<h1>前回の記事で、箱から抜け出す方法について考えていたのに、
応援されるにはということに考えが至った。</h1>
そのつづき。
イラストレーターの友達を思い出した。
その人は毎日アップもしていなければ、
むしろあまりアップをしないし、
プロでもないのだけれど、
応援したくなるところがある。
それについて考える。
前回出し答えは、
応援という株でいえば出資にあたることを受けるには、
進展のある結果を出していかないと、
毎日イラストをアップするだけではあきられるよう
―将来の有望性があやぶまれる
ようであると結果を出した。
しかし、毎日イラストをアップもしていなければ、
むしろ、もうイラストレーターなどのアート系の道は断念して、
事務や経理の道を目指そうかなぁと考えていることを表明した人のことを思い出した。
それでも、なぜかイラストは描き続けてほしいと思うし、
私が仕事を触れる立ち場になれればなぁと思わされるほどだ。
もちろんその人には仕事があって、
私には仕事がなかったら、すごく悔しくて、
素直に応援できない気持ちになるのだろうけど。
その人は在学中も課題を期日までにやってこないような人だった。
なれん、
期日をすぎたけれど一気に出した作品はどれもそこそこクオリティがあった。
先生は毎回期日をすぎていたけれど、
いつも声をかけて気にして、期待しているようだった。
卒業後もFacebookでたまにアップされるなにかつくったものに、
いいね!やコメントを必ずつけるほど、
先生は気にしていてお気に入りだった。
先生にも何百人もの生徒と、在校生がいるのに。
その人はイラストがうまかった。
デザイン科ではあるけれど、
単純線で描いたキャラクターから、
リアルよりの絵まで描けた。
それで、前回出したファインアートの人だけれど、
その人はあまりうまくはなかった。
色使いも万人受け刷るようなものではないし、
他の作品もアンダーグラウンドな感じで、
できは理解できる人にはいいかもしれないけど、
あまりうまい作品とは言えなかった。
そういうアンダーグラウンドな作品でも世間がいいと騒ぐものは
キャッチーさがあると私には感じるんだけれど、
そういうのが毎回ない。
つまり、
“将来有望そう”
と感じられる、感じさせるのが大事であって、
毎日アップとかは有益ではないということになる。
毎日アップより、技術が高い人の方が、
その人がプラプラしていても、
周りがもったいないとほおっておかないということだ。
それはよく聞く話だ。
ここでなんでこんな話になったのかという話をする。
前回書いたとおり、
駆け出しの人に対して、駆け出しである私もほぼ無償で、
手を貸して応援したわけだけれど、
私はプロになり、
お金を貰える立ち場になった時、
会社で結果を出し
(アシスタントではなく1人で案件をこなし
クライアントさんにも喜んでいただけたとき)、
1つ進展した私は、
手を貸している相手に料金を払ってくれるよう申し出た。
無料だと思っていたものが、
料金の話が出た時、
驚きながらもそりゃぁそうだよねという反応を両者とも見せた。
私はなんだか申し訳な気持ちになった。
けれど無償で行っていくには限界があるし、
無償だから遠慮している部分があるのではという不安や、
無償であるものに価値はなく、遠慮はしていなくてもまぁこれでいいやと
思っているのではないかという疑心暗鬼があって、
どちらにしてもお互い気持ちにいい状況ではないと思って決断した。
先輩は、無償で仕事を引き受けるのはよくないと説いた。
さらに業界の方にも申し訳なかった。
この仕事が無償で行えるような労力と価値のものという認識を、
少なからず広める手助けをしていることを、
私はよくないことだと思って、
裏切りのような感じさせるのではという恐れもありながら、
意を決して申し出たことであった。
一方は既に自分の商売でお客さまから料金を頂いて暮らしている人だった。
けれど、そうだよねぇ、タダ働きになっちゃうと苦笑いしていて、
私は悲しかった。
申し訳ない気持ちと、今までやってきたことに価値をおいて―役立っていなかったのだと。
