忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2011.3.9

2011年03月09日 | 過去記事
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110309/plc11030914140020-n1.htm
<民主・土肥氏「竹島領有権、日本は主張中止を」韓国議員と共同宣言・会見まで>

<わが国固有の領土にもかかわらず韓国が不法占拠を続けている竹島について、衆院政治倫理審査会会長で菅直人首相が主宰する政策グループ顧問の土肥隆一衆院議員(兵庫3区)が「日韓キリスト教議員連盟」の日本側会長として、日本政府に竹島の領有権主張中止などを求める同議連の日韓共同宣言に名を連ね、韓国の国会で共同記者会見していたことが9日、分かった。土肥氏は産経新聞の取材に「個人的には、竹島は日本の領土とは一概にはいえないのではと思っている」と話している。

共同宣言文のタイトルは、「和解と平和を成す韓日両国の未来を開いていこう」。日本に対し「歴史教科書の歪曲(わいきょく)と独島(韓国が主張する竹島の名)領有権主張を直ちに中止する」などの3項目を要求。議連の日本側会長の土肥氏ら3人の連名としている。
 
土肥氏によると、共同宣言は先月27日、韓国の植民地支配下の独立運動を記念した「3.1節」の関連行事の一つとして開催された、同議連の共同記者会見で発表された。
 
土肥氏は日本側会長の立場で、日本から唯一出席。韓国には当日入り、式典の前に「この共同宣言を発表したい」と日本語訳が添付された宣言文案を渡され、内容を確認して了承、共同会見に臨んだという。
 
土肥氏は産経新聞の取材に「共同宣言は外交交渉上有効になるようなものではない」と説明。「この議連は本来、キリスト教的精神で日韓問題を考えようという趣旨のもの。どちらか一方だけが悪いということにはならないはずだが、韓国では竹島、慰安婦、教科書、靖国に対する自国の主張を述べないと、日本と向き合ったことにならない」とも述べ、韓国側が作成した宣言文に理解を示した。

共同宣言は、韓国内では主要各紙が報道。会見した土肥氏らの写真も掲載された。土肥氏によると、同議連はキリスト教信者の両国の国会議員によって約11年前に発足。日本側は7人程度だが、韓国は国会議員の3分の2にあたる約150人が所属しているという。
 
土肥氏は通称「菅グループ」と呼ばれる菅首相主宰の「国のかたち研究会」代表を務め、昨年9月の民主党代表選では菅首相の推薦人だった>



これが「反日帰化人」の怖さである。彼らは日本国籍を得て、日本の有権者から選出されて、日本の国会議員として、日本の納税者からカネをもらいながら国を売る。菅直人は国会で「非常に遺憾」などと言って済まそうとするし、本人も衆院政治倫理審査会会長や党常任幹事会議長などの役職は辞するが、なんと、国会議員は辞めぬらしい。

ま、辞めぬのは帰化朝鮮人の勝手であるが、問題は日本国民が「辞めさせられぬ」ことだ。菅政権に対する間接的なダメージを与えることは出来ても、直接、何らかの意思表示を示して「辞職させる」という手段がない。だから今でも菅直人は日本国総理大臣なのだ。

情けないのは、この「管グループ」という恥ずかしい民主党内のセクトではなく、こういう程度の低い「反日の犬」を飼っている日本の政界そのものだ。この土居某程度のレベルで「売国されてしまう」というガードの弱さというか、韓国人が韓国で竹島でも北海道でも沖縄でもいいが「アレは韓国の領土」と抜かすのは阿呆なだけで誰も相手にしないが、かりそめにも日本人が日本の国会議員をしながら<個人的には、竹島は日本の領土とは一概にはいえないのではと思っている>などと答えることを許す無様である。

もちろん、日本には「言論の自由」があるから、日本国籍を持つ人が「竹島は韓国の領土だと思う」と述べても逮捕されたりはしない。日本人でありながら「日本は未来永劫、中国と韓国と北朝鮮に謝罪と賠償し続けるべき」という人が日本のパスポートで海外旅行しても許される。しかしながら、その代わり、日本では「なんでそう思うのか?」を問われる場合もある。この土居某も「個人的には」と産経新聞の取材に答えているから、あくまで「個人的」には何を言ってもよい、という前提があることになっている。それは「言論の自由」を謳歌しているわけだから、このボンクラが政治家であろうがヤクザであろうが、理由を問われたら答えねばならない。これは「言論の自由がある国のルール」である。

