戦は武士に任せるべきであり,戦術・戦略を知らぬ者が口を出すとすべてが・・・という典型であり,正成や大坂城の将星たちこそ気の毒であった・・・。


・・・という余計なことを,ついつい考えつつペダルを漕ぐ。
要するに,史跡や寺社などというものはちょっと見に面白いものではなく,その背景にある歴史を調べて理解することによって生じる思い入れによって,初めて興味深い者となるのではないかと思う・・・。

金剛・葛城山系に沈む夕陽を見て,私が天険とも言うべき赤坂城・千早城に籠もって鎌倉幕府の大軍を相手に奮戦した楠木正成に感情移入したように,この飛鳥の里山を見て,かつて聖徳太子や蘇我氏が・・・と思うからこそ,史跡巡りは楽しさを増すと思う・・・。
似たような内容を,その晩宿に戻ってから書いたが,その12月30日付けで顔本にアップした文章の方が,時間が経っていないだけに,より端的に私の思いが表れているように思われる・・・。


・・・ということで,終わるかな・・・と思いきや,終わりませんでした。
飛鳥の風物もあと1つか2つ(3つかな・・・?)。
いよいよ,この日も終盤に差し掛かります・・・。


關西紀行-其之壱拾六「甘樫之丘・・・」

2015年01月25日 20時19分46秒 | 旅行,および「鉄」

感慨深かった飛鳥寺を後にする。
飛鳥寺の真西に位置する甘樫の丘へ行きたかったし,飛鳥資料館にも行きたかったのだが,年末年始は飛鳥資料館が休業中という懸念があったし(その通りだった),だいぶ日が西に傾いてきたので,飛鳥坐神社の前を藤原鎌足誕生の地とやらへ行こうとしたが,大型車両が道を塞いでいたので断念。
せっかくなので,甘樫の丘へ登る前に,水落遺跡なるものを見に行くことにした。
水落というから,今度こそ灌漑用の施設と思ったが,何と中大兄皇子が皇太子時代に考案したという漏刻の跡であった。

3年前に近江神宮を訪れているので,私としてはてっきり近江京に設けられたと思っていたし,確か天智帝最末期の671年に設置したと記憶していたのだが,それは覆されたということだろうか・・・。
発見されたのは,私が生まれてからということで,つい最近のことなので,今後また新たな事実が解明されることがあるやも知れない・・・。


そこから県道241号線に沿って走って,飛鳥川を渡ると甘樫の丘の駐車場に着いた。
20年前も多分ここから登ったと思われたが,全く記憶が無かったので,別の登り口から入ったのかも知れない。
それにしても記憶が無いというのは,一体何だったのだろう・・・。
自転車を駐輪スペースに置き,整備された道を登る。

さすがに終日自転車を漕いでいたので,疲労が下半身に来ており,しんどかったが何とか登った。
途中,志貴皇子の歌碑が有ったので,これ幸いと足を止めた。

天智帝の第七皇子だったので,皇位継承には全く無縁で和歌をよく詠み,万葉集にも秀歌を残した人物だが,この甘樫の丘への道にあった古歌は,飛鳥から北方の藤原京への遷都に際して,惜別の情を詠んだものだったが,私としてはやはり中学生の時に国語の時間で習った以下の歌がお気に入りだ。

「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」

水の音と苔蒸す岩,その上に生える早蕨・・・。
鮮やかな幾種類もの緑と澄んだ水の色・・・。
見事な色彩感を詠い上げることで,春の訪れを賛美するという爽やかな臭いまで感じられる万葉集ならではの秀歌である・・・。


どうやら今回登ったのは,北側の展望台だったようで,大和三山を実によく望むことができた。

近年の調査で,この甘樫の丘には蘇我氏の屋敷があったという。
以前,このことに関して8年前に雑文を書いたことがあったが,今こうして改めて現地に立ってみると,感慨が違う・・・。
「日本書紀」によると,蘇我蝦夷がここに屋敷を構えたのが644年のことという。
前年に山背大兄皇子一族を滅ぼしているので,蘇我氏としては我が世の春を言祝いだのかもしれないが,それも1年と続かなかったということだろうか・・・。


