朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

趣味

2022-05-16 06:53:45 | 日記
趣味

好きなものに触れる
好きなところへ行く
好きなことをする
責任感ありきではなく
自然と手にとるもの
心地よい時間
時間を忘れる
苦痛を感じない
見返りを求めない

趣味と頭に浮かべると
こんな感覚だろうか

ぼくは、多趣味ではない
銭湯に行く
酒を飲む
直感でえらんだ小説を読む

銭湯や酒は生活の中の、一部とみると
趣味ではなく
単なる習慣とすると
直感での小説が、唯一の趣味
だろう。

世の中には、紙、電子問わず
情報や文字が、それこそ
スマホ1台で、清濁合わせて
奔流となり、溢れかえっている。

小説を買い、読むのは
そこに意思がおのずとはたらく。
テレビはまったく観ないが
漠然と、テレビの画面を観てるもの
とは違うと思う。

読書することが
いいこと、または、悪いこと
それが、先立つと
自分にとっての、読書は
単なる優劣に終わってしまうだろう。

経験上、読書は
気持ちが不安定になりつつあれば
そこに、何がしかのヒントや気づき
を求め
その不安定を越えた状態で、さらに
何かを求めると、求めたものに
なり得ない自分と、向き合うこととなる。

ここまで行くと
もう読めなくなり
さらに、まだ読もうとすると
漫画や新聞の意味もわからなくなり
肉体と精神の過労と限界を知る。

ぼくは、医師でもないが
自分の体に起こったことで、判断すると
うつや躁は
脳の神経回路の故障と
肉体、精神の酷使からと思っている。

明らかに治療を要する、うつでは
前述の、漫画、新聞の意味ではないが
問診票も書けなくなる
意味というか、判断ができないがために
書けない。
(あなたは、自殺したいと思いますか)
という問診票に
何十分も考えこんで書けない。

こういう経験をすると
文章や活字を追うことが
どれだけ、脳に負荷を与えているか
わかる。

なので、ぼくの読書(趣味)は
一種の、肉体的、精神的の疲労や過労
計る計器なのかもしれない。

読みたいなと思えば読む
読みたくないと思えば読まない

この、感覚でいいと思う。

せっかくの、趣味も
体があってであり、その趣味に強制は
不粋だろうと思う。

学びが、趣味だと言える方は
凄いと思うのも
また、趣味の違った一面だろう。



「訛り」

2022-05-03 11:33:31 | 日記
「こわん、たべた?」(ごはん食べた?)

「おかさん、おる?」(お母さんいてる?)

「とんかす、ふたつ、ちよといちばまわしてきます」
(トンカツ二つ、できるまで市場行ってきます)

年が寄ったのか、最近
夜中に目覚めたとき
銭湯で独りぼぅっとしているとき
よく一世達を思い出す。

冒頭の言葉は
その一世達の訛りとなる。

「ご」、小さい「っ」、おかあさんの
「あ」は伸ばす音
これらは半可な日本語となる。

生きることに、いっぱいいっぱいで
文字や文法を教わる、よすががなく
稀に達者な日本語を使う一世もいたが
ぼくの周りはキツい「訛り」を
持った一世達が多かった。

本国の韓国での「ごはん食べた?」は
おはようやこんにちは、こんばんはの
挨拶代わりにも使われますが、
在日文化?
うん。在日文化かな🤔
の「こわん、たべた?」は
年長者が年下の
「子、孫、従兄弟」に向けての
いたわりとねぎらいの意味合いが
強い。

いまのように、娯楽が多岐に渡り
それなりに選択肢を持って
楽しみを持つ世代ではなかった。

まず、その日の糧を食いつなぐのが
精一杯となる、猥雑とした
雑踏の中の日常での我が一世達の
楽しみは
男では、酒、博奕
女では、石臼のような骨盤に
その子らをぶらさげの井戸端会議
そして、何のためにこんなになけなし
の、金をはたいて、行うのかと
思った「チェサ」(祭祀)だった。

正月、お盆、先祖の命日
正月、お盆は新暦、旧暦で行い
各2度ずつ行う

普段顔を合わす事が稀な親戚が
銘々、仕事帰りに集まる。
現代、韓国でも行うことが少なくなって
きた、旧習の伝統を頑なに守る。

男達は、チェサ(祭祀)の拝礼を
取り仕切るだけで、拝礼が終われば
供物のおさがりを肴に
たらふく酒を喰らう。

女性陣
幾日も前から、チェサの供物の
買い出しをして
当日は、朝から夜中まで
調理、準備に大わらわで、息つく暇も
ない。

が、
ハルモニ、コモニ、イモニ
(おばあさん)、(父方の叔母)、(母方の伯母)達は楽しそうだった。

磊落で、あけぴろっげで、
お人好しで、騙されたことが多く
哀号を奏で、わいわいわちゃわちゃと
料理(供物)の調理をしていた。

そんな一世の女性陣は
必ず、開口一番「こわんたべた?」と
聞いてくれた。

空腹の辛さをその身を通して
体感した彼女達の
いたわりの言葉だ。

韓服を着て、韓式の女性の正座である
片膝を立てて、調理した
先祖、供養者にまず、与えるべき
食べ物を
屈託のない笑顔(その目尻は笑い皺と人生の皺が刻まれていた)と
家庭内労働で、節が曲がり
やっとこのような手で
「こわん(ごはん)、食べなさい」と
与えてくれたものだ。

