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何が起きているのか

どうして起きたのか

それをどのように理解し

どのように対処するべきか

奇蹟の異文化交流を経て孤高の文明へ

2009-12-24 14:09:47 | 日記

1549年(天文18)、西欧文明を日本に初めて伝えたフランシスコ・ザビエル Francisco de Xavier

(1506年4月7日~1552年12月3日)は、1492年のグラナダ陥落でレコンキスタの運動が完了

したスペインのナバラ王国 ハビエル城で、1506年4月7日、兄 2人、姉 2人の末子として生まれた。

1525年、19歳で名門パリ大学に入学。1530年、24歳で哲学教授の資格を取得し、授業を担当。

ザビエルの父、フアン・デ・ハッスは、ボローニャ大学で法学博士号を取得し、ナバラ国王を補佐して

いたが、1515年、スペイン軍によりナバラ王国は滅ぼされ、心労のため亡くなった。母、マリア・デ・

アスピルクエタは、ハビエル城を守っていたが、パリに旅立ったザビエルに再び会うこともなく、1529

年7月に亡くなった。ザビエルは23歳だった。2人の兄、ミゲルとフアンは軍人として、ナバラ王国復

興に努めた。1524年~1525年にハビエル城は再建された。なお、ザビエルXavierは、ポルトガル

語で、現代スペイン語ではJavierハビエル。1533年、ガンディアの修道院長をつとめていた姉のマグ

ダレナが亡くなった。同郷 のイグナチオ・ロヨラはスペインのアンカラ大学を経て、パリ大学モンテー

ギュ学院で学んでいた。ザビエルは、ロヨラから影響を受け、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル

ファーブル、シモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバティリヤ、アルフォンソ・サルメロン

の7人が モンマルトル聖堂に集まり、生涯を神に捧げる誓いを立てた。  「モンマルトルの誓い」

ザビエルは28歳だった。1539年9月3日、イエズス会がローマ教皇パウルス3世に口頭で是認

された。イエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け、当時ポルトガル領だったインド西岸

の都市、ゴアに会員を派遣することになった。1541年4月7日 (ザビエルの35歳の誕生日)に

リスボンの港から出港した。1548年11月、ゴアで宣教監督に就任したザビエルは、1549年4月

15日、イエズス会士、コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、中国出身のマヌエル

ゴアで洗礼を受けた日本人のヤジロウとともに、日本を目指してゴアから出発した。途中、中国明国

広東の上川島を経由して、ヤジロウの案内で薩摩半島の坊津に上陸し、その後、許可を得て、1549

年8月15日の祝日(モンマルトルの誓いから5年)に、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。同年、

