先日、サウジアラビアのサンバサウジダービーCで武豊騎手が騎乗したフルフラットが勝ち、日本調教馬によるサウジアラビア初勝利となりました。
フルフラットは早くから海外遠征に目を向けていた森秀行調教師の管理馬。武豊-森コンビの海外遠征といえば、今回の主役、シーキングザパールです。
[外国産馬がゆえの「裏街道」]
父Seeking the Gold 母Page Proof(母の父Seattle Slew)
栗東・佐々木晶三厩舎→栗東・森秀行厩舎→米・アラン・E・ゴールドバーグ厩舎
牝 鹿毛
シーキングザパールは、アメリカのキーンランドで開催されたセールで購入され、日本にやって来ました。シーキングザパール=森厩舎のイメージが強いですが、実は当初、佐々木晶三厩舎の所属でした。
武豊騎手を鞍上に迎えたデビュー戦は小倉の芝1200m戦で、2着馬に1.1秒の大差をつけて圧勝。続く新潟3歳S(芝1200m)でも1番人気を集めますが、ここで後に有名となるアクシデントが発生。スタート直後に突然外側に逸走したのです。大きなロスとなりましたが、それでも後半追い上げて3着に食い込みます。
武豊騎手に逸走の真相を聞くと、「弁当買いに行きよったんです」と答えたそうですw
一躍、「おてんば娘」のイメージがついたシーキングザパールですが、続くデイリー杯3歳S(芝1400m)で圧勝。阪神3歳牝馬S(現・阪神ジュベナイルフィリーズ)でも1.5倍という圧倒的な人気に押されます。
ところがここでも人気を裏切る4着となり、「気性難」のイメージで定着していくことになりました。
当時の外国産馬はクラシック競走(皐月賞・ダービー・菊花賞・桜花賞・オークス)等への出走権が無かったため、トライアル競走ではない重賞レースは「裏街道」と呼ばれていました。
シーキングザパールはシンザン記念→フラワーC→NZT4歳Sで重賞3連勝。NHKマイルCへ駒を進めます。
今でこそお馴染みとなったNHKマイルCですが、元はダービーのトライアルレースとして行われていたG2「NHK杯」がモデルチェンジし、外国産馬も出走できる3歳限定のG1レースとして新設されたものでした。「裏街道」にもG1ができたのです。
「マル外ダービー」とも呼ばれた第2回NHKマイルCは、出走18頭中、12頭までもが外国産馬。「芦毛の怪物」と呼ばれ、有力候補と見られていたスピードワールド(大好きすぎる馬でした・・・w)が捻挫によって回避したことでシーキングザパールは圧倒的な人気となりました。
レースは中団から進めたシーキングザパールが直線抜け出し、ブレーブテンダー以下を振り切って快勝。
青嶋アナ「文句なし、名牝の道!」
牡馬混合のG1を勝ち切ったシーキングザパールは、春の牝馬クラシックをにぎわせた桜花賞馬キョウエイマーチ、オークス馬メジロドーベルとの決戦に挑むことになります。
[頂点と、適性を探す旅]
牝馬3冠の最終関門である秋華賞は、外国産馬にも出走が認められているレースでしたが、シーキングザパールに立ちふさがった壁は「距離」でした。
前哨戦のローズS(芝2000m)で桜花賞馬キョウエイマーチと初対決となり、シーキングザパールは1.4倍の一番人気に支持されますが、キョウエイマーチに逃げ切りを許しただけでなく、上り馬のメイプルシロップにも伸び負け、3着に敗れてしまいます。
さらにノド鳴りの症状が出たことで、手術に踏み切ることになり、秋華賞を断念することになってしまいます。
シーキングザパールがターフに戻ったのは翌年のシルクロードS(芝1200m)でした。短距離路線に活路を見出すことになったのです。
