内村鑑三著「代表的日本人」の中の「二宮尊徳」を英語原文から私訳しました。
文章はあくまでも当時の先進国の人たちに、日本と日本人を紹介するために書かれたものです。ですから、日本語に訳しなおしたとは言え、違った感覚でこの文章を読む必要があると思います。いや、私たちの世代は、内村先生の時代とは遠くかけ離れてしまっており、今の日本に生きる者として、あらためて先生が何を訴えようとしていたかを受け取る必要があるのではないかと思います。
さらに二宮尊徳という一個の偉人がもたらしたもの、それは荒廃しつつある現代社会にどうあったらほんとうの繁栄を再び来たらせることができるか、私たちが立ち帰らなければならない原点を指し示しているのではないでしょうか。
先に紹介しました「日蓮」と同じように、ワードを使った英語原文との比較対照ができるものを用意しています。ご希望の方は管理人までお申し込み下さい。
2009年8月31日 文責 大山国男(oyamakuniopy@gmail.com)
静岡県掛川市の二宮金次郎像
二宮尊徳-農夫の聖者-
<一、十九世紀はじめの日本における農業>
「農業は国家の基盤である」
我が国のような国においてはほんらいそうであるが、海上交通や商工業が発達しているにもかかわらず、人々の主な(生活の)支えはその土地から来ている。
自然の肥沃さと、限られた土地だけでは莫大な人口を支えることはできない。つまり四千四百万人という人口を、たったの十五万平方メートルという耕作可能な、国土のわずか二割の土地だけで支えることはできないのである。
またこれらの土地はその最大限を生産するようにされなければならない。そして人間の才能と勤勉がぎりぎりのところまでその目的のために用いられなければならない。
この点で日本の農業は世界において最も注目に値するたぐいのものだと我々は考える。
ひとつひとつの土の塊が思いやりのある取り扱いを受け、そして地から生えるひとつひとつの小さな植物に、ほとんど親の愛に近い配慮と注意が施されるのである。
我々に不足していた科学的知識を、猛烈に働くことによって補い、結果として、我々は今や千三百万エーカーの耕された土地を所有している。そして、それは市場に(農作物を出荷する)ための農園として、あらゆる精巧さと完璧な設備を備えているのである。
このような高いレベルの農業は、ひとえに人々の側に並々ならない勤勉さがあってこそ可能である。
ほんの僅かの怠慢も、それは全く魅力を失ってしまうほどの荒廃を招かざるを得ない。
(すなわち)かつて耕作された土地が放棄されることほど、我々を落胆させるものはないのである。
もし原始林のたくましい成長力がなければ、放棄された耕地が荒れ果てていくのを防ぐことはお先真っ暗な絶望となるであろう。
と言うのも誰も踏み込んだことのない土地の開墾を進んでやろうとする者が十人いたとして、見捨てられた土地の復興に身を奉げようとする者はただの一人もいないからである。
実際、新大陸と呼ばれる南北アメリカが世界三十ヶ国の国民を招きつつある時に、古代文明発祥の地、バビロンはフクロウとさそりのすみかとなって残っているのである。
十九世紀の初め、日本農業は非常に嘆かわしい状態にあった。
二百年もの長い間続いた平和は、あらゆる階級の人々の間に贅沢と浪費とをもたらした。
多くの地方でその土地からの収入が三分の二に落ち込んでしまった。
アザミや茨がかつて生産力のあった田畑に入り込んで来た。そして耕作のためにわずかに残った土地は、その田畑に課せられたすべての税金を賄わなければならなかったのである。
村また村は徹底的に荒れ廃れてしまった。
正直に働くことはいよいよ重荷になり、人々は不正直な生き方をするようになった。
すなわち、彼らはこれまではやさしい大地から気前のいい贈り物を見つけようとして来たのに、それをやめてしまった。そして互いにいかさまをしたり、騙し合うことによって、その哀れな生活を支えるのに必要なわずかなものを得ようと探し求めたのである。
彼らの禍の原因のすべては、道徳的なものであった。そして「自然」は、その卑しい子供たちに報いることを拒み、あらゆる悲惨な出来事をその土地に降りかからせたのである。
この時、その精神が「自然」の法則と固く結ばれた一人の人が誕生したのである。
二宮尊徳生家 小田原市二宮尊徳記念館
<二、少年時代>
尊徳(徳を尊ぶ)と敬称された二宮金次郎(金治郎)は天明七年(一七八七年)に生れた。
彼の父親は相模の国のある小さな名も知れない村の、非常に貧しい農民だった。
しかし隣人の間では慈悲深い心の広い人として知られていた。
十六歳のとき、尊徳は二人の小さな弟とともに(両親が亡くなって)孤児となった。そして親族会議はこの貧しい家族の解散を決議し、長子である彼は父方の叔父の一人に引き取られることになった。
そこでは少年は、できるだけ叔父のお荷物にならないように一生懸命努力した。
彼は自分が一人前の仕事をすることができないことを嘆き、その未熟さのために日中に仕上げることのできなかったところを補うために、夜も非常に遅くまでいつも働きつづけた。
