1988年のソウルオリンピックが終わり
その2年後の1990年に初めて韓国を訪れた。
帯同者は父方の祖母であった。
あと父親の弟、叔父が遅れて合流した。
父親も含めて3人はこの世にはいない。
私は在日韓国人3世として、日本に生を受けた。
この旅は、釜山→ソウル→済州島であった。
当時は伊丹空港が国際線として稼働しており、伊丹→金海(キメ)空港に降りた。
初めて見た釜山の街では、車のクラクションが鳴りっぱなしの街であった。
せっかちな大阪に生まれたわたしであるが、度肝を抜かるとはこのことのようであった。
それに加えて、運転者同士が大声で怒鳴りちらすのでこちらは気が気でない。
よくあれで殴り合いにならないものだと思った。
夜になると私は1人で街に出て、海雲台(へウンデ)の中心街ではなく路地裏を歩いた。
掘っ建て小屋のような店に入り、メニューを見てもハングルなのでさっぱりわからぬ。OBビールを飲みながらボーッとしてると隣りにいたお姉さんが腹は減ってるのか?とゼスチャーで聞いてきたので、イエスと答える。
店のアジュンマに注文を通してくれて
暫く待つと、真っ赤っかの魚の固まりが出てきた。
魚は鱈であった。もともと鱈は淡白であるがこの時食べたものは、脂が乗っており絶品であった。
日本風であれば鱈の煮付けである。
鱈の皮と身の間に脂があるので、韓国風の唐辛子味でも辛さがビリビリこない。
そこへ隣りのお姉さんが、一緒に飲もうと焼酎を持ってやってきた。
現在のチャミスルである。
アルコール度数は17~18度であるが、これを焼酎用のショットグラスに注ぎストレートでぐいぐいあおる。
韓国人で酒を飲む人は強い。
私は焼酎は割って飲むものと思っていたが、今でも韓国人はあまり水で割ったりしない。
ビールの小瓶位のボトルが何本テーブルに乗ったであろう。
とにかく異国であるので、潰れてはならないと気合いを入れて飲み続けたことを思い出す。
途中、アルコールを抜く為にトイレに戻し行ったのだが、トイレは水洗ではなく戻すに戻せず引き返した。(お食事中の方申し訳ありません)
その後どのようにして宿に戻ったか、まったく記憶がない。
覚えてるのは、初めての韓国焼酎で潰れてベッドでのたうち回り、ベッドとトイレを何度も往復したことと、祖母にえらく叱られたことだ。
当時の韓国焼酎には甘味料にサッカリンを入れてることを翌日に祖母から聞いた。
なにはともあれ、初日の釜山は終わった。
続)
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