9月、伊集院城で薩摩の守護大名、島津貴久に謁見し、宣教の許可を受けたが、ほどなくして、貴久

が仏僧の助言を聞き入れ、布教の許可を取り消したため、薩摩から引き上げ、1550年8月、肥前国

平戸で布教を始めた。1550年12月、海路で 堺に上陸し、豪商 日比屋了珪のもてなしを受けた。

1551年1月、日比屋了珪の援助を受けて、京の都に上がったが、室町幕府の権威は失墜していた

上に、京の町も荒れすさんでいたので、ザビエルは1551年3月、平戸に戻った。ザビエルは、豊後

国にポルトガル船が来航した話を聞いて、豊後国に行くことにした。1551年(天文20)9月、豊後に

ザビエルは到着し、守護大名、大友義鎮(後の宗麟)(1530年(享禄3)1月31日~1587年(天正

15)6月11日)の歓迎を受けた。その頃、義鎮のこころは深く傷ついていた。前年の1550年(天文

19)2月、大友家に政変が起こり、 「二階崩れの変」 父と母、弟を亡くした。 初代、大友能直(よし

なお)1172年(承安2)1月3日~1224年(貞応2)11月27日は、将軍頼朝公が側室に産ませ

た子であることを父である第20代当主、義鑑(よしあき)は、義鎮の幼少の頃から教えていた。

17歳で元服し、とても立派だったということである。将軍実朝公暗殺事件(1219年)など起きた

が、おおむね平和な生涯だったということである。義鎮は生きる苦しみに直面していた。ザビエル   

に、豊後に来て欲しい旨ポルトガル人を介して伝えておいた。義鎮はザビエルと会って、真の教養

を感じた。ザビエルも義鎮を見て、善良な人だと思った。大友家の分裂騒動から2年過ぎても、義鎮

のこころは癒やされることもなく、遥かな昔を想えば想うほど、遥かな将来も思われて来るのだった。

本州の戦国大名達は、天下取りに血道を上げている。しかし、日本の国の将来を思えば、歩むべき

道は、目の前にいるザビエルが示しているではないか。この人物は日本を助けるために、はるばる

遠い国から日本に来たのだ。 日本が危ないので、 日本を助けるために、 ただそれだけのために。

義鎮は今までにこれほど圧倒的な存在感を感じさせる人物に会ったことはなかった。スペイン語で

音楽を musica と言う。何と覚えやすい言語であることか。他の西洋の言語は日本人には難解過ぎる

一度習えば、読み、書き、話すことが出来た。この言語を日本人が習っておくことは後々必要になる。

イエズス会士は、豊後府内に学校や病院、コレジオ等を次々に建設し、外国人や日本人に、外国語

理科、医学、演劇等の授業を行った。日本滞在も満2年が過ぎ、ザビエルはインドのゴアに一度戻る

ことにして、1551年11月15日、種子島から出航し、翌1552年2月15日、ゴアに到着した。日本

布教については、コスメ・デ・トーレス神父(1510~1570)に任せた。トーレス神父は、豊後国を本

拠として修道士を指揮し、九州から畿内まで幅広く宣教した。フェルナンデス・ジョアン修道士(1525

~1567)は、スペインのコルドバ出身のイエズス会士であり、日本語に習熟していたため、文法書や

辞書の翻訳、編集などに多くの業績を残した。1552年4月、ザビエルは、日本全国の布教のために

は、文化的に大きな影響のある中国での布教が必要であると考え、同年 9月、中国・明国、広東の

上川島に到着したが、体力は衰え、1552年12月3日、上川島で亡くなった。46歳だった。ザビエル

は日本人について、「この国の人々は、いままで見てきた異教徒の中では一番優れている。善良で

あり、悪意がない。そして、なによりも名誉を重んじる」と記している。聖フランシスコ・ザビエル書簡

大友宗麟は、本州で天下統一を果たした織田信長に薩摩・島津軍との和議仲介の約束を取り付けたが、

1582年(天正10)、本能寺の変が起きて、果たせず、翌1583年(天正11)、秀吉は大坂城

を築城した。室町幕府の足利義昭 は、信長に擁立されて、第15代将軍 (在職1568~1673)と

なったが、不仲を生じ、1573年(天正1)、信長に捨てられ追われ、諸国を流浪、秀吉に拾われ、大坂

で没した(1537~1597)1582年(天正10)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの企画により、

遣欧使節をローマに送ることになった。九州三侯少年遣欧使節。1582年2月20日、長崎港から出航し、

1584年8月10日、ポルトガル、リスボンに到着。1585年3月23日、ローマ教皇グレゴリウス13世

に謁見を賜り、ローマ市民権を与えられた。欧州各地で歓迎され、1585年4月13日、リスボンを

出発。帰路につき、1590年(天正18)7月21日、長崎港に着いた。グーテンベルク 印刷機などを

持ち帰り、日本で初めての活版印刷が行われた。1591年(天正17)3月3日、聚楽第にて秀吉を前

に、西洋音楽を演奏した。1587年(天正15)、大友氏滅亡寸前のところで、豊臣秀長率いる10万の

兵が九州に到着。さらに、秀吉自身も10万の兵を率いて、九州征伐に出陣し、各地で島津軍を破っ

ていった。宗麟は、島津義久降伏直前に、豊後国津久見で亡くなった。1587年(天正15)6月11日

九州平定後、豊臣秀吉は筑前箱崎に滞在していた。秀吉に謁見するために訪ねて来たポルトガルの

通商責任者ドミンゴス・モンティロとイエズス会宣教師 ガスパール・コエリョに対して、宣教師の退去と

貿易の自由を記した文書を手渡した。1587年(天正15)7月24日、バテレン追放令 である。元来、

秀吉は織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。1586年(天正14)には、大坂城

にイエズス会のガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日には、イエズス会に対して、布教の許可証

