忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

鬼の子守唄

2010年05月27日 | 過去記事
倅が書いた小説を読む。誰の影響なのか、勉強も大変だろうに(親馬鹿)ちょこちょこと書いているみたいである。「気分転換」になるのかどうかしらんが、ともかく、犯人のトリックが「紙コップに毒塗ってた」にはどうしようかと思った。でも、まあ、またこれが親バカ、なかなか面白いのである。読んだあとは「どう?」と聞いてくるから、一応、感想を述べたりもするが、もちろん、一切のダメ出しはしない。倅は褒めて伸びるタイプではないが、叩いて伸びるわけでもない。つまり、勝手に伸びる。タケノコみたいなもんだ。

「さまようやえばー!!」

しかし、文章を書くということはよい。頭が整理されるだけでなく、自分でも気づかぬところまで考えが及んだりする。自分の理解を超えて、新たな発見があったりとかする。「読み書き」というが、これはセットで効力を発揮するのだろう。

「さまようやえばー!!」

ちょ、ちょっと、マッテもらっていいだろうか。妻がうるさいのである。だから、それをいうなら「さまよう刃」だ。どんなストーリーなのだ。死んだ石野マコが成仏できずに迷っている話なのか?それに「八重歯」が彷徨ったら、ただの歯抜けの話だろう。

「どんなはなし?」

あの、アレだ・・・「さまようよろい」っていうのがいてな、それの友達の話だ。剣だけが彷徨ってしまって、村の人を傷つけたりする。だから、それを探して呪いを解く話だよ。

「ふぅ~~ん、りんぐりんたん♪りんぐりんでぃんでぃんとん♪」

うむ。最近、なにかのCMの影響で、すっかり自分のことを携帯電話だと思い込んでいる妻だが、まあ、機嫌良くどこかに行った隙に、だ。今日、店に来る途中、NHKで流れていた曲だが、なぜだか泣けた。先日、山田バーで河内屋の親父も言っていたが、最近どうも涙腺が弱まったのかという話である。たしかに残尿感はあるから、そっちのほうは弱まったかもしれんが、涙腺は弛んだりしないのである。

「最近、すぐに泣いてしまうんだなぁ」は「感受性が豊かになっていく」証拠でもあるらしい。情景が心に浮かび、すぐに感情移入してしまうのだ。ひとつの「出来事」をより深く、あるいはその裏まで読み込んでしまうのである。そういえば子供が泣くのは「痛い時」や「悲しい時」や「怖い時」などであり、あまり映画やドラマに共感して泣いたりしない。赤子ならば「腹減った」だけで泣くわけだから、つまり、そういうことだ。決して「老化現象」ではない。老化現象ではないのである。違うのである。虹の親父も現役なのである。


http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/tookuhanaretekomoriuta.html
<遠くはなれて子守歌>※音でます。涙出ます。


昭和46年の流行歌だったらしい。私の生まれた年だ。

歌っているのは白川奈美、ちなみに歌詞はこんなんだ。



♪遠くはなれて子守唄

神坂 薫 作詞
野々卓也 作曲

ねんねん坊やの 住む里は
こがらし吹いてる 山の村
あいにゆけない ママだけど
まくらぬらして 見る夢は
抱いて寝かせる 夢ばかり

ねんねん坊やの ほっぺたは
真っ赤に燃えてる リンゴちゃん
思い出すてた ママだけど
だんだんにてくる 面影は
今はあえない 遠いパパ

ねんねん坊やの おねだりは
ジェット機 ミニカー 三輪車
今は貧しい ママだけど
約束しましょう がんばるわ
喜ぶその顔 みたいから

ねんねん坊やの 朝が来りゃ
誰にも負けない 男の子
幸せうすい ママだけど
すがる望みは ただひとつ
一緒に住みたい 暮らしたい





私も幼少のころの一時期、夜中にあずけられていた。いわゆる「託児所」である。オカンは4人姉妹の長女で、末っ子以外は皆「水商売」であった。そのころはキャバレーである。

おそらく3歳~4歳の頃だと思う。路地裏の建物の「二階へ上がる階段」や、いくつも並んだ「二階建てベッド」を覚えている。ピンクのエプロンをつけたおばさんが、オカンがあずけにきたときと、迎えに来たとき以外のギャップはトラウマになりそうなほど(笑)だった。態度が全く変わるのだ。数人いた他の子供も同じく、母親たちがいなくなると、それはもう、鬼の形相で「早く寝ろ!」しか言わなくなる。ずっとテレビを見ていて、なにもしない。寝る前、なぜだかインスタントラーメンを喰わせてくれるのだが、プラスチックの器に入ったそれは、とても少なく不味かった。

それでも私は「おかわり!」と言って器をおばさんのところに持って行くのだが、その器をぱんっとはじかれた記憶がある。これが結構、相当な恐怖だったようで、それ以来、私は「たくさん食べたい」といえば大人は怒るのだと認識していたほどだ。

