忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

カワウソ

2009年12月16日 | 過去記事
「華夷弁別」という言葉をみると、どうしても「大中華思想」とダブってくる。でも、本来の意味はそんなグロいものではなくて「外にばかり気をとられるのではなくて、今、自分がいる場所で励んでいたら、そこが中心になる」ということらしい。少し違うと思うが「隣の芝は青く見える」とか「隣の畑は肥えて見える」を戒める感もある。余所を見て羨ましいとか思うのではなく、そこで頑張って「その場所」こそを羨ましいと思わせろという叱咤も含まれているかもしれない。ま、それはそれで良いことだと思う。

でも、やっぱりイメージは悪くて、どうしても支那が中心、次は朝鮮とベトナム、次はモンゴル、日本なんて「化外の地」に過ぎないという「大中華思想」じゃないの?とか思ってしまうのは、きっと「ネットウヨク(笑)」の影響なのだろう。


しかしながら、この日本という国には不思議な政党があって、日本国の政党でありながら、自ら望んで支那の子分の座を確保しようと必死な政党がある。それも支那様の次なんてもったいない、朝鮮兄さんよりもベトナム兄貴よりも後、いや、もう、どこよりも三下が良いと、日本国民の税金であろうがなんであろうが、なんだったら日本国の国体の象徴まで切り売りしますと、身悶えする変態政党があるようだ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091215/plc0912150007001-n1.htm
<宮内庁、外務省…広がる懸念 「亡国」批判も 天皇特例会見問題>

たしかに――――

「形式にこだわらない」とか「慣例を気にしない」という人もいる。いわゆる「型破りな人」と言われる人たちだ。例えば、本田宗一郎は勲一等瑞宝賞を受賞した際、技術者の誇りであろうか、その授賞式に「白い作業着で出る」と言い張ったらしい。周囲の説得には「いいじゃないか」と強気だった本田も、嫁さんの「天皇陛下の前でそれはダメ」に屈し、結局は黒のタキシードで賞をもらった。ホンダの偉いさんはほっとしただろう。

もちろん、これは単なる「エピソード」でお仕舞いだ。そこから本田宗一郎の豪胆さ、あるいは「一技術者としての心意気」なども感じ取ることができる。しかしながら、本田宗一郎が結局「作業着を通した」ならばどうだろう。陛下の御前で本当に「白い作業着」を着たまま賞を頂いたとすればどうか。その瞬間、日本国内では「型破り」ではなく「常識外れ」と堕す。冗談抜きにホンダのバイクが売れなくなったかもしれない。少なくとも、クレームは殺到したと想像に容易いはずだ。「たかが一企業の一社長ごときが」となる。これが日本の常識であり、最低限の良識であり、公共心であるからだ。


しかし、「ど左翼」どもがマスコミで堂々たる皇室批判を繰り返し、あまつさえ「天皇陛下は戦争責任を負うべき」などと発狂したかのごとき愚論を展開させる学者や政治家もいるが、普通の日本国民はそれに対し、眉間にしわは寄せるも抗議活動したりしない。それはなぜかというと、やはり、それすらも「言論の自由」ということだからだ。そういう意味でも、日本人とは実にフェアで良識のある国民だと思う。それを「腐れど左翼」の連中は、北朝鮮の将軍様を持ち出し、ここぞとばかりに同列に扱い、不敬極まりない態度をとり続けている。上野千鶴子とかいうかわいそうな人も、堂々と新聞に「天皇制廃止論」なんて書いたこともあったが、北朝鮮と同じと言うなら、もしくは支那でもよいが、それらの国で「同じこと」をすれば、いったいどのような目に遭うのか想像もできんのだろうか。

ま、しかし、だ。

政権交代後の親任式において、陛下から任命を受けて官記を受け取る際は、おのずと福島瑞穂ですら頭を下げるのである。言論は自由であるが、陛下に対する不敬までが「自由」なわけもないということは、いくら「ど左翼」の「ど阿呆」でも知っている「常識」なのである。右も左もなく、日本人、いや、良識のある人類ならば、少なくとも、御皇室とはどういうものなのかを考え、敬愛するものなのだろう。

