忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

たまには入れに行くはなし

2021年10月04日 | 忘憂之物
八代将軍徳川吉宗。享保元年、1716年当時も新しい将軍様に求められるのは「財政再建」「権威復活」に「意識改革」。いまとあんまり変わらない。

吉宗も「岸田ボックス」ならぬ「目安箱」を江戸城の大手門前に置いた。なにを書いて入れてもよいが「匿名禁止」「悪口禁止」「建設的な提案だけ」という、どこかのネットみたいなルールがあった。

また、箱のカギは吉宗だけが持つが、お前は入れるなとか、入れた紙をなかったことにするとかもなかった。つまり「吉宗にブロックされた。ブロック将軍ww」とか「徳川にBANされた!!目安箱の自由が阻害された!」もない。

ともかく、これなら直接、征夷大将軍に物申せるから、まともな意見や提案があった。「岸田ボックス」の中には「バナナはおやつに入りますか」と、たぶん、小学生も入れていたが、岸田新総裁はちゃんと誰にも相談せず「入りません」と明言していた。立派だ。専門家の議論を待ちたい、とかバナナというものの多様性を否定しないかとか心配もしない。とはいえ「入ります」と言えばウガンダやコンゴなどの国は「主食なんだが」と怒るかもしれない。実に慎重な答弁だった。今後の国会審議に安心もしたものだ。

ともかく、和歌山城主のころからやってた吉宗の「目安箱」。中は本当に真面目なものだった。「江戸城下の貧富の差が酷い。金のない老人は病気になったら野垂れ死んでいる。幕府の金で療養施設をつくるべき。医者がいるだろうから連絡をくれ。自分がやる」。

吉宗はすぐに江戸町奉行、大岡越前守忠相を呼び、現在の文京区、小石河、ではなく小石川に療養所をつくらせる。小石川養生所だ。初代所長は目安箱に意見を入れた小川笙船。養生所は明治維新後に東京私立養育院となった(現・東京養育院)。山本周五郎が書いた小説「赤ひげ診療譚」はこれがモデルになる。

元禄バブルが崩壊して世は不景気ながら、江戸城に詰める役人は「休まず・遅れず・仕事せず」。派閥力学による処世術を駆使してポスト争い。老中はもちろん、長崎奉行なんかになればオランダから中国からお中元、九州大名からはお歳暮がある。懸命になるのは責任回避に問題の先送り。いまとあんまり変わらない。

仕事も進まない。それはこちらの意見を吟味したうえで、これはあちらの言い分も慎重に取り扱って、その件についてはじゅうぶん検討したうえで丁寧な説明を―――などと悪い合議制で機能不全になった江戸幕府の役人は、いまさら吉宗が「改革が必要」とか言っても本気で協力しない。厄介なのが来たな、くらいのものだ。


普通、鼻息荒く「改革だ」とやってきたら前任者、現職者にあまり良い評価はない。だからどんどんとカルロス・ゴーンみたいにリストラしただけのことで成功者気取りになる。しかし、吉宗は連れてきた紀州の家臣を要職につけず、自ら去る以外の幕府の家臣、役人を切らなかった。

もちろん、なにもしないわけではなく、大岡忠相は伊勢から来たし、幕府内から水野忠之なんかをみつけて勝手掛老中に任命したりした。大抜擢人事だ。

つまり、ポイントは変えているが、全体的には触らない。摩擦と軋轢を避けるわけではないが、不必要に発生させて現場に支障をきたさない。表面に波風を起こさず、地脈から確実に変えていくやり方だ。管理職での転勤が多い人にはピンとくるかもしれない。


幕府の人事では切らなかったが、ばっさり切ったのは例えば「大奥」だ。吉宗は老中に「大奥で25歳以下、見目麗しい順で50名ほどの名簿をつくれ」と命じる。老中らはなんだ、厳しい改革をするとビビっていたが、結局のところ、ふつうに夜も暴れん坊将軍じゃないか。なぁんだ付け入る隙はある、くらいに思ったかもしれないが、にやにやと名簿を作って吉宗に渡すと目もくれず「ぜんぶ家に帰せ」。

すわ、まさかのブス専か、と驚いた老中は理由を問う。吉宗は「それほど器量好しなら嫁に行けるだろう。残った女中も嫁の話があれば家に返せ」でお仕舞だった。大奥の維持経費は江戸幕府財政の25%。ここにはメスで間に合わないから大ナタを振り下ろしたわけだが、言うまでもなく、もし、この名簿が25歳以上で見目麗しくない50名を切ったなら、まあ、普通の阿呆将軍だ。それなら松平健の「余の顔を見忘れたか」というセリフは生まれていない。斬られる側だったかもしれない。

また、連れてきた紀州藩の家臣らは「御庭番」になった。既存の幕府にはない「新ポスト」だ。仕事は「暴れん坊将軍」でお馴染みだが、つまるところ「隠密」である。御庭番が江戸城下で情報を得る。貴重な庶民の生の声だ。例えば江戸城下で「火事と喧嘩は江戸の華」とか言っていると、やめなさいと火消し組合が作られて「手押しポンプ」とか出てくる。隣の家を壊す前に水かけろ、ということだが、これもいまの消防署の元になっていたりする。



改めて吉宗は「名君」なのだと感心するが、マスコミも選挙もない時代であっても、独断専横は庶民だけではなく、組織の人間からも嫌われる。信念のないリーダーに人は付いていかないのも同じく、見当違いの対策やらは庶民が困るだけだし、浅薄な議論をしただけの結論もバレてしまう。だから「リーダーの資質」とは如何なる時代も問われてきた。