しかし、オカンが来れば豹変する。「イイ子にしてまちたねー」とやるわけだ。今現在、小さい子供を扱う仕事をしている人は気をつけたほうがいい。相手が2歳でも3歳でも、結構、覚えているものだ。私はそのおばさんの顔まで頭に浮かぶ。ブルーの「ゴレンジャー」の絵が入ったプラスチックの器も覚えている。もちろん、なんともないが、今でも夢に見ることもある。

オカンはいつも酔っていた。白髪頭で太ったおじさんと一緒に来たこともあった。そのとき、そのおじさんがくれたのは「グレンダイザーの超合金」だった。「ミクロマン」だった。「ダイアポロン」だった。「鋼鉄ジーグ」だった。ウルトラマンも仮面ライダーもあった。

オカンが来ない日は、叔母さんがきた。これまたひどく酔っていた。タクシーの臭いが嫌で困らせた。オカンがきたときはジープのような車だったからだ。白髪の太ったおっさんの車だったのだろう。今思えば、場所は近鉄難波駅の近くだ。「にじのまち」があった。

オカンは「ハイライト」という名前で呼ばれていた。叔母さんは上から「チェリー」と「セブンスター」だった。オカンの友達で、パンダみたいな目をした「つけまつげのおばさん」は「メロン」だった。源氏名だ。白髪頭のおっさんは、オカンのことを「よっちゃん」と呼んでいた。オカンの名は「良子」だった。

末っ子の叔母さんと留守番していたこともある。おそらく、その日は誰も迎えに行くことができない状況だったのかもしれない。オカンと叔母さんが喧嘩でもしたのかもしれないが、ともかく、末っ子の叔母さんと一緒だった。叔母さんとはいっても、末っ子はまだ10代だったと思う。西城秀樹の熱狂的ファンで、私もよくモノマネをさせられた。末っ子の叔母さんは「やきめし」を作ってくれた。今でもはっきり覚えている。食中毒になったからだ。息が出来ないほど吐いた。今、その「やきめしテロ」の犯人は「あんた、青くなって震えて死ぬかと思ったww」と笑うが、そのときは本人も病院に運ばれた。

酔ったオカンと叔母さんたちが病院に来て、末っ子の叔母さんが点滴をぶら下げたまま叱られていた。私は寝たふりではなく、たぶん、ぐったり死んでいたのだろうと思うが、オカンが抱き上げて泣いていたことも覚えている。今でも、右側の頬に感触がある。オカンの声も、噴きかかった息も鮮明に覚えている。

そのうち、何か事情があったのだろうが、私は夜中にあずけられることが無くなった。今思えば、オカンが実家に戻っただけだったわけだが、だから、夜は祖母がいた。そのころの私は、いわゆる「癇癪」が酷く、手がつけられずに幼稚園を追い出されたほどだ。昼寝している友達を順番に踏む。コマで殴る。縄とびで首を絞める。ジャングルジムから突き落とす(これが決定的になった)。祖母が敷いてくれた布団を喚きながらぐちゃぐちゃにするのは毎日だった。トイレ以外の場所でオシッコもした。末っ子の叔母さんの漫画やレコードをぐちゃぐちゃにした。西城秀樹も割った。叔母さんは本気で泣いていた。

「イモ掘り」の絵を描かされた時、土の中に友達を描いたと言って、青ざめた先生はオカンを呼んだ。幼稚園の帰り道、ブチ切れたオカンは「三角公園」に私をおいて「おまえなんか、もう、いらん!」と自転車で去った。ジャングルジムとブランコ、滑り台と鉄棒があった。私はオカンを探すこともなく、ただ、ブランコに座っていた。オカンはそのまま仕事に行ったと思った。なんというか、それが当然だろうと思った。

暗くなってしばらくして、オカンが目の前に現れた。倒れた自転車はそのままだった。

そのあと、オカンと近所の万代に行った。誕生日とクリスマスにしか買ってくれない「鶏のもも肉」の照り焼きを2本も買ってくれた。ひとつ200円だった。自転車の後ろで一本喰った。うまかった。ただ、オカンにタレをつけないように気をつけた。

祖母は私が何をしても怒らなかった。中学生になったときから殺されるかと思うほどやられたが、それまでは優しくて怒らない祖母だった。代わりに毎日、寺に連れて行かれた。

私はオカンのことを「ちゃーちゃん」と呼んでいた。今では100キロを超えるおっさんだが、そのころはオカンの背中にしがみつき、ちゃーちゃん、ちゃーちゃんとついて回った。私がタライを頭からかぶり、家の前の道路を封鎖したときも、オカンは「血の気が引いた」と言いながら泣いていた。仏壇に手を合わせて泣いていた。小学1年の時、私が西友から万引きした「ミクロマン合体巨大ロボ(中にミクロマンが入る)」を目の前でゴミ箱に叩き込んで、孫の手が折れるまで殴られたときも、近所の子供の顔面を傘で刺したときも、オカンはいつも泣きながら怒った。仏壇に手を合わせて「おとうちゃん!おとうちゃん!」と泣いていた。「おとうちゃん」とは祖父のことだ。


