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個人の仕事に受け方を考え直したとき

2013-09-08 12:14:01 | 無題

新しい個人の仕事に興味がなかったわけではない。

経験をつけるためにと、

ほぼただ同然で引き受けた仕事が駆け出しのころにあった。

でも、最近、そういう仕事の引き受け方はよくないなと自分をいましめたところだった。

安くてもいいと思っているクライアントさんは、

ホントにそれに対してどうでもいいとか、

効果をそこまで期待していなかったりするんだ。

私は広告のデザイナーでもあるのに、

それを頼りにしてくれる感じはその人たちからはしない。

デザインの力を信じて、頼りにしてくれるというのもなければ、

ただ同然でやっているのに感謝されることもないんだ。

中にはその金額でもわがままを聞いてくれるのが当然と思っている人もいて。

いい加減疲れた。

逆に、安いから希望を言い出しにくいというのもある。

だから自分のためにも、クライアントさんのためにも、

安く引き受けるってよくないなと思った。

それでそういう仕事の引き受け方はやめることにしたんだ。



それでも好きなことだから、

やりたくて引き受けちゃいそうになるところを、

よく考えて決心したところだった。



それでもやりきりの仕事なら引き受けていたかもしれない。

やったことない部類だったり。

でもサイトを、しかもお店のサイトをつくってほしいというのもネックだった。

それって、運営はどうするの?と思った。

新しいカフェが更新がないわけがない。

メニューを改定したり、テーマのあるカフェだからイベントみたいなのを

やるかのうせい、思いつく可能性だってあるし、

店主が思いつかなくたって、私が思いつく(もう思いついている!)

そうしたら提案したくなっちゃうじゃない。

でも、そういうのもうやったことある。

そういう提案だって更新だってお金がかかるのに、

それを知った途端そういう人たちはしぶる。



そういうカンタンに考えている(カンタンでいい、安くていいという)人は、

その後のサイト運営のことまで考えていないことが多い。

更新するのだって料金が発生するし、

存続させるのだって料金が発生する。

ネット上でタダで気軽にいつもコンテンツを見れるし、

ブログやSNSという無料でサイトが作れるのもあるから、

サイトを作るのはカンタンだと思っている、

それなのに、やってみたら自分でできなかった、

でも本当にごくカンタンなのでいい、ネット上に自分のサイトが存在している

という、その事実だけでいいから、

サイトを作れる人にはお茶の子さいさいだろうから、

(お茶の子さいさいってかなり久しぶりに使った。おもしろい響きだ。)

小遣い稼ぎ程度にやってくれないかなぁというのがある。




私がもうデザイナーとして自分の地位を築いていて、

安定もして、蓄えもあったら、

引き受けていただろう。

小遣い稼ぎや、もしかしたら、そこからなにか縁があるかもしれない、

新しいご縁にワクワクして。


でも現状、そういうのはないし、

安く引き受けたところからは今のところご縁がない。

それどころか気まずい。


安く引き受けたけど、自分の持てる知識とアイデアの限り、

広告や企画を提案もしてきた。

賛同もしてくれたし、感心されたり、

そこまで考えてくれて嬉しいと言われたこともあった。

でも、

その後頼ってくれたり、

相談されたり、

感謝されたり、

新しい仕事があるかというと、

そうではない。


私のその人たちの価値というのは、

安くやってくれる

それにつきるのだ。

世の中に広告(マーケティング)や企画という仕事がまるでないかのように、

まさかそんなのでお金とらないでしょうね的なほどに。


わからなくもない。

私も小さい頃、広告代理店という職業が意味が分からなかった。

同じく不動産屋もそうだ。

中間に立って、ああだこうだいうだけで、

巨額を動かしだれよりも利益を得るのが、

信じられなかった。

なぜそれを世間は許しているのか。

中間はなしに直接やりとりすればいいのじゃないか。

不思議だった。


でも今ならわかる。

企画やアイデア、そして専門知識は、

専門家に頼んだ方がいい理由を。

毎日それを専門に行っていて、(業界を超えた)周辺のことも知っている人と、

その業界のことだけ、自分のお店、会社の商売、知識を勉強するべき人と、

考えると、自分のするべきことに時間を使い、

広告や企画等は専門家に任した方が、

時間を有益に使える。

どこの印刷所に頼もうかとか、どこの制作所に頼もうかとか

頭を悩ましたり、うまくいかなかったらと不安を抱く必要がない。

人によっては何色が効果的なのかとか、

(色が効果を与えることすら知らない人までいるから、

何色でもいいと思っている人もいる)