改めて北を見ると,大和三山がはっきり見えた。
特に一番遠い北側の耳成山が形も良く,くっきり見えた。


北西には,麓に神武天皇と懿徳天皇の御陵のある畝傍山がマンション街の向こうに霞んで見えた。

そして,北東は持統天皇の歌でも知られる天香具山である。

その三山を結ぶ中央に藤原京があり,7世紀末から8世紀序盤にかけて殷賑を極めた。
そう考えると,1300年もの歴史があっという間の出来事のように思われてならない。


東側を眺めると,飛鳥寺がはっきり見えた。
そして蘇我入鹿の首塚も視認された。

入鹿もこの丘の頂に立ち,余りにも短かった我が世の春を謳歌したのであろうか・・・。
飛鳥の中央部に位置し,ほぼ全容を見下ろすことができるこの地こそ,覇者の住まいに相応しいと考えたのだろう・・・。
古代律令制中央集権国家樹立の過程で滅びていった蘇我氏一族に対して,哀惜の念を禁じ得ない・・・。


今日は,短くここまでにします。
画像が多いので,結構スペースは潰れたと思いますし,甘樫の丘については,かつての拙文のリンクを辿っていただけると有難いです。
さて,飛鳥の見学物件はあと3件。
この時点で時刻は4時まで20分程度。
5時まで自転車を返すために飛鳥駅前に戻らなくてはなりませんので,あと3つを見るというのは結構大変だったりします・・・。


關西紀行-其之壱拾伍「飛鳥寺・・・ 」

2015年01月24日 23時04分55秒 | 旅行,および「鉄」

次なる目的地は,飛鳥寺
蘇我氏の氏寺にして,我が国最古の寺院である。
正式には方興寺と言い,斑鳩寺と呼ばれた法隆寺に対して飛鳥寺と呼ばれた・・・と,これも高校の教科書に書いてあった受験知識である。
また,元興寺とも呼ばれ,平城遷都の際に建材は奈良に運ばれそのまま使用された。
その元興寺を5年前に訪れたが,千体仏のような石仏がずらりと並ぶ様は一種独特の雰囲気を醸し出しており,本堂の造りもかなりの年代を感じさせるものであった。


小ぶりだが,なかなかの味わいのある山門を入ると,放生があり鐘楼,思惟殿,そして飛鳥大仏を納める本堂がある。

何でも604年から翌年にかけて,渡来人である鞍作止利(くらつくりのとり-止利仏師)の作だそうで,これは607年創建の法隆寺よりも早い。
法隆寺の創建と遣隋使の派遣が同じく607年と記憶しているから,正規の遣隋使派遣以前から大陸との交流があったということになる。
尤も,神功皇后三韓支配やそれこそ卑弥呼の邪馬台国の記載された「魏志倭人伝」,「漢書地理誌」,「後漢書東夷伝」,「宋書倭国伝」といった中国の書物に,「其楽浪海中に倭人あり」とか記されていたので,大和朝廷以前から大陸との交流があったことは事実だろうから,一向に不思議ではないが・・・。
それにしても,受験の知識など,終わってしまえば全く役に立たないと思ってきたが,少なくても私にとっては,こうした寺社史跡巡りの際に時折役に立っている。
ま,その他の知識が役に立っているとは思われないのであるが,やはり高校の日本史は必修であるべきと思う。
観心寺如意輪観音像(受験勉強の3~4年後に行った時,何も考えなかったのが惜しいというか,残念で成らないのだが・・・)とか中宮寺菩薩半跏思惟像といった仏像を丸暗記したのもそうだし,京都五山だの鎌倉五山といった寺も丸暗記した(仙台北山五山は後で知った)。
上述の古代中国王朝の史書の名と,倭国や倭人が載っている文書の丸暗記も同様。
神仏習合の神宮寺が平安初期に生まれ,明治初期の廃仏毀釈によって完全な神仏分離が成されたことや,再び仏像のことでは寄せ木造りだの一木造りだのを覚えたのも受験の知識である。
受験体制を認めたり擁護したりするつもりは毛頭も無いが,少なくても自分の好きな教科に限っては,詰め込んだ知識がこのように何らかの形で役に立つこともあるのである。


