よく、すごいなと思う人の人生談をテレビなんかで聞くと、
それでふら~っとしてたんですよ、とか
ちょくちょく顔出してとか、
呼ばれてとか、呼ばれるようになってとかっていう話がある。
そのふら~っとしていた時期がよしとされて
(世間一般からする、ええ~みたいなのはなく)
うまい具合にだれかに呼ばれる。
タモリさんも、ついさっき見た松尾貴史さんもそうだ。
グラフィックデザイナーの自伝本なんか読むと、
1つ目の仕事(結婚式のカードとか無料仕事だったかな)
から次々仕事が来るようになったり(水野)
学生のときと、デザイン学校出たての頃は落ちこぼれで、
先輩にも先生にもおまえ向いてないみたいに言われた、
勝手にデザイン事務所にいりびたっていたとか抜かしながら、
今はこうやって本出してるじゃないかというような人がいる。
私の方は、
また1に戻ってしまった。
幸いなことに0ではない。
技術と、1くらいにはなった技量があるから、
以前と同じ貯金額をもっていても、
以前より心に余裕がある。
女優を目指していた頃、
と、ここでその頃の話をし出すところだったけど、
長くなって、本来いいたかったことになかなか戻れないので、
結論を書く。
女優を目指していた頃、
私はその「女優を目指すためにかかる費用」にかなり頭を悩ませていた。
そればっかり気になって、
レッスン代もこんなにかかるとか、
ここをやめて、他で学ぶとしても、よりもっと掛かるし、
どんなところなんだろう?と不安で信頼もできず、
そちらに入って修業しても、技術が身に付くかわからないと思うと、
足踏みしてせずにはいられなかった。
―それで結局、いたところで満足なレッスンが受けられなくて演技が上達しない、
将来自分のためになるものがない、役もここではもらえない可能性大と結論して、
所属していたところをやめたとき―
それでも次へいきたいと思いながら、
お金と将来の見えなさ加減と年齢から、女優を目指すことをやめることにした。
もう2、3年もの間、その世界で研修生ながらすごしたのに、
とくに進展していないという経験感覚からも、
次トライはキツいなと感じた。
時間もお金も、費やした分にたいして、得たものが少なすぎた。
デザイナーを目指した時に払ったお金と同じでも、
事務所や劇団、名のある俳優が主催する研修といったところに定時されている金額は、
大金加減の感じ具合が、大きく違った。
それを今感じていたというのが今回の記事の話。
職の違いも、感じ方に影響しているのかもしれない。
「デザイナーは職能」
そういう言葉があるように、デザインは学んで、自分で研究していけば、
仕事に就けるくらいにはなる。
その道も一歩一歩着実に階段があるのを踏みしめ、感じながら、
次はこれが自分の課題だなと分かる。
経験していくとそういう段階がある。
だけど女優はそうはいかない。
まずどうやって演技を身につければいいのかすらわからない。
こうかな?という手探りだ。
欧米や韓国あたりはちゃんとしたメソッドがあって、
欧米なら名の知れてるスクール、韓国なら演劇科のある大学にほとんどの俳優女優いっている。
だからかと、納得する。
“魅せ方”をなんかだか、みんな心得てるなと感じていて不思議だった。
映像ならではの。
演技っぽい演技なんだけど、そこに魅せる力がやどっているのはすごいことだ。
(演技っぽい演技で、魅了されないというのじゃく)
そういうのはやはり、できあがったメソッドを、
大学なり、伝統あるスクールで学んだところから来ているのだなと思う。
そういうのは日本にはない。
あるんだけど、そういうとこで学んだ人より、
どっかっからすっごく若いときに見つけ出したキラ星を、
どんな場面でも
(厚みある時代劇でも、CMでも
(CMで芸能人を使うのが標準になっているのは、世界からしたら珍しいことだ))
使って置けばいい、客寄せになるからっていう感じだ。
―所属していたところの監督が「宝塚の人が宝塚を出てからも
コンスタントに仕事があるのは、宝塚の人にはかならずファンがついているからだ、
役に配置しておけば、そのファン数だけ必ず売れる。宝塚のファンの人は熱狂的だから。
だから宝塚くささが抜けなくて、ちょっと舞台に不釣り合いな演技の人でも配置するんだよ。」
と言っていた。
驚きと、驚嘆と、それまでのモヤモヤが腑に落ちる私にとって衝撃的な話だった。
そういうカラクリがある。―
適材適所なんて端折って、カッコいい、カワイイ+αで人気を得ている人に