普通、良識のある文明人は、とくにキリスト教でなくとも、教会とはどういうところなのかを考えて接する。十字架を投げたり、マリア像に悪戯したりは出来ないはずだ。結婚式で賛美歌を歌うとき、別に嫌な気持なる日本人もいまい。同じく、道にぽつんと立っている「お地蔵さん」の頭に足を置いたりできる人も少ないだろうし、叱られても教師や警察官には言い返すこともあろうが、お坊さんに言い返すのは、なんか、嫌じゃないか(笑)。

もしくは、樹齢800年とか経っている御神木とかも、理由なくは蹴れない。たかが植物じゃないかとか言って蹴ったりしにくい。このように、マトモな文明人ならば「古いもの」や「長く続くもの」には敬意を表してしまうものだ。それは言うまでもなく、そこに伝統をみつけたり、歴史を感じたりできるからだ。それを敬愛という。

また、人は物事を真剣に考えるとき、どうしても謙虚になってしまう。良い意味での「俺なんか・・」とか「自分みたいな人間が・・」というように己の価値をひとまず壊し、自然な気持ちで自分を過小評価することで大義を見つけることができることもある。人が凹んだとき、海や山が見たくなるのはそうだと言ってもよいのではなかろうか。「大自然の中で気持ち良かったから」だけではあるまい。

「自分の小ささ」を認めるだけで、人間とは素直になれることもある。素直になれば、自己評価にも客観性を帯びてくる。そうなれば、おのずと「何をすればいよいのか」が見えてくる。「何をしてはいけないか」がわかる。反省して改善することもできる。人生、多くの事柄はそれだけで解決できる。それでも解決できないことは、実は解決しないほうが良いことなのかもしれない。

また、普段、道で会っても挨拶しない人が、早朝のウォーキングなら気持ちよく挨拶するのも同じような感覚からであろう。最近、私も早朝に宇治川まで歩くことがあるが、すれ違うみんなと挨拶する。気持ちが晴れやかになり、実に清々しい。

それに、川の畔まで降りて(危ないから気をつけてね)、あの宇治川の水の流れをずっと見ていると、自分の頭や心の中に澱んでいたものも流されていく感じがする。この前なんか「カワウソ?」が真横に来たからビビった。懸命に何かを洗って喰っていたが、嗚呼ぁ、カワウソ?も一所懸命に生きているんだなぁ~とかなった。明日は芋でも持っていこう。


そして、話を戻すと、だ。


我々は「それがわからない民族」を、いくつか知っている。仏像を絞首刑の重りにできる民族を知っている。経典をわざわざトイレに置いたり、その場所でその人たちに「権威のあるもの」や「敬愛されているもの」を尊重せず、意図的に侮辱する民族や国を知っている。余所に来ているのに「それはここではダメなんです」が通じない傲慢な連中を知っている。

ごり押しでなんでも通そうとする「権力の化け物」がいる。しかも、それが日本国内、どころか、現在の日本の政権与党であるというから始末が悪い。なんでもかんでも「民意」とやらで思うようになるはずだと威張っている。なんでもかんでも「都合の良い解釈」で好きなようにしてよいと思い込んでいる阿呆がいる。これを友愛という。


支那や韓国ではニコニコと満面の笑みを浮かべていた「大物幹事長」が日本に戻ったら、目をギラつかせてテレビカメラを睨んでいた。天皇陛下に対して「体調がすぐれなければ優位性の低い行事をお休みにならればいい」と言い、さらに驚愕するのは「御自身に聞いてみたら、手違いで遅れたかもしれないが、会いましょうと必ずおっしゃると思う」などと、天皇陛下のご発言を「たかが一政党のたかが幹事長ごとき」が憶測で発言したことだ。


