忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

もう「人間ポスト」だな・・・

2007年05月27日 | 過去記事
■2007/05/15 (火) もう「人間ポスト」だな・・・「1」

ネットカフェ難民に朗報。

もう24時間営業のファーストフード店で、ほう杖をついてアンバランスな体勢で睡眠をとらなくともよい!一杯100円のクソ不味いコーヒー代も、社会のゴミ屑のような君たちには負担が大きかろう!!

コンビニの前でたむろするゴミも拾えないゴミのような餓鬼も遠慮することはないぞ!どうせ君たちは誰かの世話にならんと生きていけんのだ!犬猫ですら人を癒すが、君たちは人を不快にさせるしか能がない!

そんな君たちが堂々と世話になれる場所があるぞ!それはここだ!

http://www.sankei.co.jp/shakai/jiken/070515/jkn070515001.htm
<赤ちゃんポストに男児 運用初日、3-4歳ぐらい >

ここに入るのだ!優しい看護婦さんが来てくれるぞ!!

『赤ちゃん』といいながら、赤ちゃんではない年齢の者も入れられている!!

3歳がOKで19歳NGなど「年齢差別」である!!30歳でも50歳でも「赤ちゃん」と言い切ればいいのだ!!というか、もう、あれだ、子供を捨てる親も一緒に入ってろ!

<ポストについては「命を救う取り組み」として評価の声がある一方、「子捨てを助長する」などと批判も根強い。慈恵病院側は「コメントできない」としている。>

私は以前の日記で

「殺される幼き命が現実にあるのだから仕方ない、議論しているヒマがあったらとっとと設置してひとりでも多く赤子の命を救え!」

と書いた。小児科の先生や若い親などから賛同するメールも頂いた。そして、今でもやはりそう思う。しかし、設置に反対すると言う人の意見も正当性があると思う。中でも勝谷氏などの批判は痛烈すぎるほどであるが、言っていることは圧倒的に正しいと思う。

だが、倫理的に正しいことが、いつも命を救うとは限らないのである。

私の言っていることは矛盾しているかもしれない。普段、批判している左派の考えに近いかもしれない。つまり「道理を外しても命を救え」と言っているのかもしれないのだ。

「2」へ

■2007/05/15 (火) もう「人間ポスト」だな・・・「2」

批判する人は、今回の「3~4歳の男の子」をポストに捨てたこの父親なる人物について、這いつくばってでも働いて子供を養うことは当然の義務であると批判する。まったくその通りなのだが、あえて聞きたい。

そんな非常識な、情のかけらもない狂った父親が、その子供をどうするのか?

育てることが苦痛になり、死んでしまうほどの虐待を行ったり、ベランダから投げ捨てたり、どこかに売り飛ばしたりはしないか?

私はそれが怖いのだ。もっと言えば、ただ「それだけ」なのである。

そう、それはありきたりの価値観である。すなわち、

「子供に罪はない」

ということに尽きるのである。

この現代日本において「我が子を捨てる親」など、すでに人格が崩壊していると言っていい。捨てる覚悟があるなら、市役所でも警察でも駆け込んで、

「助けてくれっ!」

と叫んで、助けてもらえるまでそこを動くな!!眼前で腹をすかせた子供がいたら、誰かが相談に乗ってくれるかもしれんではないか。誰かが力になってくれるかもしれんじゃないか。そして自分ができることを探し出し、その子供のために死ぬ気で働けばよいのだ。

批判派が言うとおり、顔も見ずに、頭も下げずに子供を捨てていく親がいるなら、やはり、そんな親に子供を育てる総合的な能力があるとは思えん。必ず、何らかの形でその子供は被害に遭うことになるだろう。

そして現在は、それで子供が命を落とすことがあると言っているのだ。

「3」へ

■2007/05/15 (火) もう「人間ポスト」だな・・・「3」

いくら倫理的に正しくとも、依存するしか生きていけない、しゃべれない、歩けない、何も出来ない赤子に、親がダメだから死んでも仕方ないとは、どうしても思えない。ましてや、そのような親が、いずれは改心して親としても義務を果たせるようになるなどという楽観視もできないのである。

つまるところ、これは異常事態であり、非常事態なのである。平時の倫理観が通用する範疇を越えた特殊な状況と言ってもいい。

無論、今回のような阿呆親は探し出して罪を咎めねばならん。我が子をあのような「狭苦しい箱」に押し込むなど、人間の心があるとは思えん。考えただけで胸が詰まり、その子が哀れすぎて涙が溢れてくる。そしてこの阿呆親が、罪を償ったあと子供を引き取り、それでもやはり、そのあと殺してしまったら・・・?

キリがないという声もあろう、そんなことはないと笑う声もあろう、それでもいい。救えればいい。そんな倫理的矛盾を包含した「赤ちゃんポスト」だから仕方ない。

どうにかすれば養える状況にありながら、死ぬ気になれば何とかなるかもしれん状況でありながら、我が子を育てることを放棄する親がいるなど、その存在自体が異常なことなのであり、それを是正する上での倫理観など通用するはずもないのである。

何度でも書くが、要は根本的な倫理観の問題であり、なぜそれが壊れたのかを研究し改善せねばならないのであり、そして「赤ちゃんポスト」とは、それが成るまでの「緊急処置」である。普通の国に、普通の親が成るまでの「幼児の避難場所」である。それはただ「命を救う」のみに存在する、元来、必要ないものである。

「4」へ

■2007/05/15 (火) もう「人間ポスト」だな・・・「4」

<扉の脇には病院の専門スタッフに悩みなどを相談できるインターホンが備え付けられ、保育器にも「気持ちが変わったら連絡してほしい」などと書かれた手紙が置かれている。>

私も人の親である。悩んだり、困ったり、いろいろあった。そしてこれからもあるだろう。相談したり、助けてもらったりもするかもしれない。生活も苦しかったし、将来的にまた苦しくなるかもしれない。そして、今までも楽をして育ててきたわけではない。

飲食店で店長になったときも、それでも学費が心もとないことから、会社に内緒で深夜のファミレスでアルバイトをした。3時に帰って8時には家を出る。家族のためでなければこんなことするはずもない。

人に相談する前にできることはやった。当たり前にやった。

人の親となったからには

「どうしよう」ではなく「どうにかしよう」と覚悟を決めろ!!

そして、親としての責任を放擲するのならば、インターホンも鳴らないし、連絡も来ないだろう。「どうにかしよう」と考える思考経路の先には「捨てる」という結果は無いのだ!

この国の人間が戦うことを逃げつづける限り、責任を受け止めない限り、「赤ちゃんポスト」のような非倫理的な緊急処置は必要となるのだ。

人間は負けたら終わりなのではない。辞めたら終わりなのだ。
byリチャード・M・ニクソン

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