忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

花子さんのお兄さんは呆れているぞ~その2~「ぐぬぬ・・・」

2012年02月28日 | 過去記事


南京から逃げた蒋介石は、日本軍が南下して武漢が取られるのを恐れ、河南省にあった黄河堤防を爆破、決壊させる。1938年6月7日のことだ。続いて同省北部になる鄭州の堤防にも砲撃、コレを破壊した。これが9日だ。運悪く、この二日後の11日は大雨になった。

爆破地点からは大量の水が溢れだす。「幅10キロ」にも及ぶ「本流」は河南、安徽、江蘇などの平原を沈めた。11の都市と4000もの村が水没、死者は「なんちゃって南京大虐殺」の30万の3倍を超える。生き残った被災者は600万人以上、それも黄河の水路が使えなくなったため、その後の旱魃を引き起こして大飢餓で死ぬ。つまり、蒋介石は毛沢東と同じく「同胞」を何人殺したのかわからない。

もちろん、国民党通信社の中央社は「日本軍の空爆により黄河が決壊した」と報じる。日本軍というのは中国全土で略奪、虐殺をやり、飽き足らずに堤防を決壊させて、都市や村を沈め罪もない支那人民を殺しまくっている、と世界に訴えた。欧米列強に住む白人らはこれを信じて日本非難が始まる。蒋介石のプロパガンダは成功したかに見えた。

しかし、外国人記者らもそこにいた。記者らは「日本軍が南下作戦をとり武漢へ攻め込む」と知っていたし、現実に日本軍は4ヶ月後、華東を迂回して進軍、武漢を落としている。ああ、もう、ったく、なにしやがるんだ、と堤防決壊の修復作業、被災した支那人の救済をしながら、だ。

こりゃさすがに変だ、となる。日本軍は南下せねばならないのに、なぜに堤防を決壊させて「自らを足止め」をする必要があったのか、と誰でも考える。日本軍は早期撤退、可及的速やかに作戦を履行して撤退することになっていた。支那人を水に沈めて喜んでいるヒマも余裕もない。このような理由で当時から???だった「黄河決壊作戦」だが、1978年には「タイム」のセオドア・ホワイト記者が「歴史の探求」を出版、コレがベストセラーになる。

著書の中身は堤防が破壊されて悶絶する支那人民の姿だった。道端には凍死者、餓死者が溢れ、飢餓者は屍肉を喰っていた、とありのまま、見て来たままを書いた。世界は驚いた。

そして、この凄惨な事実は「日本軍の悪行」とされなかった。なぜか。

既に蒋介石はプロパガンダに失敗、国民党は前言を翻して「黄河作戦は日本軍の進撃を阻んだ」と喧伝していた。だから「黄河作戦で日本兵を数千人溺死させた」ということになっていた。支那人もたくさん死んだけど、それは日本軍を足止めするためだった、戦果もあった、許せよ、すまんの、恨むなら日本人を恨めよ、とやっていた。出鱈目にもほどがある。

その後、実は日本兵はひとりも溺死していない、とわかる。同胞を100万人殺し、その後飢餓も呼び込んでエライことにしたけれど、日本軍には何のダメージもなかった、武漢攻略が4カ月遅れただけだった。また、1982年には堤防破壊の執行者であった魏汝霖(ぎ・じょりん)が「抗日戦争期間黄河決口紀実」を出す。そこには蒋介石の命令で堤防を破壊しました、それを日本軍の仕業と喧伝するように言われました、という当事者中の当事者の証言があった。これを蒋介石の次男、蒋緯国は作戦犠牲者を「進んで命を捧げた愛国者」だと言った。骨の髄まで支那人である。



最近、ぽつぽつと「河村市長の発言は正しい」という発言が報じられる。石原慎太郎氏や山田宏氏も「どこがおかしいのかわからない」とマトモを言う。実のところ、私は「またやってるよ」と辟易していたのだが、これは思ったよりも「効いている」かもしれない。

「日中友好協会愛知県連合会」というところが抗議文を出した。会長はなんと日本人だ。会長の石川賢作という人は「日本人が南京で一般市民を殺しまくり、犯しまくり、奪いまくりしたことは間違いない」と言いながら、昨日も今日も「日本人」として日本で暮らす。

というか、この「日中友好協会愛知県連合会」というサイトを覗いてみてほしい。ここに抗議文が届かないほうがおかしい。同会長は<名古屋市民がみんな市長と同じように考えていると思われると心外だ>ということだが、それこそ多くの日本人があんたらと同じ見解だと思われるのは心外である。そんなに支那人が好きなら、誰も止めないから、どうぞ、支那人になってください、と懇願したくなるほどだ。