飛鳥寺の境内を西へ抜ける。

安居院という別号が西門の柱に有ったが,安居というと大阪の天王寺にある安居神社が思い出される。
天王寺動物園の北で,四天王寺の西,松井町筋からマンションと3階建ての雑居ビルの間に鳥居があり,そこを東に入ると木立の中が境内となるようだが(地図とストリートビューで見ただけで行ったことはない・・・泣),大坂夏の陣における真田幸村の終焉の地である。
越前藩士西尾仁左衛門に討たれたとなっているが,真相は分からない。
西尾はその日の最高殊勲を挙げた訳だが,家康に聞かれた際に,さすが真田は 名うての剛の者で,何度も槍を合わせた後,ようやく討ち取ったと報告したそうだが,家康はそれが粉飾であることを見抜き,朝から数度に亘って突撃を繰り返した真田に槍を合わせる力は残っていなかった筈・・・と言ったという・・・。
真田幸村には7人だかの影武者がおり(忍者,所謂真田草の者だろう),茶臼山の家康本陣に突入した際,変幻自在の動きを見せたというし,紀州の浅野(豊臣家恩顧の大名の1つ)が裏切ったという流言も流して,家康本陣を大混乱に陥らせたという。
また,大坂城には真田の抜け穴が残っており(途中で塞がっているいるらしいが),それを使って秀頼を燃え落ちる大坂城から脱出させ,自身もそのまま鹿児島へ行った・・・という噂がまことしやかに流れたともいう・・・。
研究者や学者はいざ知らず,私のような素人にとっての歴史というものは,真偽云々は二の次三の次であり,浪漫をかき立てるものでなくてはならないのである。
故に,邪馬台国が九州であろうと畿内であろうと,真偽は問題にならない。
このことは,学生時代に教員志望の友人と議論を交わして物別れに終わったのであるが,今でも持論は変わらない。
嘘か本当か・・・と思って史跡を見ても味気ないことこの上ないのではないだろうか・・・。
もしかすると,ここにあの人物が・・・と思うからこそわくわくするのであり,学説の真偽や難しい論争は,学者や大学の先生方に任せておいて,せいぜい学問の厳しさとかやってもらうことにして,私のような素人は,素人なりの目線で歴史を楽しむようにしたいものだ・・・。
真贋のみで歴史を見てしまうのならば,歴史小説なんて意味のないものとなってしまうのだし・・・。


・・・と,又しても余計なことで行を費やした。
唯,そうした視点で見ないと,この飛鳥寺の西裏に静かにただずむ蘇我入鹿の首塚など,何の意味もないものとなってしまうのではないだろうか・・・。

飛鳥板葺宮で惨殺された入鹿の首が,ここまで飛んできて力尽きたという。
鎌倉期に建てられたと思われる五輪の塔がそれであり,蘇我氏の居館があったとされる甘樫の丘を背景に,西に傾きつつある日射しの中,静かに私の前に姿を現した。
表示が無ければ見落としてしまいそうな場所でもある。
その前は西門跡の遺跡で,当時周囲一体の大寺であったことが伺われる。
そう言えば,江戸初期に住吉如慶・具慶父子によって描かれたという談山神社所蔵「多武峰縁起絵巻」では,確かに入鹿の首が飛んでいる。
唯,どう見ても平安時代の装束で描かれているので,考証的には??であるが(皇極女帝が十二単で,男は衣冠束帯)・・・。
稲目-馬子-蝦夷-入鹿と続いた蘇我氏であるが,これらの諱(いみな)はどうも蘇我氏を朝敵とされた貶めるために,後世(というか7世紀後半)に付けられた名ではないかと思われる。
蝦夷なんて,知っての通り我々東北人の先祖に対して,中央政権が勝手に北方の蛮族という意味で付けた名前のことである(同様に,南方の蛮族を熊襲と隼人と呼んだ)。
真贋で歴史を語ることもだが,それ以上に単純極まりない善悪二局で歴史を論じることこそナンセンスであろう。
蘇我氏一族は代々開明的な私考を持っており,大陸の文物や仏教の受容に対しても積極的であったと思われる。
先述の通り,蘇我蝦夷の時代には第一回遣唐使の派遣も為されており,やがて来るべき中央集権的律令国家の樹立に一役も二役も買ったと想像される。
故に,単純極まりない善悪二極で歴史をカテゴライズしてしまうと,完全に偏った視点しか持てなくなる危険性があると思う。
政権交代期に折れる権力抗争は歴史の常であるから,双方の立場に立った柔軟な見方を身に付けるべきであろう・・・。


・・・ということで,今日は2ページ半ほど書き殴ってしまいました。
飛鳥寺も,飛鳥の歴史散歩に於いては必見・必須であると断言しましょう・・・。
明日は書けるかな・・・??