自分でつくってみたけど、なんかかっこわるいななどと、

頭を悩ませ必要、そしてその勉強時間を他にあてられる。


不動産だって、いろいろ法律があって、

それを考えたり、契約書等の事務的なことや、

お金を払ってもらえなかったときにどうするかということを考えると、

頭が痛い。

それらを解決する手だてが既にある専門家=不動産屋に任せた方が、

数百倍楽だし、安心感がある。



けれども―

まだ私はそれが叶っていない。

自分に高額の仕事が舞い込んで来たり、

以前知り合った人から、

あなただから頼みたいと、

どうしてもぜひとお願いされることが。



名指しはあったけど―

あれはきっと私がヒマなんじゃないだろうかと思ったからじゃないだろうか、

あと、他に頼める人がいなかったからだろう。

同じチームのデザイナーに一斉送信で頼んだけど、

総スカンをくらったから、

あと話したことのあるデザイナーもいないし、

消去法で私だろう。


そのときだって私は嬉しかったけど、

照れ隠しや周りの人が忙しいのにリーダーを通さずに頼んでとやいやいいってたから、

忙しいのにと、少し抵抗を見せてしまった。

本当は飛び上がりたいほど嬉しかったのに。

もう彼女は私に仕事を振ってくれないだろうなぁ。

その前にまずSNS上だって友達にはなってないし。

連絡する手だてがないよな。


なんて、考えたりして。



ザ・シークレットーたやすく叶ったこと

2013-09-08 12:13:02 | 無題
『ザ・シークレット』を読んで、

そういえばそんなことあったなということを書く。


私はまだシークレットを読んでいなかったときにあった話だ。


引き寄せの法則とかも知らなかった。

言葉は見かけたことがあったけど、

法則とか方法とか知らなかったし、

なんとなく今まで手を伸ばさなかった。

今月頃から読み始めて、

そういえばそんなことあったなということを書いている。


2ヶ月前、7月の話だ。

美術館の展覧会のペアチケットが当たった。

当たったことはあまり不思議ではない。

初めて登録したところだと、

だいたい当たりやすい。

問題は、誰といくかだった。

私は友達が少ないし、

彼氏もいない。

慕ってくれる人もいないから、

美術館なんて人にとっては退屈なところへ誘える人なんて

ごく限られていた。


誘いたい、誘ったら乗り気になる人が3人浮かんだ。

1人はーああ、もう田舎に帰ったんだった。

ということですぐにダメだと。

それに彼氏ができてから、なんだか私とのやりとりも粗雑だ。

気分がよくない。

2人目はーまだ実際は会ったことない人だ。

そのチケットが届いた日(土曜日)に初めて会う人だ。

前々から美術に興味があることは知っていたから、

きっと誘ったら行くというだろう。

でも、駆け引きなのか、たまにそっぽを向くことがあるから

どうだろう?

