忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

光の中の車椅子

2011年06月18日 | 過去記事

私が今の施設に入って間もなくの3月ごろ、挨拶程度の会話を交わす程度だった男性職員さんが「こんな仕事、給料も安いしやってられないですよ」と愚痴をこぼしていた。私は心の底から興味もなかったので「はぁ、そうですか」としか言わなかった。

彼は私の妹と同じ年だから6つ下になる。仕事は几帳面にするタイプだ。だからこそ“全体を見ること”が苦手となる。コレは何事においても同じであり、つまり、毎日、日々その日を几帳面に生きることが出来る半面、中長期的な「モノの見方」というものが出来ない。だから、自分は来年何をしているかわからない、となる。

もちろん、人生何があるかわからないから、現実の人生では明日死んでいるかもしれない。しかしながら、人間はすべからく「明日死んでいない」ということを想定して生きていくことになっている。日々の暮らし、というモノはこの連続のことだ。

先ず、結婚して子供がいるような男ならば、来年には子供がひとつ大きくなるわけだから、ある程度の「目安」というモノは考えることになっている。愛しき我が子が来年には小学校なら、その6年後には中学生になり、高校受験という節目も見える。しかし、34歳の男が親元に住みつつ、およそ高校卒業したばかりの生活スタイルを17年間も続ければ、その17年後も同じなのではないか、という錯覚に陥ることがある。あまりよろしくない状態だ。

私は彼の几帳面な仕事に感心したから正直に感想を述べたことがある。夜勤が重なったときだ。彼は「空き時間」で車椅子の修理などをしていた。細々した部品などは「自費で購入してきた」とのことだった。理由は「この施設は金を出さない」とのことで口を尖らせてもいた。私は思わず、もったいないですな、と言っていた。

彼はその浅薄から勘違いして「こんなの安いモノですから」と言ったが、私が「もったいない」と感じたのは、その数百円か数千円の部品の金ではなく、まさにそのまま、彼の仕事に対する自己評価であった。多くの者は夜勤の際の「空き時間」を「有効」に利用している。ある者は病気のように携帯電話をみつめているし、中学生のように職場で携帯ゲームをするものもいるし、ソファに寝そべってテレビをみていたり、聴き上手の私を捕まえてずっと「自分の話」をするオバサンもいる。ちなみに私は介護員室にある関係本を読んでいることが多いが、この彼は倉庫の掃除をしたり、誰もが放置している機材の手入れをしたり、こうして介護用品の修理をしていたりする。まあ、単純に根が真面目ともいえるが、そのモチベーション(動機)はもう少しだけ掘り下げてみる値打ちがある。

私は彼に「なぜ、そんなことをしているのか?」と問うた。「空き時間」とはいえ、その時間は堂々と「自分の時間」として使用するのが暗黙の了解となっているのに、なぜにあなたは「自分の時間とカネ」をかけてまで、その車椅子を修理しているのか?と問うてみたのである。すると彼は予想通り「ヒマだから」と答えた。私が笑うと彼も笑いながら、また、私の予想通りの愚痴を垂れた。こんなことしても給料は同じですけどね――――

私が「それは違う」と断ずると、彼は意外な顔をした。巷に溢れるビジネス本の受け売りだが、私は彼に「仕事の報酬は給料ではなく仕事なんですよ。で、その結果として給料が上がる、というか収入は増えます」と言うと、彼はもっと意外な顔をした。そして、根が真面目なのだろう。「それはどういう意味なんですか?」とクソ真面目に問うてきた。



私は今の施設を辞めようと思っていた。無論、その際には蔓延る「利用者虐待」を通報し、マスコミにもリークして叩き潰してやるつもりだった。しかし、今は「なんとかしてみよう」と思い直し、私なりに、ではあるが、精神的な負担を感じながらも、どうにか折れずにやっている。実際、最近では私に「通報」してくる職員もいる。「告げ口」のレベルかもしれないが、少なくとも「これはダメだろう・・」と考える職員がいたということだ。

私が思い直した直接の原因は、このブログにツレが残したコメントだ。



―――与えられた場所に生きる意味を見つけない人はどこに行っても満足はない



これは私がパチンコ屋の管理職時代、部下に口にタコが出来るほど言っていた「どこでやるか、よりも、なにをやるか」と通ずる言葉である。だから私は「ここ」で何をすべきか考えたし、私は「それ」をするために「ここ」に来たのだと腹を決めた。すると不思議なモノだ。相手を変えるには自分が変わる、ということで、ただの腰の低い中年男は「謙虚な大人」だという評価も聞こえてきた。ま、相変わらずなのもいるが(笑)。

