朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

〖続〗故郷について

2019-12-27 04:57:52 | 旅行
タイトルが故郷となっているが、単にルーツが韓国にあるというだけである。

他に思いつかないので故郷としている。

さて、掘っ建て小屋の絶品鱈&チャミスル明けの翌日はボロボロの二日酔いである。

うどんしか喉を通らない。

釜山はトランジット的に経由したので
チェックアウト後には空港に向かう。

国内線でソウルへ。
金浦(キンポ)空港へ到着すると
祖母の親戚の方が迎えに来てくれていた。祖母はソウル出身である。

ソウルの印象は、道路がだだっ広い、空港も含めて街の至るところに軍人がやたら多く睨みをきかせていた。
そして目が痛かったことか。
学生運動鎮圧の為の催涙弾の影響だ。

道路がだだっ広いのは(片側5~6車線)
いざ北朝鮮と戦争が始まったら戦闘機の離着陸としての想定をしていると、親戚に聞いた。

途中、昼食を取ろうと言うことで親戚の
知る參鶏湯(サンゲタン)専門店に連れて行ってくれた。

いまでは韓国料理に馴染みのある方も増えていると思うが、当時の私は韓国料理と言えば、お盆や正月、亡くなった祖父の命日に行う祭事(チェサ)で出るくらいであった。

家が寿司屋だったので、ニンニク、キムチはご法度であった。

參鶏湯は、黒い羽毛と白い羽毛の2種類あると知らされた。無論羽は処理している。どちらを食べたのか記憶にはない。

鶏のサイズはひな鳥程度で、縦長の壺にグツグツと煮られて出てきた。
鶏は1羽丸ごとで内蔵が処理され、
もち米、ナツメ、クコ、ニンニク、高麗人参が詰め込まれている。
鶏の入った壺と一緒に粗塩と胡椒が置かれた。

スープをひと口飲むと、なるほどスープの旨味だけで味がついてない。
粗塩を適量掘りこみ食す。
釜山ではうどんがやっとであったが、
まだ若かったので食欲は出てきた。
お肉は硬すぎす柔らかすぎず、よく煮ているので骨からスルッと身が取れる、それに粗塩をつけて食べると粗塩が肉の甘みを引き出してうまい😋

肉ともち米、ナツメ、クコ、高麗人参を一緒に食べる。いまから思うと薬膳料理だ。

その後、オリンピック公園に行ったが観光をした記憶はあまりない。

親戚の家に荷物を預けると、祖母が市場(シジャン)に行こうと誘った。
足を向けたのは、魚屋であった。
祖母は一世なので言葉には不自由しない。
生きた渡り蟹を買う。
なんでも親戚が祖母の作る薬念(ヤンニョム)で漬けた渡り蟹が好物なのだそうだ。

祖母は私の幼少期に焼肉店をやっており
大阪場所が始まると、お相撲さんがよく来るそこそこの人気店であった。

薬念(ヤンニョム)は、ご存知だと思うが韓国料理の下味の総称みたいなものである。
うろ覚えだが、あの時のヤンニョムは醤油、酒、みりん、砂糖、粗塩、少量の刻んだプッコチュ(青唐辛子)だったと思う。出刃でぶつ切りに落とした渡り蟹をヤンニョムの中に漬け込み冷蔵庫で冷やす。

蟹に味を馴染ませる為にすぐには食べれないので、親戚にこの辺に風呂屋はないかと尋ねると徒歩三分であると言う。

行ってみると、サウナ付きの風呂屋であった。日本と対して変わらぬ、違ったのは洗い場(カラン)にイスがなく、立って洗い、上からのシャワーで流すとこであった。

親戚の家に戻ると、酒盛りをしていた。
昨日撃沈された、チャミスルがドーンとテーブルに置かれており私は一瞬逃げよかと思ったのだが、無論出来るはずがない。

しかし、若干の抵抗を示しHITEビールでごまかす。

今でもそうだが、韓国のビールはライト感覚である。軽くてあまり苦味も強くなくスルスルっと入る感覚だ。香辛料を使った料理には合うと思う。

頃合いをみて先程の渡り蟹が出てきた。

今でも鮮明なのは蟹の新鮮さであった。
とにかく身が締まって甘い。
そこへ、祖母のヤンニョムが絡まりまた蟹の甘みが増す。殻は割って食べる、中国料理で言う上海ガニの紹興酒漬け(酔蟹)に近いかもしれない。