私が「個人的」に、だ。どこかで「ハワイは日本国の領土」だと言ったとする。それは我が家の犬や壁に向かって言ったのではなく、相手が妻であれ倅であれ友人であれ、対象があくまでも人間だった場合、且つ、相手の同意が得られぬ場合には「理由」を説明せねばならない。最近は耳にせぬ言葉ではあるが、マスコミが自公政権時代によく使っていた「説明責任」のことだ。アメリカ人の言葉で書くと、アカウンタビリティとかいうアレだ。

ロシアや北朝鮮や支那ならば「理由の説明」は不必要だ。「尖閣諸島は中国の確信的利益だ」と天安門広場で言っても、誰も理由を問うことはしない。そこで「なぜだ?説明せよ!」とやれば装甲車に轢き殺されるからだ。日本人は学校で「歴史」を学ぶが、彼らが学ぶのは「正史」であり、それは創作のことではあるが、彼らの世界では「権力者が作るモノ」がある意味での「真実」なのであり、人民はそれらを「現実」として受け入れねばならない。

しかし、日本などの「言論の自由がある国」はそうではなく、学校で「日本は昔、アジアの人々に酷いことをしました」と日教組の教師がやれば、生徒は「せんせい、それは本当ですか?」と質問してもよいことになっている。そこで日教組の教師はたくさんの嘘をつくことになるが、それでも一応、生徒の疑問には「説明する義務」が生じている。問題はその「ウソの説明」が低レベルに過ぎるから、ちょっと本を読む子供には通じないレベルだというだけだ。

そして、言論の自由がある国では説明が出来ぬ者、あるいは適当な説明でお茶を濁す者を相手にせぬ自由もある。重要な仕事は任せられぬし、困った時の相談相手としても使えない。まあ、この某という政治屋も、だ。世の中にはこんな人もいるのだ、という残念な部類に属するアレな人として、残りの人生を残念に過ごしてもらいたい。









http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110309-00000061-jij-pol
<東京マラソン、賞金格差に苦言=一般800万円、障害者20万円―蓮舫担当相>

<蓮舫行政刷新担当相(障害者施策担当)は9日午前の衆院内閣委員会で、2月27日に行われた東京マラソンで一般と障害者部門との優勝賞金額に大きな開きがあることに苦言を呈した。
 自民党の長島忠美氏から東京マラソンの賞金格差について聞かれると、蓮舫氏は「健常者が800万円に対して(車いす部門の)障害者が20万円。あまりにも差がある」と指摘し、「障害を理由に差別されることがスポーツにおいても通常生活においてもあってはならない」と強調した。蓮舫氏は、大会を主催する東京マラソン財団に聞き取りを行ったことを明らかにした>


「山田バー」の前の店に「焼酎バー」があった。なんと、その店も閉店ガラガラ、私よりも4つほど年上のマスターは「介護学校」に通っているとのことだ。「飲み屋のオッサン→介護職」というのは既定路線となりつつある(笑)。

ところで、この御仁が「障害者」のことを「障がい者」とすべき、などと言っていた。どこぞの人権屋の毒でも喰らわされたのか、“害という漢字は失礼。障がいは害じゃなくて特徴”とかやりだした。もしくは「害はアレでも碍ならイイネ!」とかで、そのコメントにも「イイネ!」が6つほどついていた(笑)。

さすが、40を大きく過ぎながら「オレはこの辺では有名。ヤクザも怖くない」とか言いながら、あれほど排水溝が変だから水流しちゃダメ、とか管理会社から言われているのに「家賃払ってんだから」と水を流しまくるはずだ。誓約書にサインしたら、せめてそれを守れと言いたい(笑)。と、まあ、このように考えが浅いから、すぐに脳が痺れてしまうのだ。

「碍」という漢字はそうか、道を石が塞いでいて通れなくて困っているという意味なんだ、そうかぁ~なるほど、障害者の人も好きで障害になったわけじゃないもんね、これからはオレも「碍」とか書いちゃって、介護学校で「なんで?」とか言われたら、偉そうに説教してくれてやるんだ。キミ、障害者の人は好きで障害者になったのかね?とかやってやる。オレって賢そう~オレって有名人~~とか悦に入るつもりであろうが、お向さんだった誼で、だが、ちょっと、マッテほしい!!