そうした中で彼に、<自分は読み書きのできない、古人の教えについて「あきめくら」の大人にはなりたくない>という思いが芽生えて来た。
それで彼は孔子の「大学」を手に入れ、深夜その日の仕事が全部終わった後、古典研究に専念するようになった。
しかしたちまち叔父は彼がそのように勉学にいそしんでいるのを発見し、激しく彼を叱りつけた。なぜなら、それは叔父にとって何の得にもならない上に、少年自身にとっても何の実用にもならないことであり、そのために貴重な油を浪費していたからである。
尊徳は叔父の怒りをもっともなことだと考えた。そして自分の油を灯すことのできるまでは勉強を続けることをあきらめることにした。
その次の春、彼は川の堤防の上の持ち主のないわずかな土地を開墾して、そこに菜種の種をまいた。そして彼の休日のすべてをこの彼自身の作物の栽培に捧げた。
一年の終わりに、彼はそこから大俵一俵の菜種の種子を得た。それは彼自身の手によって育てられたものであり、正直な労働の褒美として「自然」から直接彼に与えられたものだった。
彼はその種子を近所の製油所に持って行き、数ガロンの油と取り替えてもらった。そして彼は今度こそ叔父の倉から取り出さなくても自分の勉強を再開することができると思い、その喜びは言いようがないほどであった。
意気揚々と、彼は夜の勉学に立ち戻った。その時には、心のうちではその忍耐と勤勉とに対し、叔父からの褒め言葉を多少は期待していないではなかった。
しかしそれは間違っていた。叔父は、彼を養っているからには彼の時間もまた叔父のもので、家の者たち誰にも読書というような何の儲けにもならないことをさせて置くわけにはいかない、と言ったのである。
尊徳は再び、叔父の言うことはもっともだと考えた。そしてそれからはその命令に従い、一日の激しい畑仕事の済んだ後には、ムシロ織りやぞうり作りに精を出した。
その時以来彼の勉強は、叔父の家で使う乾草やたきぎを取りに毎日山に行かされる往復の道すがらになされることとなったのである。
だが、彼の休日は彼のものだった。そして彼はそれを娯楽のために浪費する人ではなかった。
菜種を育てた時の彼の試みは、一所懸命働くことの価値を彼に教えてくれた。それで彼はその試みを、もっと大きな規模で、もう一度やってみたいと願った。
彼は村の中に、近頃の洪水で沼地になってしまった場所を見つけた。そこには彼が休日を有益な目的のために用いることのできる素晴らしい機会があったのである。
彼は沼を干拓し、その底を平らにし、きちんとした小さな水田となるように整えた。
そしてそこへ少しばかりの苗を植えた。それは農民たちが捨てた余りの苗を拾ったものである。そして一夏の間、彼は用心深い世話をその上に注いだ。
秋にはその水田は一俵(二ブッシェル)の黄金の実りをもたらした。我々は孤児である少年のその時の喜びをありありと想像することができる。彼は人生で初めてそのつつましい努力に対する報賞として、生活の糧を与えられたのである。
そして彼がその秋に収穫したその穀物は、その波乱万丈の生涯を開始した資金源となったのである。
真の「自主独立の人」こそ、彼であった。
彼は、「自然」は正直な勤労の子に対して忠実だということを学んだ。そしてすべて彼の後年のさまざまな改革は、「自然」はその法則に従う者に豊かに報いるという、この単純な原理に基づいたのである。
数年後、彼は叔父の家を去った。そして長い間住む人のなかった父親の貧しい家へ帰って行った。彼が村で発見し改良を加えた、あの僅かの捨てられていた土地から、彼自らが収穫したほんの少しの穀物と共にである。
彼の忍耐と、信仰と勤勉をもってしては、何ものも混沌と荒廃とを秩序と肥沃とに変えようとする彼の試みの前に立ちはだかるものはなかった。
丘陵の傾斜地、河岸の空地、路傍、湿地、すべてが彼に富と財産とを加えた。そして多くの年を経ずして、彼は少なからぬ資産を所有する人となり、その模範的な節約と勤勉とのお陰で、近隣全体の尊敬するところとなった。
彼はすべてのことを自分自身のために克服した。そして彼は他の人々が自分たち自身のために、同じように(すべてのことを)克服することを助けるにやぶさかではなかった。
行灯の光で勉学に励む尊徳 小田原市二宮尊徳記念館
<三、彼の能力を試験する>
彼の名声は日々に増し加わり、その真価は小田原候の認めるところとなった。小田原候は彼の領主であり、そして当時徳川将軍の老中として幕府の中で並ぶ者のない勢いを揮っていた。
このような価値ある家来を片田舎に埋もれさせて置くべきではなかった。しかし、当時の階級差別が極めて強かった時代においては、一介の農民を社会的影響力のあるいかなる地位に登用することも、ただ次のような場合にのみ可能だったのである。すなわち彼が間違いなく並外れた能力を持っていて、社会の建前を崩すそのような抜擢に対して必ずかもしだされるであろう世俗的物議を沈黙させるに十分だということを示すことであった。
