朝日記151021 制度劣化ということ(2) VWスペインでのトヨタ方式など と今日の絵
おはようございます。
徒然こと1 合法化理論 Legitimacy Theorem
ネットで VW問題について、本当はなにがおきていたのかをさぐるために(Legitimacy VW)でとりあえずながめてみました。
トヨタの自動車のアクセルの糸の欠陥問題としてアメリカの議会に大大的取り上げられ、トヨタのトップの公正な態度が、結局説明責任を果たし 逆に会社の評価を上げました。
今回のVW問題については、その報道内容からすると該VW社の信頼を根本的に損なうイメージとして伝わってきます。経営のトップが,製品欠陥をみとめて辞任したことがその印象を決定的にしてしまいました。
情報の出典を書きませんが以下のような具合です。
*Germanyという名前のミシガンの技術者が昨年来のロードテストで、NOxの基準を満たしていないことを該社に報告していたこと。その結果が本年9月にようやく認めたこと。その間にソフトウエアを作り直したことなどが報じていました。
*BBCのネット解説ですが、そもそもEUでは、アメリカに指摘されるまで、この問題に気の付かなかったことが深刻な問題となっていることは当然理解できます。
EUとアメリカでのルール化のずれがあったこと、この違いをきちんと位置づけない状態であったことは結局、VWに瑕疵があったことは当然です。それにしても、テストを通すために故意にソフトを改ざんしたかどうかは、真相は不明です。アメリカでは刑事告訴のはなしも起きているようです。
これらが(Legitimacy VW)でのネットでみられる状況です。
個人的な勘で、全く、根拠はありませんが、「ウクライナ問題」や「AIIB問題」でのアメリカからの「仕置き」ではないかと脳裡をかすめました。恐ろしいことで、トヨタの議会公聴会のときでも、アメリカの日本への世論感情次第では、如何様にも方向が動いたのではないかとおもいました。
アメリカは 'State of Unjust'とみずから呼んでいる国でもあります。 刑事的な意図がなければ、Unjustを修正するべく論陣を張ることを由とする社会です。 たぶん、VWは、堂々と立ち合うとことを期待します。
(柿実る)
徒然こと2 VWスペインでのトヨタ方式
*(Pablo Archel and Javier Hsuilos,Carlo Larinaga, Crawford Spence,Social disclosure, legitimacy theory and the role of the state, AAAJ, March 2009)
という解説論文がありました。
https://www.academia.edu/3616240/Social_disclosure_legitimacy_theory_and_the_role_of_the_state
ご承知のように、日本でも各企業がSocial and Environmental Discourse(SED)が発表していますが、これが、ほんとうの問題の姿を現しているかを問い直しについて状況解説しています。資本主義としては当然ともいわれる市場論理中心視座(ブルジュワ主義)を越えて、社会価値が多元化した時代に、企業活動のなかでの経営事象のなかで、問題の本質的が正しく、公正にとらえられ、整合しうるものなのか、という問題意識です。このミクロ構造の問題がマクロ構造への影響問題として、制度論的institutiveに見ていくという視点として’Legitimacy theory(LT)’の研究が表にでてきたようです。
この解説では、一般論のあとで、事例問題として、VWのスペイン工場でのJust-in-Time(JIT),Lean productionに焦点が当てられます。 VWの工場で、トヨタ方式が隅々まで適用されている現状を知るだけでもおもしろいですが、ここでは労使の関係が社会問題として極度に悪化しているという見方を示しています。
生産のマクロ最適よりも、ミクロ最適がビジネスを優位にする方式を追及していくことが、マクロ、つまり生活文化をふくめ社会全体、国のあり方にどのような影響があるのかというLegitimacyの投げかけです。
*はなしはとびますが、目下の話題のTPPの交渉過程で、話題の表舞台には出ていませんが、CSD裁定(Corporate-State Disputes Tribunal)機能をおもいだしました。 一企業のあり方がその国の社会的価値とまともにバッティングしていくことは、これから頻繁に起こるとおもいます。
これもまたLegitimacy Institutive問題といえましょう。
*トヨタ方式など日本の製造業コンセプトは、これからもその存在価値はおおきとおもいますが、しかし見方を代えると、ネガティヴに評価されることも十分に考えられます。
1980年代の日本の製品品質が世界を席巻しましが、その管理方式の理論化が遅れ、結局ISOは英国など他国にリードをゆるしてしまった轍を踏まないよう、Absent of Institutionにならない、Positive Institutionとして先行した知恵を出し、結実していくことが求められているとおもいました。
(大山のみえる散歩道)
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