「障害者」の「障」の字も「差し障る」の意味だ。つまり、「障る」という言葉は「体に障る」とか「病気に障る」などとする、何かに都合のよろしくない意味でもある。「障害者」の「障害」とは「害があるから何かと障る」わけで、それは「生きていく上で“何かと障る”事象」として、その原因を「体に害があるから」としている。そもそも「碍」とは「礙」の略字で「石につまずく」ことを意味しており、使う場合は「さしつかえがある・さしさわりがある」と同じ意味となる。つまり「障碍」とすれば、それは「さしさわりがあるのはさしつかえる」というほどの意味となり、普通、それは重言となる。馬から落馬、右に右折、熱い熱湯、運営をマネジメントする(社長マン)、売国する民主党などと同じで、それは先ず、言葉として間違っている。いくら悪平等でも言葉をおかしくしてはならない。

それならば、だ。どこかに悪い「加害者」がいて「害を加えられた」結果、その人が「害を被った」その結果として「被害者」となり、そのときの怪我が元で「障害者」になっても「石につまずいた」だけとして「碍」を使えというのか。それとも、公害や薬害で障害者になった人は「害」で結構だが、生まれながらにして障害者だった人には「碍」を使えとでも言うつもりか。それこそ「障害者差別」ではないのか。

そんなことだから、この蓮舫みたいに馬鹿なことを言う。

東京マラソンの賞金が800万円と20万円に区別されているのが「ケシカラン」とのことだが、これも問題解決は簡単、それこそ区別も差別もなくしてしまって、障害者にも健常者と同じ条件で走らせてあげればいい。というか、勝手に参加すればいい。ンで、勝ったら800万円持って帰ればいい。それだけだ。

それが「差別だ」というなら、町からバリアフリーなども全て無くしてしまえ。点字もいらんだろう。車椅子も勝手に乗ってるだけなら知ったことではない。杖や歩行器で歩いている老人も邪魔なだけだ。

「平等」というのは、つまり、そういうことなのだ。

蓮舫は<障害を理由に差別されることがスポーツにおいても通常生活においてもあってはならない>とか言ってしまうが、これがどれほどの冷酷な社会を生むことになるのかわかっていない。車椅子を見て「足が不自由とかありえね~ww」と笑う人間がいれば、その人間は社会からちゃんと冷遇される。そいつ自身が何かと不自由だともわかる。そんなのは社会的に不適合な輩である。つまり、その他大勢の人は「無関心」を決め込む。理由は「どう接したらいいのか?」だ。これは普段から「差別差別」だと騒いでいる連中の責任だ。

全盲の人が駅を歩いていても、声をかけることはなかなかしない。私は仕事柄、妻はその性格と、かつて「おかあちゃん」と呼んでいた全盲の友人がいたから、相手が2メートル近い黒人でも話しかけて降りる駅を聞く。それは、我々夫婦の実体験や勉強から、車椅子であれ歩行器であれ、その状態で社会活動を続ける人々は「障害者」だと認知して接して欲しいと思っているからである。もちろん、未だ「放っておいてくれ」と言われたことなどない。みなさん、丁寧過ぎるお礼を述べてくれるから、こちらが恐縮するほどだ。

数年前に知り合った川田氏は生まれながらにして全盲だが、音声パソコンで執筆したその著書の中で「見えないから不安に決まっている。どんどん声をかけてくれ」と訴えている。私も介護学校で「目隠し」をして街を歩いたが、ほんの数分でも「独り」にされたら何もできないと思った。視覚障害者の方々は、あんな杖一本で道を歩き、電車に乗り、社会活動をしているなど信じられない。私は近い将来、認知症と視覚障害者のガイドヘルパーの資格も得たいと考えるが、学べば学ぶほどわかってくるのは「日常生活における不安」であり危険である。決して、自分らが「碍」なのか「害」なのかなどではない。

東京マラソンで「走れた」ことを喜ぶ障害者の方は多かろうが、なんで健常者は800万なんだと憤っている障害者はいるのだろうか。どこかピントがずれている。

無論、障害者の方が全員「五体不満足」を書けるほど強いわけでもない。著者は「障害者ネタで笑える世の中が来れば差別はなくなる」と発しているが、私は残念ながら、そんな世の中は来ないと思っている。それは「差別をするな」という「差別集団」はいなくならないからだ。

また、思い出したから書いておくが、私がスーパーに就職した際、パートさんで障害者がいた。当時の店長は私よりも一回り年上の「ヒゲの店長」だ。実質的には私の「最初の師匠」となる。よく怒鳴られたし、ボロカス言われた。もちろん、若い頃の私は面と向かって言い返したり、不機嫌を隠さず仕事をしたりと、まあ、逆の立場で考えれば扱い難い部下であった。

そんなとき、私はその「障害者のパートさん」が棚の上から商品を取ろうとしているのがみえた。当然ながら、私はそれを手伝った。いいよ、取ってやるよ、と優しい人間を気取った。しかし、である。その後ろから怒号が飛んだ。