私の応援は果たして、
その人にとって糧になるものだったのか、
まったく無意味なものだったのか、
それよりうるさい、わずらわしいものだったのか。
私はわからなくなってしまった。
嬉しそうに打ち合わせをしたり、喜んでいた姿はなんだったのかと。
こう書くと、
ただその人にとって勝手に応援してくれる人で、
応援してくれるならウエルカムだけど、
お金を少しでも払って助けてもらいたいということではなかった
―それについて投資する気はなかったということだ。
その人ははじめるとき、
私のことを応援しているといっていた。
互いに、互いへ投資する気持ちで伸びていけたらと思っていた。
私はその人とうまく関係性を築けなかった。
2人とも伸びたらお互いお金を出し合って―などと考えていた。
けれどそれは必要ないものだったのか。
私の対処法が違えば、人柄が違えば、
こんなことにはならずに済んではないのかと思ってしまう。
前回の記事で書いた、出資してもいいと思う人が、
たとえ私自身は活用しないサービスや商品であったとしても、
犯罪めいたものではければ出資したいと思わされるのは、
ひとえにその人の人柄によるものではないだろうか。
その先に、お金という見返りよりも、
もし失敗しても、
その人から
感謝されたり、おかげでと言われたりして、
一役買えたら、気分いいなぁというのがある。
それかもしれない!
その人なら、大変感謝を示しそうな感じが、
よくよく考えなくてもするのだ。
いやでもむしろよくよく考えると、
一人一人には感謝しないで大勢に向かって、
感謝の意を表明しそうで、
私はフューチャーされないことが予想つく。
それでもいいと思えるのはなんだろうか?
人がそこにたくさんいるからかもしれない。
これはメジャーになっていくにつれて
ファンが増える率が加速していくのと、
同じ原理だ。
いろんな面から見ても、
私の人格の未熟さを思わすにいられなくて、
とても落ち込み、
今、途方にくれている。
その応援したつもりの相手との、
関係修復が、
私には難しそうだ。
応援されるにはということに考えが至った。</h1>
そのつづき。
イラストレーターの友達を思い出した。
その人は毎日アップもしていなければ、
むしろあまりアップをしないし、
プロでもないのだけれど、
応援したくなるところがある。
それについて考える。
前回出し答えは、
応援という株でいえば出資にあたることを受けるには、
進展のある結果を出していかないと、
毎日イラストをアップするだけではあきられるよう
―将来の有望性があやぶまれる
ようであると結果を出した。
しかし、毎日イラストをアップもしていなければ、
むしろ、もうイラストレーターなどのアート系の道は断念して、
事務や経理の道を目指そうかなぁと考えていることを表明した人のことを思い出した。
それでも、なぜかイラストは描き続けてほしいと思うし、
私が仕事を触れる立ち場になれればなぁと思わされるほどだ。
もちろんその人には仕事があって、
私には仕事がなかったら、すごく悔しくて、
素直に応援できない気持ちになるのだろうけど。
その人は在学中も課題を期日までにやってこないような人だった。
なれん、
期日をすぎたけれど一気に出した作品はどれもそこそこクオリティがあった。
先生は毎回期日をすぎていたけれど、
いつも声をかけて気にして、期待しているようだった。
卒業後もFacebookでたまにアップされるなにかつくったものに、
いいね!やコメントを必ずつけるほど、
先生は気にしていてお気に入りだった。
先生にも何百人もの生徒と、在校生がいるのに。
その人はイラストがうまかった。
デザイン科ではあるけれど、
単純線で描いたキャラクターから、
リアルよりの絵まで描けた。
それで、前回出したファインアートの人だけれど、
その人はあまりうまくはなかった。
色使いも万人受け刷るようなものではないし、
他の作品もアンダーグラウンドな感じで、
できは理解できる人にはいいかもしれないけど、
あまりうまい作品とは言えなかった。