まだ会うばっかりだし、それで次私からこんなのに誘ったら、

勘違いさせてしまいそうだな・・・。

そういう関係にはなりたくない。

期待させる関係にもだ。

3人目はーこの人が一番うってつけ。

展覧会が好きで、展覧会を一緒にいく友達だった。

むしろ展覧会がないと一緒にどこか行ったりしたことがない。

美術学校から帰るときに、一緒に帰ったくらいしか接点がない。

でも、

その人のグループ展の知らせよく写真付きで毎回くれたけど、

一斉送信とわかってから返信しなかった。

いつもどうやって行けないことを返信しようか困っていたから、

気が楽になったけど、

それでもずっと足を運ばない、メールも返さないで、

申し訳ないなという気持ちがあった。

精神的に不安定になっていると最後に会ったとき言っていたし、

たしかに話を聞いていて、

おかしいなという感じだった。

私もそのとき、精神的に不安定ーどころかその人よりマズくて、

自殺を考えている日々だったから、

力になってあげられなくて、

距離を置いていた。

新年のあいさつのメールが来たけれど、

携帯が壊れて前の携帯からメールしていますと、

液晶の割れた、壊れた携帯の写真付きで来たから、

怖っと思って、

さすがにこれはないと思って、

新年のあいさつすら返信しなかった。

もうこの人に返信するのやめようと思った。


それから7ヶ月だから、

まだ精神的に不安定かもしれないし、

よく思い出してみると、

その人の話はあるときから愚痴ばかりになったことを思い出した。

最初の頃は、社交的で積極的な、

はつらつと生きている人、

仕事もお金も人間関係も、

私とは逆で不安なく生きている人に感じられた。

けれど、

あるときから、話は逆になり始めた。

仕事場の人たちとうまくいっていない、嫌だと感じている話。

仕事の愚痴、職場の人の愚痴が永遠続いた。

私も心が折れそうなほどだったのに、

次から次にでる愚痴に、

私は自分の話は話せなかった。

もし、それはまだいいよーとか言われたら、

ポッキリ折れて立ち直れる自信がなかった。

たったその一言でダメになるほど、

私は精神的に衰弱しきっていた。


愚痴を聞いていて疲れた。

会う度に、嫌な話か、

もしくはそれを癒すために通っている、

話がためになって頼りにしているというヨガの先生の話と、

一緒にどう?という話

ーを断るのにうんざりしていた。

あやしい話なんじゃ?と思って。

ヨガもやらないし。家からも遠いし。

その先生への崇拝度合いがーなんか気持ち悪かった。

なにかお布施してるとかいう話は出てこなかったけど、

持ち上げ具合が。


そんなこんなで、お正月のそれがあって、

もう完全にないなと思っていたことを思い出した。

展覧会に誘われない限りないなと思っていた。

自分から誘うのはなしだ、と。

でもお正月の挨拶メールも無視したから、

もうないだろうなぁと思っていた。


が、


日曜日、つまり次の日、

彼女からメールがあったのだ。

内容は、友達がカフェを始めるから、

そのサイトを作ってほしいというものだった。

ごくカンタンなのでいいからと。

お仕事の依頼思いがけずあったことも嬉しかったけど、

私に頼んでくれたのも嬉しかった。


でもよくありがちな安くすみそうという発送なら断ろうと思った。

でも最後に会ったとき、私はまだデザイナーとして就職していなくて、

その人から見たら、うまくいっていないように見えただろうから、

いきなりメールで事情をずかずかと聞いて、

私はもうデザイナーとして経験を経ていて、

正規の値段を取るからとメールで話すのは難しく、

気が進まないなぁと思った。

それに、それはダメだとしても、一緒に展覧会に行けたらなぁと思った。

メールの感じからすると、

精神的に立ち直ったのかはまだちょっと不明だったし、

仕事を引き受けるにしても、

その人との間である彼女がおかしかったら心もとないなと思った。

もしかしたら、そのお友達も精神世界に肩入れしている

やっかいな人かもしれないし、と。


それで、

ひさしぶりに会うし、

よく話を聞きたいから会おうよ、

ちょうど展覧会のペアチケットが当たったんだ、

一緒にどう?