「自分で取らせろ!」

「ヒゲ」だった。瞬間、私はキレて「なんで手助けしたらアカンのじゃ?!ごるぁ!」とチンピラ丸出しでやり返した。私は「正しい」という自負心があったからだ。「ヒゲ」もキレて向かってきた。このヒゲ、今日という今日は殺してやる、と決意を秘めて私も向き合った。しかし、ヒゲが放った次の言葉に私は絶句してしまう。

「おまえ、結婚するのか?この人と?」

この人はずっとこの先、この障害を抱えて生きていかねばならない。いつも、どこでも私がいるわけではない。そこで「頼る」ことが当然となった、この人の今後の人生を思うと、この「ヒゲ」がいうことが「現実」なのだと知った。私はそれを「ヒゲ」に謝るのに数年要したが、それは今でも、私の胸にある。「優しい」というのは、それを見て見ぬふりする「辛さ」も包含する。似非善人らから「酷い奴」という誹りを引き受ける覚悟もいる。

しかし、だからといって危険な場所などは話が別だ。それが例えば駅のホームや交通量が多い交差点、長い階段などだ。リハビリ訓練中に手を貸す馬鹿がいないように、我々健常者はその状況を峻別して手を貸したり、声をかけたり、無視したりせねばならない。考えねばならんことは「害」や「碍」ではないのだ。












http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20110309/CK2011030902000075.html
<とちぎの課題 統一選を前に<5>就職難 求職者と採用側に意識差>

<「大手企業に絞ったのがいけなかったのかもしれない」。宇都宮市のホテルで八日開かれた、県などが主催する合同就職面接会。今春、都内の私立大を卒業する同市出身の女性(22)は、リクルートスーツ姿の若者であふれ返る会場を見渡しながら危機感を覚えた。
 
女性は「友人たちがそうしていたから」と、都内の大手企業を中心に四十社近くを回った。その結果、いまだ内定はゼロ。「もう少し視野を広げていれば良かったかな」と表情をこわばらせた。
 
“超氷河期”といわれる就職戦線。一月末の県内大学生の内定率は前年同期を0・6ポイント下回る61・9%で、統計の残る一九九八年以降、最低を記録した。
 
この背景にあるのが、採用意欲が高い中小企業に対し、学生が企業規模や職種にこだわりすぎることによって起きる「雇用のミスマッチ」。実際、求人数はリーマン・ショックの影響で過去最低だった前年を27・3%上回る二千三百四十七人に上り、従業員三百人以下の中小企業では33・4%の増加率を見せている。
 
この日の面接会でも、列ができるのは大手や、事務職を募る企業ばかり。閑古鳥が鳴いていたブースも多く、途中で帰ってしまった企業もあった。ある福祉施設の人事担当者(43)は「きつい仕事というイメージのせいか、誰も来ませんでした。人手不足なのに…」と弱り切った表情でこぼした>



福祉関係の人気は低い。仕事はきついし、給料は安いし、とのことだが、私は馬鹿だからわからない。「夜勤もあるし」などとも聞くが、私は「家に帰れない仕事」を知っているし、玄関開けたらぶっ倒れるほど疲れる仕事もある。それに仕事が面白くなる、ということは給与とは別のことろにあるモチベーションだから、それもよくわからない。

しかし、一言だけ書いておくと、働いて金もらうのに「ミスマッチ」とかやっている間はダメだ。中小企業や福祉業界は「人手不足」だということだが、これもいつまでも不足しない。支那人などのアジア系人種もさることながら、いずれは「どこにもなんにもない」という時代が来る。己を過信して「世界にたった一つの花」だと高く売ろうとするのは勝手だが、私はスーパーの店長をしていたから「そういう商品がどーなるのか」をよく知っている。「売れ残り=ゴミ」である。

菅直人が「雇用!雇用!雇用!」と繰り返しているから、それなら、と厚生労働省も若者向けの就職支援策として、昨年の9月から5000人枠で「中小企業によるインターンシップ」を募集したら、全国で20名しか応募がなかったと驚いている。しかも、今月終了だ。

「仕事を探しているのに、タダ働きなどしていられるか!」ということだ。また、よく「生活できない」などというセリフも聞く。家に病気の家族でもいるのかと、高額の治療費を支払いながら、看病をせねばならない家族でもいるのかと思えば、ぜんぜん、恵まれた家庭に育っていたりする。当たり前の話だが、10万円なら10万円、20万円なら20万円の生活は出来るようになっている。また、本当に「病気で働けない」とかなら然るべき保護もある。つまり、何をもって「生活」と呼んでいるのか、が不明なのだ。

人手不足の中小企業に「インターンシップ」として出向き、そこで誠心誠意、一所懸命に働いてみれば、かなりの確率で「どう?」と誘われると思われる。なぜ、やらんのか?

