忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

一肌脱ぐ話

2012年01月09日 | 過去記事

休日の朝は携帯電話が怖い。昼を過ぎるとホッとするが、それでもまだ気は抜けない。御蔭で昼間から酒も飲めない。夜勤予定者が当日欠勤することもあるからだ。しかしまあ、以前からすれば楽なモノだ。電話の内容は一貫して「シフトの穴埋め」になる。職場が困っているのに所用もヘチマもございません、と参上する中年男性は重宝される。つまり、行けばいいだけだ。

以前ならばそこからが大変だった。警察に行ったり、業者を呼びつけたり、状況を把握して適当だと思われる案を作成し、人も金も動かさねばならなかった。抜けないイヤな疲れが溜まる思いだった。「遣り甲斐」は同じようなもんだが、体の疲れなどというのは、酒飲んで寝れば確実に抜ける。精神的なストレスのほうがダメージは深刻なのだ。

しかし、だ。いくら初老のおっさんとはいえ、せっかくの休日、私も私なりに楽しんでいたり、のんびりした予定があったりする。人生後半に向けてのやるべきこともある。それを中断して駆けつけるわけだから、どこの誰が当日欠勤なのか、その理由は風邪なのかなんなのか、くらいは知りたい。そして、いつもコレに脱力する。困ったもんだと。

最近「新型鬱病」というのがあるそうだ。「患者」は若い人が中心。症状は「自己中心的で他罰的」なんだそうだ。従来の「鬱病」なら抑鬱気分や自責の念、罪悪感、気力や思考力の低下などが挙げられる。それに食欲不振や不眠なども重なり弱り果てる。自身の「鬱病体験」を書いた本もたくさん出ている。基本的には真面目で手の抜けない人、負けん気が強く、責任感がある人などが、その重圧に耐え切れず、心も体も酷使することから病気になってしまうケースが目立つ。私のように「手を抜けるところを探すのが上手い」とか「遊ぶ予定は無制限に立てる」と言われるテキトーな人間には無縁の病気でもある。

しかし、この新型はすごいらしい。なんと、仕事を休んで旅行出来るほどの病気なんだそうだ。職場を出ればあら不思議、ぴたりと症状が止んで元気になる。もちろん、メシも喰えるし酒も飲める。これに「さぼりじゃないか!」というなかれ、また、それが原因で症状が悪化する、というから会社も上司も何も言ってはいけないことになる。実際に訴えられた例もたくさんある。

対処法としては、相手の体調や精神状態を考慮し、相手に負荷を与えないよう配慮し、病気を悪化させないような努力を上司や会社はせねばならない。新型鬱病になったのは職場の所為、と本人が言うならおおごとだ。会社には安全管理義務がある。従業者が怪我や病気にならないよう配慮せねばならない。専門家もご丁寧に「単なるワガママと思える振舞いに見えるが」という論調でナイスフォローしている。叱責などあり得ない、コレは病気だ。だから先ずは企業医や主治医に相談しろ、ということになっている。

先日、自宅で本を読んでいた私を呼び出すことになった「原因」は精神安定剤を服用していた。職場には「いろいろ悩んでまして」としか言わぬが、現場の職員なら「泥沼三角関係」がその真因だと知っている。以前ならば、私も社の管理職だったから、現場の情報にはとても疎かった。社内公然の秘密、も私だけが知らない、という状態もあった。中間管理職の人間も、先ず、私の耳に入れるかどうか、を悩んだりしたからだ。しかし、今は私も「職場の同僚」であるから、そんなくだらぬことも耳に入る。実際に相談も受けていた。

飲んでいる精神安定剤も知っている。抗不安剤だ。いわゆる「マイナートランキライザー」である。この副作用は眠気、注意力の低下と脱力感であるから、仕事前に飲むような薬ではない。睡眠導入剤と同じだ。

会社は「原因は職場にある」と言われて診断書を取られるとクビにも出来ない。休業中に遊びに行くな、という常識も就業規則に書かねばならなくなるが、これも「病気治療のため」とか「リフレッシュ効果」とか言われたら、裁判で勝てるかどうか危うい。日本社会が「弱者=強者」という矛盾を抱え込んだ実態、ほんの一例である。だから、例えば私のような半端な真面目ですら迷惑を被る。文句も言わないから「助かります」で済まされる。