親戚の伯母さんの息子の嫁さんがヤンニョムのレシピを祖母に教わったのだが、どうしても同じ味にならなかったようである。
そらそうだ。祖母にレシピはない。勘だけである。全て食材とその量に合わせて変化させる勘がレシピなので、紙に書いても伝えようがない。

大人も子供、日本から来たハングルを理解しない遠い親戚の私も無言でバリバリ食べる。いつのまにか手元にはチャミスルのグラスが置かれ、この日も撃沈の夜であった。

次は済州島(チェジュド)に向かう。

(続)








故郷について

2019-12-26 05:30:41 | 旅行
1988年のソウルオリンピックが終わり
その2年後の1990年に初めて韓国を訪れた。

帯同者は父方の祖母であった。
あと父親の弟、叔父が遅れて合流した。

父親も含めて3人はこの世にはいない。

私は在日韓国人3世として、日本に生を受けた。

この旅は、釜山→ソウル→済州島であった。
当時は伊丹空港が国際線として稼働しており、伊丹→金海(キメ)空港に降りた。

初めて見た釜山の街では、車のクラクションが鳴りっぱなしの街であった。
せっかちな大阪に生まれたわたしであるが、度肝を抜かるとはこのことのようであった。
それに加えて、運転者同士が大声で怒鳴りちらすのでこちらは気が気でない。
よくあれで殴り合いにならないものだと思った。

夜になると私は1人で街に出て、海雲台(へウンデ)の中心街ではなく路地裏を歩いた。

掘っ建て小屋のような店に入り、メニューを見てもハングルなのでさっぱりわからぬ。OBビールを飲みながらボーッとしてると隣りにいたお姉さんが腹は減ってるのか?とゼスチャーで聞いてきたので、イエスと答える。

店のアジュンマに注文を通してくれて
暫く待つと、真っ赤っかの魚の固まりが出てきた。

魚は鱈であった。もともと鱈は淡白であるがこの時食べたものは、脂が乗っており絶品であった。
日本風であれば鱈の煮付けである。
鱈の皮と身の間に脂があるので、韓国風の唐辛子味でも辛さがビリビリこない。

そこへ隣りのお姉さんが、一緒に飲もうと焼酎を持ってやってきた。
現在のチャミスルである。
アルコール度数は17~18度であるが、これを焼酎用のショットグラスに注ぎストレートでぐいぐいあおる。

韓国人で酒を飲む人は強い。
私は焼酎は割って飲むものと思っていたが、今でも韓国人はあまり水で割ったりしない。
ビールの小瓶位のボトルが何本テーブルに乗ったであろう。

とにかく異国であるので、潰れてはならないと気合いを入れて飲み続けたことを思い出す。

途中、アルコールを抜く為にトイレに戻し行ったのだが、トイレは水洗ではなく戻すに戻せず引き返した。(お食事中の方申し訳ありません)

その後どのようにして宿に戻ったか、まったく記憶がない。

覚えてるのは、初めての韓国焼酎で潰れてベッドでのたうち回り、ベッドとトイレを何度も往復したことと、祖母にえらく叱られたことだ。

当時の韓国焼酎には甘味料にサッカリンを入れてることを翌日に祖母から聞いた。

なにはともあれ、初日の釜山は終わった。

続)





開運について

2019-12-22 20:10:39 | 日記
開運?!

宝くじがあたる
お給料があがる
拗れていた人間関係がよくなる
お金持ちになる
希望する仕事につける
閉塞感から脱皮する などなど

開運というと望んでいたものや望まなくても天から降ってきてそれが幸運と呼べるようなものを受け取るというイメージを抱くように思う。

確かにドツボやと思うことより、おおっ!ラッキーやと思うことの方が人は受けとめやすいのではないかと思う。

お金は人が生きていくための必需品であるのであるに越したことはない。
正直、100%お金といっても言い過ぎでもなかろう。
純粋にお金なしでは食うていけないからだ。

最近思うところがあり、ぼちぼちではあるが自分自身を観察するようにしている。

なぜそのように思ったのか、感じたのか、なぜ行動したのか、なぜとどまったのか、その時に何を考えていたのか
自分自身に問いかけてみる。
答えがでるときもあれば、そうでないときもある。