關西紀行-其之壱拾四「遷都之話・・・」

2015年01月23日 23時30分36秒 | 旅行,および「鉄」

高松塚~亀石~橘寺~石舞台~川原寺跡~板葺宮跡と,ハイペースで(それでいて各見学箇所では十分時間を取って)進んできた飛鳥の旅も中盤を迎える。
次なる目的地は,酒船石である。
こればかりは,画像を見ていただかないと分からないのであるが,とにかく誰が何のために石を加工したのか謎である。

文字通り酒造に使ったのか,灌漑用なのか,庭園の施設の1つなのか不明のままらしい。そして,その酒船石は,竹林の中を登った小高い丘の途中に位置するのであるが,何とつい最近(私にとって80年代以降は最近である)の2000年,その麓に砂岩でできた湧水設備と,それに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見された。

これら2つは水槽のような形でつながっていて,水を溜めたのではないかと推定される。周囲には石を並べた溝や石段があり,全体を囲むように石垣や石敷が綺麗に成形されていた。
一体誰が何のために作ったのか全く分からない。
一説には,斉明帝(皇極帝重祚。天智帝母)の両槻宮(ふたつきのみや)の関連施設ではとの説もあるらしいが,真相はどうなのだろう・・・。
とにかく,天皇が代わる度に,或いは天変地異が頻発したり疫病(主に天然痘)が流行したりすると,遷都が繰り返された時代なので,あちこちにこうした遺跡があっても,至極当然ということなのだろう。


それにしても,古代に於いて遷都は当たり前のことだったのだろう。
斑鳩宮とか難波宮とか大津京(近江京)などというのは,かなりのメジャー級であり,飛鳥だけでも,今まで私が書いただけでも板葺宮,両槻宮,浄御原宮・・・とある。
今は寂れてしまったかつての都を偲ぶ古歌も有ったりするので,やはり古代-遷都というイメージが強い。
例えば,平城京に都が移ってからは,平安京遷都まで固定されたイメージはあるが(長岡京というのも有ったが),実はこの奈良時代にも遷都は行われているのである。
奈良時代を代表する聖武天皇の御代がまさにそうだった。
737(天平9)年,疫病の流行により,聖武帝の后であった光明子の兄である藤原四兄弟(武智麻呂,房前,宇合,麻呂。不比等の子,鎌足孫)が天然痘によって相次いで死没。
その3年後には藤原広嗣の乱が太宰府を中心に起こり,世は混沌としていた(これらの件により,藤原氏の勢力は一時的に翳りを見せ,橘諸兄や吉備真備が権勢を得た)。
広嗣の乱が鎮圧された同年12月15日,山背国相良郡(現京都府木津川市加茂地区)の恭仁京(くにきょう)に遷都。
太極殿が平城京から移築されたという。
しかし,内裏の完成を見ないうちに4年後に難波京へ遷都。
さらには翌年,近江国紫香楽宮(近江国甲賀郡。現甲賀市。信楽焼の狸で有名)に遷都。
・・・といった具合である。
これは,受験勉強をしているときに,高校の日本史の教科書に載っていたもので,それでこんなことを今でも記憶しているという訳である。
結局,半年足らずで平城京へ戻ることになるのであるが,如何に当時の朝廷が天変地異や疫病を恐れ,兵乱を忌み嫌ったがが伺える。
民衆にとっては,堪ったものではなかっただろうが・・・。
ま,言ってしまえば,710年の「何と(南都とかけた訳ではあるまい)綺麗な平城京」から,794年の「泣くよ鶯平安遷都」までの84年間を奈良時代と呼ぶが,常に奈良に都が有った訳ではなく,遷都の繰り返しであったということだ。
因みに,上述の長岡京は,784年(延暦3年)から794年(同13年)まで山城国乙訓郡(現京都府向日市,長岡京市,京都市西京区)に存在した。
つまり奈良時代とは細かく言えば,710年~40年,745年~784年ということになるのではないだろうか・・・。
さらに無駄な蘊蓄を言えば,平安千年の都というが(794年~1868年),治承4(1180)年の6月から11月にかけて,摂津国福原京(現兵庫県神戸市中央区~兵庫区北部)に遷都されている。
ああ,あのことか・・・と思い出された方も居られると思うが,平清盛による福原遷都である。
その間の8月には,東国での頼朝の挙兵があり,平氏政権がぐらついてきた時でもあり,半年足らずで平安京へ還幸となった訳であるが,平安京も半年間の空白があったことになる。


遷都の話のついでに言うが,2010年の平城京1300周年のキャラクターは,ご存じせんとくんであった。
ま,あまりにも・・・(中略)・・・であったため,取って代わる愛らしいキャラクターとしてしかまろくんができたらしい・・・。
上の子が,この旅行直前に薬師寺でそんなことを聞いてきたそうだ(薬師寺の修学旅行生への笑える法話は,かつて私が聞いた故高田好胤氏以来の伝統か・・・)。
そんでもって,そのしかまろくんも,くまもんやひこにゃんには敵わないそうな・・・。