この目的のために選ばれた仕事は、確かに尊徳のような不屈の忍耐を有する者でなければ、誰しも失望せざるを得ないものだった。
すなわち、小田原侯の領地のうち、下野国に物井、横田、東沼の三つの村があったが、これらの村は数世代にわたる怠慢によって、恐ろしい荒廃に陥っていたのであった。
三つの村はかつて戸籍数四五〇を数え、年貢米一万俵(二万ブッシェル)を領主に納めていた。
しかし今では荒れ果てた「自然」が彼らの田畑に侵入し、<狸と狐とはその棲み処を人々と共にする>までになって、人口は以前の三分の一を数えるに過ぎず、貧困に陥った農民から取り立てることができるのは高々二千俵にすぎなかった。
そして貧困と共に道徳的退廃が進んだ。かつて繁栄した村々は今では博打打ちたちの巣窟となった。
その復興は何度か試みられたが、村民たち自身が泥棒や怠け者であることが明らかになっては、金銭も権威も何の効果もなかった。
より血気にはやる領主であれば、この全人口に断乎立ち退きを命じ、もっと道徳的な新しい労働力を輸入して、怠惰な住民によって荒れ果てたまま残されていた田畑を再生し始めていたかも知れない。
しかしこれらの村々は、役立たずとはいえ、ちょうど小田原侯の考えていた意図に役立ったのである。
すなわち、これらの村々をもとの裕福と繁栄へと回復させることのできた人は、国の中のすべての荒れ果てた村(それは非常に多くあったが)の回復を委ねられるであろう。そして彼以前のすべての人が失敗したところで成功した人は、それらの村の正当な指導者として人々の前に立たせられるであろう。そして特権階級からの不満を買う恐れなしに、相応な権威を着せられるであろう。
これがその時、尊徳が主君に引き受けることを説得された仕事であった。
この農夫は、自分が卑しい生まれであり、そのような非常に公的な性質の仕事にはまったく無能であることを理由に、その名誉を辞退した。-彼は一介の貧しい土を耕す者に過ぎない。彼が一生の間に成就しようと願っていたことは、彼自身の家を再興することだった。しかもそれは自分の才能によってではなく、先祖から受け継いだ財産によってであった。
三年の長い年月の間、藩侯はその家来に自分の要求を主張してやまなかった。が、その家来は自分自身の茅葺屋根の下で平和な家庭生活を営みたいという態度をかたくなに保ちつづけた。
しかしながら、彼の尊敬する主君の執拗さにこれ以上抵抗することができなくなった時、尊徳は復興すべき村々の状態を慎重に調査する許可を請うた。
彼はそこまでの百三十里の道のりを歩いて出かけて行き、数ヶ月間人々の間に留まり、家から家へ彼らを訪問し、注意深くその暮らし方を観察した。また土の質、荒地の範囲、排水、灌漑するためにできることなどについて綿密な研究を行なった。そして、その荒廃した地域の復興はどうすれば可能かについて、彼の完全な見積もりを作るため、あらゆる資料を収集した。
彼の小田原侯への報告は、はなはだ悲観的なものだった。しかし事態はまったく諦めてしまうべきものではなかった。
彼はその報告書において言った。「<愛の業>のみが、これらの貧しい人々に平安と豊かさを回復することができる」。
「金銭を与えるとか、あるいは税金を免除するとかは、彼らの困窮を助ける方法ではない。
実際のところ、彼らの救済の秘訣のひとつはまったく金銭的な援助を取りやめることにある。
そのような援助はただ貪欲と怠惰を生じさせ、人々の間に不和を引き起こす源である。
荒野はそれ自身の資源を以って開拓されなければならない。そして貧困はそれ自体で救済しなければならない。
我が主君はその疲弊した土地から合理的に期待できる収入でもって満足し、それ以上を期待してはいけない。
荒れ田一反(反とは約四分の一エーカー)から二俵の米を産出する時、一俵は人々の生計の糧とし、他の一俵は残っている荒野を開拓するための基金とすべきである。
このようにしてのみ、この我らが実り豊かな「日本」は神代の昔に耕作地として開かれたのである。
すべてはその時荒野だった。そして外からの何らの援助なしに、彼ら自身の努力により、その土地自体の資源でもって、今日我々が見るような田畑、果樹園、道路、そして町々を作ったのである。
愛、勤勉、自助努力、-これらの美徳の厳格な励行の中に、これらの村々の希望があるのである。そしてこの日から十年後、我々がまったき真心をもってこの事業に忍耐強く対処するならば、我々はそれらを元の繁栄に返すであろうことを、私はなんら疑わない」と。
大胆で道理にかなった、費用のかからない計画であることか!誰がこのような計画に同意しない者があるだろうか?
道徳の力を経済問題の諸改革に於ける主要な要素とするこのような農村復興計画は、これまでほとんど提案されたことはなかった。
それは「信仰」の経済における応用だった。
彼には清教徒的血が通っていた。あるいはむしろ、この人は西洋直輸入の「最大幸福哲学」に汚されていなかった純粋の日本人だった。
彼はまた、彼の言葉を信ずる人々を見出した。彼の良き主君はまずその最初の人だった。
百年内外のうちに、西洋の「文明」は如何に我々を変化せしめたことであろうか!
