忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

めでためでたの管直人さま

2011年05月18日 | 過去記事
私のお気に入りの利用者「K」さん。98歳。趣味は俳句。言語は聞き取りにくい。絞り出すように声を出す。食事のとき、意地の悪いベテラン職員さんが他の利用者さんの耳元で「犬も歩けば?」とかやるのだが、ちゃんと話せる利用者さんは「棒に当たる~」とか答えるも、この「K」さんは無反応だという

私が「そうですかね?」というと、古参の職員は得意になって、ぽかんとしている「K」さんの耳元で「渡る世間は?」とかやって、ほらね、という。隣のおばあちゃんは「鬼ばかり〜」と答えている。「K」さんは認知症がMAXだから、こちらが何を言っているのかわかっていない、と見栄を切った

だから他の職員も「K」さんに対して、子供に対するそれのように無礼であった。私はよい機会だと思い、私と「K」さんで時折している遊びを紹介した。私が「んじゃ、正岡子規ね、あかとんぼ、筑波に雲も?」というと、甲高い声で「なかりけり!!」とやった。

「与謝蕪村、斧いれて、香におどろくや?」→「ふゆこだち!」「芭蕉ね、菊の香や、奈良には古き?」→「ほとけたちぃ!!」




全員沈黙。おまえら、一個でもわかったのか?ああぁん?「K」さんはバカバカしくて答えなかっただけだよ、ということで、その「K」さんの傑作がこちら。↓



「明けそめて 木津の川霧 たちのぼる」  京都府「K」さん 98歳。


素晴らしい。師匠と呼ばせてもらう。んで、先日のことだ。今日は若い職員らもたくさんいるし、とのことで、私は「小倉百人一首」を持ち出してきた。茶髪にピアスの男性職員に手渡し、どれでも質問してみてみ?と威張って言った。しばらくすると歓声が上がった。

「すごいすごい!!!www」

「五七 五七 七」の短歌、最後の「七」を見事に詠んでいく「K」さん。もちろん、鎌倉時代の代表的な百首をすべて記憶しておられる「K」さんからすれば造作もないことだ。ぬははは!!みたか!と、なぜだか私まで威張るのであった。そんな「K」さんには、車椅子からベッドへの移乗の際、お姫様抱っこのサービスだ。これは妻と「K」さんだけだ。




――――ま、ところで、この歌だ。



「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山・・・・」




「・・・波越さじとはぁぁ!!!」





そうそう。ありがとう「K」さん。これは清原元輔(きよはら・もとすけ)という人が詠んだ和歌だ。なにやら何人かの野球選手を合体させたような名だが、この人は、



「・・・波越さじとはぁぁ!!!」




・・・・うん。わかった。もういい。ええと、この人は誰かといえば、清少納言のお父さんだったりする。ンで、オサーンが詠んだ割には甘く切ない感じがするのである。この「契りきな」とは「契る」の連用形、平べったく言うと「恋の約束をする」となるが、このあと「き」と「な」が続くから「約束したのにね・・・」という「その後のドラマ」を期待させることになる。そして次だ。「かたみに袖をしぼりつつ」であるが、



「・・・波越さじとはぁぁ!!!」







・・・・・。






・・・・や、やかましい。オムツ替えたから寝なさい。それにもうすぐ100歳なんだから、もういい加減大人になって、お茶飲むだけで泣き叫ぶのも止めなさい。ったく、コーヒーやらリンゴジュースばかり飲んで、ま、明日もコソ―リとすり替えておいてあげるからね。



・・・・ええと「かたみに」とは副詞で「お互いに」となる。そして、もちろん「袖をしぼる」というのは「泣き濡れる」を表現している。ふたりとも涙を拭いた袖が濡れているわけだ。「奥の細道」が英訳出来ない理由はここにある。あ、ちなみに「つつ」は繰り返しを表す接続詞ね。ンで、いよいよ「末の松山」が出てくる。ふう。

これは現在の宮城県多賀城市周辺のことだ。人口は6万3千人。ここも3月11日の震災、津波により3分の一が浸水した。避難民は1万人を超え、2週間経っても300人以上が孤立していた。死者、行方不明者は185名、清原元輔が詠んだ最後の「波越さじとは」の部は「末の松山を越す大波は無い」という意味であったが、海岸から遠く離れた宮城県多賀城市にも津波は達した。ちなみに「末の松山を越す波」とは、どれほどのことがあっても「恋人を裏切らない」という意味として使われる。つまり、この短歌は「互いに涙に濡れながら誓い合った恋だったのに、あなたは裏切ってしまいましたね」という振られた男の悲しき歌だ。私も妻に振られたら「ハゲリーマン川柳」でも詠むことにする。






さて、ここに裏切りばかりの政権がある。これは津波に対する防波堤をカイワレで済ますようなもので、こんなもの最初からわかっていて、誰も「波越さじとは」と驚かない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110517-00000119-mai-pol
<<福島第1原発>今後の工程表を決定 秋めどに賠償を開始>