そんな自省していると、開運というワードが頭の中をを巡った。

そもそも運命というのは(私なりの解釈だが)命を運ぶと書くので、運ぶ以上は
晴れの日もあれば雨の日もあり、暑さ寒さ、お腹いっぱい、空腹でフラフラ
など一定状態を保てないのが普通ではなかろうか。

すべてがうまくなる開運などなかろう。
そんなものはまやかしだと思う。

いまは低迷、停滞してるがこれも命の流れでは起こりうることだ。
そこに想念をあてることよりも、低迷、停滞期であっても己の土台をしっかり築いていこう。

私の場合は、日常を丁寧に生きることを心がけている。

ものを丁寧に扱う。対人関係では丁寧な言葉遣い。感謝する気持ち(素直にありがとうございますが言えればよい)

そんなことを自分の行動に取り込んでいるのだが、開運というワードに反応しない自分ができてきた。

ええも悪いも含めて開運ちゃうんか?!と私の中の小さい私が言う。

おぉ、そやなと納得しているこの頃である。

お金が100%でもよい。人それぞれだ。
しかし、いまの私はお金90%
残りの10%は心。心から湧き出たものを自らの生活の中で実践する。
この10%が人間を成長させてくれる
「財」なのかもしれないと変わってきた。

今日は冬至であった。
贔屓の風呂屋でゆず風呂を堪能させてもらったので、明日からの13連勤に弾みがついた。

働けることに感謝である

掃除について

2019-12-18 06:10:37 | 日記
掃除を思うと幼少期から学生時代を思い出す。
大学を終えるまで私は寿司屋で育った。

小学校高学年頃から父親に付いて夜中の3時頃から中央卸売市場へ仕入れに向かう。厳寒時はつらかったが、仕入れが済んで市場内の鰻屋の鰻巻きと赤だしを食べて最後にうな丼を食べさせてくれたのが心に残る。

いきなり脱線した…

店のホールといってもカウンター8席と小上り4人の小さい店であったが、ほぼ毎日水拭きで掃除をする。
ホースから水を引き雑巾で拭きあげて最後に硬く絞った雑巾で仕上げ拭きを行った。板場内も同様に水拭きをする。

それが済むとトイレの掃除であった。
ブラシなどはなくここも雑巾で水拭きをした。

夏場は汗だけだが冬場は結構キツかった。しかし、掃除を終えた時の爽快感を忘れてないのも事実である。

あとは、桜の一本木で作ったカウンターと店玄関の檜で作った4枚扉。
これは会社風に言うと四半期ごとに
タワシで磨く。

どちらも木なので強く擦ると、木の表面にムラができるので力の加減が必要であった。目立たない部分で試し磨きをして乾くのを待ち、力の加減を計ったものだ。

そのような生活を経て数十年。
ふとしたきっかけで、このブログにも以前綴ったが玄関に盛り塩をしようと思い立った。

毎日の掃除機は家人がやるが、週一には私が家の掃除を行う。

リビング、台所、換気扇、風呂場、洗面台、トイレ、玄関、ベランダ、各部屋。

家の中の掃除はやり出すとキリがないのであまり神経質かつ病的にはしない。

ようは気持ちの良い空間であればいいと思っている。

しかし、いまこれを綴りながらふと気がついた。
念入りにと気をつけているのが玄関とトイレ、台所であった。

過去店の掃除はホール、板場内、トイレであった。
ホールは玄関。板場内は台所。トイレは変わらぬが。

玄関は人の出入りするところ。
台所は水回り、循環もするが留まると汚れる。
トイレは排泄するところ。

父親が世を去って20年以上過ぎたが、当時何のために掃除をさせるのか、一言も言わなかった。

今となっては、私なりの解釈であるが
精神を整えることではなかったのでないか。

私は中学からヤンキー街道まっしぐらでしないのは、女性関係、ドラッグ、博打だけで喧嘩は日常。
すでに中一から酒、煙草を経験していた。母親が何度も身元引受人として警察署にきた。

しかし、掃除だけはやらされたし、時には逃げてサボることもあったがほぼ
やり通した。

あの時もそうだったが、最初は雑巾を潰すのだ。しかし、定期的に水拭きをしてると雑巾の汚れ方が段々少なくなりバケツで都度洗い、絞る回数も減ってくる。

掃除が楽とは言えぬが、いくらか負担が減ってくるのが実感できる。

精神が整う
考えてみた

なんやろ?