さすがに、今回は呑気な日本人も地鳴りのような怒りを発している。これ、民主党の人はちゃんと小沢に伝えたほうが良い。民主党は少し前にも、岡田外相が天皇陛下のお言葉に「気持ちを込めた言葉がほしい」と不満を述べて、日本国民を驚かせたばかりだ。これは「政党としての姿勢」という問題ではなく、もはや、こんな政党が日本にあって良いのか?というレベルの話だ。これはもう「支那寄り」というスタンスの問題ではなく、既にこいつらは支那人である恐れがある。なにも難しく考えることもない。こいつらは単なる支那共産党に忠誠を誓う組織に過ぎない。そう考えたほうが、全ての辻褄も合う。

外国人地方参政権もそうだ。小沢は韓国で発言しているが、もう、今は在日支那人のほうが多い。「中身」はともかく、年間1万人近くが日本国籍に帰化する在日韓国人は年々減少している。そうなれば、対馬も韓国にやられるだろうが、もっと多くの地方で「支那人による支那人のため」の自治体が次々と発生するだろう。



もちろん、抗議デモがあれば参加しよう。休日を有効に使おう。親孝行のつもりで、子供ためにという気持ちで、なにか役に立ちたいという想いで、自分の国のためにという使命感で、大切な休日を大切なもののために使おう。そして、もっと大切なことは、誰か一人で良い。友人でも恋人でも、嫁さんでも旦那さんでも、お父さんでもお母さんでも、子供で兄弟でも、本当に誰でも良い。ただ「ひとり」で良い。伝えよう。


そしてその「ひとり」が次の「ひとり」に。またその「ひとり」は次の誰かに。


「あいつら」は、それが一番困ることだ。「権力」というものだけでなく、およそ全ての「力」というものは、それが作用する「モノ」が必要だ。そうでなければ今回の訪中も、小沢ひとりで行けばいいのだが、それをしないで600人も引き連れて行った。その中の80人ほどの1年生議員はその「モノ」なのだ。小沢の権力を媒体して伝播させる「モノ」に過ぎない。いくら、どれほど、なんだかんだと理屈を並べても、だ。不当な権力に対して付き従うことは「モノ」として扱われているのである。ならば、その「モノ」を辞めて「ヒト」として物申せばよいのだが、まあ、それは言うまい。



植物でも動物でも、物でも事でも、長く続いているものには重みがある。もし、人間の寿命が1000年ならばどうだろう。巷には賢者が溢れているはずだ。人はすべからく神に近い思考ができるかもしれない。100年も200年もニートです、とかいないだろう(笑)。苦難を乗り越える時間はあるし、それを克服する知恵も出回っていることだろう。失敗しても立ちあがれることは普通のことになる。なにせ、チャンスの回数が違う。

それを、たかだか40年とか50年、60年とか70年生きているだけの「ひよっこ」が、例えば今年で850歳になります、という賢者に物が言えるかどうかを想像しよう。おそらく、何を言っても通じない。何をやっても知っていると思われる。そして、それが普通である。



来年、2010年は皇紀で2670年となる。神武天皇陛下が即位されてから2670年、日本の国には御皇室があり続けた。言うまでもなく、世界最古だ。友愛政党の「大物幹事長」は1942年生まれらしい。来年は68歳か。よくもまあ、2600年以上も「年上」の伝統に物申せるものだ。

周囲を取り巻く「モノ」どもから「剛腕」とか「猛獣」と担がれているから、少しも謙虚に物を考えない。自分は何でも思い通りになると信じて疑わない。これを痴れ者と言う。

2 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2009-12-16 12:27:36
>ヨン様


共鳴してくれてうれしいです。


伝えましょう。がんばりましょう。
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Unknown (ヨン)
2009-12-16 11:49:37
何だか、久しぶりに気持ちのいい記事を読みました。

今回の件は、日本人として本当に残念でなりません。手遅れにならないよう、私もできるだけ多くの人に伝えたいと思います。
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