とりあえず割り振っておけばいいという感じ。
そうすればとりあえずは赤字は逃れられること間違いなしだから、
自分は責められないと思っているのだろうか。
味のあるいい役者さんがここぞのところで使われるということが、
どんどん少なくなってきているように感じる。
ここぞの脇役までも、役に不釣り合いな人を配置するケースをよく見る。
客寄せのためなのか、事務所と制作側の力関係なのかわからないけど。
システムが欧米や韓国などと、日本は違いすぎる。
だからそんな業界でやっていこうと思うには、
あまりにも道が不鮮明すぎて、
見えなさと、不安さで、
使うお金に対して、情熱ひとつで払うという気にはなれない。
そこがデザイナーと女優を目指すときの違いだなと思う。
年齢や経験も関係しているかもしれない。
経験を重ねて、なんやかんやで、
デザイナーに転職するとき、四分の三は採用だったから、
本当に困ったら、雇用形態や業種を選ばなければ選ばないほど、
とりあえずは私は職につける=生きていくお金くらいにはなるだろうなぁという感覚がある。
さらに年を重ねたからか、様々な業界へ転職したからか、
だいたい社会のことがわかってきた。
私が女優を目指していたときは、会社がどうやってなりたっているのかすら、
憶測の域を出ないというモヤモヤ感があった。
それがそのときの不安に拍車をかけていた。
社会という実体のない、よくわからないものに。
社会と関わるすべてが、今の十数倍もっともっと怖かった。今もまだ少し怖いけど。
そしてそれを形成する、もう既に社会に属し形成している大人というものが怖かった。
どうやって、うまいこと、利益を渡さないで人を雇うかということばかりを、
考えているんじゃないか、
それは例えば、面接の場面で、あまり採用の核心の部分にならないくだらない質問、
それもあまり答えたくないような質問だと、
興味本位のあなたの娯楽のために聞かれているんじゃないかというところまでに及ぶ。
私は金銭面より、そういったところの方が気になる。
でもやはり福利厚生ー保険や残業代をごまかそうとしているたぐいは、
人間性を感じなくて、
一緒に仕事をする仲間をちょろまかして、なんのいい仕事ができるのかと思う。
それでふら~っとしてたんですよ、とか
ちょくちょく顔出してとか、
呼ばれてとか、呼ばれるようになってとかっていう話がある。
そのふら~っとしていた時期がよしとされて
(世間一般からする、ええ~みたいなのはなく)
うまい具合にだれかに呼ばれる。
タモリさんも、ついさっき見た松尾貴史さんもそうだ。
グラフィックデザイナーの自伝本なんか読むと、
1つ目の仕事(結婚式のカードとか無料仕事だったかな)
から次々仕事が来るようになったり(水野)
学生のときと、デザイン学校出たての頃は落ちこぼれで、
先輩にも先生にもおまえ向いてないみたいに言われた、
勝手にデザイン事務所にいりびたっていたとか抜かしながら、
今はこうやって本出してるじゃないかというような人がいる。
私の方は、
また1に戻ってしまった。
幸いなことに0ではない。
技術と、1くらいにはなった技量があるから、
以前と同じ貯金額をもっていても、
以前より心に余裕がある。
女優を目指していた頃、
と、ここでその頃の話をし出すところだったけど、
長くなって、本来いいたかったことになかなか戻れないので、
結論を書く。
女優を目指していた頃、
私はその「女優を目指すためにかかる費用」にかなり頭を悩ませていた。
そればっかり気になって、
レッスン代もこんなにかかるとか、
ここをやめて、他で学ぶとしても、よりもっと掛かるし、
どんなところなんだろう?と不安で信頼もできず、
そちらに入って修業しても、技術が身に付くかわからないと思うと、
足踏みしてせずにはいられなかった。
―それで結局、いたところで満足なレッスンが受けられなくて演技が上達しない、
将来自分のためになるものがない、役もここではもらえない可能性大と結論して、
所属していたところをやめたとき―
それでも次へいきたいと思いながら、
お金と将来の見えなさ加減と年齢から、女優を目指すことをやめることにした。
もう2、3年もの間、その世界で研修生ながらすごしたのに、
とくに進展していないという経験感覚からも、
次トライはキツいなと感じた。
時間もお金も、費やした分にたいして、得たものが少なすぎた。
デザイナーを目指した時に払ったお金と同じでも、