いまの心境だと

取捨選択がはっきりする。
金の使い道にメリハリがつく。
楽して生きたい、稼ぎたいと思わない。
成功してる同期と自分を比較しない。
なんとなくだが自分の中に軸(幹)が
できてるような感覚。
丁寧な生き方がしたい。
元気に働けることはとてもありがたいことだ。

まだあるが、ざっとこのような変化を
感じている。

たかが掃除、されど掃除かな。

変化しないのは、掃除を終えた時の
爽快感である。





夢について

2019-12-17 01:53:49 | 日記
先日みた夢のことが記憶から抜けない。
私はたいがい夜中の2時か3時に目が覚めて、出勤直前の5時前から10分か15分の浅い眠りに落ちる。

その時によく夢をみるのだが、ほとんどが過去にまつわることで起きた瞬間に後味の悪い感覚に包まれるが、出勤する頃には記憶から抜ける。

今回の夢は1週間経過しても抜けない。

夢なので荒唐無稽な展開にはなるが
綴ってみたいと思う。

その時、ある木造家屋に私は居た。
場所は草原に囲まれたところであった。

草原には放し飼いの牛や豚がいて何をするわけでもなく、それらを見つめていたのだが突然、水槽の中に奇妙な生き物がいるのをみとめた。

水槽には水が張ってあり、その生き物は赤い翼を持った白豚であった。

私はその豚を凝視すると、なんとも言えない嫌ーな感じが全身を包んだ。

顔である。目が黒目しかなく禍々しい表情をし、こちらに悪意をむき出しにして私を見返す。

かなりの厚みを持った水槽なので、それを壊してこちらに向かってくるとは思わなかったが、突然水槽が木枠の檻に変化した。

木枠は2枚の木しかなく、その生き物は容易くそれを破り私の目の前に迫ってきた。

明らかな殺意を持ち突進してくるので、私は扉を閉めたがこちらもペラペラの木の扉で鍵もなく手の力でその生き物の侵入を防いでいた。

殺されると思ったので、娘に包丁を持ってくるようにと声を荒らげて伝えた。

娘はなぜ私が包丁を持ってくるようにと、言うのが理解出来ぬようだ。

私はこのままでは、娘もやられてしまうと思ってるのでとにかく声を張り上げた。
娘が私に持ってきたのは、食器のナイフとフォークであった。

ないよりましであるので私はその食器ナイフでその生き物を刺そうと決断した瞬間、生き物は人間に変化していた。

黒のスーツに白のワイシャツを着た見たこともない男であった。
この男はポーカーフェイスであったが、残忍な目つきで私を見つめた。

私は夢の中では追われる夢や、落胆することが多く、記憶から細部は抜けるが冒頭に記したように後味の悪さが残ることが大半である。

しかし、この時は違った。
娘は私にナイフを渡したあとに、その場から姿は消えており安全圏にいた。

私はその男に殺される前に、殺してやろうとナイフを男の腹に深々と刺した。
食器ナイフなので、包丁より殺傷力が弱いので刺してから更に右に捻った。

「そんな程度で俺は死なない」と男は私を見て笑いながら、私の首を締めようとしてきた。

その時に、ナイフが包丁に変わっていることに気がついた。
もう一度刺して更に捻った。

男は仰向けに倒れ、私に向かって「お前を殺してやる」と言っている。

「やれるもんやったら やってみい」と
言って、私は男の頸動脈を切ってトドメを刺した。

恐怖心はあった。いまでもゾッとするのだが、その時は(夢の中では)殺らなければこっちが殺られてまうの思いが強かった。

トドメを刺した男を綿のカーテンのような布でくるみ、死体を始末するためにやってきた後輩とどこに埋めるかと相談して山に行こうと決めて、車も無いことに気づいたところで目が覚めた。

夢なので罪はないが、なんともかんともである。

人を殺すという意識は当然持ったことがないし(普通はない)、殺人者にもなりたくないがあの夢の中での、豚と男を殺すという明確な意識が抜けぬ。