忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

フランケンシュタインの死臭

2010年06月24日 | 過去記事
キリスト教における「神」がこの世に降臨したのは「善人のためではなく悪人のため」だとされている。大いなる慈悲の心で「悪を許す」ことで救い救われる、ということを説いているのだと、私は解釈している。聖なる者は、そんな「悪人のため」に神に許しを乞う。その悪の心が許され、どうか、この哀れな子羊が救われますようにと、精霊と父と子の御名において祈りを捧げるのだろう。ご苦労なことだ。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100623-OYT1T00109.htm
<マツダ11人死傷「秋葉原のようにする」>

人類が太陽に感謝することを覚えて、火を畏れることに気付き、自然というものを意識し始めたときから、そこには何らかの宗教的概念が存在していると思われる。人類は紀元前から何かに祈り続けている。小難しい話はともかく、ま、つまり、人類最古の時から大きいものでは天災が起きないように、次は病気や事故に遭わないように、最後はお腹いっぱい食べることができますようにと人類は何かに祈り続けてきたのだろうが、なんのどっこい人類はちゃんと、今でも愚かなままだ。

何十億人、何百億人死んでも戦争はなくならないし、社会主義、共産主義はなんやかんやで1億人は殺しているだろうが、それでも日本共産党は街宣車で嬉しそうに天下の公道を走って、消費税がどうのこうのとやっている。また、喜怒哀楽というが、我が家の犬でも喜び怒る。人間は残る「哀楽」を表現できるとされているが、どうやらこれは全人類対象ではなさそうだ。「喜怒」だけの人類も存在することは厳然たる事実である、というのが言いすぎなら、1万歩譲っても「哀楽」は失念されることが多いと言い直しておく。また、いわば「喜怒」は本能で「哀楽」は情緒、まあ、ざっくり言うに建前か。

広島にある「マツダ本社」で42歳の元期間社員が乗用車で侵入し、次々と従業員らを跳ね飛ばして1人が死亡する事件があった。車内には刃渡り15センチの包丁も用意してあったそうだ。犯人は「中に入って振り回そうと思った」と供述している。オチオチ出勤もしていられない。相変わらず、危ない世の中である。

動機はまた同じようなものらしい。そのうちにマスコミが詳しくやるだろうが、まあ、クビにされたとか、嫌になったとか、ムシャクシャしていた、などだろう。この42歳も「誰かを殺そうと思った」と供述しているらしい。何度か書いたが、この「だれか」とは「だれでもいい」ではなく、自分の無傷が保障される状況、且つ、相手は無抵抗(抵抗する術がない)の場合に限られている。これも人間に限った「腐った本能」のひとつである。

例えば、アフリカのサバンナでライオンの家族が蹴り殺される事件があったとしよう。犯人は蹄から見て近所のシマウマが特定された。近くの草原で暴れているところを逮捕されたシマウマは「いつもいつも追いかけ回されて腹が立っていた。いつかやってやろうと思った。サバンナは暑いし、夜は寒い。少ない草の芽を喰ってむしゃむしゃして、今は反芻しているだけでも必死なのに、この上、肉食の奴らにまで追いかけ回されたらやってられない。今度はヒョウをやってやる。ふふふ・・・というか、ひひーん」とは言わない代わりに、その腹いせとしてその辺にいるインパラを蹴り殺したりもしない。

世の中に絶望したと言い、社会に復讐すると誓い、「どうでもよくなった」と言いながらも、極真空手の有段者に「果し状」を書く奴もいなけりゃ、警察署に武装して乗り込む奴もいないし、ヤクザの事務所に木刀一本持って殴り込みに行く奴もいないのである。

こいつらは「自分を攻撃することが出来ない誰かを無傷で一方的に殺したい」のであって、自分が殺されるかもしれない、いや、怪我すらするようなことは必死で避ける。無関係な他人を何人ぶち殺しても構わないが、自分だけは怪我させられたり死んだりするのはお断りなのだ。まず、これが信じられない身勝手だと気付く。