また、この抗議文の全文が記載されている。これがまた噴飯ものの阿呆臭いものだ。河村市長はさぞかし面倒だと思っているだろう。心中お察しするが、これも日本のため、と覚悟して公式の場で反論して欲しい。支那側との「討論」は<相互信頼関係が崩れ去っている>から不可能としているが、この「日中友好協会愛知県連合会」は抗議文を出してくるわけだから、是非、公開討論を受けてほしい。そこで大いに阿呆を晒し、多くの日本人から「なんだこりゃ」と蔑まれてもらいたい。それが売国奴にできる唯一の「愛国的」振舞いでもある。「南京大虐殺はあった」も大いに結構。石川会長とやらは、その素晴らしき完璧な論理を皆々様の前で威風堂々、愛すべき支那人民のため、支那の傀儡となるべき「日中友好」のため、どうか、一肌脱いではくれまいか。







ま、ところで、だ。抗議文は<今回もまた、中国共産党の代表団に対して、南京大虐殺否定の発言をし、すでに大きな国際問題になっている。このような失態の基礎にある市長の歴史認識の主な問題点は以下のようなものである>と偉そうに書いてから、次の「4つ」を挙げている。実にバカバカしいが、せっかくだし、ちょっとだけ付き合ってみよう。

<① 当時南京市の人口は30万人もいなかった、だから30万人も虐殺できるはずはない・・。これはまったく歴史の基礎をわきまえないものであって、南京特別市は近郊6県を含み、中心の南京城区は100万人、全体の人口は150万人を越えるものだった。この地域全体が南京攻略戦の戦場になり、南京事件はこの範囲で発生した。南京近郊の農村地帯でも人びとは状況が分からず、土地と作物と家畜を守るためにとどまり、そこでも多くの略奪と婦女暴行が行なわれた>


当時の南京には30万人もいなかった、は河村市長が言っているわけではない。先ず、南京安全区国際委員会が「食糧配給のために」人口調査を行っている。これが「20万人」だ。ちなみにこの数字は「安全区以外からの流入」も加味して算出されている。東北の震災のとき、東京ディズニーランドには7万人、その内、夜を明かしたのは2万人だが、TDLは「5万人が5日間」喰える非常食を用意していたのと同じ、つまり、余剰分を入れてあるのは常識だ。また、日本軍が南京攻略作戦を開始する前になる11月28日には、南京警察長官の王固磐が「20万人」と発表している。石川会長はいったい、どこに対して<これはまったく歴史の基礎をわきまえない>と批判、抗議しているのか。しかもまあ「150万人いた」には驚かされる。

そしてまた、南京近郊で日本兵が略奪した、とかやる。だから、なんで?というだけだ。

南京攻略戦に参加した日本兵の糧秣における「携行定量」というのがある。これも河村市長が勝手に決めたわけでもなく、ちゃんと各種記録に残っている。「非常用口糧」は3日分あった。コメと乾パン、固形調味料と缶詰だ。「困ったのは醤油が足りなくなったこと」とある(証言による南京戦史)。だってそうだろう。日本軍の各師団は大行李(糧食1日分)を「7日分」持っていた。とりあえず、何もなくても、各兵隊さんは「7日分」あったのである。これに第一線師団に常続補給を行う兵站自動車中隊が配属される。これをちゃんと後方の断列兵が炊飯して前線まで運んでくる。なんだったら、さっき書いた「非常食」もある。猛烈、苛烈な戦闘中、最前線の兵隊にまで「炊いたコメのメシ」が届くのに、何が悲しくて占領後、南京周辺の村から「何を」略奪せねばならないのか。

次も酷い。ふたつめの「問題点」だ。


<② 市長は、大虐殺がなかったということの根拠として自分の父親が、敗戦後、南京付近で中国人に温かくしてもらった。ラーメンの作り方も教えてもらった。だから、8年前に虐殺行為などあったはずはない、という。敗戦後に温かくしてもらったから、過去に残虐行為はなかった、というのは、中国東北部で少年時代を過ごした私個人の経験からしてもなりたたないものである。日本の敗戦後、中国は15年を越える侵略戦争の怨念を越えて、100万を越える日本人を日本に帰国させ、国家としての賠償も放棄した。過去の恨みを抑えて日本人に対応したのである>



「アメリカは戦争を早く終わらせるために原爆を投下」と変わらぬ「支那人性善説」である。敵の血を飲み、皮の上で寝る支那人、敵の血肉を喰い、骨まで飲み下す支那人の性質をまったく知らない。<過去の恨みを抑えて>もなにも、いま現在でも反日教育に力を入れる徹底ぶりが事実である。建物は愛知県にあるかも知れんが、心は北京にあるという証左である。



<③ 市長は南京での虐殺は「通常の戦闘行為」であると主張しているが、大虐殺、略奪、婦女暴行の事実は、当時から英米、さらには同盟国ドイツの人びとからさえ世界に発信され、知らないのは日本国民だけであった。この事実については、旧日本軍の上級将校の団体「偕行社」の出版物でさえ、多数の捕虜を銃殺や刺殺により「処分」したことを記しており、また市長が口にした「戦闘詳報」でも捕虜の虐殺が明記されている。 これらの証拠は、「目撃者がいなかったことが決定的」という市長の大虐殺否定論が根本的に破綻していることを示している>