だから、私は彼に「空き時間」を「有効」に使って更に問うた。ヒマだから―――の前に来る「動機」を問うたのだ。給料が増えるわけでもないのに、自分の金を使ってまで車椅子の修理をする「動機」とはなんのことか、と彼に詰め寄った。もちろん、彼の吐露した「本音」は光り輝く素晴らしいものである。



利用者さんのため――――――――




私は、あなたのような人が社会を支えているのだ、と言った。もっと自分を誇るべき、だと言った。するとまた、彼は「ンな、ボクなんかカスみたいなもんですから・・・」と斜めに構えた自虐で悦に入ろうとした。

あなたはカスじゃない。カスというのは自分のことしか考えぬ、役立たずの勘違いのことだ。それでも、あなたが自分をカスというなら、あなたの母親はカスのために食事をつくり、カスのために苦労して学校にも行かせ、カスのために夜勤明けのカスを粕汁でも作って待っているのか―――?

あなたはまた勘違いしている。私が「誇るべき」というのはそういう意味じゃない。もっと言えば、とくに「あなたのこと」でもない。このカスのような施設を含む、カスのような世の中で「ちゃんとがんばっている人」のことを誇るべき、という意味だ。そういう社会に点在する誠意に対する軽蔑、侮蔑は、あなたも含む「カスじゃない人」全員に無礼であり、あなたを含む「ちゃんとした人」に対する愚弄であり、それは絶対に許されない。それにカスじゃない人が、自分をカスと呼ぶのは謙遜でもなく、謙虚でもなく、単なる卑怯な振舞いだ。自分はカスだから、あるいは、カスなのに「ちゃんとしている部分もある」という評価を得ようとしているに過ぎない。つまり、あなたにはもっと「すべきこと」「できること」がある。それを何らかの理由で言い分けして、自分をカスだということにして、それをしないようにしているだけだ。私ならそれを卑怯と呼ぶ。




つまり―――

「もっと、もっと、あなたの思う通り、やっていいんですよ」






数日後、彼は私に頭を下げながら頼み事をしてきた。手には「企画書」があった。自分の仕事が終わってから、車椅子に乗れる利用者さんを連れて「蛍」を観に行く、とのことだ。だから、その当日が夜勤である私に「段取りを協力して欲しい」とのことだった。文書も上手にできていた。さすが私が教えただけのことはある。施設からOKも出ているし、看護師も付き添ってくれるという。私は「空き時間」を目一杯使って手伝った。疲れた。

2時間ほど、施設近くの川で蛍を観て来たらしい。彼は利用者さんのためにコーヒーを沸かし、肌寒いと風邪をひくからと上着を用意し、テーブルを運び椅子を運び、気心の知れた
職員に頭を下げて付き合わせ、なんと、天下りのカスのような施設長まで付き合わせていた。もちろん、利用者さんは大喜びだった。虫が嫌いな私にこっそりと持ち帰り、驚かせてやろうという企ても忘れるほど、土手を流れる「光の川」は素晴らしかった、とのことだった。

その日、アスファルトの坂を登る車椅子からは「きぃきぃ」という油切れの音はしなかった。

4 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2011-06-24 22:11:57
>し様

ちなみに今日も「ホタル見学」らしいね。流行ったww私は夜勤明けだから行かないけどねw


おたくのトーチャンには敵わないってばww
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光の川 ()
2011-06-20 19:55:03
ちょっと湿った夜の空気が頬に当たり、いきいきとした土のいい匂いが漂ってくるようでした。

ちよたろさんみたいな人こそが、
この世界を変えるんだと思います。

うちのトーチャンにも頑張ってもらわないとね!
私もね!
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Unknown (久代千代太郎)
2011-06-19 22:52:57
>親爺どの

「真の勲章」・・・良い言葉ですな。

私は「まっすぐに曲がったもの」かもしれませんwwむつかしいですな。


ま、死なン程度に・・・酒も飲みますw


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Unknown (親爺)
2011-06-19 15:07:02
佳い話をありがとう。

タイトルから連想したのは『光りあるうちに光の中を歩め』というトルストイの作品名、確か中学の国語の教科書に載っていて”授業でやらされた”ことを思い出した。

《神のもとには大きなものも小さなものもありはしません。人生においてもまた、大きなものも小さなものもありはしません。あるものはただ、まっすぐなものと曲がったものだけです。》

根本が耶蘇教の思考と教えだから、当時はあまりピンとは来なかったが、それでも本来の日本人の心の在り方に通ずる部分はあると思う。


真の勲章は誰かから貰うものではなく、自ら自分に授けるもの・・・・


まあ、死なん程度に ぼつぼつおきばりやす
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