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朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

忘うじがたし想い出

2022-03-25 08:18:56 | 日記
井上靖さんの「孔子」を読んだ。

本についての感想は別に持ちたいと
思う。

この本は、亡くなった父が最晩年
絶えず携行していたものだった。

早いもので没後、26年となり
当時、30歳だったぼくは、とうとう
父と同じ歳に寄った。

遺品という訳ないが、生きている人が
亡くなると、役所やら弔い事やらの
事務的な作業に没頭せざるを得ず
喪主という立場もあり、悲しむ暇が
なかったと言ってよい。

小さな骨壷となって、還ってきた
父を前にして、遺したものを整理して
いる時に、見つけた本だった。

本音を言うと、この本は26年間ずっと
読めなかった。

未だに、父はその姿を見せずとも
越えられない高い高い壁だ。

膂力で言えば、高校2年か3年辺りで
超えていたと思う。

動物の世界で言えば、若い雄が、年の
寄った雄を駆逐するのだろう。

読めなかったのは、辛かったろう
闘病を口に出さずに
コツコツと身辺整理をしていた情景が
ありありと浮ぶからだった。

なぜ、孔子なのだろうとも思った。

ぼくは、医師から余命は半年と聞いて
おり、それでも、男からすると
絶対的位置にいる父が死ぬはずはない
と、およそ、ガキのような世間知らず
の考えで、その言葉を信じてなかった。

果たして、一年後の七夕の日に、
ぼくが、一旦、勤務先の東京に戻った
翌日に、帰った事を見届けるように
逝った。

最期に入院した時には
がん細胞が、脳に転移して、手の施し
ようがない状態だった。

病室で最期に言葉を聞いたのは
「はよ、帰りや」だった。
その後、一言も話せる状態ではなかった。

一言だけ、本について…

孔子を読んで
ずんときたのが
「自分は自分流にいて、自分を汚さずにいて、自分の手足を生きて行こう」
と、弟子がいう場面がある。

同じ本をぼくも購入していて、ぼくは、ぼくの本でそれを読み、ずんときた。

勤務先では、父の遺した本を読んでいて、その部分に、父が鉛筆で傍線を
引いていたの発見した。

高い高い壁ではあり
その時の、父の精神状態とも違う。

しかし、全く予期せぬところで
父と出会い、父と同化したような
気持ちになったのも事実だ。




天命について

2022-03-24 06:19:59 | 日記
天。大空か…
天は何もしない、何も語らない
その、天に使命を感じるとも
死生、富貴に天はくみしない。
正しいことをしようとしまいと
ただそこに在り、触れもしない。
それでも、自分を信じ
結論がでるようで、でない
人の道を、悶々と凛とし進む
まだまだこれからと
言い聞かせる。

昨夜、こうツィートした。

なぜだろう?
天命について、考えていたのだと思う。

自分の手足を動かして
自分を汚さないで
自分は自分流で
生きていこうと決心した。

それは、誰に認めてもらうでもなく、
地位や立場を求めるものでもない。

言わば、自分に対する「掟」のような
ものだと思っている。

このことが、天から与えられた使命
なのか、ただ心を虚しくした結果、
そう思ったのかわからない。

ひとつ言えるのは
正しい行ないをしようが
正しくない行ないをしようが
死ぬ時は死に
栄華を極めるもあり
疾(やまい)に倒るもあり
健やかに過ぎるもある

天をもし、知ったとしても
天は、何もしない。
何の忖度もしない。

何もしないからこそ、身のうちから
湧き出てくる、静かなる決意。

それが、今のぼくが思うところの
天命だ。

「自分の手足を動かして、自分を汚さないで、自分は自分流で生きていこう」

あとの、成敗は天にまかす。


ミスについて

2022-03-20 08:27:13 | 日記
少し今週を振り返ってみようと思う。

「湯上り直後に、よくない報せの権化
である緊急電話より着信あり。
とらずにいようかと思いつつ、受けると「2-8-25-○○号のお客さん、ゆうパケット受け取ってないていうてはるんやけど?」
(それ、俺昨日、2-8-5に入れてますわ)…
問答無用弁解の余地なしの誤配…
お客さんに申し訳ない
今週おかしい…」

⬆こんなツィートを昨日したのですが、、、

今週おかしいはなんだったろう…
まず、
火曜日に一丁目と二丁目を間違えて
投函→回収後、正規お届け先に配達。

次に、住所通りに投函したものの
宛名違いで返される。
但し、郵便は
開封されており、外装なしの状態で
戻ってくる。
差し出し人さまに、状況を連絡後、
再発行して、再度差し出すと言って頂く。

