忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「かわいそうな人の話」

2008年11月01日 | 過去記事
残念ながら3年ほど前に潰れてしまったのだが――――



当店の近く、国道沿いのあそこのとなりの、つまり、あの横に「屋台」があった。基本ベースは「うどん屋さん」なのであるが、深夜は完全に「飲み屋」と化していた。

「おもろいおじいさんと優しいおばあさん」の夫婦がこっそりと営んでいたのだが、そこの「土手焼き」や「おでん」の美味さが思い出される。熱帯夜の中「クーラーもないトタン囲いの店」だというに、頻繁に「私が通っていた」というだけで、どれほどの美味さと安さだったのかは推知してほしい。

よく従業員を連れても飲みに行った。で、とくに女性の従業者がいると困るのがトイレだった。いや、あるのだ。あるのだが、まさに「墓場の中」なのであった。薄暗い草むらの中を進み、いくつかの墓石が立ち並ぶ場所がある。その闇の中、決して衛生的ではない簡易トイレがぽつんとある。それはもう、職位も立場もなく、下心も何もなく「ついて来てください」と言っても不自然でない環境であったのだ。

あるとき、そこそこ飲んだ私が用を足し、店に戻ろうと思い歩いていると、いつもは見ないようにしていた墓場のほうが気になったことがあった。見ないように、見てはいけない、見てはいけないと思いつつ、おばけなんてないさ、そんなのはうそさ、と勇気リンリン興味シンシン新の新、・・・・・みてしまった・・・・・のであった・・・・・。

・・・・・・・!!

墓場の・・・いちばん奥・・・・老人が立っている。

私は吸い込まれるように、錆びた入り口の門を開け、墓場の中を歩いて行った。

墓場のいちばん奥に聳えるひときわ高い墓石があった。それは、よくみると慰霊碑であった。その前にたたずんでいたのは、屋台のおじいさんだった。

「無縁仏やねん。戦争の時の・・・」

おじいさんはそう言うと、また手を合わせて目を閉じた。私も並んで手を合わせる。

それから、その墓場は怖くなくなった。私はその屋台で飲むと、必ずその慰霊碑に手を合わせてお賽銭を置いた。その際、頭の中、心の中で唱えることは、

「お疲れ様でした・・・・・・」

である。






10月31日。大阪高裁で「沖縄戦・集団自決」に関する裁判があった。

過日の「南京の真実in河内長野」においても原告側の応援者の方々が来られていたが、さぞかし無念であろうと思う。無論、このような不当判決を受け入れる必要は全くない。即日に上告したのは当たり前である。



朝日新聞と一緒に、合同宴会でも開くんじゃないかと思うほどの沖縄タイムスを見てみる。

http://www.okinawatimes.co.jp/news/2008-10-31-E_1-001-3_001.html?PSID=d04c6a34ca11d3ecb6dc14ec7ce1fca5
<元戦隊長の控訴棄却 「集団自決」訴訟>

で、当たり前のように高裁の「判決」をして「歴史的事実」と認定する。これは、最高裁でひっくり返ることは絶対にないという勝利宣言でもある。

<今年三月の一審・大阪地裁判決は、「集団自決」の軍命令が援護法の適用を受けるための捏造だったとする元戦隊長側の主張を退けたほか、部下が住民に手榴弾を配っていた事実を知らなかったという梅澤氏の主張の信用性を否定。体験者証言を評価し、米軍への秘密の漏えいを恐れた日本軍が、捕虜にならずに自決するよう住民に手榴弾を手渡していた事実を指摘した。>

酷い捏造記事である。

判決要旨を何度読んでも<米軍への秘密の漏えいを恐れた日本軍が、捕虜にならずに自決するよう住民に手榴弾を手渡していた事実を指摘>などとしていない。あくまでも「名誉棄損にはあたらない」と判決を出しただけだ。今更だが、こういうメディアはなんという都合のよい飛躍をするのか。薄ら寒い。

と思ったら、さすがは朝日新聞。もっと気色の悪い書き方があった。

http://www.asahi.com/national/update/1031/OSK200810310080.html
<大江健三郎さん「沖縄の犠牲の記憶を守り、戦う」>

高裁が終わったばかりの大江に独占取材である。さすがは同朋。


せっかくだから全文引用しておこう。

※引用開始

高裁判決についてのコメント   大江健三郎

ベルリン自由大学での講義のためにベルリンに滞在しており、判決を直接聞くことができませんでした。いま、私たちの主張が認められたことを喜びます。私が38年前にこの『沖縄ノート』を書いたのは、日本の近代化の歴史において、沖縄の人々が荷わされた多様な犠牲を認識し、その責任をあきらかに自覚するために、でした。沖縄戦で渡嘉敷島・座間味島で七百人の島民が、軍の関与によって(私はそれを、次つぎに示された新しい証言をつうじて限りなく強制に近い関与と考えています)集団死をとげたことは、沖縄の人々の犠牲の典型です。それを本土の私らはよく記憶しているか、それを自分をふくめ同時代の日本人に問いかける仕方で、私はこの本を書きました。

