内村鑑三の肖像画/石河光哉画伯
『NPO法人今井館教友会転載承認済』
<はじめに>
内村鑑三講演「後世への最大遺物」は明治二十七年七月に神奈川県箱根駅近くで開かれたキリスト教徒第六夏期学校において、そこに集まって来た学生たちに向けて語られたものです。その主張は今でも、人生をいかにして歩もうかと模索している青年たちにとって、大きな示唆に富んだものだと私は考えます。
原文は残念ながら文語体の講演口調のため、繰り返しの多い冗長な文章となっています。
もし内村先生が二十一世紀の現代に生きておられたら、若者たちに向かってどう語られただろうか、カーライルの言うように、霊感は日ごとに新しくされ、新しい言葉でもって書き直されなければならないのかも知れませんが、内村先生に示されたこの霊感を語り継ぐ人が現代にはいるでしょうか。
物質主義、金銭至上主義のはびこる世にあって、真に生きるとはどういうことか、僭越とは思いますが、私は内村先生の叫びを現代に伝えたいと願い、敢えてこのような形で先生の講演を要約させていただきました。
読者がこれを機会に、先生の講演の一端を知り、先生の志すところ、思いを受け止めて下さり、それぞれの人生において活かされることを願っています。
当然のことながら、この要約文のすべての責任は私にあることをここに明記しておきます。
最後に内村先生ご自身の改正版への序に、この書自体が「後世への最大遺物」となったことを記しておられますことは、まことに私の意を得たものと実感しています。
二○○八年十一月二十二日(土) 大山国男
<(内村先生の)改正版への序>
この講演は、日清戦争のあった年、すなわち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年だったときに、海老名弾正先生司会のもと、箱根山上、芦ノ湖湖畔おいて行ったものです。その年は私の娘ルツ子が生まれた年です。その娘はすでに世を去り、またこの講演を本の形にして世に出した親友中村弥左衛門氏もついこのごろ世を去りました。その他この本が発表されて以来の世の変化は非常です。
多くの人がこの書を読んで志を立てて成功したと聞きます。その内に私と同じようにキリスト信者になった者も少なくないとのことです。そして彼らの内のある者はすでにキリスト教を「卒業」して今は背教者となっている者、またはキリスト教の文筆家となって、その攻撃の鉾先を私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。そして私は幸いにして今日まで生きながらえて、この書に書いてあることに多く相違せずに自分の生涯を送って来たことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物」の一つとなったことを感謝します。まさに頼山陽の詩のごとく「天地無始終(てんちしじゅうなく)、人生有生死(じんせいせいしあり)」です。しかしいつかは死ぬべき人生において永遠の生命を発見する道があります。天地は滅びてもなお滅びないものを得る道があります。それを少しでも握ることができれば、それは成功であり、また私にとりましては大なる満足であります。
私は今よりさらに三十年生きようとは思いません。しかし過去三十年間生き残ったこの書は今よりなお三十年、あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。
私はこの小著をその最初の出版者である故中村弥左衛門氏に捧げます。彼の霊の天にあって安からんことを祈ります。
大正十四年(一九二五年)二月二十四日
<後世への最大遺物>
この夏期学校に来るついでに、私は東京に立ち寄りました。その時父が頼山陽の古い詩を持ち出して来ました。これは私が彼からもらって初めて読んだ山陽の詩です。冒頭に幼い時に私の心を励ましてくれた一篇の詩があります。
「十有三春秋 逝者巳如水 天地無始終 人生有生死 安得類古人 千載列青史」
(じゅうゆうさんしゅんじゅう ゆくものはみずのごとし てんちしじゅうなく じんせいせいしあり いずくんぞこじんにるいして せんざいせいしにれっするをえん)
という、彼が十三歳の時に作った有名な詩です。
私は子供の時から体が弱く、社会に打って出ようという志もなく、また特別なつてがあったわけでもありませんが、この詩のように「千載青史に列する(歴史に名を残す)人間になりたい」という願いを抱いていました。
ところが、ある時キリスト教に触れて、この願いがだいぶ薄れてしまい、世の中を厭う気持ちが起こって来て、このような願いは、肉欲から来る、不信者の異邦人的な考えで、キリスト教徒たる者は、持ってはならないと思うようになりました。