卑劣なのはここだ。なぜ保守派は騒がない。



<政府は17日、福島第1原発事故の被災者支援の基本方針と、今後の取り組みの工程表を発表した。基本方針で被災者を「国策による被害者」と位置づけ、工程表で東京電力による賠償について、住民や事業者への仮払いを続ける一方、基準となる中間指針を7月中にまとめ、今秋をめどに受け付けと支払いを始める見通しを示した>



己の非を認めもせず、それを「原子力を推進してきた日本国の責任」として賠償するのだという。なんとも腐れ左翼が喜びそうな「根拠」であるが、これはつまり、そのような「国策」を支持してきた日本の有権者の責任、だとされているのである。だから堂々と税金が放り込めるわけだ。首相官邸で開かれた原子力災害対策本部とやらで菅直人は言う。



<原子力政策は国策として進めてきたもので、被災者はいわば国策による被害者。最後の最後まで国が前面に立ち責任を持って対応する>




この阿呆面で「国が前面に立ち」と抜かしているということは、この先10年でも20年でも、いや50年でも100年でも<必ず事故を収束させ、皆様が再びふるさとに立ち、懐かしい我が家に帰るまで>税金放り込んで面倒見ます、それは日本が悪かったからです、ということだ。そして政府とは金を持っていない。商品も無ければ客もいない。つまり、気前よく払う金とはすべからく納税者が納めた税金である。甘過ぎる!と叱られている東電でも数千人規模のリストラを発表したが、この「政府」とやらは誰も責任を取って辞めないのである。納税者が収めた金で話をつけるだけのことを「政治主導」と言われたらたまらない。

災害対策の妨げになり、事故対策の障害といわれる御本人が、被災者も支払う税金でメシを喰いながら「がんばります」はもう結構、さっさと総辞職でもして責任を取り、いや、無理でも解散総選挙で信を問い直し、見事に落選して無職になってから、せめてもの罪滅ぼしにボランティアでヘドロの掃除でもすればどうか。それならば優しい日本人のことだ、道で石は投げられまい。

それに、だ。100歩譲って、それを日本人だけに言うならともかく、この政権が「日本の国策としての被害者」と言い出し、それを「国が責任を持って対応する」というときは日本海の向こうを見たほうがいい。韓国では既に44の環境市民団体が「韓国政府は日本政府に謝罪と賠償を求めよ」という声明を出している。韓国政府はさっそく「原子力被害補償協定」などを検討、関連協約と国際法を調べてみるニダ、とやっている。韓国の外交通商部では「放射能による被害が確認できれば損害賠償などの法的措置は可能」とコメントしている。含み笑いを浮かべながら「菅談話」を嬉しそうに出す政権与党である。これに対してどう対応するかは言うまでもあるまい。

もちろん、支那も黙っていないだろう。尖閣の衝突事件の際、あの国が世界にどう発信したかは記憶に新しい。一色氏が辞職覚悟で映像を公開しなければどうなっていたか。北京と仙谷はどれほど喜んでいたか、を思い出せばよくわかる。あのとき、支那共産党の外務省は<日本側は船長らを違法に拘束し、中国の領土と主権を侵犯した>と堂々と述べている。さすがに「映像は捏造だ」には世界も付き合い切れなかったが、それでもあの国のことである。韓国を超える無茶を要求してくるとしれている。

たしかに東電は杜撰極まりない管理体制だった。隠蔽体質にも辟易する。しかし、だ。それと管政権の無能は関係が無い。この期に及んで「国家と国民を切り分けて」考えるのは危険に過ぎる。菅直人は解散して議員辞職すべきだ。先ず、それからなのだ。そして、その政治空白を国民が背負う。増税も電気料金の値上げもそれからだ。





「末の松山」という言葉は「おおぉ・・こんなところにまで松山があるのか」という意味でもある。松の木というのは雑木ではないから、立派に育てるには下草を取り、枯れ枝を切るなど恐るべき手間ヒマがかかる。それを昔の日本人は「こんな末の場所にまで松があるとは、なんとも手入れが行き届いているなぁ」と感心したのだ。それに宮城県は有名な「米どころ」でもある。水田が栄えることと松山が栄えることは無関係ではなく、末の松山が栄えているということは、その土壌や水が上質であることを意味する。つまり、それは国が栄えることだった。だから「めでためでたの若松様」なのである。

東電の社員は「末の松山」を思い出して、なるほど、こんなところにまで手を入れて気を配っているのか、ならば原子力発電は安心だな、と国民を納得させよ。ちゃんとリスクも説明して「安全などという最もリアリズムを要求すべき課題に神話などない」とリアルに語れる組織に生まれ変わってもらいたい。必要だからあるし、そのリスクがメリットを上回るなら止めればいい。それだけのことだ。

日本人はいまこそ、電気を使いながらでもいいから下草を取り、枯れ枝を切ることを思い出し、政界から「めでためでたの馬鹿」どもを追い出すのだ。テレビはもう時刻と天気予報しか信用してはならん。怪しげな専門家が安全だとか危険だとか言うが、その情報は「自分で調べていないモノ」だと留意して取り扱いには十分注意すべきだ。ならば風評被害など消えてなくなる。それよりも「管内閣」とか「民主党政権」の実害に気付きたい。


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