忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

天津飯の常識

2010年08月11日 | 過去記事
昨日、管直人が「日韓併合100年」とのことで、仙谷肝いりの頭のおかしい談話を発表した。「極左が馬鹿を集めて使う」というだけの組織である民主党というところに、日本の有権者は「政権交代」などというお祭り騒ぎに熱くなり、マスコミや日教組や民団や労組はともかく、赤軍や革マル派のことも知らぬまま、ついに政権を明け渡してからちょうど1年ほど、この政権の性質は疑う余地が無くなった。要するに韓国人の政権であった。韓国の国益を重視し、そのために日本に派遣されてきた政治家の集まりが、頭のヌルイ日本の政治家も巻き込んで創り上げた韓国人による、韓国人のための政党であった。

また、1910年の日韓併合から100年経ったということであるが、ちょっと300年ほど前をみてみると、1700年頃の日本人も朝鮮半島の扱いに困っていたことがわかる。対馬だ。

雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)という人がいた。12歳で医学を学び、朱子を学んだ日本の天才だ。人材募集中の対馬藩は雨森に目をつけて「朝鮮方佐役」として迎え入れた。1698年だ。雨森は朝鮮語はもちろん、長崎で支那語も学び、今で言うところの「特定亜細亜」の担当だった。なんとも大変な仕事だと頭が下がるが、その雨森の信条は「誠信の交わり」であったと、対馬で衝動買いした「対馬からみた日朝関係」という本に書いてある。また、雨森は「交隣提醒」という著書を書いたが、これは「交隣とは何なのか」を説いた解説書である。「交隣」――すなわち、日本でいうところの朝鮮半島のことだ。

本を読んでいる「ちゃんとした左翼」は、しばしばこの雨森の「誠信の交わり」を引用する。言葉の意味は「誠信とは実意なり」ということで、互いに欺かず、争わず、誠実をもって交際することをいう。だから「ちゃんとした左翼」はこの部分を切り取り、これを雨森の思想として紹介して「交隣には誠信をもって実行しようということです!」という結論に至る。学校の勉強しかしていない世間知らずの政治屋は、これをそのまま飲み込んで、また、どこかの民団の講演会などで披露する。それで頭の良いフリも出来るし、韓国料理と韓国ホステスの接待も受けられるし、もれなくソウル旅行もついてくるかもしれないし、夜は「ちぇじう」みたいに同じ顔した女の子が相手してくれるかもしれないから、いい年をして北京でサソリ喰ったくらいで舞い上がるような馬鹿は、それで満足してマッサージを受けに出掛ける。

「ちゃんとした左翼」も所詮は左翼であるから、都合の良いところだけ切り出した後の文章は読まないか、無かったことにするから気をつけよう。雨森は綺麗事を書いているのではない。朝鮮半島と付き合いながら、ちゃんと朝鮮を見抜いてもいる。雨森は「朝鮮との誠信」を実行しようとするならば「送使を尽く辞退し、朝鮮に少しの負担もかけてはならない」と書く。「送使」とは「条約に伴う船の派遣と貿易そのもの」のことである。船も派遣するな、貿易もするな・・・要するに「付き合うな」と書いてあるのだ。朝鮮という国と誠心誠意、互いに欺かず、争わず交際するためには「付き合うな」という壮大な皮肉なのである。

また、申叔舟という朝鮮人が「海東諸国紀」という本を書いているらしい。朝鮮語も堪能だった雨森はこの本を読み説き「日本人の性質は荒々しく、道理で抑え込むことが出来ない」と書かれていることを指摘し、朝鮮が大きな負担をしてまで日本と付き合っているのは「日本が怖いから」というだけであり、そこに「誠信」などは存在し得ないと喝破している。