確かに後々まで自分の名前をこの世の中に遺して、後世の人々に褒めてもらいたいなどというのは、ちょうど昔エジプトの王様が自分の名前が後の世に伝わるようにと願って、たくさんの奴隷を酷使して壮大なピラミッドを造成したり、日本では糸平という人が「自分のために特大の墓を建てよ、そしてその墓には『天下の糸平』と有名な人に書いてもらえ」と遺言して、その結果立派な花崗岩で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っていたりしますが、これは決してキリスト教的な考えではないと思います。
しかし、私は「千載青史に列するを得ん」という考えはそんなに悪い考えではなく、むしろキリスト者が持つべき考えではないかと思うのです。
私にとってこの地上の人生は天に行く階段であって、ちょうど大学に入る前の予備校のようなものです。もし私たちの人生がわずか五十年で全てが消えてしまうと言うのなら、それは実にはかないものです。私は永遠の世界に私という人間を準備するためにこの世に中に生まれて来て、そこで流す涙も喜びも、すべての喜怒哀楽というものは、私の霊魂を徐々に作り上げ、ついに不滅の人間になって、もっと清い生涯を送るためにあるのだと確信しています。
ただ、私がこの世の中を生き抜いて安らかに天国に行き、予備校を卒業して天国である、大学に入ってしまったならば、それで十分かと自分の心に問うてみると、その時、私の心に聖なる願いが起こって来ます。
私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、我々を育ててくれた山や川、この楽しい社会、それらに私が何も遺さずには死んでしまいたくないとの願いです。
私はこの地上に何かを遺して逝きたい。それによって後世の人に私を褒めたてて欲しいとか、名誉を遺したいというのでなく、ただ私がどれほどこの地球を愛し、どれほどこの世界を愛し、どれほど私の同胞を思っていたかという記念のものをこの世に置いて逝きたいのです。すなわち英語で言うMementoを遺したいのです。
私はアメリカの大学を卒業した時、同志と共に卒業式の当日、一本の樹を校内に植えて来ました。これは私を四年間育ててくれた学校に、私の感謝のしるしを遺して置きたかったからです。中には同級生で、金のあった人は、音楽堂や図書館、あるいは運動場を寄贈した者もありました。
お互い地上に生まれて来た以上は、この世の中にある間に少しなりともこの世の中を良くして行きたいと、私は思うのです。
有名な天文学者のハーシェルが二十歳くらいの時に、友人に語って言いました。「我が愛する友よ、我々が死ぬ時には、我々が生まれた時より、世の中を少しなりとも良くして行こうではないか」と。実に美しい青年の願いではありませんか。ハーシェルの伝記を読むと、彼はこの世の中を非常に良くして行った人です。今まで知られなかった南半球の星を、植民地だったアフリカの喜望峰に行って描いて、すっかり天体図に載せました。それによって、今日の天文学者はどれだけ助けられたか、キリスト教伝播に直接、間接どれだけの助けになったか計り知れません。
それで次に、何を我々が愛するこの地球に遺して去ろうかと言う問題です。
その中でまず第一番に大切なものは「金」です。死ぬ時に遺産金として、自分の子供にばかりでなく、それを社会に遺して逝くということです。
こういうことをキリスト信者に言いますと、金を残すなどというのは、実に賤しい考えだと反対します。
私が明治十六年に初めて今の札幌農大を卒業して東京に出て来ました頃、東京ではキリスト教のリバイバルが起こっていました。私は実業教育を受けましたので、もちろんその頃は、億万の富を日本に残して、日本を救いたいという考えを持っていました。
ところがそのことをあるリバイバルに熱心な牧師先生に話したところ、さんざんに叱られました。「金を遺したい?何と意気地のない!そんなものはどうにでもなるから、君は福音のために働き給え。」と言って戒められました。しかし私はその決心を変えませんでした。今でもそうです。金を遺すことを賤しめるような人はやはり金のことに卑しい人です。けちな人です。
金の必要性はみなさんも十分に認めておいでなるでしょう。「金は宇宙に満ち満ちているものだから、いつでもできる」と言った人に向かって、フランクリンは「それなら今あつらえて見給え」と言ったそうです。なるほど金と言うものはいつでも得られると思いますけれども、実際金の要る時になってから、それを得るのは非常に難しいものです。ほんとうに神の助けを受けた人でなければその富を一箇所に集めることはできないということです。
たとえば秋になると雁が空を飛んで来ます。それは誰が捕ってもよろしい。しかしその雁を捕まえるのは難しいことです。人間の手に雁が十羽なり、二十羽なり集っているならば、それに価値があります。すなわち、手の内の一羽のスズメは木の上にいる二羽のスズメよりも価値がある、と言うのはこのことです。