という内容を送った。


できればその日がよかった。

私は2週間後には、土曜日も出社する日がある会社で

働き始めなければならなかった。

具体的に土曜日のいつ出社か知らされていなかったし、

そんな不規則かつ長期労働で、

週末元気に展覧会なんか行けるかわからなかった。

だから、その日がよかった。

次の週の土日は旅行帰りであり、

出社前の土日だったからゆっくりして体力をためたかった。

その日がベストだった。


私は、どうかなぁ~?急かなぁ~?と、

祈るような気持ちだった。

メールを送ってみた。

すると、いいですよ、ちょうど今日暇してたんですと

返信があって、その日に一緒に展覧会に行くことになった。


メールがあったのは午前10時頃。

展覧会へは午後2時に。


私はこうなればいいなぁということが叶ったのだ。

まさか彼女の方からメールがあるなんて、

しかもこのタイミングで。


お仕事の話は結局、

業者に頼むとすごくお金がかかるから、

私にということだ。

がっかりしたけど、

それでも私を思い出して頼んでくれたのは嬉しかった。

彼女は精神的に安定したということだった。

前の会社はやめて、木の家具職人のところで職人見習いとして

働いているとのこと。

気に障っていたい、ものを作るのが好きといった彼女は、

彼女らしかったから、それでよかったのだろうなぁと思う。

でも相変わらず、

職場の愚痴を言うのは変わらなかったけど。


私は自分のポートフォリオを見せて、

2週間後に新しい会社で働くからすぐにはできあがらないと話した。

それでもいいか聞いてみるというから、

私に頼んでもそれくらいかかるよといって、

そうかぁとこの話は終わった。


展覧会は楽しかった。

見応えもあったし、

帰りに食べた夕食もおいしかった。




ザ・シークレットー相違がある点

2013-09-08 10:16:45 | 無題
『ザ・シークレット』を読んで、

そういうことあったなという、

こころあたりある、あったことを前回書いた。


今回は逆に、そんなことない、あったことを書いてみようと思う。


いつも思っていれば叶うとあるけれど、

いつも思っているより、

いつも思っていたけど、

執着がなくなって、他のことに集中しだしたら、

いつも思っていたことが現実になったことがある。


例えば、特に私に場合は、

恋愛なんて縁がないんだけど、

小さい頃から、

お姫様抱っことか、

あつくてロマンチックなキスをの場面を

思い浮かべては、

そうなるといいなぁと思っていた。

他にも、マンガで知った壁や木に追いつめられて、

腕で囲まれる(今でいうところの壁ドン)とか、

憧れた。

眠る前に、そんな場面を想像して楽しんでいた。

そしていつか王子様みたいな人が現れるといいなと。



私は恋愛経験も乏しくて、

ほぼつきあったことがなかったのに

突然それらは叶った。


私は俳優女優を目指していたから、

よし、もう恋愛なんていい、

これからは夢に向かってがんばるぞと、

書店でオーディション雑誌を買った帰りだった。

帰りながら女優の道に向かって集中した自分を感じていた。

すると、

「すみません」と声をかけられ、

振り返ると、

そこにスラリと背の高いカッコいい人がいた。

「すみません、っていうか、好きです。」

私は、はぁ?と思ったけれど、

そこは繁華街でもなく、

住宅地だった。

駅からも離れていて、

歩いている人もほとんどいない。

ナンパにしては変だった。


それから・・・

それから書くとすごく長くrなってしまうから、

ここでは端折るけれど、

壁ドンも、情熱的でロマンチックなキスも叶ったのだ。

お姫様抱っこも、その人とは別の人だけど、

突然、叶った。

そんなことしそうな人に見えなかったから驚いた。

メディアのアンケートとかでも、

お姫様だっこは起こりにくいものだし、

実際問題、重くて難しいということで、

彼女がどうしてもしてほしいというならやるといったのを見たことがあったから、

現実的にはー特に私なんかには、

夢の話だと思っていた。



でも、結局私はその人たちを信用できなくて、

ーつまり体目的なんじゃないかと思って、

つきあうというような日々(普通にデートを重ねて徐々にという)も送れなかったし、

そういうのがないからこそ、信用できなかった。

エッチもしなかった。

好きだったけど、すぐに別れることになった。


つまり要約すると、

いつも想像していた場面は

突然叶った。

でも、

想像した場面、場面が叶うだけで、

その前後がなかった。


その前後を、その場面、場面と同じくらい想像していたわけではない

ということがポイントだろうか。


シークレットにはまるでも体験しているように想像するとある。

私は普通のー理想の、恋人同士がどうやって出会って、

どうやってつき合うところまで自然といき、

どうやってその後の日々を重ねているのか、

ぜんぜん知らない。

ドラマやマンガくらいで、

現実的にはどういう感じなのか知らなかった。


現実的には、

相手だって好意を抱いている人の気持ちを知るのに臆病になるから、

ドラマやマンガみたいな熱烈で積極的なことが最初からあるわけではなく、

ごくごく普通の会話から、

相手が自分に興味を抱いてくれているか、

落とせそうかを探る感じだ。


でも私の場合はそんなことしている(されている)内に、

意外ととっつきにくそうとか、

見た目と違ったとかで、

好意自体が消えていくみたいだけど。

そうじゃなかったら、

私がうまく返せなくて、

無理そうとあきらめる感じだ。

そこまで熱を上げるほど好意があるってわけじゃないからだろう。



叶った話を書いてしまった。

でも近年、最近は、

彼氏や友達がいて、

普通にメールが来る想像をすることがある。

それは実体験感覚を伴ったものだ。

シークレットではもう得ているかのように想像することとある。

そうしているんだけど、

今のところ、

彼氏も、

ほぼうから誘ってくれたり、連絡をくれる友達も、

いない。


友達で思い出した。

この前あった思ったことが叶った話を

書こうと思う。


けれども、

叶わないことがあること、

混乱していることを

その次に書こうと思う。







ザ・シークレットーこころあたり

2013-09-07 06:53:56 | 無題
「ザ・シークレット』を読んだ。

以前も見かけたことがあったけど、

うさんくさいとか、あやしいと感じて、

手に取らなかった。


けれど、どうしたのだろうか?