日付が変わる頃、見知らぬ番号から電話があった。出ればその「原因」だ。照れ笑いのような不真面目な声で「ごめんなさいね」と謝罪があった。私は社交辞令的に体調のことなどを案じながらも、当然、いま感じている疑問を問わねばならなかった。なぜ、私の携帯番号を知っているのか、である。

「原因」はしばらく黙ったあと、結局、都合の良いウソが思いつかなかったのか、ある意味、正直に「事務所で名簿を見た」と答えた。無論、盗み見である。「原因」が夜勤か何かの際、無人の事務所で名簿を見て知ったわけだ。事務所の人間、あるいは、私の携帯を知っていそうな人物から(介護主任くらい)知るには理由を述べねばならない。または個人情報がなんとかとうるさい時代だ、私本人に聞くよう言われたことだろう。

つまり、遅くとも数日前には知っていた。そしていつか「こういうときがある」と計画していたとわかる。あるいは直接、例えば、明日の出勤を代わってくれ、などという依頼も行うつもりだった。あの中年男は自分と違ってヒマだろう、仕事して寝るだけの生活だろう、ならば休みの日も対応可能に違いない、一応、番号をチェックしておくか、ということだろう。ま、半分はその通りだが。

最近、またまた新人職員(男性)が来なくなった。30代後半ながら、つまり、私と5つも離れていない年齢ながら、いままで定職に就いたことがなく、ずっと「パチスロで喰ってました」と元パチンコ屋の私に自慢する男性だった。数分話せば、この男性の阿呆の底が抜けていることは誰でもわかった。初日からダラダラして、いつまでもノロノロしていた。

ボーナスが出て年が変わるから、何人かが辞めるということもあった。別に誰も慰留していないのに「やっとこんなところから抜け出せる」と公言していた。辞めてどうするのか、と問えば、嘘か本当か知らないが「疲れを癒す」とのことで、しばらくは自宅でゆっくりするらしい。自宅とはいえ親と同居、本人は30代半ばだ。親はもう60代後半となる。早く安心させてあげればいいのに、と余計なことを言いそうになる。



日本は既に東南アジア諸国とのFTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)を進めている。タイとのFTA締結交渉は平成17年、翌年の平成18年にはフィリピンとのEPAにより、外国人の看護や介護を取り入れると決まった。いわゆる「言葉の壁」や「試験の難解さ」などの問題はあるが、今後、これらが増えていくことは既定路線だ。もちろん、心配せずとも支那朝鮮人はもっと簡略に、それこそ話題にならないほどスムーズに増えている。というか、先ず、私が「外国人介護」ということである。つまり、そういうことだ。

これをもっと前からやってきた国がある。左巻きが大好きな国、スウェーデンやデンマークがそうだ。介護の世界でも高福祉高負担の国は「福祉国家の模範的存在」として紹介されるが、コレがまた多くの外国人ヘルパーを受け入れて、いま、とても困っていることは周知の事実でもある。外国人ヘルパーも年を取る。年を取れば帰国するわけでもなく、同じように介護給付を求めることになる。その「矛盾」は国が対応することになる。施設側は外国人ヘルパーを受け入れれば労働力を確保できる。人件費も削減できる。なんだったら補助金も出る。しかし、その多くの外国人が住宅に困る、教育に困る、失業に困る、となれば国家規模で対応することになる。簡単に言えば「国民負担」となる。いま、日本はこれをそのまま、まるっと真似しようとしている。成功するはずがない、と断じておく。

申し訳ない言い方だが、日本はスウェーデンやデンマークと国力が違う。だから本来の「日本の役割」はある。例えば、アジアの直接的な投資を行い、現地に質の高い雇用機会を創出する、などだ。こんなことは大国しかやれない。言葉も文化も慣習も違う国から、日本国内で日本人の生活レベルに合わせた「介護&介助」をやらせるのはリスクが高すぎる。

例えば、日本では「家政婦」という仕事がある。これがミタのかミルのか知らないが、外国では「お手伝いさん」とか「メイドさん」という仕事になる。今度また、マニラの「シュガーちゃん」に聞いてみたいが、フィリピンではケアギバー(care giver)という仕事になる。これは介護だけではなく、いわゆる「生活介助全般」を行う仕事だ。この仕事を大学出てまでやる、というフィリピン人はいるのだろうか。