「どうでもいい」と投げ出しながらも、その腐った自己防衛本能だけは機能するのだろう。この42歳も車も刃物も持っていないならば、中学生すら殴れないような臆病者だ。はっきり言うが、だから落ちぶれるのである。だから負け犬以下なのである。カスなのである。こんなヌルイ日本の社会ですら落ちこぼれるような出来損ないが生きていける場所など地球にはない。このような現行犯のキチガイは、速やかに炭酸ガスで窒息させるのがよろしかろう。それもエコだ。


ところで、いま、世の中ではまた「母親の彼氏」なる男が子供を殺している。いや、自分らの子供であっても虐待して殺している。しかし、人間は愚かで進化した生き物だから、そういうことは昔もあった。マスメディアの「少年犯罪は増加している」が嘘なら「親が子を、子が親を殺す事件も目立ちます」も嘘だ。目立つのは情報化社会だからに過ぎない。どんな国でも「正常な思考」からは考えられぬ残酷で不条理な事件はある。それも昔からある。しかし、だ。


「無差別殺人」に走る狂気はあまり聞かない。現在のアメリカや韓国などの国では聞いたことがあるが、いま、ワールドカップで盛り上がる南アフリカで、カラシニコフを乱射して大量殺戮を行うキチガイは知らない。戦前の日本でもそうだ。デモやテロはあっても、たかが乗用車で、たかが15センチ程度の料理包丁で暴れる狂人は寡黙にして聞かない。

なぜか?

それは殺されないからだ。何をやっても途中で止めて逮捕されれば、裁判にかけられて罪を問われると知っているからだ。人権擁護の観点から、どれほど無関係の人を殺しても、捕まった自分は人間として扱ってもらえると知っているからである。他人の人生はいきなり丸ごと奪っても、自分が失うのは「今後の人生における文化的な生活」だけだと知っているからである。それにこの狂気に至る動機とは、まさしくその「文化的な生活」を維持できなくなったことに他ならない。出来ないなら失ったところで問題ない。

この広島のマツダ本社でひとりを轢き殺した42歳は死刑になるのだろうか。いや、万が一、裁判員が満場一致で死刑判決を出したとしても、千葉法相のハンコが滑らない限り、死刑は執行されないだろう。つまり、この42歳はこれから、どうしてやったのかを延々と聞かれ、どうやってやったのかを延々と問われ、1年も2年もかけて裁判をして、ようやく判決が出たとしても絞首刑に処されることはないかもしれないのである。

その間、この42歳はメシも喰えば糞もする。仕事もさせてもらえるし、運動もさせてもらえる。健康診断はしてくれるし治療もしてくれる。「社会復帰」を目指して更生するカリキュラムを消化する。死亡した被害者は一人だ。10年、いや7年かそこらで出てくる可能性は低くない。50前になって「反省しました。申し訳ありませんでした。被害者の方には償いをさせてもらいます。遺族の方にも謝罪して償わせてもらいます」と言って、国の更正機関で就職口を世話してもらい、職業訓練もさせてもらい、酒も飲めば煙草も吸える、ぐっすり眠れて女も抱けるような生活が手に入るかもしれない。だから、ヤルのである。

これらの法治国家、人権国家における「キチガイ発生」の原因、あるいは「発狂水準の上昇」の真因とは、情けない話だが「公権力の衰退」に他ならない。北朝鮮の人民も包丁くらいある。ストレスもある。生命の危険すらある。それでも包丁振り回さないのは、すぐさま、更に大きな暴力装置から問答無用で殺されるからだ。そんなことをすれば「武器を捨てて地面に伏せろ」と言ってくれないと知っているからだ。

過剰、且つ、誤りだらけの「個人の権利の尊重」は「他人を殺す権利」まで許してしまっている。あくまでも「その結果」としての責任を負わされるだけになっている。これが揺るぎない事実だ。人は人を身勝手な理屈で殺すこともある。そして、我々は「神」ではないから、これら悪逆な行為、悪魔的な存在を許してはならない。この哀れな42歳の子羊のために「神はお許しになります。祈りなさい」というのは「神の使い」にでも任せておけばいい。

