8月から俳句を作り始めて、いろいろな投句会に投句してきた。 結果、約1か月でやっと佳作、並み、程度の句と評価されるようになった。 プレバトなら「凡人」くらいのレベルかな?
投句したのはインターネットで投句を受付けてくれる投句サイト各種。 NHK俳句とか日本伝統俳句協会とか、その他多数。
最初に投句した会は、ネットで投句したものを他のネット会員が、「いいね」して、「いいね」の数でレベル(名人とか)を決めようという全自動ネット句会のようなもの。 投句したらTwitterで仲間に触れ回って、「いいね」を促すことも推奨している。 最初は面白がって投句していたが、こういう印象を持ったので止めた。
どんな人が「いいね」を押すのかわからない。 「いいね」の信頼度。
仲間が多ければTwitterで後押しできちゃう。 公平さに欠ける。 一人は不利みたいな気になる。
いつでも誰でも見られるので自分の投句のアイデア(俳句は発想の勝負なのです)を盗まれる。 すぐに似た句が投句される。 等々。
他の投句会では、撰者という人がいて、上位3席、佳作、などを決めてくれるのだが、撰者の方にも多少、傾向や好み、癖、感受性の違い、等があるようなのだ。 これらの傾向は、あって然りとおもうのだが、投句する前に、この撰者はこういう傾向、というような理解をしていると、安心して投句できると思われるんだな。 過去に主席に選ばれた句を多々眺めていれば、撰者の感受性の傾向は分かるのです。
高浜虚子の「俳句の作りよう」では句作の方法を次のように言ってたね。
1.まず17文字を並べること
2.題を箱でふせてその箱に上って天地乾坤(てんちけんこん)を眺めまわすということ
3.じっと眺め入ること
4.じっと案じ入ること
問題は、これの 2. 兼題と天地乾坤(てんちけんこん)を眺め回せ、ということ。 兼題とは別の事象を身の回りに発見せよ、ということなんだな。
俳句初心者には、この兼題にて17文字で俳句を作ってみよ、といわれても何をどう発想すればよいのかがわからないのです。 あるいは、この景色をみて俳句を作れという場合も同じです。
何をどう考えてどうすれば良い俳句になるのか、という思考過程が分からないのです。 だから虚子は、上の2.でこういっているのです。
兼題(俳句の題、テーマ)を箱で伏せて、一旦わすれる、そして全く別の事象事物を眺め回してみよ、と言っているんです。
つまり、兼題と全く別のことを見つけ、2つを組み合わせてみよ、と言ってるんですな。 兼題というのは、テーマであるわけで、季語であることも多いのですから、ここはまず、季語を置いてみればいいわけですな。
季語は季語辞典というものまであるくらい、たくさんあるので、その中から適当なものを持ってくればいいということになるわけですな。
極端な場合、どんな句にも、「ほととぎす」という季語をくっ付けてみれば、適当な俳句は作れるのですな。 だから季語は俳句にとっては大事なんですな。 ちなみに、ほととぎす、は夏の季語となっておりますな。
例えば、
稀勢の里昨日負けたか ほととぎす 即興
台風は西に逸れたか ほととぎす 即興
それじゃ~、別の季語をくっつけてみたらどうなるか、
稀勢の里昨日負けたか 秋の風 即興
台風は西に逸れたか 山は秋 即興
どうです? 季語の選び方によってはなんとなく俳句らしくなるでしょ?
これは、組み合わせ句作法といったもので、一物仕立ての句作法とは異なる、句作法なのですな。
万葉集の中にも、正述心緒(せいじゅつしんちょ=心に浮かんだものをまっすぐに正直に述べる。 俳句でいう一物仕立て句作法にあたるか)と、寄物陳思(きぶつちんし=物に寄せて思いを述べる。 俳句でいう組み合わせ句作法になるかな)という2つの歌の作り方について述べている巻(巻11,巻12)があるそうですな。
寄物とは、眼前には不在のものの像を想起し、その像に対する心を発生させ、増幅させる呪物であり、不在のものを立ち顕わさせる鏡である、と説明されております。 (だからただの組み合わせではないのであります)。 鏡を見てあなたを思う・・・とか、妻の縫った衣をみて妻を思うとか・・・
何かを見るにつけ、想い起こすは・・・・・・てな感じですな。 季語の中にもそのようなものが多数含まれておるわけですな。 例えば、花、鳥、風、月、などは、何をか思わん・・・ですな。 だから単に季語をくっつけるという句作法は組み合わせ法ということになるんですな。
この組み合わせ句作の簡便法は、素人が初めて俳句を作る際の思考の動き(何をどう)を教えるものであって、このレベルで出来た句はいくらリアルがあっても、絵がはっきり見えたとしても、人の心を動かす詩情というものがないのですな。 いわゆる感動のない575というだけであって、俳句とは程遠いものなのですな。
投句会の中には、この事を重視するあまり、詩情のない、なんの感動もないような575を良しとするところもあるようですな。 ・・・う~ん、わかるけど詩情がないね~、という句です。
あとは好みの問題にもなるのでしょうが、ワシの好みとしては、
どんな作り方をしても良いから、できた俳句には、ある種の詩情、感動、おかしみ、とん知、同感があってほしい、と思うんだな。 風情は季語自体が持ってるんだし・・・
物言えば唇寒し秋の風 芭蕉