その提案は採用された。そして我らが農夫の道徳家は、十年間、これら村々の実質上の長官となることとなった。
だが、先祖代々の嗣業を復興しようとの仕事を半ばにして放棄してしまうことはとても悲しかった。
彼のような熱誠の人にとっては、どんな仕事に対しても全身全霊を捧げてのものでなければ罪と感ぜられた。そして今や彼は公の仕事を引き受けようとする以上、その個人的な利害はまったく無視されるべきであった。
「万家を救おうとする者は、自分の家を犠牲にすることによってのみ、それができる」と、彼は自身に向かって言った。
彼は妻に、自分たちの長年の願いを犠牲にすることの同意を得て、その決心をことごとく「先祖の墓前に語り」告げ、家をたたみ、そして<別の世界に赴く人のように>「彼の背後にあるすべての船を焼き払って」、生まれ故郷を去り、藩主と人々に大胆に保証した仕事へと入って行ったのである。
彼の荒野との戦い、そして人々の心の荒野との戦いについての詳細は、今のところ我々は関わらないでおくことにする。
術策と政略とは彼にはまったく無縁だった。
彼の簡単な信仰はこれだった。すなわち「一個の魂の誠は、天地を動かすのに十分強力である」。
彼は自身に対してはすべての悦楽を否定し、綿で織ったものの外は着ず、(彼が訪ねて行った)家々で決して食事をせず、一日わずか二時間しか眠らず、部下の誰よりも先に畑に行き、すべてが立ち去るまでそこに留まり、そうして彼自身がその貧しい村々に臨んだ、もっとも辛い運命に耐えた。
彼は、自分自身を裁くと同じ基準で部下を裁いた。すなわち動機が心からのものであるということである。
彼にとっては、最良の労働者は最も多くの仕事をする者ではなく、最も崇高な動機から働く者である。
ある男が、最も良く働く労働者としてとか、三人前の仕事をした人とか、最も感じの良い男としてとかなどで、彼に推薦された。
すべてそのような推薦に対して、農夫である我が長官は長いこと無関心だった。
しかし、同僚たちからこの感じの良い男に相当な褒賞を与えるように迫られた時、尊徳はその男を自分のもとに呼び寄せ、彼に目の前で他の役人の前でやったと同じやり方でその日一日の労働をやってみるように要求した。
その男はそうする力の無いことを認め、ただちに見回り役人の眼の前で三人前の労働をした際に彼の抱いていたよこしまな動機を白状した。
長官は彼自身の体験によって、一人の人間の能力の限度を知っていたので、そのようなどんな報告によっても欺かれることはなかったのである。
その男は罰せられ、その偽善にはしかるべき訓戒を与えられて畑に追い返された。
彼の労働者たちのうちもう一人は老人で、ほとんど一人前の仕事はできない者だった。
彼はいつも切り株のところで働いているのが見られた。-それは骨の折れる仕事で、あまり見栄えのある仕事の類ではなかった。
その場所で彼は、他人が休んでいる時でも、自分で選んだ分にさも満足そうに、いつも働いていた。
「切り株掘り」とあだなして人々は、ほんの少しの注意しか彼に払わなかった。
だが、長官の眼は彼の上にあった。
ある給料日のこと、我が長官のいつもの例のように、それぞれの労働者に対して仕事の実績と割り当てに応じて審判が下された時、最高の名誉と褒賞を受ける者として呼び出されたのはこの「切り株掘り」その人に他ならなかったのである。これは一同の大いなる驚きであり、当人が誰よりも驚いた。
彼は基本給の外に十五両(約75ドル)を得ることとなった。ひとりの労働者が一日二十銭を稼ぐに過ぎなかった時代に、これは莫大な金額だった。
「私は、旦那様」老人は叫んだ。「一人前の賃金にも当たらない年寄りでございます。私の仕上げた仕事は、はるかに他の人たちに劣っております。
旦那様は勘違いをしておいでになるに違いありません。
心苦しくてこの金はいただくわけにはまいりません」。
「いや、そうではない」と長官はおごそかに述べた。
「お前は他の誰もが働きたくないところで働いた。
お前は人にどう見られようと構わず、ただ我らの村々にほんとうに役に立つということだけを目的とした。
お前が除いた切り株が邪魔物を片付け、それによって我々の仕事は大いに捗ったのだ。
もしお前のような者を賞さなければ、ほかのどんなやり方で私は依然として私の前にある仕事を成し遂げて行けるだろうか。
褒美はお前の正直を賞するための天からの下し物である。
感謝をもって受け、老いの身に慰めを加えるために用いよ。
お前のような正直を認めるにまさって私を喜ばせるものはない。」
老人は子供のように泣いて、「彼の袖は涙に濡れてほとんど絞らなければならないほどだった」。
全ての村々は感動に湧き上がった。
神の如き者が彼らの間に現れたのである。隠れたところでなされた徳のある業を表立って報いて下さる方が現れたのである。
反対は多くあった。しかし彼は「愛の業」によってこれらを取り除いた。
ある時には、小田原藩侯が彼の同僚として派遣した一人の人を、彼とそのやり方に和解させるために、三年の忍耐と辛抱を必要とした。
(つづく)