「目当ての企業」を捨てなくともよい。いつか就職していやる、と決意を込めて、その中小企業で働くことはダメなのか。これが私にはわからない。それに「収入に見合った生活」というのは当然のことで、コレはとくに恥ずかしいことでもなければ、誰かと比して劣っているわけでもない。勘違いするのは馬鹿なだけだ。

私は以前、月に20万ほど小遣いを使っていたが、現在、財布の中に入っている千円札は、もう、5日ほど入っている。昨日も妻が財布に金を入れようとしたから、まだ使ってない、と言って褒められたところだ。だって使う理由がない。昼飯は弁当だし、通勤中に飲むコーヒーは妻が用意してくれる。こんなの別に惨めでもなんでもない(笑)。もちろん、必要があれば、妻のことだ、借金してでも用意してくれることだろう。ただ、その必要がない。私の部屋の冷蔵庫にはお茶やら炭酸飲料などを入れてくれているし、妻が仕事でいなければ、ちょっと台所に立ってなんでも作って喰うし、とくに不便もない。というか、相変わらず、ありがたい生活を送っている。

たしかに収入は以前からして25%ほどしかないが(泣)、それでも妻は「お疲れ様」と言ってくれる。愛情は75%カットされない(笑)。倅も給料が下がった父を馬鹿にもしないし、友人らもとくに変化ない。新しい職場で20代の先輩らに顎で使われたりするが、とくにそれも苦にならない。そんなことより今日も働く職場があって、元気に動く体があって、労わってくれる妻がいて、ちょっとボーっとした倅がいて、相変わらずきゃぁーきゃぁーうるさい娘も元気で、最近、ちょっとお兄ちゃんらしくなった孫もいる。

癒してくれる犬もいるし、昨日の夜はカレーだった。倅はバイト先でもらった「からあげ」を「お酒の肴」として土産でくれた。「山田バー」を閉めた御蔭で飲み放題の「トリス」を開ければ、倅が氷を入れてロックを作る。そうそう、ついに先日、職場の「古株A」は「自宅で作った果実酒」を持参してくれて、それも飲んだ。甘かったが美味かった。

昨日、介護主任から呼び出されて、来月から「リーダー」をするように言われた。2ヶ月目だ。その日、私に「コレ、洗っといて」とカップを投げた20代の女性は数年勤めているが、来月からは私の指示を受けねばならない。辞めるかもしれない。しかし、施設は「それも仕方がない」と判断して、私にそのような指示を出したわけだ。時代は変わっている。

利用者の男性で爪が真っ白になっている人がいる。なんというか、泡のようなものがあり、表面は何重にもずれている。私は不思議だと思い聞いてみると、なんでも「鉄工所」で働いていたとのことだ。私が「溶けて、固まって、溶けて・・・?」と問うと、ニヤリと笑って頷いた。こっちのお爺さんは「元国鉄の車掌さん」だ。あっちのお婆さんは看護婦さん、読書が趣味で、壁にあった写真には「本を読む姿」の後ろに大量の本が書棚にあった。

30過ぎても親元にいて、近所のパチンコ屋で給料の過半以上を使い、こんな仕事じゃ生活できないとほざく餓鬼が、元国鉄の車掌さんに対し、挨拶代わりに「ボクシング」のように脇腹に入れた。咄嗟に驚く車掌さんを見て、餓鬼は「刺激がないとボケる」と笑った。なんたる無礼者か。その御仁は貴様と同じ年の頃、貴様なんぞ足元にも及ばぬ立派な社会人だった。認知症になったら、それはその尊厳まで否定されねばならんのか。

誰が好んで失禁などするものか。誰が好んで貴様の世話になどなるものか。それをどうしようもないから、貴様如きの無礼にも怒らず、黙って許して下さっているのがわからんのか。

繰り返すが、時代はまた変わり始めている。現在、人手不足で悩んでいる中小企業や福祉介護の業界も「狭き門」となる。それは就職率がどうした、という問題でもなく、そこには圧倒的な市場価値の厳選が成されるからだ。すなわち、くだらぬ人間には勤め先がない。我慢や辛抱の価値がわからん人間、仕事に対する尊厳や誇りがない人間、属する組織のために身を粉にして働くなど馬鹿らしいと斜に構える人間、これらは淘汰されていく。

「鶏口となるも牛後となるべからず」という言葉がある。大企業でなくとも、その組織で頭に昇る努力をせよ。若者は人に認められる人になることを目指すべきだ。それは実のところ、金や地位などではない。企業の規模や株価も関係ない。「何をするか」よりも優先される「どこでするか」などあり得ない。



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