そこで後世の人がこれを用いることができるように金を貯めて逝こうとする願いがみなさんの中にあるならば、私は心からそのことをその人に勧めたいと思います。
どうか、キリスト信者の中にもどんどん金持ちの実業家が起こってもらいたい。そして我々の後ろ盾になって、我々の心を十分に理解して、金銭的にも我々を支えていただきたい。
我々の今日の実際問題は、社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうと、とどのつまりはやはり金銭問題です。
フィラデルフィアのジラードというフランスの商人が、アメリカに移住して建てた有名な孤児院があります。これは世界一の孤児院です。小学生くらいの子供たちがおよそ七百人ばかりいます。中学、大学くらいまでの孤児を加えますならば、多分千人以上でしょう。彼の伝記を読みますと、細君は早く死んでしまって、彼は「妻はなし、子供はなし、私には何の生きる目的もない、けれども世界一の孤児院を建てたい」と言って、ただそのひとつの目的を持って、金を貯めたのです。一生涯かかって貯めた金は、おおよそ二百万ドルばかりでした。それを持ってペンシルバニア州の人気のないところに地所を買った。死ぬ時に「この金で二つの孤児院を建てよ、一つは俺を育ててくれたところのニューオルリンズに、一つは俺の住んだところのフィラデルフィアに建てよ」と言いました。
その孤児院は寄付金が足りないために、事業が差し支えるような孤児院ではありません。ジラードが生涯かかって貯めた金をことごとく投じて建てたもので、それが今日のペンシルバニア州において大量の石炭と鉄を産出する山になっています。その富は何千万ドルするか分かりません。ですから今はどれだけ事業を拡張しても良い、ただ、拡張する人がいないだけです。
また有名な慈善家ピーポディーはどうやって彼の大いなる事業を成し遂げたかと申しますと、彼が初めて故郷のベルモントの山から一文無しで出て来た時には、ボストンに出て大金持ちになろうという大願を持っていました。それで旅館の主人に「私はボストンまで行かなければならない。しかし日が暮れてしまうので今夜泊めてもらえないか」と聞いたら、その主人が可愛そうだから泊めてやろうと言って喜んで引き受けてくれた。けれども、その時に彼は主人に「ただで泊まるのは嫌だ、何かさせてくれるならば泊まりたい」と言って、家を見渡したところ裏に薪がたくさん積んであった。それで「御厄介になる代わりに、裏の薪を割らして下さい」と言って、主人の承諾を得て、昼過ぎから夜までかかって、薪を挽き、これを割り、だいたいこのくらいで宿賃に足ると思うくらいまで働いて、その後に泊まったそうです。このピーポディーは一生を何のために費やしたかと言うと、何百万ドルと言う金を貯めて、ことに黒人の教育のために使った。
今日アメリカの黒人がそれなりに社会的地位を獲得しておりますのも、それはピーポディーのような慈善家のお蔭だと言わなければなりません。私はアメリカ人は、金にはたいへん弱い、金権主義にだいぶ侵食された民族だと言うことも知っています。けれども、アメリカ人の中に金持ちがありまして、彼らが聖き目的を持って金を貯め、それを聖きことのために用いて来たことによって、今日のアメリカの隆盛をなしたと言うことだけは、私も分かって日本に帰って来ました。
それでもし我々の中にも、こういう目的を持って金を貯める実業家が出て来ませんと、いくら起こっても国家の利益になりません。キリスト教信者が立ち上がって、自分のために儲けるのではなく、神の正しい道によって金を儲け、その富を国家のために使う実業家が今日起こることは、神学生の起こるよりも、私の望むところです。
彼の紀伊国屋文左衛門のように、百万両貯めて百万両使って見ようなどという卑しい考えを持たないで、百万両貯めて、百万両を神のために使って見ようというような実業家が出て欲しいのです。その百万両を国のために、社会のために、遺して逝こうという願望は、実に聖なる願望だと思います。
また、もしみなさんの中にそういう願望がありますならば、教育に従事する人たちは、「あなたの事業は卑しい事業だ」などと言って、その人を失望させないようにしてもらいたい。またそういう願いを持った人は、神がその人に命じたところの考えだと思って十分に自らそのことに励まれることを望みます。
しかしながら、誰もが金を貯める能力を持っていない。これはやはり一つのGenius(天才)ではないかと私は思います。私は残念ながらこの天才を持っていません。
私の今まで教えました生徒の中に、非常にこの才能を持っている者がいました。その人は北海道に一文無しで追い払われましたが、今は私に十倍する富を持っています。それで彼に「今に俺が貧乏になったら、君は俺を助けよ」と言っておきました。実に金儲けというものは、やはりほかの職業と同じように、ある人たちの天職です。誰でも金を儲けることができるかということについては、私は疑問です。
(つづく)