ある夜、私が寝ているベッドの横の壁に「鬼」が出た。影だ。目が三角で角があり、恐ろしいほど口がでかく、両手を上げて踊り狂っていた。私はすぐ横で寝ていたオカンを起こしたが、どれほど揺さぶってもオカンは起きてくれなかった。「鬼」はずっと踊っていた。途中から少し慣れた私は、ずっと「鬼」の影をみていた。

知らぬ間に眠っていた私は飛び起きてすぐ、祖母の家に行った。祖母の家は隣だった。

「おまえの中の鬼や」

祖母は知っていたかのように落ち着いてそう言った。まるで「やっと見たか」とでも言いたげだった。


実は、私は一度か二度、私の血のつながった父親に会っている。旅館だった。でも、顔はわからない。写真もみたことはないが、みてもわからない。ただ、グレーのスーツ、白のカッターシャツ、赤紫のソファ、白いカーテンに暖色系のスタンド、細い階段は赤色の絨毯だった。そして、オカンのベージュのスーツ姿にサングラスが、ぼんやりと頭に浮かぶ。

喫茶店でハンバーグを食べた。隣の席にはオカンがいた。その前にいたグレーのスーツを着た男が、おそらく私の父親だ。会話をした記憶はない。オカンとの会話もしらない。声をかけてくれただろうが、それもなんだったかわからない。私の父親の記憶はそれだけだ。

妹とは父親が違う。私の父親も妹の父親も妻子があったとオカンから聞いた。以前も書いたが、オカンもいろいろあったんだろう。そのような人生ながらも、よくぞ、私や妹を生み育ててくれたとは思うが、恨み事など一ミリもない。これは本心だ。

今年の誕生日もオカンから電話があった。「39歳やな」と笑われた。その後はいつも同じだ。

「喧嘩したらアカンで」
「酒飲みすぎたらアカンで」
「タバコやめなアカンで」
「嫁さん大事にせなアカンで」

「体は調子ええか?」
「仕事はうまいこといってるんか?」
「嫁さんとはうまいことやってるか?」

オカンはもう、大好きだった焼肉を食べられなくなった。酒も飲まなくなったし、煙草も随分前に止めた。まだまだ元気な年寄りはたくさんいるが、私のオカンはもう、心臓の手術を何度か行い、体も相当弱っている。鶏のもも肉にかぶりつく私を自転車の後ろに乗せて、力強く八戸ノ里の「きつね川」の坂を上っていたオカンではない。


金髪の私が河内警察に何度もお世話になった餓鬼の頃、オカンは寝ている私の足元で泣いていた。そのときも仏壇に手を合わせて「おとうちゃん」と泣いていた。今はそこに「おかあちゃん」も加わった。オカンは常に正しくて、私は常に間違っていた。

いま、店には子持ちの女の子も来る。酔うと全員が言う。

「子供のために生きていく」
「子供のためなら何でもする」

そして例外なく、

「寂しい思いをさせている」

とも言う。

人にはそれぞれ事情がある。正しいかどうか、そのときにわかりゃ苦労はない。「他の方法もあった」というも、それは当事者でなければ分からぬ部分もあろう。しかし、だ。

どんな極道息子でも母親のことは想い続ける。どんなアバズレの母親でも子は愛しい。これだけは何があろうと譲れない。例え「鬼」が踊ろうが、だ。

4 コメント

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ホルモン、ホルモン ()
2010-05-27 07:07:31
師匠、涙もろくなるのは、そう言うお年頃に差し掛かって来たのですよ
「更☆年☆期」
また一つ大人の階段を登られましたね
おめでとうございます
これで師匠も立派な中年の仲間入り~
ようこそ!

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Unknown (久代千代太郎(中高年))
2010-05-27 17:40:03
>な さん


まいどです。


>「更☆年☆期」



こう書かれると悪い気しないですねw


中高年の仲間入り。これからもよろしくです。
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ありがとうございます。 (二代目弥右衛門)
2010-05-27 18:10:58
涙腺が緩みっぱなしです。

家族っていいですね。
親子の情っていいですね。

40を過ぎ、改めて実感しています。

お母様が息災でいらっしゃることを祈念いたします。


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Unknown (久代千代太郎)
2010-05-29 05:10:54
>会長


ありがとうございます。


ほんと、ありがたいですよね~~


近いし、饅頭でも買って顔出しますかねw
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