昔からマスコミなどなくても人らは集い、話し合い、玉石混合の情報を楽しんだ。将軍様だけではなく、老中の評価から、役人の醜聞、大商人の悪口から団子屋の味まで意見を言い合った。すると、必然的に「見抜く力」は備わってくる。あくまでも「自由闊達な意見交換の場」が確保されているという条件付きだが、これが長年続くと人は進化し始める。

つまり、的を射てくる。みんなが「おかしい」と感じるものは、往々にして結果「おかしかった」ということもある。みんなが「そらそうだろう」と思うことは、そのほとんどが「そらそうだ」ともなる。無論、稀に外すこともあるが、外したら外したと認識もできる。

日本でもリメイクされた有名なクイズ番組で、回答者が選択問題に難儀したとき、回答の手助けになるいくつかのチャンスを有する。知人に電話したり、選択肢を減らしたりするが、その中に「会場の観客全員に聞く」というのがある。この正解率がほとんどの場合、個人で悩んで選んだ回答よりも高いことは疑う余地のない事実である。これを集団の知恵と呼ぶかどうかはしらないが、いずれにせよ、これはクイズのチャンスになるほどの信頼性を持つ。

これはこのまま多数決への信頼にもなる。言うまでもなく、いまの選挙制度や民主主義に安堵感を覚える根拠ともなり得ている。多くの有権者が選んだ、という事実は選ばれた者や組織の正当性すら担保する場合がある。もちろん、繰り返すが間違いはある。2009年の悪夢のなんとか政権などもそうだったが、しかし、現在のなんとか政権の片割れが支持率数%という事実はその反省の上に成り立っているともわかる。

自民党総裁選。党員党友による「予備選挙」が初めておこなわれたのは1978年。当選した大平正芳が獲得した党員党友票は748でトップ。そのまま本選で当選している(福田赳夫は辞退)。この「党員党友票が多い=本選も当選」はその後も続く。よく考えるまでもなく、ある意味、不思議なことでもなんでもないと気付く。

そしてこれが引っ繰り返るのが2012年だった。党員党友票は石破茂が165票で安倍晋三の87票を圧倒も決選投票で石破は逆転負け。ようやく悪夢のなんとか政権が終わっての第二次安倍政権だった。2015年は無投票で安倍晋三。2018年は石破181票。安倍晋三224票と辛勝。危ないところだったが、なんとなく、集団の知恵に疑念が生じ始める頃だ。


今回の総裁選。やはり議員票と党員党友票の逆転現象があった。その理由は地方に人気の石破、党員党友から支持の厚い河野太郎、議員からは嫌われてるが国民からは人気のある「小石河連合」とマスコミはずっとやっていた。

みんな「本当にそうなのかな」と思っていたが、きっとそうなんだろうと思うことにしている。おかしいと思って「おかしいんじゃ?」と言ったり、どこかに書いたりすれば、たちまち「認識派」とかいう人らが馬鹿にしてくるから怖い。

アメリカ大統領選挙で「バイデンがオバマ抜いて8000万票超えるかね?」と問うたら、アメリカの人口増は知ってるのか、裁判所も門前払いじゃないか、そもそも他国の大統領選挙に何様のつもりだ、とか叩いてくる。

思わぬ罵詈雑言も喰らう。学歴もなく基本的知識がない、得ている情報が偏っていて歪んでいる、デマ情報に踊らされる哀れな阿呆、もう人格否定に近い。

これはもう、ごめんなさい、許してください、もう言いません、ワクチンも予約します、しかない。そんな中での自民党総裁選、党員党友って大丈夫なの?そんなザルで中国やらの影響受けないの?とか言えない。党員党友100万人増やして次は総裁選挙に勝つぞ、とか怖くないですか?とかも言えない。すぐに、おかしいと言うなら証拠出せ、と言われる。証拠がないならおかしいと言うな、おかしいと思うお前がおかしいのだ、とYouTube動画などで馬鹿にされたらイヤじゃないか。



集団の平均的な予測における必要条件とは「意見の多様性」「意見の独立性」「意見の分散性」「意見の集約性」と言われる(「みんなの意見」は案外正しい・ジェームス・スロウィッキー著)。この条件が揃うとき、集団の予測や予想は限りなく「正解」に近づくとされる。だからいま、先ず「意見の多様性」が殺され始めている。


昨年からいろいろある「おかしなこと」。あるいは「おかしいと感じること」。もちろん、無責任なデマもあるだろうし、悪意ある意図的なデマもあるだろう。しかし、それらを含めてこその市井の声であり、それらを峻別して吟味することも民主的、且つ、自由な国の国民の嗜みである。そしてもっと悪質で実害の大きいデマや誤情報が蔓延しているのに、それを放逐する側、あるいは扇動する側こそが「意見の多様性を殺す側」になっているのも恐ろしい。




テレビ朝日のドラマ「暴れん坊将軍」では、吉宗が「徳田新之助」に扮して江戸の町を暮らして庶民の声を直接に聴いた。岸田総理は地味だと言われるが、さすがにその辺をうろうろしたらバレるし、いまはそんな必要もない。

「目安箱」の性能が上がっている。新しい総理総裁には、その自慢の「聞く耳」にこそ期待したいが、その前に国民の「口を封じる」勢力があるとも知ってほしい。現状、日本も相当に危うい。

吉宗のように目安箱にはいつでも、だれでも、なんでも入れることができるよう願いたい。たまには入れに行く。



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