そんな一世達は
今ではことごとく、世を去った。
二世である、ぼくの父親、叔父も
早くにあの世へ向かった。

家系は全く興味はないが
気づくと、唯一の男子となった。

娘は言う
「父ちゃん、なんで、毎回話の出鼻が
ごはん食べた?」って言うん?

えっ?そうかな

勝手な思い込みであるが
もし、そうなら
心優しく、逞しく、生きるを
具現した
一世達が後ろから見守ってくれてる
のかなとも思う。

そんな、在日を生きるでいいよなとも。






放棄・隠匿について

2022-04-07 10:16:37 | 日記
郵便屋としての独白

ぼくは、集配部という配達部隊に属す
一契約社員であり、早いもので、今年を持って丸9年となる。

郵便局は
階級制度が現存する旧態然とした
全体主義がまかり通る組織であろう。

言うまでもなく、組織の頂点は
霞ヶ関の本社である。
まさに、官僚であり、各管理者(局長、部長)から、見れば垂涎と雲上の人と
なる。
郵便料金も自社で決めることが
出来ない、およそ民営化とはほど遠い
交渉などを政治家や総務省と折衝する
と思ってもらえればよい。

その下部に支社がある。
近畿なら近畿支社
実質的に大阪などの各府県に点在する
本局の頂点である。

本局では
総務が頂点となり
その下に郵便部(内務)
その下に集配(外務、配達)となる。

正社員にも階級がある。
地域基幹職
一般職
一般職から地域基幹になるには
査定で2年連続オールS(5)をとった上で、テスト、面接に合格しないとなれない。

契約社員(時給制)
アソシエイト社員(無期契約)
期間雇用社員(有期契約)
AからCランクがあり
さらに、ランク毎の習熟度「あり・なし」に分かれる。

街の郵便局は、特定局と呼ばれるもので
配達や収集、集荷、郵便内務の仕事は
ない。

本局の局長、部長は支社に行くと
係長、主任、よくて課長だと言うから
その保守、階級が揺るぐことはないだろう。

全ての、通達事項は支社から
各本局に下達され、それに対しては
ロボットのように従わなければ
己の保身は叶わず、左遷される。

朝礼後に行われる安全スローガンを
一斉唱和する。
足は肩幅!
腰は手に!
指サック取って!
親指中へ!
(指の親指を内側に折り曲げまる)
構えいいですか?!
(構えヨシ!)
唱和の終わりにヨシ!と言う際にも
手を耳の横に掲げ、肘をピシッと伸ばす。

監査役(支社からの)が来た時などは
これらが、揃わないとアゲイン
(やり直し)となる。
査定では減点対象。

勿論、配達という仕事では
安全は最優先である。
その事には何ら異存はないが
これでは、若い人達は寄りつかないだろう。

配達というのは一歩外へ出ると
徹頭徹尾、自己完結できる仕事だが
個人個人のモラルが問われる仕事でも
ある。

云うまでもなく、我々が日々お届けする
ものは、個人情報の塊である。
また、その個人情報を私的に活用すると
即刻、郵便法によって、犯罪者として
扱われて、首を切られる。

ぼくの属する本局では
郵便物の詐取、放棄、隠匿の犯罪は
ないが近畿支社管轄でも、全国管轄に於いても情けないことに、なかなか根絶しない。

そして、毎日の朝礼時に
「緊急特報」という号外(押印必須)が
毎日、発表される。
どこどこで
書留の亡失、一時紛失、無記録(押印、サインなし)配達
タバコクレーム
接触事故
時間帯指定の不遵守
(指定に遅れた、早すぎた)等など
枚挙にいとまがない

正直、毎日毎日出しといて
何が緊急特報じゃ?と思う。

また、不思議なことに
偉いさん(本社、支社)の
着服、横領、パワハラ、セクハラ
などは、一切流れることはない。
ニュースで流れて初めて知るのも
事実である。

ぼくの、個人的な見解で
配達部隊の犯罪が起きる温床としては

第一に、班単位の人間関係が可能性と
して高い。

配達員は、絶えず時間に追われている
その日の交付される郵便物も
どんな量で、どんな物が着くかわからない。
言わば、出たとこ勝負の感が強い。

当然、交付物が少なければ
心には余裕を持てる
反対は推して知るべしともなる。

経験が浅い、センスに欠ける人達は
多ければ多いほど、その物量に呑まれ
配達が遅くなり、それが板に付くと
少い量でも、仕事が早くならないのが
ほぼ定例である。

遅いと、舐められる
舐められると言うことは、応援に来てくれる同僚も少なく、やがて、孤立して
悩みや相談事ができない空気となる。

そして、なかば自暴自棄となり
配達しきれなかった郵便物の報告を
しなくなる。

こうなれば、隠すか棄てていると思う。

ぼくは、当然したことないし、これからもしないが、
もし、一度でもしたら
多分、その楽さに溺れるかもしれないと
いう危惧はある。
それぐらい棄てる、隠すは楽だろう。
しかし、必ずバレる。
100%バレる。