映画「フランケンシュタイン」。村人がフランケンシュタインを焼き殺すシーンがある。少女がフランケンシュタインを救おうとするも、フランケンシュタインは少女を助け、己は業火の中に身を委ねる。ここが「泣くとこ」だ。しかし、フランケンシュタインが悪魔の実験で生み出された可哀想な怪物で、一輪の花を少女に手渡す優しい心の持ち主で、敵意のない人間に危害を加えることがない、と知っているのは映画を観ている観客だけだ。この後世に残る名キャラクターはともかく、その儚いストーリーはイギリスの小説家メアリー・シェリーが19歳のときに思いついた「悲哀」に過ぎない。


また、フェミニズムの創始者であった母と無神論の先駆者である父の間に生まれた女性小説家が多感期に書いたものだと知ってから映画でも観れば、なるほど、村人の安全を優先する村長や、自分の家族のことだけを主張して「怪物を殺せ!」と叫ぶ村人は、フランケンシュタイン以上の怪物にみえるように作り込んである。映画を観ている観客は、もし、自分がその映画の中にいれば、この少女とフランケンシュタインを庇ってあげるのに、と思うことだろう。怯えて凶暴化している村人を説得して回りたいのだろう。「見た目は怖いけれど、本当は優しい奴なんです!」と涙を流して力説するのだろう。

しかし、その根拠を村人に問われたら「映画で観たから」としか言えないのではないか?つまり、理屈に合っているのは、映画の中で悪魔のように描かれている村人なのである。凶悪犯の死体をつなぎ合わせて、雷で蘇ったと聞けば不気味に思う固定観念、その「疑う」という人間の本能こそが村の安全を守ることだろう。偏見、差別、排他主義は問答無用で悪いのだと決めつけていいのは、19歳の可憐な少女だけなのである。ちゃんと大人ならば、森の動物と話すことはできないし、海で溺れてもイルカは助けに来てくれないし、雲に乗って空は飛べないし、街で暴れる怪物は殺さねばならないと知らねばならない。

映画が終わった帰り道、「フランケンがかわいそう」と泣く我が子の優しさに目を細めながら「本当に恐いのは人間なんだね」という安モンのヒューマニズムが目に浮かぶ。私ならば我が子の将来を想い「お父さんならあの、ふんがーと抜かす口の中に松明を放り込んで殺してやる!ぐへへへ!」と言って更に脅しておく。子供のためだ(笑)。


「こういう事件を起こす背景には何があるのでしょうか?」というテレビ屋の電波芸者は、フランケンシュタインを怒らせた原因は何かとやる。こんなに真面目で優しい人物がなぜ、このような凶行に及んだのか、とやる。テレビをご覧の皆様、今の世の中、どこに狂人が潜んでいるかわかりません、くれぐれも自分の身の安全には留意しておきましょう、という「本来のテレビの仕事」はしなくてよいことになっている。地震や台風なら「厳重に注意してください、くれぐれも外に出ないでください」というが、相手が「包丁持った人権」なら「犯人は相当に追い詰められていたんでしょう」と平然としている。ならば地震でも「プレートが跳ね上がったのはなぜか」だけをやればいい。台風でも「どうすれば熱帯低気圧を防げるのか」とやればいい。つまり、「この犯人を悪魔に変えたのはなぜか」ならばテレビで言わずに教会で神に問えばいい。



昨日は「慰霊の日」だったからテレビは沖縄ばっかりやるのはともかく、「この悲惨な戦争を繰り返してはならない」というだけでなく、ちゃんと「その背景」も問うてみればいい。「戦争は悲惨。繰り返してはならない」というだけなら「無差別殺人は悲惨。繰り返してはならない」も同じだというのだ。無差別殺人の狂人には「犯人をここまで追い込んだものとはなんだったのでしょうか?」と問題提起するのがメディアの仕事だと抜かすなら、当時の日本国がどれほど追い込まれていたのかも検証せよ。