・・・ということで,今回も余計なことを述べて終わってしまいました。
しかも,最後は脱力根多だし・・・。
明日は果たして書けるでしょうか・・・。
まだ飛鳥の見学物件は5つ程有ります・・・。


關西紀行-其之壱拾参「乙巳の変 」

2015年01月22日 22時35分46秒 | 旅行,および「鉄」

石舞台を後に,元来た道を下る。
次なる目的地は,大化の改新の舞台とも言われる飛鳥板葺宮跡であるが,心を残してきた川原寺跡にどうしても行きたくて,橘寺の下まで戻る。
7世紀当時は飛鳥寺(法興寺),薬師寺,大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院だが,平安時代最末期というか鎌倉開府の前年である1191(建久2)年の失火によって消失。
以後衰退という経緯をたどった。

その遺構は,往年の大寺の面影を宿すに十分であり,今を去る1400年近い昔に,大寺院が営まれたことを雄弁に物語っていた。
中金堂跡付近に建つ弘福寺は,川原寺の法灯を継ぐ寺院であり,重要文化財に指定された仏像も有るらしい・・・。


川原寺から明日香村役場の前を通り,飛鳥郵便局の角を北に回ると,伝飛鳥板葺宮跡はすぐだった。

・・・というか,遺構は二カ所に分けられており,地図ではより規模の大きい北の方が,飛鳥浄御原宮跡とあった。

これは間違いではと思ったが,近年の発掘調査により,板葺宮の後に浄御原宮を造営したのでは・・・ということらしい。
ではその前にあったと思われる飛鳥岡本宮もその付近にあったらしい(明日香村岡)。
これらを総称して飛鳥宮と言うことになるようだが,改新以降の時代,天皇が代わる度に遷都が行われるような時代だったので,いろいろと近場ながら替わったのだろう。
いずれにしても,飛鳥は当時の朝廷の中心であったわけであるが,天智帝が遠く離れた近江京(大津市)を造営した理由は何だったのだろう・・・。
明日香の地に渦巻く諸豪族たちの謀略や権勢を断ち切るためと考えるのが最有力であろうが,数年で灰燼と帰した大津京(近江京,滋賀京)の造営は並大抵のことではなかったと思われる。
人身の収攬を考えた天武帝は,兄である天智帝と同じ轍は踏まない・・・という思いから,父祖の地とも言うべき飛鳥を拠点にしたと思われる。
そして持統天皇の時代には,広大な藤原京が明日香宮北に営まれる。
大和三山の中央部に位置することから,大和三山のピラミッドパワーだの,UFOが発着しただのと聞いた記憶がある。
いずれにしても,それぞれの飛鳥宮は,藤原京への移行期の所産であり,規模的にも大きくないのが特徴とも言えるようだ。
但し,ここで所謂乙巳の変(いっしのへん)があり,皇極天皇(女帝。天智帝母。重祚して斉明帝)の眼前にて,大臣蘇我入鹿が誅された・・・と思うと,ある種の感慨があった・・・。
しかも,三韓(馬韓,弁韓,辰韓というより百済,新羅,高句麗というべきか)の朝貢の使者を迎える儀式の最中であったというから,当事者である中大兄皇子と中臣鎌子(後の鎌足)以外の者は,仰天したことだろう・・・(あと1人,蘇我氏の長老であり,中大兄の舅でもあった蘇我倉山田石川麻呂は知っていたか・・・)。
蘇我氏の専制を快く思わなかった中臣鎌子は,最初は軽皇子(中大兄叔父。皇極帝弟。後の孝徳帝)を担ごうとしていたが,器量に物足りなさを感じて中大兄に近付き,元興寺(飛鳥寺)打毬に於いて,中大兄の脱げた皮鞋を鎌子が拾ったことによりこの2人が知り合ったという話が伝わる。
クーデター決行の当日,645年6月12日,中大兄は長槍を,鎌子は弓矢を携えて宮中に潜み,上記蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読んでいる最中に中大兄の命を受けた佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が斬り込んで入鹿を討つという手筈だったらしい。
ところが,この2人が緊張の余り食事ものどを通らぬ有様だったらしく(丸呑みしたとの記述もある),また大臣入鹿の威に圧されたのか,なかなか踏み込めなかったという。
上表文を読む石川麻呂の声も震え,用心深い入鹿は不審に思って問い糺したと言われるが,天皇の御前故に緊張して・・・と苦し紛れに言い訳したともされる。
業を煮やした中大兄は,自ら飛び出すとようやく子麻呂と稚犬養網田も躍り込んで,入鹿に斬りつけた。
入鹿は,自分に何の咎が・・・と,天皇に訴えたというが,中大兄の天皇を蔑ろにして専横を恣にし,皇位を狙った・・という言葉に,皇極帝は奥へ去り,入鹿は子麻呂と稚犬養網田によって惨殺された・・・。
翌13日,中大兄は兵を進め,入鹿の父蝦夷の館を包囲。
蝦夷は自害して果て,蘇我氏の本流は滅亡する。
翌14日,皇極帝は退位して,弟の軽皇子に帝位を譲る(孝徳天皇)。
中大兄は皇太子となり,阿倍内麻呂が左大臣,石川麻呂が右大臣,鎌子が内臣となり,新しい政権が発足した。
この乙巳の変に始まる3日間の一連の出来事を総称して,大化の改新と呼ぶことになるのは,ずっと後世のことだろう・・・。
そして,それによって聖徳太子が掲げた仏法を根幹とする中央集権的律令国家へと近付いた・・・と,受験日本史では理解してきたのだが,果たして蘇我氏の専制が単なる独裁政権だったのかは甚だ疑問である。
昨日述べたように,聖徳太子と蘇我馬子没後の630年には第1回の遣唐使が派遣されており,唐の文物が多く入ってきたのもこの時代であった。

