良い本を電子化して残そう

管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約を紹介しています。

高山彦九郎について

2013年07月24日 04時53分39秒 | 高山彦九郎

「我を我と、しろしめすかや皇(すべろぎ)の玉の御声のかかるうれしさ」
 この歌は高山彦九郎が御所への参内を許され、光格天皇からじきじきに声をかけられた時の感激を歌ったものです。彼の尊王論はその死後、幕末の志士である長州の吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、久留米の真木和泉、薩摩の西郷隆盛など多くの人たちに大きな影響を与えました。
たとえば、彦九郎の辞世の句
「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」
 吉田松陰の辞世の句
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
 呼応しており、松陰が彦九郎に心酔していたことをはっきりと物語っています。
さらに補足ですが、吉田松陰の号の由来はこれまで「出典不明」とされ、松陰の出生地松本村にちなんでいるとの説が示されてきましたが、彦九郎の諡(おくりな=死後の尊称)の「松陰以白居士」との関連が指摘できます。
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 しかしながら、維新の志士たちに先がけること70数年、未だ武士の多くが藩という枠の中でしか行動できず、藩侯のために生き死にすることが最高の道徳規範であった時代に、なにゆえ彦九郎は日本を思い、さらに大いなるもののために生きようとすることができたのでしょうか。
 彼は少年時代からたくさんの本を読んでいました。13歳の時、「太平記」に出会い、南朝の悲話に悲憤慷慨したと伝えられています。自分の先祖が南朝方の新田氏とつながっており、彼の生まれた日が新田義貞挙兵の日であったこと、新田の地に育ったことなどから、彼は尊王思想を持つようになったと考えられています。[1]
 また彼が諸国を遍歴して綴った日記の中で、「偉大な人物の誕生は、その人の生まれ育った土地の歴史や風土に大きく関係する。(人傑の出づるは地霊による)」と書いています。彼はあとに述べるように、そうしてその土地、その土地で、多くの傑出した人物に会って語らいました。
 成人して18歳になった時、置手紙を残して彼は京に上り、学者になることを志しました。幅広い交友を求めて、あらゆる階層の、公家や武士、学者や町人たちと語り合いました。そうして各地を巡り歩くうちに、浅間山の大噴火による天明の飢饉や打ちこわしで世の中が疲弊し、人が人の肉を食らうほどの凄惨な状況をつぶさに見聞きするに及びました。
 そして、徳川幕府の各藩が閉鎖的で互いに助け合うことをしないために、その被害がますます大きくなっている現実を見ました。
 普通の人はこれらのことを表面的に地上の出来事としてしか見ないでしょう。しかし彦九郎は、これは日本が国の真の在り方を失っているからだと感じ、日本をほんとうの国柄に帰したいと願ったのです。
 そして日本が天皇を中心とした一つの国になることを願い、王政復古の必要性を大胆に説いて全国を行脚したのでした。
 実に明治維新の原動力は高山彦九朗にあったのではないかと思われます。
 しかし、戦後の民主主義教育は、高山彦九郎は戦争に利用されたということで楠正成などと共に、歴史教育から消し去られてしまいました。
 幕府の追及が激しく、彼は同志に迷惑がかかることを恐れて、1793年、彼は47歳で御所をはるかに拝しながら切腹して果てました。
「萩に来て ふとおもへらく 今の世を 救はんと立つ 松陰は誰」・・・・(吉井勇)
 さて、これで高山彦九郎についての紹介は終わったのですが、このブログを閉じるにあたり、最後に私信を述べさせていただきます。一昨年の3月11日、日本列島は未曽有の大地震と大津波に襲われ、さらに福島原子力発電所の放射能漏れなどが継続して、目に見えるところにおいても、その復興はあきらかに停滞しています。しかも、その後の国内政治の混乱、世情の混乱、ひいては世界情勢の混乱、例えば北朝鮮や中国の横暴、中東やアフリカにおける内乱や不穏な情勢、アメリカにおける銃乱射事件などなど、世紀末とも思える事象を上げればきりがない昨今です。これらは小さいことも大きいこともすべて、人間の心が本来あるべき姿を失ってしまったから起こって来ていると言えないでしょうか?もともと人間は逆境に反応して自分自身を変化させて生き抜いて来た動物です。ところが現代は、人間中心の考え方がはびこり、西欧文明は物質に対する人間のあくなき欲求を美化して来ました。しかし、その結果いよいよありとあらゆる争いが起きています。日本も敗戦後その西欧思想に倣って来たために、本来持っていた日本人の個性が失なわれてしまいました。すなわち、足るを知る心であり、惻隠の情であり、大いなるものに命を捨てる心です。世界の中で日本だけが、一つの国として万世一系の天皇を奉じて今日まで存続して来ました。ここに、日本人が世界に果たすべき貢献は、経済や科学技術の面においてではなく、その精神性においてではないかと私は強く思う次第です。ちょうどユダヤの片田舎から出たイエス・キリストがたった3年の布教活動で、当時のローマ帝国、また現代においては、イスラム教、仏教世界を含めればほとんど全世界に影響を及ぼしているように、内面的な精神性において日本人が培ってきたものを世界に向かって宣伝して行かなければならないと思います。(これを単に右翼的意見と片付けてしまう人もいるかもしれませんが)
 「良い本を電子化して残そう」というタイトルでこのブログを綴って来ましたが、人類の歴史の中で、ほんの少数ではありますが、ある一つの信念に殉じ、しかもそれが天地大宇宙から支持されているかのように、大いなる奇跡が伴い時代が大きく変革されて来ました。この事実を知り、そして未来のために何をなすべきかを悟って、私たちもまたそれぞれ置かれているところで、その使命に殉じて行く者でありたいと願います。
                                                                   2013年7月24日(水)



[1]新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。

鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立。尊氏が建武政権に反旗を翻すと後醍醐天皇の尖兵としてこれに対抗、各地で転戦するが、箱根や湊川での合戦で敗北、後醍醐天皇の息子の恒良親王尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した