日本古代史を探る

「一の俣湯の華観音(自説)観音寺跡遺跡」に潜む古代ミステリーの調査研究に伴う雑感記と「せざん美術館」の紹介です。

随想 自意識 (写真は「神社の線」)

2022-10-12 10:52:29 | 古代史
 人間は何故自意識を持つ存在なのか・・。
 人間意外の動物も自意識的なものは持つだろうが、「自己が自己である」という意識(自意識)。
自意識があるがゆえ自己と他の区別、内と外の区別が可能。有機物である人体は無機物である鉱物(石)などと違い、「意識」なるものがあるという決定的違いは何がそうさせるのか、又はさせたのか。
 石には意識は無いはずだが、それを知るすべを知らない。ただ「無機物であり生物では無いからだ。」と答えるのが関の山。人間意外の動物にも、争う・同調などして自己と他の区別はついているからおそらく自意識的なものはある。
 では、人間は偶然に自意識ある有機体になったのだろうか。あるいは必然だったのか。
 そんな疑問が沸いてくる。
偶然であればある意味イレギュラ―であり、必然なら、その原因(真理)は一体何なのか。
 これが解れば人間の存在意義が解るというもの。
 「意識」は「○○である」と自己(脳)が結論を出し続ける事を可能にする。結論が誤りと思えば修正しながら(つまり解決しながら)人間はその大半の時間を費やしてこの作業は、個体の消滅まで自身が行う。人生とは自意識の連続だ。(当たり前だが)
 この作業を仏教的には「苦」というのだろうが。
 人間誰も苦からは逃れたいもの。でも苦はカゲボウシのごとく付いてくる。晴れの日は一層黒くピタリと体に貼り付く。でもそれは本体の自己の存在を証明してくれる。そこには確かに「悩める本体」があるのだ。
 雨の日には、それはかげを潜め、本体の存在を証明してくれるものは無い。
 そう。カゲボウシも気象状況が変われば見えなくなるので、本体も存在のフィールドを変えれば「苦」から一時的に逃れるごとができるが。
この厄介な自意識を一時的に消すことは精神の平安をもたらしてくれるが。

人間は何故
自意識持つ存在なのか。

その理由は創造主の神だけが知っている。
それは、人間にとって課題であり謎である。


「神社の線」

2022-10-01 11:39:35 | 古代史
 やはり遭遇した不思議体験
 「一の俣湯の花観音」の研究を始めて3年が過ぎた。
 研究の必要性から地方の神社や古墳を回る。その形や大きさは様々で、地元民が造った思いがそれとなく伝わってくる。
 神社は、住み着いた民がお守としてその地に建てるものと思っていた。だが実際は逆で、その地に建るために他地より移住して来た。
 神社は独立した設置では無く、各地の神社と繋がりながら意味を持って建ててあった。
 神社の祭神が共通することなどはその証左。
 繋がりがその呪力を最大限に発揮すると考えたのだろう。
 「皆で手を繋いで頑張ろう」の精神に通じる。

 湯の花観音に戻り、3年前に調査に取り掛かった頃、同じような研究者が著書で記していた本のことが頭に浮かんだ。
 
 「寺社を深く調べて行くと必ず妨害と協力と不思議に出会う。」と。

 観音を調べるから、幾度も観音に戻る。調べた事柄の確認と参拝に。
 ある日ふと、観音の石垣の事が気になり、観音へ行く。
 高さ6mの石垣の角の石が30
センチ飛び出して落下寸前だったから。
 ところが、見ると、石はほぼ元の位置に戻っている(30cmの飛び出しが0cm)。
しかも誰かが工事した様子も無い。
 家の者が誰かに工事を頼んだ様子も無い。
 全く理解出来ない現象が実際に起きた。
 「これか。」
 だが、不思議と悪い気はせず、むしろスッキリさえした。
 直す工事費が浮いた。
 神様はここにも居た。