中大兄と鎌子が私淑したという南淵請安は,第1回遣隋使として隋に渡り,隋から唐への政権交代(というより中国王朝の場合は,完全に民族対立と殲滅だが)をつぶさに見て帰国している。
中大兄と鎌子の国家構想には,間違い無く大陸の律令制国家の理念が生かされていたことと想像するには難くない。
そしてそれらの知識や思潮は,皮肉なことに蘇我氏が推し進めた施策の産物であった訳である・・・。


・・・ということで,今日もワープロ2ページです。
大暴走ではありますが,所謂大化の改新に対する私考を書かせていただきました。
勿論,旅行ガイドにはなりませんし,史論にも到底なっていませんね・・・。
明日は書けるかどうか・・・。
・・・というか,この日飛鳥で見聞したことは,あまりにも多岐に亘っています・・・。
果たして書ききることができるかどうか・・・。 


關西紀行-其之壱拾弐「高松塚,橘寺,石舞台 ・・・」

2015年01月21日 22時27分24秒 | 旅行,および「鉄」

自転車を4台連ねて颯爽と発進・・・の筈が,10数年ぶりで乗ったという相方と,なかなか慣れない下の子がハンデとなり,緩いスピードでの走行を余儀なくされる。

取り敢えず地図を見ながら高松塚古墳を目指す。
昭和47(1972)年に大規模な壁画が見つかったところであり,20年以上前に高松塚壁画館へは一度行った。
高松塚古墳も壁画館も飛鳥歴史公園の中にあり,自転車道が整備されていて,直接行くことができる。

残念ながら壁画館は休みだったが,埋め戻された高松塚古墳の墳丘は,眼前で見ることができ,二段式の円墳であることも確認できた。
発掘されて埋め戻された壁画(国宝)に描かれた人物の服装(切手にあった)からも,7~8世紀という古墳時代最末期のものであることが伺えるが,3~4世紀頃の巨大古墳に比して小規模なのは,実用性・実利性の問題なのだろう。
大規模な土木灌漑事業は,古代律令国家にとっては大きなリスクであり,民衆にとってはさらに大変であったことだろう・・・。


公園の出口へ戻り,今度は伝蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳を目指す。
途中,天武・持統陵をかすめるように走る。

ずっと後世の話だが,米沢の町割りをした上杉家の家老,直江山城守兼続の墓が,奥方と一緒の所謂比翼塚であり,生前の仲睦まじさが伺えるのだが,この天武・持統両帝の墳墓も同様なのだろうか・・・。
苦楽を共にして,手を携えて政権を握った夫婦に相応しいのかもしれない・・・。


文字通り亀の形をした亀石(この後,酒船石,鬼の雪隠・鬼の俎板,猿石といった石を見ることになるが,どれもどうしてこういう形なのか正確なことは不明)の前で,相方と下の子を待つ。

隣に無人販売所があり,地場産品をいろいろと売っていた。

旅行中でなければ買ったのだが・・・。
丁度正午を回った時間帯だったと思うが,自転車を漕いだことと折からの好天で,大汗をかくほど暑い。
半袖Tシャツの上に長袖Tシャツを着て,その上にフリースを着て,さらにはライトダウンで完全防寒装備で望んだのだが,関西は暖かい。
フリースを脱いでリュックに詰めたが,全く寒くなく,結局丸1日3枚着ただけで過ごすことになった・・・。