読んでみたくなったんだ。

Amazonのレビューのせいかもしれない。


低い評価がほぼなくて、

だからといってばんばんざいですばらしいと

好評価されているわけではなかったからだ。

だったと思う。


読んでみてる感想。

序盤は、自分が思ったことが現実になる、

つまり今の状況はあなたの思考のせい

というくだりがあって、

精神的に弱っていたり、

現状に満足していなかったり、

それによって気分が優れない状況の

私にとっては、

つらい一節だった。


私は自分を責める傾向がある。

母があまりほめない、非難はよくする人だったせいか。


読み続けるのに迷いが一瞬生じたけど、

時間が空いたときに読む=細切れに読んでいたので、

読み進めているうちに、

気分よく感じる章に来ていた。


最初は、とにかく、

思考が現実になる、

こうならないでほしいと考えることも、

考えてしまうことで引き寄せてしまう

ということを繰り返しているだけで、

じゃぁ、どうしたら前向きな思考でいつづけられるのか、

具体的にはどんな行動を取るのがそれに効果的なのか、

その知りたいことがわいてきても、

それが出てこなくて退屈しはじめていた。


それはわかっているし、

こころあたりあるよ、と。


例えば、

前の会社に入る前まで、

「「私は何度も広いこぎれいな白いオフィスの席に座って、

席から見える景色ー何列も席(島)があって、

こぎれいで、ちゃんとした企業。

そこで私は安心感を持って働いているのだ。

さらにつけくわえて、

周りの人も私を慕ってきてくれる、

上司や先輩にわずらわされることもない。」」

それが言葉というより、感覚として、

そういうところにいて席に座っている状況が、

何度も浮かんでいた。

それを思い浮かべるー浮かばれるときは、

あれ?なんでだろう?なんで私、今ここにいないんだろう?

と思っていた。自然に。

頭の中で浮かんでいたオフィスにいる方が、

自分にふさわしく、

自分らしくいられるなぁと。

だけど今の状況はそうじゃなくてーわずらわしさを感じていた。

そして、まぁ、私にはそいう身分がお似合いなんだろうなとか、

まぁ、そんな大企業にそういう感じのポジションへ、

いけるわけないよなと思っていた。


でも、それは何度も思い浮かばれた。


それが頭の中に浮かびはじめるようなってから何年経っただろう?


私はそれとそっくりなー正確には、想像の中の方がもうちょっと広かった。

オフィスで気持ちよく働きはじめたのだ。

厳密には、最初から気持ちよかった訳ではない。

それまで体験したことがあるから、

「どうしよう、孤立したら、

どうしよう、会社のシステムわからない、

説明したでしょって言われたら、どうしよう、

こんなのもわからないのって嫌み言われたらーすごく腹立たしくなる

そんなの嫌だ。

いじめられたり、はぶられたり、

上司から目をつけられたら、

私ががまんならないことがあったら、どうしよう。」

会社にもちょっとバカにしたところや、

賛同できないこととこもあった。

仕事もどうせ面接では、いろいろ任せてくれるっていってたけど、

前の会社みたいに、それは何年経験してからとか、

上司に気に入られたらなんだろうな、

気に入られなかったら、いつまで経っても、

やりたい仕事はさせてもらえないんだろうな、

信頼を得て、任せてもらえるということはなくて、

いつも必要以上に目を光らされたり、

なにを考えているかわからないほど、

気分で機嫌よくされたり、

機嫌が悪いときは、私が嫌がる言動をして、

私はもんもんとした日々をすごすのかな・・・。」

そんな不安で、

最初は、手放しで気持ちよかった訳ではなかった。

でも、

となりの席の人に助けられたり、

上司は最初から私に意見を聞いてくれた。

聞いてくれるというのは、よくある、とりあえず新人の意見も聞くというのではなく、

本当に求められて聞かれたのだ。

だからそのまま採用されるし、

「そいうの歓迎です。もっと言ってください。

こんなデザイナーさんはじめてだなぁ。」

と言われた。

(ディレクション的なことをする、その視点から

意見を積極的に言ったり、質問するデザイナーは、そのチームや近くの周りのチームにはいなくて、

もくもくと作業するデザインだけをやっているデザイナーばかりだった。)