文章はあくまでも当時の先進国の人たちに、日本と日本人を紹介するために書かれたものです。ですから、日本語に訳しなおしたとは言え、違った感覚でこの文章を読む必要があると思います。いや、私たちの世代は、内村先生の時代とは遠くかけ離れてしまっており、今の日本に生きる者として、あらためて先生が何を訴えようとしていたかを受け取る必要があるのではないかと思います。
さらに二宮尊徳という一個の偉人がもたらしたもの、それは荒廃しつつある現代社会にどうあったらほんとうの繁栄を再び来たらせることができるか、私たちが立ち帰らなければならない原点を指し示しているのではないでしょうか。
先に紹介しました「日蓮」と同じように、ワードを使った英語原文との比較対照ができるものを用意しています。ご希望の方は管理人までお申し込み下さい。
2009年8月31日 文責 大山国男(oyamakuniopy@gmail.com)
静岡県掛川市の二宮金次郎像
二宮尊徳-農夫の聖者-
<一、十九世紀はじめの日本における農業>
「農業は国家の基盤である」
我が国のような国においてはほんらいそうであるが、海上交通や商工業が発達しているにもかかわらず、人々の主な(生活の)支えはその土地から来ている。
自然の肥沃さと、限られた土地だけでは莫大な人口を支えることはできない。つまり四千四百万人という人口を、たったの十五万平方メートルという耕作可能な、国土のわずか二割の土地だけで支えることはできないのである。
またこれらの土地はその最大限を生産するようにされなければならない。そして人間の才能と勤勉がぎりぎりのところまでその目的のために用いられなければならない。
この点で日本の農業は世界において最も注目に値するたぐいのものだと我々は考える。
ひとつひとつの土の塊が思いやりのある取り扱いを受け、そして地から生えるひとつひとつの小さな植物に、ほとんど親の愛に近い配慮と注意が施されるのである。
我々に不足していた科学的知識を、猛烈に働くことによって補い、結果として、我々は今や千三百万エーカーの耕された土地を所有している。そして、それは市場に(農作物を出荷する)ための農園として、あらゆる精巧さと完璧な設備を備えているのである。
このような高いレベルの農業は、ひとえに人々の側に並々ならない勤勉さがあってこそ可能である。
ほんの僅かの怠慢も、それは全く魅力を失ってしまうほどの荒廃を招かざるを得ない。
(すなわち)かつて耕作された土地が放棄されることほど、我々を落胆させるものはないのである。
もし原始林のたくましい成長力がなければ、放棄された耕地が荒れ果てていくのを防ぐことはお先真っ暗な絶望となるであろう。
と言うのも誰も踏み込んだことのない土地の開墾を進んでやろうとする者が十人いたとして、見捨てられた土地の復興に身を奉げようとする者はただの一人もいないからである。
実際、新大陸と呼ばれる南北アメリカが世界三十ヶ国の国民を招きつつある時に、古代文明発祥の地、バビロンはフクロウとさそりのすみかとなって残っているのである。
十九世紀の初め、日本農業は非常に嘆かわしい状態にあった。
二百年もの長い間続いた平和は、あらゆる階級の人々の間に贅沢と浪費とをもたらした。
多くの地方でその土地からの収入が三分の二に落ち込んでしまった。
アザミや茨がかつて生産力のあった田畑に入り込んで来た。そして耕作のためにわずかに残った土地は、その田畑に課せられたすべての税金を賄わなければならなかったのである。
村また村は徹底的に荒れ廃れてしまった。
正直に働くことはいよいよ重荷になり、人々は不正直な生き方をするようになった。
すなわち、彼らはこれまではやさしい大地から気前のいい贈り物を見つけようとして来たのに、それをやめてしまった。そして互いにいかさまをしたり、騙し合うことによって、その哀れな生活を支えるのに必要なわずかなものを得ようと探し求めたのである。
彼らの禍の原因のすべては、道徳的なものであった。そして「自然」は、その卑しい子供たちに報いることを拒み、あらゆる悲惨な出来事をその土地に降りかからせたのである。
この時、その精神が「自然」の法則と固く結ばれた一人の人が誕生したのである。
二宮尊徳生家 小田原市二宮尊徳記念館
<二、少年時代>
尊徳(徳を尊ぶ)と敬称された二宮金次郎(金治郎)は天明七年(一七八七年)に生れた。
彼の父親は相模の国のある小さな名も知れない村の、非常に貧しい農民だった。
しかし隣人の間では慈悲深い心の広い人として知られていた。
十六歳のとき、尊徳は二人の小さな弟とともに(両親が亡くなって)孤児となった。そして親族会議はこの貧しい家族の解散を決議し、長子である彼は父方の叔父の一人に引き取られることになった。
そこでは少年は、できるだけ叔父のお荷物にならないように一生懸命努力した。
彼は自分が一人前の仕事をすることができないことを嘆き、その未熟さのために日中に仕上げることのできなかったところを補うために、夜も非常に遅くまでいつも働きつづけた。