その次は、配達で使用する袋を
集合受け箱の上に、仮置きしたことを
忘れて、翌日、同じ場所に行ったことで、初めて忘れていたことに気づく。
→自ら回収

トドメ?は
冒頭のつぶやきである。
幸い、誤配先を記憶していた事もあり、当日勤務の同僚に速攻でTELを入れ
回収、その後、正規お届け先に
お渡ししたと連絡があった。
感謝し、ありがとうの想いでいっぱいだ。

常々、対面でも集合受け箱でも、そうですが、
「絶対に誤配(ミス)しない」と
つぶやいてから、あるいは、つぶやき
ながら、仕事をするのが、基本スタイルとなっている。

ミスは、まず、受取人さま、差出人さま
に、ご迷惑をかけることになる。

もし、受験票などの人の人生に関わる事であったなら?と考えるとゾッとする。
人生に関わるものでもなく、例えばDMやチラシに近い郵便でも、一通は一通であり、それらを明らかに、確認不足で、
誤配や誤転送、誤還付するのは、例え、人のする事であっても、やってはならないのが、基本動作の一環である。

ここまで書いて、考えてみましたが、
季節の変わり目と疲労のワードが
出てきた。

季節…は変えようがない。
毎年、この時期は情緒不安定となり
それに対する対処法も、長年の経験で
やりようがある。

疲労…
どうも蓄積しているように思う…

郵便の仕事は、単に郵便だけを配るものではない、荷物、書留、その他、数十種類があり、それを一度に積載して、お届けする。
対面もあればポストインもある。

ぼくの、仕事での基本スタイルは
その日の仕事を午前中であわよくば
終わらす事。を目標としている。
なぜそうするか?

昼から応援に回る前提で
思考、行動がそうなっているから…
配達区によって、当日の物(ブツ)の
交付具合は日々異なる。
重たい(しんどい)区
軽い(比較的楽な)区とハッキリ差が出る。

ぼくが担当するところは
重たかろうが軽かろうが、午前中で
仕事の、趨勢を決めるスタイルは変化
しない。

なぜなら、それを考えて仕事をしないと
能率も、自らの能力も、高める場所まで
到達しないと思うから。
なので、人の為ではなく、自らの
研鑽を積む為と言っていいだろう。

今週は5勤中、5勤全て、午後から
応援に回った。
仕事中は、疲れたと思わない、というか、疲れたと思う暇がないのが事実。

しかし、一週間で、例え、致命的でない
にせよ、4回もミスを犯すなぞ、かつて
なかった事も事実。

集中しているようで、やはり、集中力が
欠けていたと自省するのみである。

応援に回らなければいいではないか?
と思うぼくもいてる。
確かに、ここ数年は、ぼく自身、同僚に
応援してもらったことはない。

見返りを求めて、応援に回る訳ではないのだ。
体が勝手に動き
この口が勝手に喋り
「おう、どないや?」
「わかった。ほな、重たいとこ回せ」
と言ってしまう。。

ぼくは、正社員でもない、非正規の
契約社員である。

応援に回っても、査定にプラスに
なる訳でもない。

人によっては、応援に回ると
ミスを犯すリスクを抱えるだけと
決して、回ろうしない人がいるも事実。

しかし、ええかっこではなく
ぼくのとった行動で
誰かが、少しでも前を向く
助かったと思い、その思いが、
他の知らない人に向けられて、また
他の知らない人が助かった。と
思う、人の恩返しの循環を考える
性質(タチ)であるので
なかなか、改善はできないなと
思う。