たまたま普段はまったく一緒に仕事をしないチームへ、

お手伝いすることになったおかげで、

フロア間を、

自由な気持ちで、

気軽に行き来できるようになった。

顔が他の一般の人より広くなったのだ。

上司の上司、上司の上司の上司は、

面接で私が制作したものについて、

どうしてそうしたのかをとても詳しく聞いてくれたし、

驚くほど細かく、深いところまで見て、

それに対して、納得、共感、評価してくれた人たちだから、

私は信頼感があった。


それまで受けた他の企業の面接は、

型にはまりきっていて、

もっと聞くべきことあるんじゃないの?というくだらない質問ばかりだった。

採用が出たところも、

真に私を見ていない、

それができれば誰でもいいんだろうなというのを感じさせられるもので、

ほとほとうんざりしていたし、

世の中ってこういうものなのかなと、

世の中というものに希望や光がなくなっていたところだった。

残念でがっかりした気持ち、どうでもよくなっていく感じだ。


それが上記のような面接だったから、

私はとっても嬉しかった。

採用されたとき、

なぜ私が採用されたのか、

私はこの組織になにを期待されたいるのか、

そしてそれは私が一生懸命考えて行ったことが評価されたことで、

私がこれからもやっていきたいと思っていることだという点と、

面接中に垣間みた上司のスキルの高さから、

すでに尊敬していた。

論理的で無駄がない、

言葉足らずでない、

脳内同士で会話しているような、気持ちよさ、

ー厳密には、面接中なので、チェスをしているような感じだった。

よく面接にある、のらりくらりする感じではなく、

一本向き合っていて、道が逸れない、脈絡がある

広告屋としてするべき質問をする

その質問の中で私の仕事に対する考え方を同時にみいた。

くだらない脈絡や意図がわかりづらい質問ー本から抜いてきたような質問ではなく、

答えに対して、さらに投げかけるところや、

着眼点がまるで他の企業の面接と違った。


直属の上司は私の初日から5日目まで、

お正月プラスアルファの有給休暇で来なかったから、

その分、偉そうな気分になれたし、

首をなが~くして待っていたんですよと私が言ったからか、

いや、もとから優しい人なんだろう。

初めての仕事でも意見をたよりにしてくれて、

なんでも相談したりしやすかった。

なにかあったときはリーダーがなんとかしてくれる感もあって、

すごく頼りになる存在だなと感じた。


それまでの上司たちはそんなのなかった。

なにかあったら尾っぽをまいて、

他人に責任をなすりつけて、

会社の顔色を伺って保身ばかり考えている、

そのくせ、自分の活躍していることばかりアピールする。

相談はうるさそうにする、かまう時間などないといった感じ。(仕事のことなのに。)

そのくせ。ほうれんそうはちゃんとしろという。

質問もうるさそうにする。たまに答えたかと思ったら、なんでだろうね?知らないとか。

そのくせ、わからなかったら気軽に聞いてという。

どうなんだろうねとか。会社が決めたからとか。

会社のことなんにも知らないの。

それって、すえられた上司ってことじゃんと感じた。

だから尊敬の念もなくなった。

質問してもうるさそうにするのは、答えられないからだ。

ひどいときは質問しただけなのに、「なに?なんか文句あるの?」といったことを返したときもあった。


そんなことはその気持ちのいい会社ではなかった。

だから、ほうれんそうがしやすかった。

だから、トラブルが起きそうになっても先手を打てたし、

不安なことやトラブルがあってもすぐ報告して、

指示を仰ぐことができた。

いいづらいな・・・なんて1人で悩む時間なんてほぼなかった。

だから自分の仕事に集中できた。


それでも3ヶ月くらいまでは、

不安や疑いを抱いていた。

きっと調子にのったら頓挫されるんだろうな、

新入りだから大切にしてくれているのかもな・・・と。


先輩という存在はあいかわらず目の上のたんこぶだったけど、

予想外にもいびったり、陰口を言ったり、

余計なお世話をしてくるような人じゃなかったから、

先輩に一番やりたい仕事が振られ、

先輩がチームで一番頼りにされているという状況以外は、

わずらわしくなかった。


それが3ヶ月して、先輩は転職。

そのわずらわしさもなくなった。


入社時期の近い先輩は私より意見を言わないし、

知識も技量も私よりないから、

必然的に私はー


私はあの頭の中で見たフロアを眺める感じを見たのだ。

頭の中で見ていたときの気分と一緒だ。

安心感と心地よさ、そして水を得た魚のような感じ。


でもその時点では、

まだここは違うと思っていた。

頭の中でみたフロアはもっと広かったから。

でも仕事がどんどんまかされるようになって、

仕事が回りだすと、

ここでもいいかな

頭の中に浮かんでいたフロアってここかなと思うようになった。


するとー

(するとなのか、それともその会社を辞めざる得なくなった結果からか)

頭の中にあのフロアは浮かばなくなった。

思い出せるんだけど、

あの座って見ている感じに

違和感というか、思い出そうとして思い出しているという感じに

なってしまった。

思い出しても、それはリアルなあの会社のフロアで、

頭の中で以前浮かんでいたフロアはくっきり思い出せない。

混合になってしまう。




周りに愛する人たちがいるということ

2013-09-02 01:14:05 | 無題
どうして、みんな褒め合ったり、求め合ったりしないのだろう?