・・・同感かな・・・独白なのかな・・・秋のもの悲しさなのかな・・・比喩なのかな・・・作り方としては一物仕立てかな・・・季語を使っている以上、組み合わせなのかな・・・
吾ときて遊べや親のない雀 一茶
・・・一物仕立てだよね・・・見たまま心のままを言ってる・・・雀の子への憐憫・・・雀の子は自身の子供時代に対する寄物なのかな・・・
TVでプレバトを見ていたら、俳句の部で夏井いつきさんの辛口と添削が面白くて、これならワシにもできそう・・・と感じて・・・まず、俳句の本を読んでみようということになった。
女房が本は買わないで借りた方がいいよ、というので市の図書館で借りた。
まず読んだのは、
俳句の作りよう 高浜虚子
俳句とはどんなものか 高浜虚子
俳句はかく解しかく味わう 高浜虚子
の3冊、薄い単行本なので一気に読んだ。 うむ・・・面白かった。
ついで、夏井いつきさんの、
寝る前に読む一句二句、と、超辛口先生の赤ペン俳句教室 の2冊 簡単に気楽に読める本だ。
つづいて、
小林一茶 句による評伝 金子兜太
と、下記が一冊になったもの、
松尾芭蕉/おくのほそ道 松浦寿輝
与謝蕪村 辻原登
小林一茶 長谷川櫂
とくとく歌仙 丸谷才一・大岡信・高橋治
総評・解説 池澤夏樹
本を読んだ結果・・・なんとなく俳句の世界が理解できたような・・・気がする。
5・7・5の17文字だけで、日頃感じた詩情や事柄を江戸時代の芭蕉先生から今日まで、ありとあらゆる俳人が一人で何十何百何千何万という数の句を読むのであるから、一体いくつの句がすでに存在するのやら・・・というのが最初の感想だ。
同じ季題で読んだら、必ずや過去に類似の句があるに違いない。 そしてこれは当たっていた。
何の先入観もなく、はじめて自分で作った句を、過去の句集などに照らしてみると(ネットで検索できるよ)、句の発想が似たものがぞろぞろと出てくるのだ。
こりゃ盗作騒ぎになるのは必定だ。
そして考えた。 俳句っていったい何だ?
まだ、今時点の理解ではあるが・・・
歴史的理解
和歌(短歌・長歌・旋頭歌)-短歌(5・7・5・7・7、長歌に対して)ー連歌(上の句5・7・5と下の句7・7を、なんとかつながりで複数人が順に読んでいく歌仙形式)-俳句(連歌の発句5・7・5だけを独立させたもので風情を表現する)
というような変遷を経て成立した。 松尾芭蕉さんがその立役者である。 俳人の多くは連歌師でもあった。
その後は、俳句は流行ったりすたれたり、川柳という季語のない句が流行ったり、正述心緒、寄物陳思、花鳥風詠、不易流行、写生、花鳥風月、客観写生、現代俳句、などの標語のもと、いろいろな流儀というか流派・主張というようなものが生じては消えていった。
そして現代、現代語による句作ということに至っている。
ひとつ大変興味を引いたのは、総評で池澤夏樹さんが書いておられたことだ。
石川淳が、「一般に俳句と呼ばれる17文字の形式に何かのこころを託そうとすることはどうも詩的に無理、いや、無意味に似る。 というのは私の俗眼をもって観察すれば、この形式は俳諧の連歌の部分としてよりほかに詩的意味を持ちえないようにみなされるからである。」と言ったということ。
たしかに、句集や前置きの説明などを読まないと、その俳句が本当に言いたいこと、言外の意味、心情、余韻、などが汲み取れない、逆に、それがあれば、ああなるほど、というように同感できる、ということは大いにあるように、ワシにも思えるのである。 だから句集には句作の経緯などがかかれているんだな。
現代俳句では、そういうものがないので5・7・5だけでは、あまりピンとこないもの、読者に伝わらないものが多くなるのは当然なんだろう。 駄作が多くなるわけよ。
では、自分は何のために俳句を作るのか? ということになると、はなはだむずかしい。
俳句で飯を食っていこうという人たち(業俳)は、いろいろと考えるのであろうが、先のこれまでのバックログを考えた場合、自作の句であることを証明するのは大変難しいことになっている。 句集を出して売るにしても、同様である。 残るは、人に教えて教授料をいただく、本を出して印税を稼ぐ、くらいか。
何のために俳句を?
ワシは何のために俳句をつくろうか?
俳句って、今の時代でいうツイッターやブログだと思う。 日記でもいい。 ただ、5・7・5の17文字だけで完成させる。 そういう遊びだと思えばいいじゃん。
季語は・・・あってもなかってもいいんじゃないか? 言いたいことがわかれば。 (このあたりから季語不要論者がでてきそう。 俳句が川柳になっちまうかも。) ただ、川柳もまたよし。 おかしみがあるから。
芭蕉さん、蕪村さん、一茶さんなどは、旅をして日々の発見を俳句に残した。 その当時から似た句は山のようにあったのだろうし、自分なりのユニークな発見をするために題材を旅にもとめたのではなかったか。
現代の我々は、それを、インスタや、ツイッター、ブログに残す。
ワシの俳句は、死ぬまでの日々の日記となるであろう。 句題に困ったら、旅でもするか芭蕉さんのように・・・東北の釣り みたいな・・・
俳句
しずけさや岩に染み入るせみの声 芭蕉
秋風やテレストリアルなフライ巻く 松楠
川柳
君たちは働き蟻だと神定む 松楠
病院と手術と薬のネタばかり 松楠
お笑いください
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