ここにはキョウエイマーチも出走していたほか、古馬の骨っぽいスプリンターが相手ということで、シーキングザパールは4番人気の低評価となっていました。しかし、マサラッキやシンコウフォレストら、後のG1馬を退けて快勝。見事に復活してみせました。
続く高松宮記念は一番人気に支持されますが、道悪で伸びきれず4着。続く安田記念はさらに悪い不良馬場となり、10着に大敗してしまいます。
[歴史の扉を開く]
復帰戦を絶好の形で飾ったものの、G1の舞台では馬場に泣く形で実力を発揮できず終わったシーキングザパールは、ベストの舞台を求めて海外遠征に向かいます。
ここで日本の馬による海外遠征について少し。
日本競馬は1981年に国際招待競走であるジャパンカップを創設し、世界に通用する馬作りを目指しました。ところが第1回のジャパンカップは、北米で重賞を勝っている程度の馬に1~4着を独占されるという衝撃的な結果。第2回も同様に外国馬に上位を独占され、日本馬による勝利は第4回のカツラギエースまで待たなければなりませんでした。
第5回のジャパンカップを勝った三冠馬・シンボリルドルフはアメリカに遠征を行いましたが、7頭立ての6着と完敗。「皇帝」と呼ばれたルドルフがこのような結果となってしまうと、当然ながらその後海外遠征にチャレンジする馬などなかなか現れませんでした。
その機運を高めたのは、他ならぬ森調教師でした。1995年の香港国際競走をフジヤマケンザンで勝利し、実に36年ぶりの海外重賞制覇、日本人スタッフによる勝利という点では史上初の快挙と言えました。
当時の日本馬の海外遠征とは、そんな状況だったのです。
そんな中で、森調教師はシーキングザパールの海外遠征を計画します。また、同じく国際派であった藤沢和雄調教師も、当時10戦9勝と無敵を誇ったタイキシャトルでの遠征を発表していました。
シーキングザパールの遠征するレースとして白羽の矢が立ったのはフランスのG1モーリス・ド・ギース(ゲスト)賞(芝直線1300m)でした。翌週のジャック・ル・マロワ賞(芝1600m)も候補にあったようですが、安田記念で完敗したタイキシャトルが出走を決めていたため、前者が選ばれました。
かくして、日本競馬の歴史に大きな1ページが刻まれます。
シーキングザパールは先手を取ると、豊富なスピードを活かして逃げ切り。国内でのレースとは違ったスタイルでの競馬でしたが、フランスでの騎乗経験の豊富な武豊騎手の好判断も光りました。
(ジェニアルで制したメシドール賞も日本でのレースとはうって変わって先行策でした。さすが天才!)
日本調教馬による海外G1制覇達成という快挙の翌週、日本で無敵を誇るタイキシャトルでジャック・ル・マロワ賞に挑む岡部幸雄騎手は、とてつもないプレッシャーだったのではないでしょうか。レース前に岡部騎手は武豊騎手の元を訪れ、質問をしたそうです。
20歳も年下の武豊騎手に教えを請い、そしてタイキシャトルでジャック・ル・マロワ賞制覇を成し遂げた岡部さん、かっこよすぎです。
その後、シーキングザパールはフランスのムーラン・ド・ロンシャン賞(芝1600m)、アメリカのサンタモニカハンデ(ダート1400m)等にも遠征。勝利を挙げることはできませんでしたが、国内ではスプリンターズS、高松宮記念で2着、安田記念で3着など、一線級で活躍しました。
タイキシャトルのラストランとなったレース、一転して後方一気を選択した武豊騎手の神騎乗炸裂、と思いきや、タイキシャトルは交わしたものの前にもう一頭いた、という結末に。
シーキングザパールはその後アメリカにトレードされ、2戦しましたが勝利を挙げることができず、引退となりました。
2020年現在でも海外、地方問わずその馬に合ったレースを選び、積極的に挑戦を続ける森調教師。
シーキングザパールの快挙は日本競馬を大きく動かした、といえると思います。