日本が策定した外国人向けの「看護師・介護福祉士国家試験受験コース」も「介護福祉士養成施設コース」も国家資格を得られなかったり、国家試験を受験して落ちれば、共に「帰国する」となっている。また、これらの有資格者は共に「4年制大学卒業者」ということである。それから日本に来て日本語を学び、日本の国家資格、あるいは国家試験をクリアせねばならない。それでようやく、何ができるのかとなれば、日本人相手の「ケアギバー」だ。そのギャップを包含してまで維持できるモチベーションとは可能だろうか。

私は職場でよく言う。利用者のお爺ちゃんお婆ちゃんに対してだ。日本のひと昔前を生きてきたお婆ちゃんなどは、成人男性から介助されることに恐縮する人も少なくない。風呂上がりに着替えを手伝っていると、私に向かって「もったいない、もったいない」と拝む人もいる。そういうときに私は言うのだ。「今まで日本を支えてくれてありがとうございます」と。

正月におせちが並んだ。利用者の中には不安そうに「これ・・おいくらでしょう?」という律義な人がいる。いえいえ、コレのお代は頂いてます、と言えば例外なく仰天される。自分など何もできない老人なのに、こんなことをしてもらっては困る、生きているのが申し訳ないのだという生真面目な爺ちゃん婆ちゃんはいる。そのときにも私は胸を張って言う。

「日本はすごい国でしょう。でも、それはお爺ちゃん、お婆ちゃんが作ったんですよ。あんな大変なときにがんばって働いてくれたじゃないですか、がんばって子育てしてくれたじゃないですか、だからいま、日本という国は年を取ると、国がなんでもちゃんとしてくれる、それができる国になったんですよ。それで今度は僕らも助かるんです。僕らの次の世代も、その次の世代も、年を取って働けなくなっても安心して生きていていいんです。それがいまの日本という国なんです」

そう言うと爺ちゃん婆ちゃんは嬉しそうに笑う。中には涙ぐむ人もいる。しかし、これは半分以上、本当なのだ。だから本当はタイ人の若者はタイ人の、フィリピン人の若者はフィリピン人の年寄りを介護すべきなのである。今まで御苦労なさったでしょう、ありがとうございました、と。これは血みどろの易姓革命ばかり、あるいは未だに分断国家という国には無理な話だ。

アジアの雄、日本はその投資こそ行うべきで、その技術、知識、人材を送り込むべきである。すなわち、順番が逆なのだ。安い労働力を安易に取り込む、などというアメリカ人みたいなことをしてはいけない。歴史ある国家としてすべきことではない。日本はそんなことよりも、先ず、国内の看護、介護の質を向上させるべき、クソ甘えた日本人の餓鬼には溜息が出るが、その穴埋めをアジア諸国に負担させることは本末転倒、問題を長期化させ悪化させると気付かねばならない。政府も自治体も、施設も上司も「日本の若者は使えない」と嘆く前に、安易に外国人労働力を投入する前に、すべきことがあるはずだ。

日本の若者(中年も含めて)を育てる―――という責任が政府、企業にはある。それは金儲け主義の向こう側にある大切なモノだ。いまの日本の若者はダメだ、というのがマスメディアの論調だ。しかし、安心するがいい。私やツレはもっと酷かった。そんなもんじゃなかった。ダメダメの見本市だった。そして、それがどうすれば立ち直るのかも知っている。任せなさい。一肌脱ぐ。



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (久代千代太郎)
2012-01-17 05:13:28
>あきぼん殿

中学出てからは「教師」にすら出会ってませんねw

社会に出てからは良い先生もいましたね。あ、もちろん「反面教師」もたくさん・・・w


返信する
Unknown (あきぼん)
2012-01-11 17:22:22
「先祖や先人に感謝する。」「自分の為では無く誰かの為に何か出来ると言う事を喜びに思う。」

これだけだと思うのですけどねぇ・・・
周りの大人がそうなれば子供へと、すべてが解決するような気がしてなりません。
特に教師にはそういう人間が
少ないかと思います。

私や貴方はつくづく
教師には恵まれませんでしたものねw
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。