石舞台へ向かい途中,聖徳太子生誕の地という橘寺に寄る。

小高い丘の中腹に建てられた寺は,ロケーションの良さと好天もあって至極魅力的に見えたが,先を急ぐことと拝観が有料ということもあって,門前をスルーパスする。
橘というと,第30代敏達天皇を祖とする橘氏が有名であり,奈良時代は一時藤原氏をしのぐ精力を誇ったのであるが,この橘寺とどのような関係があるのか,浅学ながら不明である。
藤原氏の発祥地が謎に包まれた藤原京(大和三山のトライアングル中央)だとすると(初代鎌足は,大和政権下で神事を司る中臣氏を名乗っていたが),橘氏の発祥はこの辺りなのだろうか・・・。
眼下には川原寺跡が広がっており,興趣をそそられたが,とにかく一路石舞台を目指した。


飛鳥川に沿った緩い登りの道は,変速器無しのママチャリではしんどかったが,何とか登り切って後続を待ち,20年ぶりの石舞台古墳を見学した(記憶は全くなし)。

この巨石を積み上げた古代人の技術力の凄さは,想像するしかないのであるが,元々は盛り土されたものが流れて,石室が露出したと思われる。
地下の石室まで降りてみたが,とにかく天井が高かった。

葬られたのが蘇我馬子という説が有力なのは,「日本書紀」に626年(まだ年号は無い),
大臣が薨去したという記述があるからだそうで,この年に亡くなった大臣とは馬子のことを示しているという。
馬子と共に国家事業を進めた聖徳太子は,確かその4年前に亡くなっているので,馬子は長命だったのだろう・・・。
一説には,聖徳太子は馬子に謀殺された・・・などと言われたのを聞いたことがあるが,聖徳太子自身が蘇我氏と極めて密接な関係にあり,仏教政策を推進するに当たって,物部氏を滅ぼした訳であるから,蘇我氏にとって大切な旗印であったに違いない。
もし即位すれば,馬子は天皇の外祖父になる可能性もあったわけだし・・・。
聖徳太子没後,すぐに蘇我氏の先制時代が訪れたように思われがちだが,馬子の後を継いだ蝦夷・入鹿父子が,太子の皇子である山背大兄皇子を滅ぼしたのは643年,つまり大化の改新の僅か2年前となる。
つまり蘇我氏の完全な天下は2年足らずということにもなる。
山背大兄皇子の母は,馬子の子である刀自古郎女(とじこのいらつめ)と想像されるので,蘇我蝦夷とは従兄弟ということになる。
蝦夷は,推古帝崩御後の皇位について山背大兄皇子には自重するように働きかけた結果,敏達天皇の孫である田村皇子が舒明天皇となった経緯があり,関係が悪化したのは入鹿の代になってからと思われる。
一説には,入鹿が山背大兄皇子を討ったことで,父である蝦夷は激怒したともいう・・・。そして,蘇我氏の邸宅は,飛鳥を一望する甘樫の丘にあったとされるが,この舒明天皇の時代(930年)には第一回の遣唐使が送られているのである。
23年前に遣隋使であった小野妹子とはえらく扱いが違うが,犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)なる人物がそれであり,最後の遣隋使も務めた(これらのことは高校3年の時,日本史の教科書で知った)。
・・・と思いつくままに書いたが,蘇我氏という氏族のことをちょっと考えただけで,いろいろと興味が湧いてくる。
極悪人のように言われる蘇我蝦夷・入鹿父子であるが,本当にそうだったのかどうかは問題ではないだろう。
歴史上には,善悪だけでは判断できないことが多いのだから・・・。