そういうアンダーグラウンドな作品でも世間がいいと騒ぐものは
キャッチーさがあると私には感じるんだけれど、
そういうのが毎回ない。
つまり、
“将来有望そう”
と感じられる、感じさせるのが大事であって、
毎日アップとかは有益ではないということになる。
毎日アップより、技術が高い人の方が、
その人がプラプラしていても、
周りがもったいないとほおっておかないということだ。
それはよく聞く話だ。
ここでなんでこんな話になったのかという話をする。
前回書いたとおり、
駆け出しの人に対して、駆け出しである私もほぼ無償で、
手を貸して応援したわけだけれど、
私はプロになり、
お金を貰える立ち場になった時、
会社で結果を出し
(アシスタントではなく1人で案件をこなし
クライアントさんにも喜んでいただけたとき)、
1つ進展した私は、
手を貸している相手に料金を払ってくれるよう申し出た。
無料だと思っていたものが、
料金の話が出た時、
驚きながらもそりゃぁそうだよねという反応を両者とも見せた。
私はなんだか申し訳な気持ちになった。
けれど無償で行っていくには限界があるし、
無償だから遠慮している部分があるのではという不安や、
無償であるものに価値はなく、遠慮はしていなくてもまぁこれでいいやと
思っているのではないかという疑心暗鬼があって、
どちらにしてもお互い気持ちにいい状況ではないと思って決断した。
先輩は、無償で仕事を引き受けるのはよくないと説いた。
さらに業界の方にも申し訳なかった。
この仕事が無償で行えるような労力と価値のものという認識を、
少なからず広める手助けをしていることを、
私はよくないことだと思って、
裏切りのような感じさせるのではという恐れもありながら、
意を決して申し出たことであった。
一方は既に自分の商売でお客さまから料金を頂いて暮らしている人だった。
けれど、そうだよねぇ、タダ働きになっちゃうと苦笑いしていて、
私は悲しかった。
申し訳ない気持ちと、今までやってきたことに価値をおいて―役立っていなかったのだと。
私の応援は果たして、
その人にとって糧になるものだったのか、
まったく無意味なものだったのか、
それよりうるさい、わずらわしいものだったのか。
私はわからなくなってしまった。
嬉しそうに打ち合わせをしたり、喜んでいた姿はなんだったのかと。
こう書くと、
ただその人にとって勝手に応援してくれる人で、
応援してくれるならウエルカムだけど、
お金を少しでも払って助けてもらいたいということではなかった
―それについて投資する気はなかったということだ。
その人ははじめるとき、
私のことを応援しているといっていた。
互いに、互いへ投資する気持ちで伸びていけたらと思っていた。
私はその人とうまく関係性を築けなかった。
2人とも伸びたらお互いお金を出し合って―などと考えていた。
けれどそれは必要ないものだったのか。
私の対処法が違えば、人柄が違えば、
こんなことにはならずに済んではないのかと思ってしまう。
前回の記事で書いた、出資してもいいと思う人が、
たとえ私自身は活用しないサービスや商品であったとしても、
犯罪めいたものではければ出資したいと思わされるのは、
ひとえにその人の人柄によるものではないだろうか。
その先に、お金という見返りよりも、
もし失敗しても、
その人から
感謝されたり、おかげでと言われたりして、
一役買えたら、気分いいなぁというのがある。
それかもしれない!
その人なら、大変感謝を示しそうな感じが、
よくよく考えなくてもするのだ。
いやでもむしろよくよく考えると、
一人一人には感謝しないで大勢に向かって、
感謝の意を表明しそうで、
私はフューチャーされないことが予想つく。
それでもいいと思えるのはなんだろうか?
人がそこにたくさんいるからかもしれない。
これはメジャーになっていくにつれて
ファンが増える率が加速していくのと、
同じ原理だ。
いろんな面から見ても、
私の人格の未熟さを思わすにいられなくて、
とても落ち込み、
今、途方にくれている。
その応援したつもりの相手との、
関係修復が、
私には難しそうだ。