極秘中の極秘とされた「ミッドウェーの敗戦」が漏れている。これは「WILL」誌上での渡部昇一氏の証言にある。当時、南京攻略戦に参加した日本兵の多くは帰って来ている。つまり、日本人だけが知らない、というのは「その事実がなかったから」である。石川氏は<当時から英米、さらには同盟国ドイツの人びとからさえ世界に発信され>と言うが、それはティンパリやらベイツやらマギー神父のことか。<同盟国ドイツ>というのはジョンラーベのことか。バカバカしいににもほどがあるが、それならばなぜ、当事者の蒋介石はラジオ放送でやらなかったのか。国共内戦後、台湾に逃げてからも「2.28事件」のときには「台湾人が反乱を起こした」「台湾人の反逆行為」と大嘘の喧伝をして、大陸から兵隊を援軍で出した国民党ではないか。国共問わず、どちらもウソがお得意、被害者になるのが大好きではないか。

支那共産党の朱鎔基元首相(第5代)は「只有騙子是真的」と捨て台詞を残した。「(中国は)ペテン師だけが本物だ」という意味だ。この人は一度、うっかりTBSに出たことがある。2000年の「筑紫哲也NEWS23」だ。タウンミーティングの録画放送だったが、このとき「私の対日政策が弱腰だと、国務院に批判のメールが殺到して、夜も眠れないことがある」と発言するが、この部分をTBSはカットした。マトモな支那人もいるモノだと感心するが、TBSは反日でなければ支那人にも容赦ない。「親日」は大嫌いなのだ。

この石川氏もTBSと同じく、本当のことを言ったり書いたりする外人は嫌いらしく、膨大な「目撃情報」はあるが取り合わない。「虐殺?なかったなかったww」という当時の従軍記者もたくさんいる。それに「偕行社」の発行物、おそらくは「南京戦史資料集(非売品)」などと思われるが、そこは「処分」ではなく「処置」もしくは「処断」とあるはずだ。「」をつけても嘘はいけない。ざっくり書けば、先ず、この戦闘行為は国際法上の「戦争行為」ではない、だから「捕虜」とかはやめろと。また、投降してきた支那人を安易に受け入れるなと。危ないぞと。ちゃんと武装解除してから一箇所にまとめておけと。予想以上にたくさんいるけど、まあ、なんとかしろと。それから師団の指示をマテと。<各隊ハ師団ノ指示アル迄捕虜ヲ受付クルヲ許サズ>だ。これを「捕虜の受付を許さず、ということは殺せってことじゃないか」は因縁、イチャモンだ。便衣兵とかいるし。

「戦闘詳報」もたぶん「捕虜は全部殺スベシ」と書かれた怪しげな「歩兵第六十六聯隊第一大隊・戦闘詳報」のことだと思うが、これも当事者や研究者から「反論」が相次いだ。そもそも「戦闘詳報」というのは副官、もしくは書記が作成する。第66連隊第1大隊本部には小野文助、木村徳延軍曹、稲沢伍長、菅沼伍長らがいる。「捕虜は全部殺スベシ」と書いた紙を持っていたのは藤沢藤一郎、上等兵だ。本人はなぜだか「もらった」とのことだが、こういうのは普通、怪しいと判断することになっている。そしてこの「原本」は存在しない。台風で汚れたから捨てた、とのことだ。だから防衛研究所戦史資料室にはコピーがある。これも都合がよろし過ぎないか。

その「紙」をみつけてきたのは児島襄(故人)。この人は保守の顔して「国会突入せよ」も書く。安保闘争で左翼かぶれの学生に頑張れ、とやった人だ。編集者に自分のパンツを洗わせる、という威張りん坊でもある。こういう人間、私はちょっと信用できない。



しかし、だ。最後(4番目)の問題点には反論し難い。


<④ 日中両国政府の企画である「日中歴史共同研究」でも、日本側は「南京大虐殺」について、犠牲者数については中国側との違いはあるとしながらも、「日本軍による捕虜、敗残兵、便衣隊、および一部の市民に対して、集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した」と認めている。市長発言はこれすらも否定することになる。こうした中で、河村市長が中国側との「討論」を呼びかけてみても、その前提としての相互信頼関係が崩れ去っている>



日本政府が認めている、と言われたら「ぐぬぬ・・・」となる。日本人がそう言ってるじゃないか、と言われても「ぐぬぬ・・・」となる。周囲の日本人がNHKの言う通り「日本は昔、アジアの人々に悪いことしたよね」と言っているから「ぐぬぬ・・・」となる。「北朝鮮に拉致された、とか言うけど、日本人も昔、朝鮮の人を強制連行したやん」という政治家がいると「ぐぬぬ・・・」となる。ぐぬぬ・・・


2 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2012-03-02 20:53:36
>katooさん

んぎぎぎ・・・
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Unknown (katoo)
2012-02-29 18:24:34
ぐぬぬ・・・
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