よって、棄てない、隠さない環境作り
には、コミュニケーションを伴った
円滑な人間関係作りと応援体制をとれば
いいとなるが

それが、そのまま当てはまらないのが
この仕事のキツいところだろう。

円滑な人間関係は一見良好と思えるが、
対象者に対して、反対に「隙」を見せる。要は、脇が甘いとなる。

応援体制は、自区を一人で完遂できない
スキルのまま固定してしまう。
加えて、応援に回る人間は限られ、
結果的に応援した人間が、ミスという
減点リスクを得てしまう。

それでも…
人間関係の距離感
応援体制の距離感
この二つの間(ま)のとり方が
重要なのは、免れまいと思う。



送別会の口論について

2022-03-29 04:50:31 | 日記
日本は四季があり
その春 夏 秋 冬で自然は
様々に変化する
この事を思うと、物言わぬ自然は
自分に能力があると思っていないと
思う。

先日、38年勤め、65歳満期除隊となった、先輩の送別会を行った。

その時に感じた気持ちを述べてみたい。

郵便の仕事でも、そうでなくても
能力に応じて、生産性が高い、低い
仕事量の多い、少ないはあると思う。

事の発端は、相互応援だった。
相互応援をして、業務の平準化を
計ろうと、よく管理者は言う。

ぼくの、正直な気持ちからすると
「相互応援なぞございません」となる。

なぜか?
ここからは、郵便の仕事限定になるかも
しれないが、
応援に回る人は常に応援に回り
応援される人は常に応援される
よって「相互」は成り立たない。

今回、口論となったのは
どちらも応援に回ることのない
二人だった。

しかし、AはBを
いつも応援されて、仕事ができない奴
と思っており
BはAを始業前や昼休み中の
早着手ありきで業務を行っていて
自分だけの仕事してると思っている。

ぼくからすると
Bは、能力は高くないタイプ
Aは、能力はあるのに
その能力を他人には使いたくないタイプだ。

冒頭に自然は、自然に能力があると
思っていないと述べたように
ぼく自身は、人を「能力」のみで
判断したりレッテル貼りを嫌う。

どんな人でも、長所短所があり
人柄も人間力も持っている。

それを物差しでも当てるかのように
単純に能力だけで決めつけたくない
からだ。

話を戻す
この口論の間に
Bの細君が割って入った。
細君も、別の局で郵便の仕事を行って いて、今回の送別会に客人として
招いた。
前から、面識があったのだが
仕事の話をすると、応援してる人やろな
と思っていた。

AがBに「結局、応援されてばっかで、
応援したことねーんだろ?」
Bは言い返せない。
ここで、細君が切れた。
「さっきから黙って聞いてたら好き放題言いやがって、あんたは応援したことあるんか?!」
「自分が、さも仕事できるかのように
言うてますけど、自分だけの事して
さっさと帰るのに偉そうに言いな‼️」

「それ、見たのかよ?なんだ?こいつ?」とA。

場がシーンとなり
「こいつてなんや?、ウチにも名前あるわ!!」
「協調もせんくせに、協調、協調言いな!!、そんなんは普段から協調してる人が言うことや!!」

確信を突かれたAの
こめかみに青筋が浮ぶ
周りのお客さんも店員さんも
戦々恐々として、成り行きを見ていた。

もう潮時やと思い、細君を連れ去り
とにかくなだめる。

昨日、Bは夜勤者であったが
Aにおよそ考えらない量
(日勤者が配達するべきもの)を出され
私怨を果たされていた。

冷静に考えても、今後AとBの関係修復
はなかろうと思う。
もちろん、細君も今後Aと会うことも
なかろう。

結論が私怨となると、感情論になり
どうしようもない。

個人の能力だけでの意見、見解は
やはり、言うことではない。

応援する、応援しないも
全て、自分の意思で決めていいと
思う。

ただ、ぼくの経験から言うと
応援されて、ほんとに感謝したり
助かったと思えば
その恩は、物言わず返さないといけない。

心で応援する人は、見返りなぞ
思っておらず、ただその時の感謝の
心を恩返しするだけでいい。

個々の集団が組織であるが
それには、人間関係や力関係が
つきまとう。

いつになっても、難しいものだと
思う。