そうした中で彼に、<自分は読み書きのできない、古人の教えについて「あきめくら」の大人にはなりたくない>という思いが芽生えて来た。
それで彼は孔子の「大学」を手に入れ、深夜その日の仕事が全部終わった後、古典研究に専念するようになった。
しかしたちまち叔父は彼がそのように勉学にいそしんでいるのを発見し、激しく彼を叱りつけた。なぜなら、それは叔父にとって何の得にもならない上に、少年自身にとっても何の実用にもならないことであり、そのために貴重な油を浪費していたからである。
尊徳は叔父の怒りをもっともなことだと考えた。そして自分の油を灯すことのできるまでは勉強を続けることをあきらめることにした。
その次の春、彼は川の堤防の上の持ち主のないわずかな土地を開墾して、そこに菜種の種をまいた。そして彼の休日のすべてをこの彼自身の作物の栽培に捧げた。
一年の終わりに、彼はそこから大俵一俵の菜種の種子を得た。それは彼自身の手によって育てられたものであり、正直な労働の褒美として「自然」から直接彼に与えられたものだった。
彼はその種子を近所の製油所に持って行き、数ガロンの油と取り替えてもらった。そして彼は今度こそ叔父の倉から取り出さなくても自分の勉強を再開することができると思い、その喜びは言いようがないほどであった。
意気揚々と、彼は夜の勉学に立ち戻った。その時には、心のうちではその忍耐と勤勉とに対し、叔父からの褒め言葉を多少は期待していないではなかった。
しかしそれは間違っていた。叔父は、彼を養っているからには彼の時間もまた叔父のもので、家の者たち誰にも読書というような何の儲けにもならないことをさせて置くわけにはいかない、と言ったのである。
尊徳は再び、叔父の言うことはもっともだと考えた。そしてそれからはその命令に従い、一日の激しい畑仕事の済んだ後には、ムシロ織りやぞうり作りに精を出した。
その時以来彼の勉強は、叔父の家で使う乾草やたきぎを取りに毎日山に行かされる往復の道すがらになされることとなったのである。
だが、彼の休日は彼のものだった。そして彼はそれを娯楽のために浪費する人ではなかった。
菜種を育てた時の彼の試みは、一所懸命働くことの価値を彼に教えてくれた。それで彼はその試みを、もっと大きな規模で、もう一度やってみたいと願った。
彼は村の中に、近頃の洪水で沼地になってしまった場所を見つけた。そこには彼が休日を有益な目的のために用いることのできる素晴らしい機会があったのである。
彼は沼を干拓し、その底を平らにし、きちんとした小さな水田となるように整えた。
そしてそこへ少しばかりの苗を植えた。それは農民たちが捨てた余りの苗を拾ったものである。そして一夏の間、彼は用心深い世話をその上に注いだ。
秋にはその水田は一俵(二ブッシェル)の黄金の実りをもたらした。我々は孤児である少年のその時の喜びをありありと想像することができる。彼は人生で初めてそのつつましい努力に対する報賞として、生活の糧を与えられたのである。
そして彼がその秋に収穫したその穀物は、その波乱万丈の生涯を開始した資金源となったのである。
真の「自主独立の人」こそ、彼であった。
彼は、「自然」は正直な勤労の子に対して忠実だということを学んだ。そしてすべて彼の後年のさまざまな改革は、「自然」はその法則に従う者に豊かに報いるという、この単純な原理に基づいたのである。
数年後、彼は叔父の家を去った。そして長い間住む人のなかった父親の貧しい家へ帰って行った。彼が村で発見し改良を加えた、あの僅かの捨てられていた土地から、彼自らが収穫したほんの少しの穀物と共にである。
彼の忍耐と、信仰と勤勉をもってしては、何ものも混沌と荒廃とを秩序と肥沃とに変えようとする彼の試みの前に立ちはだかるものはなかった。
丘陵の傾斜地、河岸の空地、路傍、湿地、すべてが彼に富と財産とを加えた。そして多くの年を経ずして、彼は少なからぬ資産を所有する人となり、その模範的な節約と勤勉とのお陰で、近隣全体の尊敬するところとなった。
彼はすべてのことを自分自身のために克服した。そして彼は他の人々が自分たち自身のために、同じように(すべてのことを)克服することを助けるにやぶさかではなかった。
行灯の光で勉学に励む尊徳 小田原市二宮尊徳記念館
<三、彼の能力を試験する>
彼の名声は日々に増し加わり、その真価は小田原候の認めるところとなった。小田原候は彼の領主であり、そして当時徳川将軍の老中として幕府の中で並ぶ者のない勢いを揮っていた。
このような価値ある家来を片田舎に埋もれさせて置くべきではなかった。しかし、当時の階級差別が極めて強かった時代においては、一介の農民を社会的影響力のあるいかなる地位に登用することも、ただ次のような場合にのみ可能だったのである。すなわち彼が間違いなく並外れた能力を持っていて、社会の建前を崩すそのような抜擢に対して必ずかもしだされるであろう世俗的物議を沈黙させるに十分だということを示すことであった。
この目的のために選ばれた仕事は、確かに尊徳のような不屈の忍耐を有する者でなければ、誰しも失望せざるを得ないものだった。
