「民法出デテ忠孝亡ブ」とは、明治新政府からいわゆる「お雇い外国人」として招へいされ、
1873年(明治6)に来日したパリ大学教授エミール・ボアソナード(1873-1910)の教授する
民法に対する、帝国大学教授で憲法学者の穂積八束(1860-1912)(ほづみやつか)が放った
批判の言葉である。明治新政府は、西洋諸国との不平等条約の改定のために、パリ大学教授
エミール・ボアソナードを必要としていた。当時の巡査の月給が8円のところ、ボアソナード
教授は、年俸1万4千円という待遇を受けていた。穂積八束は、民法を大変に危険な学問と
考えていた。忠孝の忠とは、主人の為に命をかけて尽くすことであり、孝とは、親孝行等
年上の人を敬うという意味で、儒教の精神である。穂積八束は、天皇=国家であるとして、
祖先崇拝により、天皇主権を主張し、天皇機関説の帝国大学教授美濃部達吉(1873-1948)
らを厳しく批判した。日本の文化的特徴の一つである忠孝の精神の亡びを放置出来なかった。