もちろん、これを無理矢理の解釈で「誠信をもって交際するに、恐れられるのではなく、朝鮮の負担を無くし、日本が譲って付き合って差し上げようじゃないか」と受け取ることも可能かもしれない。しかしながらそれは「ベジータは本当は優しい。寂しがりやでプライドが高いだけ。心を開いて受け入れてあげてれば、フリーザという共通の敵が出てきたときには協力も出来たじゃないか。殺されてもドラゴンボールで生き返るからいいじゃないか」と言っているに過ぎない。「一緒に住んでる、お前の気がしれんよ」と言った天津飯は三つ目だが、ヤムチャよりは「常識的な地球人」なのである。

そして300年経った。雨森芳洲の言う通りだった。もしくは「脱亜論」でもいい。昔の日本人はよく知っていた。朝日新聞もなかったし、妙なマスコミもなかったから、ちゃんとした正論がまかり通ったわけだ。福沢諭吉はアメリカに行った際、オランダ人の家に招待されて、旦那が料理を運ぶのを見て仰天した。その頃、朝鮮半島では女性とは奴隷だった。「借り腹」なる恐るべき風習などもあった。そして「日本の価値観」ではどちらが適用可能なのかと考えるまでもなかったのである。だから福沢諭吉は迷わず「脱亜」を論じた。


しかし、そこは隣国のことだ。放っておけば日本にも影響が出ることは避けられなかった。だから、仕方なく、嫌々ながらも、2度の大戦争を経て、どうしようもなく併合したのが現実である。そして、やはり「付き合ってはならなった」のだ。雨森芳洲の孫、松浦桂川(まつうら・けいせん)は、幕内抗争に巻き込まれて流刑に処されたが、その配流先で書いた「答問書」が残っている。

桂川は「朝鮮は対馬に賄賂を贈り、外禦を対馬に託したのであり、朝鮮から容易に止めることはない」と書く。「外禦(がいぎょ)」とは外圧のような意味だ。「外から抑え込まれる」ことを防ぐため、朝鮮は対馬に賄賂を贈っていたと書いてある。また、もちろん、日本からしても対馬は当時から「国境の島」である。だからこそ、桂川は「対馬は『朝鮮抑えの役』と言っているが、現在の対馬には大した備えがない。しかし、対馬は朝鮮一国への備えではなく、中国や周辺の夷狄への備えである」と危惧し、長崎の防衛力と比して対馬の防衛を憂い、それを「天地の差」と表して「対馬を外敵が占領すれば日本の大事となる」と訴えていた。そのためには幕府だけで金を出すのではなく、西国の諸侯にも命じて金を集めろと警鐘を鳴らした。その費用は「5万両から7万両」と計算までしていた。

雨森芳洲も、孫の松浦桂川も、共に朝鮮半島には縁が深かった。「知っている」からこそ「付き合うな」と言ったし、その孫は「防衛力を固めろ」と言った。また、どうしても付き合わねばならないから、より慎重にして気を許すなとも言いたかったのかもしれない。

この「国境の島」を憂いた日本の防人は、昨日の「首相の談話」か「首相談話」か知らんが、アレを観てどう思ったのか。「だから言ったじゃんww」と呆れ果てているのだろうか。

2 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2010-08-11 17:57:11
>な さん


ほんまですね。気持ち悪いです。


横浜では電話がつながらなくなったし、みくしいは連日、2ちゃんもおかしかったようですね。ハマコーが逮捕されて、在特会は4名逮捕のパソコン押収・・・もちろん、偶然なんでしょうけどね。。。
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Unknown ()
2010-08-11 12:23:02
談話を読んで何だかゾッとしたのですが、村山の時の様な大規模災害やオウムの事件の様な事が起こらなければ良いのですが...

震災はともかくオウムも朝鮮系という話がありましたし、危機管理能力がゼロで積極的に真実をねじ曲げて我が国に唾を吐く行為が村山内閣とソックリで、とても不安です。
特に現政権は天皇家にまで害が及んでますし。
オカルトの類は信じる方では無いですが、昔から8月は地獄の釜が開くとされているお盆と終戦の日が重なるので、何だか嫌な感じです。

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