すなわち、小田原侯の領地のうち、下野国に物井、横田、東沼の三つの村があったが、これらの村は数世代にわたる怠慢によって、恐ろしい荒廃に陥っていたのであった。
三つの村はかつて戸籍数四五〇を数え、年貢米一万俵(二万ブッシェル)を領主に納めていた。
しかし今では荒れ果てた「自然」が彼らの田畑に侵入し、<狸と狐とはその棲み処を人々と共にする>までになって、人口は以前の三分の一を数えるに過ぎず、貧困に陥った農民から取り立てることができるのは高々二千俵にすぎなかった。
そして貧困と共に道徳的退廃が進んだ。かつて繁栄した村々は今では博打打ちたちの巣窟となった。
その復興は何度か試みられたが、村民たち自身が泥棒や怠け者であることが明らかになっては、金銭も権威も何の効果もなかった。
より血気にはやる領主であれば、この全人口に断乎立ち退きを命じ、もっと道徳的な新しい労働力を輸入して、怠惰な住民によって荒れ果てたまま残されていた田畑を再生し始めていたかも知れない。
しかしこれらの村々は、役立たずとはいえ、ちょうど小田原侯の考えていた意図に役立ったのである。
すなわち、これらの村々をもとの裕福と繁栄へと回復させることのできた人は、国の中のすべての荒れ果てた村(それは非常に多くあったが)の回復を委ねられるであろう。そして彼以前のすべての人が失敗したところで成功した人は、それらの村の正当な指導者として人々の前に立たせられるであろう。そして特権階級からの不満を買う恐れなしに、相応な権威を着せられるであろう。
これがその時、尊徳が主君に引き受けることを説得された仕事であった。
この農夫は、自分が卑しい生まれであり、そのような非常に公的な性質の仕事にはまったく無能であることを理由に、その名誉を辞退した。-彼は一介の貧しい土を耕す者に過ぎない。彼が一生の間に成就しようと願っていたことは、彼自身の家を再興することだった。しかもそれは自分の才能によってではなく、先祖から受け継いだ財産によってであった。
三年の長い年月の間、藩侯はその家来に自分の要求を主張してやまなかった。が、その家来は自分自身の茅葺屋根の下で平和な家庭生活を営みたいという態度をかたくなに保ちつづけた。
しかしながら、彼の尊敬する主君の執拗さにこれ以上抵抗することができなくなった時、尊徳は復興すべき村々の状態を慎重に調査する許可を請うた。
彼はそこまでの百三十里の道のりを歩いて出かけて行き、数ヶ月間人々の間に留まり、家から家へ彼らを訪問し、注意深くその暮らし方を観察した。また土の質、荒地の範囲、排水、灌漑するためにできることなどについて綿密な研究を行なった。そして、その荒廃した地域の復興はどうすれば可能かについて、彼の完全な見積もりを作るため、あらゆる資料を収集した。
彼の小田原侯への報告は、はなはだ悲観的なものだった。しかし事態はまったく諦めてしまうべきものではなかった。
彼はその報告書において言った。「<愛の業>のみが、これらの貧しい人々に平安と豊かさを回復することができる」。
「金銭を与えるとか、あるいは税金を免除するとかは、彼らの困窮を助ける方法ではない。
実際のところ、彼らの救済の秘訣のひとつはまったく金銭的な援助を取りやめることにある。
そのような援助はただ貪欲と怠惰を生じさせ、人々の間に不和を引き起こす源である。
荒野はそれ自身の資源を以って開拓されなければならない。そして貧困はそれ自体で救済しなければならない。
我が主君はその疲弊した土地から合理的に期待できる収入でもって満足し、それ以上を期待してはいけない。
荒れ田一反(反とは約四分の一エーカー)から二俵の米を産出する時、一俵は人々の生計の糧とし、他の一俵は残っている荒野を開拓するための基金とすべきである。
このようにしてのみ、この我らが実り豊かな「日本」は神代の昔に耕作地として開かれたのである。
すべてはその時荒野だった。そして外からの何らの援助なしに、彼ら自身の努力により、その土地自体の資源でもって、今日我々が見るような田畑、果樹園、道路、そして町々を作ったのである。
愛、勤勉、自助努力、-これらの美徳の厳格な励行の中に、これらの村々の希望があるのである。そしてこの日から十年後、我々がまったき真心をもってこの事業に忍耐強く対処するならば、我々はそれらを元の繁栄に返すであろうことを、私はなんら疑わない」と。
大胆で道理にかなった、費用のかからない計画であることか!誰がこのような計画に同意しない者があるだろうか?
道徳の力を経済問題の諸改革に於ける主要な要素とするこのような農村復興計画は、これまでほとんど提案されたことはなかった。
それは「信仰」の経済における応用だった。
彼には清教徒的血が通っていた。あるいはむしろ、この人は西洋直輸入の「最大幸福哲学」に汚されていなかった純粋の日本人だった。
彼はまた、彼の言葉を信ずる人々を見出した。彼の良き主君はまずその最初の人だった。
百年内外のうちに、西洋の「文明」は如何に我々を変化せしめたことであろうか!