を発給していた。布教の制限及びバテレン追放令の理由は、神国である日本でキリスト教を布教する

ことは相応しくないというものであり、この法令が南蛮貿易を妨げるものではなく、布教に関係しない

外国人商人の渡来を規制するものではないことが示されている。布教の制限及びバテレン追放令に

ついて、当時、イエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは

九州征伐に向かった秀吉の目の前で、ガスパール・コエリョ がスペイン艦隊は自分の指揮下にある

が如く誇示して秀吉を怒らせたことが原因であるとして、コエリョの軽率な行動を厳しく批判している。

布教禁止の命令を受けて、イエズス会士らは平戸に集結し、以降、公然の布教活動を控えた。秀吉

も南蛮貿易のもたらす実利を考え、それ以上の強硬な政策は執らなかった。秀吉が態度を硬化させ

たのは、中国・明国の使者が秀吉を怒らせ、第二次朝鮮出兵(慶長の役)1597年(慶長1)を決意

させた1596年(文禄5)7月に起きたサン・フェリペ号事件による。サン・フェリペ号は、フィリピン

のマニラからメキシコへ向けて航行していたが、台風で遭難し、四国の土佐沖に漂着した。秀吉は積荷

と乗組員の所持金を没収し、船の修理は許可し、サン・フェリペ号は、1597年5月、マニラに戻った。

サン・フェリペ号の乗組員の讒言(ざんげん)は、スペインは宣教師を先頭にして、日本を征服しようと

しているとする内容だったが、怒った秀吉は在日スペイン人らを処刑した。1597年(慶長1)2月5日

二十六聖人殉教。列福日、1627年9月14日、列聖日、 1862年6月8日、列聖場所、  ローマ

1597年9月、スペイン使節として、マニラから、ドン・ルイス・ナバレテが秀吉の元に遣わされて、積

荷の返還と二十六聖人の遺体の引き渡しを求めたが、秀吉は拒否し、1598年(慶長3)9月18日

豊臣秀吉没。後、朝鮮半島から日本軍は撤退した。1600年(慶長5)9月15日、関ヶ原の戦いを

経て、1615年(慶長20)、大坂の陣で豊臣家は滅び、安土桃山時代(織豊時代)が終わり、同年

江戸幕府が成立した。1624年(寛永1)、スペインとの国交を断絶、来航を禁止。オランダから武器

弾薬を調達し、島原の乱(1637~1638)を鎮圧した。1634年(寛永11)ポルトガル船来航禁止

令、1635年(寛永12)海外渡航禁止令を発令した。1640年(寛永17)マカオから通商再開依頼

のために来航したポルトガル船の使者61名を処刑。1673年(延宝1)イギリス船リターン号が羊毛

を売るために長崎港に来航したが、幕府はイギリスとの交易再開を拒絶し、以降、100年以上、オラ

ンダ船以外のヨーロッパ船の来航が途絶えた。なお、江戸幕府は、朝鮮との国交は保ち、朝鮮国王は、

将軍襲職などの慶賀のため、1607年 (慶長12)から1811年 (文化8)まで、12回、江戸に

使節を送った。1836年(天保7)石見浜田の廻船問屋、会津屋八右衛門が鬱陵島に上陸し、密貿

易を間宮林蔵(1775~1844)に暴かれ、八右衛門らは、異国渡海の罪で処刑され、藩主で老中

の松平康定は奥州棚倉に左遷された。1633年(寛永10)からは、朱印状の他に、江戸幕府老中

から長崎奉行に宛てて出された奉書によって特別に許可された奉書船以外の海外渡航が禁止された。

1644年、農民反乱の首領である李自成(1606~1645)が首都・北京を占領し、明朝(1368

~1644)を滅ぼし、順王朝を建国し、皇帝を称したが(在位1644~1645)、中国東北部から起き

た清が李自成を破り、中国本土に進出した。明の皇族と官僚は南明を建て、清に抵抗した。日本と

関係の深い鄭成功(1624~1662)が台湾を拠点にして、アモイ、金門島を戦場に奮戦したが病没

した。明朝再建勢力が江戸幕府に援軍を要請して来たが幕府は要請を拒絶した。西欧文明との交流

の窓口を、オランダだけに狭めた徳川幕府の政策は、時の英傑徳川家康(1542~1616)の政策を

忠実に継承したことによる。1600年(慶長5)、オランダ船リーフデ号で豊後国臼杵に漂着したオラン

ダ人ヤン・ヨーステンを家康は重用し、江戸に屋敷を与え(現在の東京・八重洲)、ヨーステンは、東南

アジア方面との御朱印船貿易で活躍した。当時、海洋覇権を巡る世界情勢は争い激しく、対立し、変

化、進展していた。1588年、アルマダ(Armada)の開戦で、スペインの無敵艦隊はイギリス艦隊に

完敗し、1600年、イギリスによって東インド会社が設立された。オランダは1602年に、フランスは

1604年に、それぞれ東インド会社を設立した。1652年~54年、65年~67年、72年~74年

の三度にわたって、イギリスとオランダの間で航海法を原因とする戦争が行われ、イギリスが勝利し、7つ

の海を支配する海洋帝国となって躍進し、オランダは衰退した。イギリスは内需をたのみとしなくても済む

経済を確立出来た。国際化が急激に進展する世界情勢の中で、日本は取り残され、長い眠りに就いた。

ザビエルと宗麟が思い描いた、異文化交流とともに栄える日本の歩むべき道は閉ざされた。

 

異文化接触について、現在は、J.W.Berry  らによって、統合(自国の文化を保持しつつ、相手との

関係も保持している状態)、Integration インテグレーション。同化(相手の文化は保持しているが、

自国の文化を保持していない状態)、Assimilation アッシミレーション。分離(相手の文化との関係を

拒絶する状態)、Separation セパレーション。周辺化(自国の文化も相手の文化も保持出来ない状態)

Marginalization マージナライゼイション。以上の分類がなされている。大友宗麟の出身地では、Bungo

として その名を西欧世界に広く知られ、遣欧使節は欧州各地で大歓迎を受け、その後の九州、日本

に影響を与えた郷土の誇るべき偉人である。日本の伝統文化とアジア・ヨーロッパの異文化を融合さ

せた新しい生活様式が「豊後府内の都市まち」にしっかりと根付いていた事実を裏付ける遺跡が現在

も発見され続けている。許容力、包容力に優れ、「早すぎた文明開化」を成し遂げた人であると紹介し

ているが、その後の日本の歴史を見ると大友宗麟の先見性には確かなものがあり、奇蹟のイエズス

会士ザビエルの助けを受けて積極的に異文化と交流することにより、日本の伝統や文化を保護する

ために全力を尽くした、「正真正銘の文明開化」の人だったと評することが出来る。

 

 

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