 私のこの裁判に向けての基本態度は、いまも読み続けられている『沖縄ノート』を守る、という一作家のねがいです。原告側は、裁判の政治的目的を明言しています。それは「国に殉ずる死」「美しい尊厳死」と、この悲惨な犠牲を言いくるめ、ナショナルな氣運を復興させることです。

 私はそれと戦うことを、もう残り少ない人生の時、また作家としての仕事の、中心におく所存です。


※引用終わり



驚くほど呆けている。

この老人は38年前に、多くの沖縄県民が「軍の関与によって集団死した」と書いたのか?そう書いたのに梅澤さんらは「名誉棄損」で訴えを起こしたとでもいうのか?ならば「日本国」が原告となろう。「軍命」はどこにいった?なんというまやかしを書くのか。

更に、この老害は最後にサラリと「仕事」をする。

<原告側は、裁判の政治的目的を明言しています。それは「国に殉ずる死」「美しい尊厳死」と、この悲惨な犠牲を言いくるめ、ナショナルな氣運を復興させることです。>

「戦前・戦中否定」でなければ軍靴の足音なわけだ。古いタイプのイデオロギーの病である。そして、悲しいことに、それは持て囃され飯のタネになった。本を読んで大人しくしていただけの少年を兵隊にして、非論理的、且つ、非効率な大和魂を注入する大嫌いな日本軍、戦争というものを否定すればするほど周りの人たちは喜んで褒めてくれた。

ノーベル賞もくれた。残りわずかな余生すらを「戦う所存」とする左翼マシーンは、未だに褒めてもらおうと必死である。哀れ過ぎる。もはや後戻りなどできるはずもない。

そして、ご都合主義のマスメディアは、この「かわいそうな人」を徹底的に利用する。利用するためには権威にもする。持ち上げたり誤魔化したり、ひれ伏したふりをする。




一日開けて、朝日新聞も勝利宣言を出した。ついでに教科書も思い出して、自らの主張がいかに正しかったのかを力説する始末である。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html
<集団自決判決―あの検定の異常さを思う>

朝日は完全なる「棚上げ論理」で、気持ちよさそうに言い放つ。

<そこでもうひとつ注目すべきは、表現の自由を幅広く認定したことだ。原告側が「沖縄ノート」の発行後に隊長命令説を否定する資料が出てきたと主張したことに触れ、「新しい資料で真実性が揺らいだからといって、ただちに出版の継続が違法になると解するのは相当ではない」との判断を示した。

それにしても見逃せないのは、文科省が教科書検定で「日本軍に強いられた」というような表現を削らせた大きな理由として挙げていたのが、この裁判の提訴だったことである。一方的な主張をよりどころに、歴史をゆがめようとした文科省の責任は重い。>

己は「被害者の証言」を根拠に記事を書くどころか、捏造してまで日本を貶めるのに躍起になる死に紙のくせに、だ。せめて、最高裁の結果までマテ。




この確信犯的な「反日機関紙」どもはともかく、大江のような「かわいそうな人」は戦没者の慰霊碑なんかで手を合わせるとき、その心の中にあるのは、

「かわいそうに・・・お気の毒に・・・」

という「犠牲者扱い」しかないのだろうか。そして、その犠牲を強いたのはあくまでも「日本国」であり、「旧日本軍」であり、つまるところ「国家を象徴するもの」であったのか。

この腐ったような平時から、あの当時に思いを馳せるとき、頭と心に浮かぶモノは「平和のありがたさ」だけなのであろうか。子供たちに「今は平和なんだからありがたがりなさい」としか言えない価値観は、その子供の成長にどのように影響するというのか。

「戦争がない時代でラッキーだった。だから、死ぬまで戦争の体験はしたくない。」

こんな浅薄な感想しか出ない教育の限界などたかが知れているのだ。いや、それを教育と呼んでいいものかどうか。今が「なぜ」平和なのか。当時は「なぜ」平和ではなかったのか。平和とは何なのか。これらの問いに子供たちはどのような結論を出すのか。



「かわいそうに・・・・」という憐みの感情などから物語は生まれない。
「お疲れ様でした・・・」という感謝からしか英雄は生まれないのである。

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