その提案は採用された。そして我らが農夫の道徳家は、十年間、これら村々の実質上の長官となることとなった。
だが、先祖代々の嗣業を復興しようとの仕事を半ばにして放棄してしまうことはとても悲しかった。
彼のような熱誠の人にとっては、どんな仕事に対しても全身全霊を捧げてのものでなければ罪と感ぜられた。そして今や彼は公の仕事を引き受けようとする以上、その個人的な利害はまったく無視されるべきであった。
「万家を救おうとする者は、自分の家を犠牲にすることによってのみ、それができる」と、彼は自身に向かって言った。
彼は妻に、自分たちの長年の願いを犠牲にすることの同意を得て、その決心をことごとく「先祖の墓前に語り」告げ、家をたたみ、そして<別の世界に赴く人のように>「彼の背後にあるすべての船を焼き払って」、生まれ故郷を去り、藩主と人々に大胆に保証した仕事へと入って行ったのである。
彼の荒野との戦い、そして人々の心の荒野との戦いについての詳細は、今のところ我々は関わらないでおくことにする。
術策と政略とは彼にはまったく無縁だった。
彼の簡単な信仰はこれだった。すなわち「一個の魂の誠は、天地を動かすのに十分強力である」。
彼は自身に対してはすべての悦楽を否定し、綿で織ったものの外は着ず、(彼が訪ねて行った)家々で決して食事をせず、一日わずか二時間しか眠らず、部下の誰よりも先に畑に行き、すべてが立ち去るまでそこに留まり、そうして彼自身がその貧しい村々に臨んだ、もっとも辛い運命に耐えた。
彼は、自分自身を裁くと同じ基準で部下を裁いた。すなわち動機が心からのものであるということである。
彼にとっては、最良の労働者は最も多くの仕事をする者ではなく、最も崇高な動機から働く者である。
ある男が、最も良く働く労働者としてとか、三人前の仕事をした人とか、最も感じの良い男としてとかなどで、彼に推薦された。
すべてそのような推薦に対して、農夫である我が長官は長いこと無関心だった。
しかし、同僚たちからこの感じの良い男に相当な褒賞を与えるように迫られた時、尊徳はその男を自分のもとに呼び寄せ、彼に目の前で他の役人の前でやったと同じやり方でその日一日の労働をやってみるように要求した。
その男はそうする力の無いことを認め、ただちに見回り役人の眼の前で三人前の労働をした際に彼の抱いていたよこしまな動機を白状した。
長官は彼自身の体験によって、一人の人間の能力の限度を知っていたので、そのようなどんな報告によっても欺かれることはなかったのである。
その男は罰せられ、その偽善にはしかるべき訓戒を与えられて畑に追い返された。
彼の労働者たちのうちもう一人は老人で、ほとんど一人前の仕事はできない者だった。
彼はいつも切り株のところで働いているのが見られた。-それは骨の折れる仕事で、あまり見栄えのある仕事の類ではなかった。
その場所で彼は、他人が休んでいる時でも、自分で選んだ分にさも満足そうに、いつも働いていた。
「切り株掘り」とあだなして人々は、ほんの少しの注意しか彼に払わなかった。
だが、長官の眼は彼の上にあった。
ある給料日のこと、我が長官のいつもの例のように、それぞれの労働者に対して仕事の実績と割り当てに応じて審判が下された時、最高の名誉と褒賞を受ける者として呼び出されたのはこの「切り株掘り」その人に他ならなかったのである。これは一同の大いなる驚きであり、当人が誰よりも驚いた。
彼は基本給の外に十五両(約75ドル)を得ることとなった。ひとりの労働者が一日二十銭を稼ぐに過ぎなかった時代に、これは莫大な金額だった。
「私は、旦那様」老人は叫んだ。「一人前の賃金にも当たらない年寄りでございます。私の仕上げた仕事は、はるかに他の人たちに劣っております。
旦那様は勘違いをしておいでになるに違いありません。
心苦しくてこの金はいただくわけにはまいりません」。
「いや、そうではない」と長官はおごそかに述べた。
「お前は他の誰もが働きたくないところで働いた。
お前は人にどう見られようと構わず、ただ我らの村々にほんとうに役に立つということだけを目的とした。
お前が除いた切り株が邪魔物を片付け、それによって我々の仕事は大いに捗ったのだ。
もしお前のような者を賞さなければ、ほかのどんなやり方で私は依然として私の前にある仕事を成し遂げて行けるだろうか。
褒美はお前の正直を賞するための天からの下し物である。
感謝をもって受け、老いの身に慰めを加えるために用いよ。
お前のような正直を認めるにまさって私を喜ばせるものはない。」
老人は子供のように泣いて、「彼の袖は涙に濡れてほとんど絞らなければならないほどだった」。
全ての村々は感動に湧き上がった。
神の如き者が彼らの間に現れたのである。隠れたところでなされた徳のある業を表立って報いて下さる方が現れたのである。
反対は多くあった。しかし彼は「愛の業」によってこれらを取り除いた。
ある時には、小田原藩侯が彼の同僚として派遣した一人の人を、彼とそのやり方に和解させるために、三年の忍耐と辛抱を必要とした。
(つづく)