湯あたりについて

2022-03-13 07:57:50 | 日記
「ふぅ〜やれやれ終わったの」
昨日は休日であったが
朝9時から2時まで会議があり
長い半日を終えた。

この日は贔屓のさんわ湯は定休日
なので、どこへサッパリしに行こうかと
方角だけ決めて自転車のペダルを漕ぐ。

萬成湯にしよう。
毎日12時から14時30分まで
清掃に入るが、着く頃には営業してる
だろう。

さんわ湯もそうだが
ここ萬成湯も昭和の匂いを強く残し
建屋は古いが清潔感のある名湯だ。

サウナはなく湯船が二階建となっている。

一階部分には湯船が四曹あるが
階上があるために天井がやや低い。
この為に、半スチーム状態となり
いつも通りの時間、湯に浸かるのは
避けるのがぼくのしきたりだ。


二階部分には水風呂と塩風呂があり
天井は覆いのない露天風呂となる。
晴れた日には青空を眺めての
塩風呂はことに気持ちがいい。

一階部の湯船に向かうと先客が二名いた。
約10分程浸かり二階に移動して
5分程浸かり、降りてくると
一人のおじさんが、ポーズを変えずに
まだ浸かっていた。

(あれ?まだ入ってるんか?
大丈夫なんかな?)
ぼくと同時でも15分は深風呂に
入ってるので一抹の不安がよぎる。

しかし、手は湯船から出し
オーケストラの指揮者のように
リズムをとっていた。

(うーん)と見詰めていると
番台から店主が浴場にきて
○○さん○○さんと声をかけた。
反応はあるのだが鈍い…

(こらやばいで)と湯船から引き揚げる
心づもりをした。

店主に向かい
(お父さん、こらあかんで引き揚げよ)
「あぁ、そうでんな」
店主はご高齢である。
湯船に入り縁側へ押す
一旦、店主に支えてもらい
湯船から抜けた体を支えて降ろす。

その頃には、殆ど意識がない状態で
酔い潰れた体が三倍重いように
ずんと体重がぼくの中腰の上半身に
乗った。

血栓か梗塞の可能性もあるので
慎重に降ろさないといけない
頭でもぶつけたら
どうなるかわからない
必死でゆっくり降ろす。

40代くらいの娘さんが
店主とバトンタッチして小走りに
浴場に入ってきた。

(お姉さん、すいませんけどタオル
水で濡らして持ってきてくれませんか?それと救急車呼んで下さい。)
とお願いすると
「わかりました」ときびすを返した。

当のご本人の顔色は青い
医者でもないので何もできないが
とにかく呼びかけて反応を待つ。

(おっちゃん、おっちゃん、ここどこかわかるか?)
「風呂」
(そやそや、風呂や)

(この手握れるか?)と問うと
握り返してきた。

お姉さんが持ってきた濡れタオルを
後頭部の動脈部と首の動脈部にあてがい
救急車の到着を待つ。

長い…
およそ10分以内だったと思うが
旧型のパソコンの起動時間を待つよう
長い。

救急隊員が三名到着した。
瞬間、ホッとしたが
どうなるかわからない。
が、役目は終わったので洗体に戻った。

入浴を終えて脱衣場に向かうと
おっちゃんは座っており
救急隊員は「湯あたりでしょう」と
言い、去っていったと娘さんから聞く。

娘さんの仰った言葉が心に残る
「○○さん 迷惑なんかひとつも思って
ないから、体調が悪いなと思ったら
お風呂入る前にひと言言うてね。
これで済んだとは言え、○○さんが
危ないでしょ。
さ、お水、ゆっくり少しずつ飲んで
下さい。」

そして、ぼくに向かい
「どうもありがとうございました。
お手数お掛けしてすいません。」
と仰った。

風呂屋にくるお客さんは
ほぼご高齢のお客さんが多く
さんわ湯でもそうだが
長湯には神経を張っている。

湯あたりした事に気づかない
ことが多く、また体調がすぐれない
時が多いので常連でも歩き方などが
普段と変わってないか?
チェックしてるとさんわ湯の店主に
聞いた憶えがあった。

萬成湯の店主の気づき
娘さんの優しさ
救急隊員の的確な処置、判断
そして、ややこしい事には
関わりたくないという
その他大勢の本音もみた昨日の銭湯
だった。

本感想 上海の長い夜 鄭念

2022-03-12 07:47:18 | 日記
上海の長い夜 上下巻
鄭念 1988年作


著者の回顧録いや真実の記録と
言っていいと思う。

今から55年前、著者は
突然暴風雨のような近衛兵の
来襲に会い、略奪、迫害、拘禁される。

今、世界の強大国となった中国で
起こった文化大革命が真実の場
であり記録は進んでいく。

資本家というだけで
党に対する逆賊とみなし
ありもしない事を「告白」という
見世物の場で公開し逆賊の烙印を押す。

文中、彼女はあるゆる非人道的
な行為、拷問、死の寸前にまで
至る独房生活を送る。
たったひとつの希望は
会えないひとり娘だ…

「生きざま」
もし一言で感想を述べるなら
これに尽きる。

腎臓がひとつなく
健康状態もよくない著者は
「してないことにはしてないとしか
言えません。
それが私の真実です。」
と言う。

精神が崩壊する
いや、死んでも不思議ではない
環境で
「真実」にのみ「忠実」であらん
とした。

決して折れる事のない
「生きざま」
よくぞここまで…
また、よくぞこの著作を書き上げて
くれたと感謝する。

そして、中国という国に対して
ひと言も論じてない。

陳腐な言い回ししかできないが
著者は愛国者であったと思う。

祖国から離れて眠る著者は
いまも中国を見つめているだろう。
そして、どう真実を見つめているだろう。