掃除を思うと幼少期から学生時代を思い出す。
大学を終えるまで私は寿司屋で育った。
小学校高学年頃から父親に付いて夜中の3時頃から中央卸売市場へ仕入れに向かう。厳寒時はつらかったが、仕入れが済んで市場内の鰻屋の鰻巻きと赤だしを食べて最後にうな丼を食べさせてくれたのが心に残る。
いきなり脱線した…
店のホールといってもカウンター8席と小上り4人の小さい店であったが、ほぼ毎日水拭きで掃除をする。
ホースから水を引き雑巾で拭きあげて最後に硬く絞った雑巾で仕上げ拭きを行った。板場内も同様に水拭きをする。
それが済むとトイレの掃除であった。
ブラシなどはなくここも雑巾で水拭きをした。
夏場は汗だけだが冬場は結構キツかった。しかし、掃除を終えた時の爽快感を忘れてないのも事実である。
あとは、桜の一本木で作ったカウンターと店玄関の檜で作った4枚扉。
これは会社風に言うと四半期ごとに
タワシで磨く。
どちらも木なので強く擦ると、木の表面にムラができるので力の加減が必要であった。目立たない部分で試し磨きをして乾くのを待ち、力の加減を計ったものだ。
そのような生活を経て数十年。
ふとしたきっかけで、このブログにも以前綴ったが玄関に盛り塩をしようと思い立った。
毎日の掃除機は家人がやるが、週一には私が家の掃除を行う。
リビング、台所、換気扇、風呂場、洗面台、トイレ、玄関、ベランダ、各部屋。
家の中の掃除はやり出すとキリがないのであまり神経質かつ病的にはしない。
ようは気持ちの良い空間であればいいと思っている。
しかし、いまこれを綴りながらふと気がついた。
念入りにと気をつけているのが玄関とトイレ、台所であった。
過去店の掃除はホール、板場内、トイレであった。
ホールは玄関。板場内は台所。トイレは変わらぬが。
玄関は人の出入りするところ。
台所は水回り、循環もするが留まると汚れる。
トイレは排泄するところ。
父親が世を去って20年以上過ぎたが、当時何のために掃除をさせるのか、一言も言わなかった。
今となっては、私なりの解釈であるが
精神を整えることではなかったのでないか。
私は中学からヤンキー街道まっしぐらでしないのは、女性関係、ドラッグ、博打だけで喧嘩は日常。
すでに中一から酒、煙草を経験していた。母親が何度も身元引受人として警察署にきた。
しかし、掃除だけはやらされたし、時には逃げてサボることもあったがほぼ
やり通した。
あの時もそうだったが、最初は雑巾を潰すのだ。しかし、定期的に水拭きをしてると雑巾の汚れ方が段々少なくなりバケツで都度洗い、絞る回数も減ってくる。
掃除が楽とは言えぬが、いくらか負担が減ってくるのが実感できる。
精神が整う
考えてみた
なんやろ?
いまの心境だと
取捨選択がはっきりする。
金の使い道にメリハリがつく。
楽して生きたい、稼ぎたいと思わない。
成功してる同期と自分を比較しない。
なんとなくだが自分の中に軸(幹)が
できてるような感覚。
丁寧な生き方がしたい。
元気に働けることはとてもありがたいことだ。
まだあるが、ざっとこのような変化を
感じている。
たかが掃除、されど掃除かな。
変化しないのは、掃除を終えた時の
爽快感である。
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