・・・ということで,古代史は全くの範疇外ながらワープロ2ページを書き殴りました・・・。
明日は書けるのでしょうか・・・。


關西紀行-其之壱拾壱「飛鳥へ・・・」

2015年01月20日 21時58分11秒 | 旅行,および「鉄」

大和郡山の次の駅は筒井だったが,確か通過してその次の平端に停まったはずだ。
ここは天理線との分岐となる。
学生時代の実習の際に,天理大学の博物館を見たのだが,とにかくその収蔵品(世界規模の民俗資料)に驚いた記憶がある。
そして,天理市自体が,我が国でも珍しい宗教都市であり,そろいの黒い法被を着た老若男女を問わぬ信徒の列に驚いたものだった・・・。
以後,天理は私にとって縁のない地域となっているが,奈良を大きく分けると,奈良市街から西の京を含む旧平城京地域,法隆寺を中心とした斑鳩地域,そして今から向かう大和三山と明日香村から構成される飛鳥地域,そしてさらに南西の吉野・十津川地域・・・といった具合になると思う。
あと加えるとしたら,東部の初瀬・室生地域と,この天理市と山の辺の道を中心とした地域だろうか・・・。
天理の特徴は,宗教都市以外だと何と言っても古墳と寺社の山の辺の道だろう。
春日大社や飛火野の前の通りである県道80号線から188号線を南下すると良いようだ。
車がないと無理なので,ちょっときついが,行ってみたいところである・・・。
そして田原本を経て耳成山の麓の大和八木。
伊丹に降りて,エアポートリムジン(と言ってもバスだが)で難波へ行き,近鉄特急でこの大和八木まで来て貸し切りバスに・・・というプランを,職場の旅行で実行したことがあった。
その後,室生寺と長谷寺を見て長谷寺温泉に泊まるという,今となっては貴重な体験をしたものだった・・・。
そして,次の停車駅は畝傍御陵前。
これも大和三山の1つである畝傍山の麓には,何と第一代の神武天皇の御陵がある。
勿論,地上から見ても林にしか見えないだろうし,近鉄の車窓からは確認できなかった・・・。


橿原神宮前駅は,飛鳥地方最大の駅にして駅前も賑やかである。
ここで,最初の失敗に気付く。
橿原線はここが終点であり,2つ先の飛鳥に行くには,吉野線に乗り換えなくてはならない。
その吉野線の本数が極めて少ないときている。
つまり飛鳥の旅は,飛鳥駅が起点ではなく,橿原神宮前駅を起点とすべきであった。
実はこれには,20年前の飛鳥行の際に気付いていたのだが,今回すっかり忘れていたが故だった。
ま,20年前のことだから,忘れていても仕方ないとは思うのだが・・・。


で,仕方なく吉野線のホームに移動したのだが,このホーム間に多機能トイレがあり,コンビニ(ファミマ)と花屋があり,本屋まであった。
何という駅構内だ・・・。
なので,家族がコンビニで飲料を補充しているときに,私は用を足してきた。
何気なく改札を見ると,家族連れが駅員さんに中のトイレを貸してくれるよう頼んでおり,駅員さんは快く改札を通した。
これには驚いた。
随分前,飲んで帰る途中に東北本線の某駅で電車を待っている最中に急にもよおしたので,今回とは逆に駅舎の外にあるトイレを貸してくれるように改札口の駅員に頼んだが,営業キロ100kmまでは途中下車前途無効ということで,蕩々と説明されて(そんなこと誰でも知っているし,以前は50kmまでだった)にべもなく断られた(10数分我慢して,車内で用を足せたから良かったが・・・)。
ま,それが理屈だろうが,さすがに関西の私鉄は違う。
近鉄も京阪も親切・・・。
今回も改めて感じた。


ようやく来た吉野線の電車に乗り,岡寺駅を過ぎ(岡寺自体は,駅からはるか東の山の中腹に有るのだが・・・),飛鳥に着いたときは,11時をとっくに過ぎていた(と思う)。
駅前の飛鳥総合案内所に向かったが,何と休業・・・。
以前も感じたが,橿原神宮前とは打って変わって人も少なく店も殆ど無い飛鳥駅前に,バスが1台停まっていた・・・。
バスのフリー乗車券を買えなかったのは誤算だったが,あと10分しないうちにバスが出るのはラッキーと思って,飛び乗った。
取り敢えず高松塚古墳まで行って,後は場当たりで考えよう・・・という1人で国内を放浪していた時代の癖が出たのだが・・・。
バスの窓から駅前を見ると,レンタサイクル店が営業していた。
20年前の11月に訪れた時は,確かここで自転車を借りて回ったはずだ・・・。
今回は12月だし下の子が不安だし・・・と思っていたが,うちよりも小さい子を含む家族連れが,自転車をレンタルしていた・・・。


咄嗟の判断だった。
乗り込んでアイドリングしていた運転手さんにひとこと謝って下車する。
関西が寒くないのは,先刻承知の助だ。
バスの乗り放題切符は確か600円。
自転車は800円。
自転車の方が高いというのが少々引っかかるが,フットワークでは1時間に1本のバスより,自転車が圧倒的だ。
かくして,飛鳥の旅はバスを止めて自転車にした時点で,成功を約束されたようなものであった・・・。


・・・ということで,大和郡山-飛鳥でワープロ2ページです・・・。
明日書けるかな・・・。
この日は自転車での移動だったのですが,疲れたものの筋肉痛もさほどひどくなく,充実した旅程となりました・・・。