そう思ってはじめて気づいた。

そうしている人たちがいる。


私が今まで、気持ち悪いと思いつつも、

羨ましいとか、届かない存在だなと感じていた部類の人達だ。

キャピキャピした女性たちで、

でも男性からモテまくり。

よい旦那さんや、仕事、

ゆくゆくは自分のやりたい仕事を、自分の手でやっていくような、

愛されて、

大事にされて、

必要としてくれる人たち。


私はその人たちのことを、

富裕層的心も富裕層と呼んでいる。


Facebookなんかでは友達がいーっぱいで、

なにか投稿するとコメントが必ず複数つく。


20代半ばには素敵な男性(一流企業につとめていてカッコいい容姿、

SNS内外問わず、つきあっていることや愛し合っていることを別段はずかしいと隠すこともなく、

いちゃいちゃするわけでもなくーいわば欧米のような。)と結婚して、

結婚する前あたりには、

それなりに会社で経験を積んで、

出産後も、会社に彼女を慕う人たちが、会社、上司問わずいるから、

カムバックーといかなくても契約社員とかでゆったり働いて、

ゆらりと家族の事情とかで、いなくなったりして、

かと思ったら、1人で事業を立ち上げて

(自分の手に負える範囲の仕事を請け負うっていうのから、

本格的にどこかの出版社で、結婚やママとしての自分や、趣味、

趣味程度で研究したことを生かしながら、

書籍を出したり、コラムを書いたり、教室を開いたりするのだ。)

それがまた、うまく、いくー

大学から、社員時代、その他プライベートの付き合いまで、

幅広く縁やコネがあって、

SNSなんかや、なにかのついでに話をすれば、

応援するよと、彼女たちを支えてくれる人たちが溢れる。


もちろん旦那さんも応援していて、

ほどほどに、がんばりすぎないようになと心配の方もしてくれる。

それでも、そんな好きなことをして、輝いている笑顔が好きだから、

止める理由なんてない。

別にそのお金をあてにしているわけではなく、

自分らしく働けているならいいじゃないかという考えだ。

もし行き詰まったら、

無理しなくていいんじゃない?と提案してくれる。

彼女が自分を大切にできる提案だ。


生まれながらの付き合いのよさ、

人あたりのよさから、

なにか事業をしたら、大きく失敗することはない。

みじめに食べていけなくなるなんてことはないのだ。

そもそも、いざというときは実家に帰れば、

死にはしないお金と、それでも大切に思ってくれる両親がいる。

決して失敗したことに対して、

バカにしたり、だからあんたはなんて嫌みを言われたり、

蔑んだ評価を小言のように言ってくるような家庭には生まれていないのだ。

だから自分を大切にできる。

よもや、もしかして、やっぱり自分が悪いとか、

やっぱり自分はダメ人間なんだと、

深刻なまでに自分を自分で追いつめたりしないのだ。

反省こそすれど、既に次のこちについて、

前向きに考えているのだ。


もしくは失敗せずに、そのままやりたいところまでやってみる。

そんな両親を見て育った子供は、

やっぱり良い大学を出て、

両親のように愛し合い、

尊敬し合い、ときとして支え合うのが理想となって、

また素敵な家族を生み出すのだ。

それが良家。

遅くとも中学、高校あたりから私学を出て、

慶応、もしくは両親の仕事の都合とやらで英語が普通に話せる、

武器になる人になっているのだ。


これは作り話でもなんでもない。

私が見てきた、「富裕層的心も富裕層」の本当の話だ。



一昨年は社会人1年目だった人も、

ついこないだにはFacebookで、

凛々しい表情のプロフィール写真をアップした。

凛々しく見えるアングルから撮ったのとおどけていたけど、

髪型も表情もばりばり働くキャリアウーマンさながら。

出向に来ていて、私と同じ会社だった社内ではトップ賞に輝いたことないけれど、

1年目の営業期間を終えて、配置が決まるころには、

入社時に希望した会社部署へ見事ついた人だ。

彼氏ともうまく行っているみたいだ。


一方、トップ賞に何度も輝いた同年の女性は、

配置が決まるころには、彼氏と別れー

彼氏と一緒にいたいから東京で働きたいという理由だったらしいが、

入社時の希望は通らず、生まれの地方に配属され、

遠距離になるから分かれたとのこと。

それ以前から、なんだか不安定だったように思うけど。

う~ん、ようく思い出してみると、

彼氏には愛されていたのかな。

でもメイクも崩れて、髪を振り乱して、朝早く、夜遅くまで働いて、

契約数、売り上げもトップに踊り出ていたのに。

希望のところに配属されないなんて。

彼氏がいるからという理由を面接のときは会社の方もおもしろがっていたみたいなのに。

それで結果を出したなら、やっぱり理由が弱くても、

希望を叶えてあげるべきなんじゃ?