事務所や劇団、名のある俳優が主催する研修といったところに定時されている金額は、
大金加減の感じ具合が、大きく違った。
それを今感じていたというのが今回の記事の話。
職の違いも、感じ方に影響しているのかもしれない。
「デザイナーは職能」
そういう言葉があるように、デザインは学んで、自分で研究していけば、
仕事に就けるくらいにはなる。
その道も一歩一歩着実に階段があるのを踏みしめ、感じながら、
次はこれが自分の課題だなと分かる。
経験していくとそういう段階がある。
だけど女優はそうはいかない。
まずどうやって演技を身につければいいのかすらわからない。
こうかな?という手探りだ。
欧米や韓国あたりはちゃんとしたメソッドがあって、
欧米なら名の知れてるスクール、韓国なら演劇科のある大学にほとんどの俳優女優いっている。
だからかと、納得する。
“魅せ方”をなんかだか、みんな心得てるなと感じていて不思議だった。
映像ならではの。
演技っぽい演技なんだけど、そこに魅せる力がやどっているのはすごいことだ。
(演技っぽい演技で、魅了されないというのじゃく)
そういうのはやはり、できあがったメソッドを、
大学なり、伝統あるスクールで学んだところから来ているのだなと思う。
そういうのは日本にはない。
あるんだけど、そういうとこで学んだ人より、
どっかっからすっごく若いときに見つけ出したキラ星を、
どんな場面でも
(厚みある時代劇でも、CMでも
(CMで芸能人を使うのが標準になっているのは、世界からしたら珍しいことだ))
使って置けばいい、客寄せになるからっていう感じだ。
―所属していたところの監督が「宝塚の人が宝塚を出てからも
コンスタントに仕事があるのは、宝塚の人にはかならずファンがついているからだ、
役に配置しておけば、そのファン数だけ必ず売れる。宝塚のファンの人は熱狂的だから。
だから宝塚くささが抜けなくて、ちょっと舞台に不釣り合いな演技の人でも配置するんだよ。」
と言っていた。
驚きと、驚嘆と、それまでのモヤモヤが腑に落ちる私にとって衝撃的な話だった。
そういうカラクリがある。―
適材適所なんて端折って、カッコいい、カワイイ+αで人気を得ている人に
とりあえず割り振っておけばいいという感じ。
そうすればとりあえずは赤字は逃れられること間違いなしだから、
自分は責められないと思っているのだろうか。
味のあるいい役者さんがここぞのところで使われるということが、
どんどん少なくなってきているように感じる。
ここぞの脇役までも、役に不釣り合いな人を配置するケースをよく見る。
客寄せのためなのか、事務所と制作側の力関係なのかわからないけど。
システムが欧米や韓国などと、日本は違いすぎる。
だからそんな業界でやっていこうと思うには、
あまりにも道が不鮮明すぎて、
見えなさと、不安さで、
使うお金に対して、情熱ひとつで払うという気にはなれない。
そこがデザイナーと女優を目指すときの違いだなと思う。
年齢や経験も関係しているかもしれない。
経験を重ねて、なんやかんやで、
デザイナーに転職するとき、四分の三は採用だったから、
本当に困ったら、雇用形態や業種を選ばなければ選ばないほど、
とりあえずは私は職につける=生きていくお金くらいにはなるだろうなぁという感覚がある。
さらに年を重ねたからか、様々な業界へ転職したからか、
だいたい社会のことがわかってきた。
私が女優を目指していたときは、会社がどうやってなりたっているのかすら、
憶測の域を出ないというモヤモヤ感があった。
それがそのときの不安に拍車をかけていた。
社会という実体のない、よくわからないものに。
社会と関わるすべてが、今の十数倍もっともっと怖かった。今もまだ少し怖いけど。
そしてそれを形成する、もう既に社会に属し形成している大人というものが怖かった。
どうやって、うまいこと、利益を渡さないで人を雇うかということばかりを、
考えているんじゃないか、
それは例えば、面接の場面で、あまり採用の核心の部分にならないくだらない質問、
それもあまり答えたくないような質問だと、
興味本位のあなたの娯楽のために聞かれているんじゃないかというところまでに及ぶ。
私は金銭面より、そういったところの方が気になる。
でもやはり福利厚生ー保険や残業代をごまかそうとしているたぐいは、
人間性を感じなくて、
一緒に仕事をする仲間をちょろまかして、なんのいい仕事ができるのかと思う。