また――――

千葉はわかっていてやっているのだろうが、法治国家における「死刑制度」という極刑とはいわば、こういう外道を「処分」するためにある。もちろん、殺すわけだから「更生」などもうしない。更正して社会復帰してくれなど求めてはいない。すなわち、多くの良民が安心して暮らせる社会の維持、あるいは構築のために「処分」せねばならない因子だと「判断する基準」という意味もある。これをいつまでも「処分」せずに放置することは、今後とも「いやになった。どうなってもいい」として他者を無差別に殺害する凶悪犯を生み出すことと同義である。仕事の失敗や借金苦に耐え切れず、自分のコンプレックスに押し潰されて社会を敵だと認識する連中とは、すなわち「社会が嫌になった」わけであるから、どうやったらその社会からブレークスルー出来るのかを考えることになろう。

それには実に簡便なやり方がある。大勢の無辜の民を殺せばいいのだ。そうすれば、煩わしい社会の一員からこぼれ落ちることができる。落ちた先には喰えて働ける場所がある。もしかすると、その「変化」はどうしようもない自分に対して特効薬かもしれない。そこでもう一度、すべてをリセットすることが出来るかもしれない。どうせ、このまま、どうしようもないなら、その大いなる「変化」に賭けてみようかという狂人が出ないことのほうが私には不思議に思える。秋葉原の不細工であれ、今回の42歳の脳なしであれ、逮捕されて連行されるときの表情を見よ。明らかに興奮状態から一気に冷めた表情、疲れ切って回らぬ思考でありながら、もう、こいつらは「明日の自分のこと」を考えている。

これから自分はどうなるのだろうと考えている。とうとうやってしまった、もう後には戻れない、さあ、これから自分はどこで何をするのか、何が待っているのか、しかし、もう自分では何もしなくてもいい。自分から能動的に何かをすべきことなどない。いずれはもう、出されたものを喰い、問われたことに答え、言われたとおりにしていればいいのだと気付くのだろう。そして、それこそが「最も楽な生き方」だと錯覚し始めている。

厳しいとか辛いは慣れる。それに日本の待遇の良い刑務所は支那人のお気に入りでもある。世界にはもっと劣悪な環境はある。また、拷問されるわけでもないし、メシを喰わせてくれないわけでもない。自分のような狂人に殺される心配もないし、規則正しく生活することは別に苦痛でも何でもないのだと気付くだろう。むしろ、親からもらった己の健康に気付き、働くこと、学ぶことの歓びに気付いて出所する受刑者は少なくない。


宮崎県の牛や豚は何も悪いことをしていないのに「殺処分」された。他の健康な牛や豚に感染して殺してしまうからだ。しかし、人間が悪いことをすれば、あくまでも刑罰を意味する「死する刑」とされる。そもそも、国家が犯罪行為を認めず、身柄を拘束して取り調べ、起訴して有罪判決を引き出し、定められた期間、然るべき施設で処罰するのは「更生」させるためでもある。しかし、意味は繰り返しになるが、やはりそれは日本社会の治安を維持するためであるのだ。その最後の手段、緊急処置的な意味で「更生させることが出来ないほどの犯罪者」や「更生させようとすることを認めにくいほどの罪悪」を目の前にしたときは「殺してよい」と法律で決めてある。「殺処分すべき」と策定されている。

人はいつになったら「神には近づけるとも、神にはなれない」と気づくのだろうか。悪を許すことが出来るのは「神の特権」ではないのか。地べたを這いずり回る人間は、せめて「悪は許さない」という良識を持つべきではないのか。ならば「悪の定義」は重要になるから、賢い人間は考えるだろう。法治国家もその手段であるなら、とりあえず「法を順守することは悪ではない」というベースは必要となる。つまり、現在の日本の法相は限りなく「悪に近い」存在である。見た目は立派な老女だが、頭の中は19歳のメアリーが花でも摘んでいるのだろう。ある意味、フランケンシュタインのほうが救える。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (久代千代太郎)
2010-07-01 04:13:06
>苺大福さん

コピペありがとうございます。


うわぁ~~・・・・
返信する
Unknown (苺大福)
2010-06-30 13:07:48
犯人は創価学会員の家庭で育ったようですね。それはさておき、いいもの見つけたのでコピペしておきます。

7・3 ヤクザカルト撲滅・課税デモ 東京・大阪同日開催 

http://www.nicovideo.jp/watch/sm11222941

http://blog.goo.ne.jp/mintsun157/e/1f63b39b196648916465f99536d22a4b?fm=rss
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。