そう思って私もショックだった。

彼女はツイッターで、

(たぶん誰も見ていないと思っているアカウントなのだろう。

もう1つのアカウントの方は明るかったり、仕事関連でつぶやいていたけど。

私は偶然見つけたのだ。)

「ボロぞうきんのように使い捨てられるのか」

とあった。

まるでーと私が思っていたことを、

本人も感じていたなんて。

私はその人のことがあまり好きではなかったけど、思わず涙が出た。

家は小さな会社をやっているらしい。

つまりまがりなりとも社長令嬢だ。


ある打ち合わせの帰りに一緒に帰ったときに、

そのことを話してくれた。

驚いたけど、なんか合点がいった。

強気なところと、1年目のくせに高圧的な感じ。いやみな感じ。

だけど、どこかすれてる悲しい感じ。


「お母さんはとっても優しくてふわふわした感じの人。

私にもっと女の子らしかったらねぇっていつも言う。」

なぜその話をあまり親しくない私に話してくれたのかは、

わからない。

でも私からすれば十分女の子らしいーキラキラ輝く女子という感じだったから、

力いっぱい「十分女の子らしいよ!」と言った。

何度も言って伝えた。すごく気にしているみたいだったから。

そんなに気にする感じじゃないのにと思った。


お父さんは社長という話が出たときに、

すごいね!って、本当に心を込めていったけど、

小さい会社のねって言った表情は、どこかせつなそうだった。

社長の娘だけど、小さい会社のっていう、

なりきれない感じが、

複雑な心境にさせるんだろうなって思った。

自分はなりきれていたし、それが自慢でもあったけど、

幼稚園小中高と生きていくうちに、

返しの質問でどんな会社の?と聞かれて答えて行くうちに、

ああ、小さい会社のねという相手の反応から、

自分で、そういう反応もあるのかと、自慢できることなのに、

できるはずなのに、自慢にならないモヤモヤが。



ディレクターだけど名ばかりのねとか、リーダーだけど名ばかりのねという、

世に聞くせちがない状況を思い出した。



私は彼女の彼女自身の話を帰る道すがら初めて聞いて、

合点がいった。

そして少し彼女に優しくなれた。

あたりの強い彼女に、よい印象がなかったんだけど、

自分と似ている点とかあって、

かわいそうなところとか、

むくわれない感じとか、

自分をかえりみないで(自分を大切にしないで)

がんばっちゃうところとか。



この両者の違いは何だろう?

トップ賞に輝いたことはなく、

「明日は彼氏の家族と逢うので服を選ぶ」という日程を、

堂々と全社員が見れる個人カレンダーに書き込んじゃう

実生活で疎遠になってもSNS上で応援してくれる人がいっぱいいるビューティーさんと、

がんばって、がんばって、トップ賞に輝いたのに、

希望していた未来が得られず、

実生活で疎遠になった人とはSNS上でもどこか疎遠になる

強気に見えたけど、本当は自己評価が低くて鬱々としている女性と。


仕事上では費用対効果の点から、

前者の人は、会社からみれば、広視野で仕事が見れていたかなと思えなくもない。

何件も受注したわけではないけれど、会社として代表作にできるような、

そしてその企画の目標が大きく達成された点から、

1案件だとしても、大きく評価できたと思う。

後者は単価が引くい案件を何件も取って、

クライアントさんと個人レベルまで懐に入り込んでおつきあいして、

そのよしみで契約継続してくれたとことまであるけど、

制作やメンテナンスに掛ける時間や手間=継続的な費用と、

企画目標としての達成具合=広告として大きく成り立ったかという点では、

達成できなかった。


ああ、売り上げに着目していたけれど、

やはり広告屋として、企画が最終的にはうまくいったかいかなかったかのところが、

会社としては評価対象だったのかもしれない。

もちろんWセットで、受注売り上げの達成と企画目標=認知拡散の両方が

達成できればよかったんだろうけど。


でももしかしたら、大きい案件で売り上げを得るような仕事と取り方の方が、

会社として好ましかったのかもしれない。

でもそれはないか。費用の低い企画も本社でもあるみたいだし。



最初の疑問に戻る。

そういう人たちがいるーと思ったけど、

よく考えてみたら、

褒め”合って”はいない。

一方的だ。

キラリと輝くキラ星に、わぁっと集まっているだけだ。

そしてその真ん中にいる人がなにか発言、発信するたびに、

大勢いる内のだれか、はたしては、いつもの同じ人が、

わいや、やいやとコメントしたり、いいね!などでリアクションを取るのだ。


その中心にいる人物=星や花かという人は、

その人たちに対して丁寧につきあったり、

おかえしにその人の発信したことに対して、

リアクションした方がいいかなとかいう悩みはない。

そんな暇はないし、

自分の発信したことにリアクションをしてほしいという欲求は、

もともと満たされているから、ない。

だからお返しにという発送自体沸かない。

そんなことより、自分がやりたいことに集中している。

そのことが思考を占めていることもあって、

よってくる人たちに対して世話を焼くことは、

心の中だってないのだ。