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<「水俣病」が私たちに投げかけている終わりなき問い>
W:水俣病の患者さんたちは病気を負うことで大変な苦しみや悲しみや嘆きというものを生き抜かなければならなかった。そこから大変深い思想や哲学が生まれて来ています。石牟礼さんも彼らから深い影響を受けたと仰っています。
I:水俣病の患者の一人である漁師のOさんを御紹介します。
水俣で代々漁業を営むOさん、両親と兄弟8人が水俣病に侵され、自らも長年手足のしびれや頭痛に苦しめられています。水俣病を広く伝える活動を続けて来ました。
I:あのご家族で8人も水俣病に罹ってしまわれたそうですね。
O:私の兄弟家族を含めてですけど、一番衝撃を受けたのは私が6歳の時に、父親が発病して2か月足らずで亡くなってしまいました。私は今62歳で、これは水俣病60年ということとも重なり合うので、非常に小さい時にどでかい課題を与えられたなという気持ちでいます。
S:今も漁に出られるんですか
O:そうですね。ほぼ毎日漁に出ています。水俣病が起きた不知火海で今も漁をしているわけですけど、私たちはどこかで海に養われてきた恩義があるものですから・・・
S:それがとても外の人間にはわからない部分でね。大本をたどればそれは「チッソ」から、都会のしわ寄せから来たんですけど、海から毒も来たわけじゃないですか。それでも自分たちは海と暮らすという・・・
O:多くの水俣病の被害者や患者からは、海や魚を怨む言葉はほとんど出て来ません。海があったればこそ自分たちが支えられて来たということを肌身で感じてきたからだと思いますね。もう一つは何千年、何万年と食べてきた魚に毒が入っているなんて簡単には信じられないんですよね。食というものは生き物の生命の記憶として長い間続けれられて来たものですから。だから「魚を食べるな」というのは、「鳥に空を飛ぶな」というのと同じなんですよね。空気みたいなもんで、我々はそれを吸わないと生きていけないんですけれども、・・・
S:生命の記憶ごと汚されたということなんですよね。
I:ではOさんがこれまで歩んでこられた道を見てみましょう。
水俣病の認定を求めて行政を提訴したOさん、400人の患者団体の先頭に立って闘って来ました。
・・・しかし、気が付けば「チッソ」や行政との戦いはお金の問題になっていました。「苦界浄土」にも次のような場面が描かれています。
水俣病患者互助会59世帯には、死者に対する弔慰金32万円、患者成人年間10万円、未成年者には3万円を発病時にさかのぼって支払い、過去の水俣工場の排水が、水俣病に関係があったことがわかっても、一切の追加補償は要求しないという契約を取り交わした。
「大人の命10万円、子供の命3万円、死者の命は30万」・・・と、私はそれから念仏にかえて唱え続ける。命さえもお金に換算される現実、多くの患者たちは疲弊して行きました。
Oさんは31歳の時、患者団体を抜けて、たった一人で戦う道を選びました。認定申請も取り下げるという厳しい覚悟で臨んだ道です。そして時代と逆行するようにプラスチックではなく、木の舟を作りその船で「チッソ」本社前に通い、半年にわたって一人で座り込みを続けたのです。
Oさんは次のような境地に達します。
<私は「チッソ」というのはもう一人の自分ではなかったか?と思っています。>
O:それまでは外側にいる敵として「チッソ」を見ていたわけですけれども、もし自分が「チッソ」の工場の中で働く労働者や重役の一人だったらどうしただろうかという問いを初めて持ったわけです。それまでは被害者患者家族という視点から責任を問うていたんですけれども、どこかでそれがお金に換算されていく、補償金とかね。そのことに非常に絶望感を感じて命さえも値付けされていくということに居たたまれなかったんですね。
S:ぼくはこの歳になってやっと文明を追い求める自分も加害者側なんだということが少しだけわかって来たような気がするんですね。それを当事者が分かるってどういうことですかね。当事者はどんなに恨んだっていいじゃないですか。
O:それはたぶんそこで私の視点が変わったんですよ。ほかの生き物たちから見たらどう見えるだろうか。亡くなった死者たちから見たらどう見えるだろうか?例えば、お金は亡くなった人たちには直接通用しないんですよね。それからほかの生き物、魚や猫に、これでなかったことにしてくれというわけにはいかないんですよね。人間の社会だけでかろうじて通じている価値観だけで、なかったことに、終わったことに、忘れてくれなんて言う話になっちゃっているんです。人間の一人として、私も問われているんではないか。ということが起きちゃったんですね。
I:じゃあ一人で闘おう。認定の申請も取り下げる。・・・今のお話って石牟礼さんが「人間が担って行かなくてはいけないんだ」という、その価値観とも通じるものなんでしょうか。
W:そうですね。やっぱりOさんも人間からの視点からだけじゃないという点がぼくはとても心打たれるんですね。石牟礼さんも強くおっしゃっていますけれども、とにかく人間が見て、いいんだ悪いんだ、という人間にとって得だ、損だというような倫理観、人間中心の倫理観、世界観だけでは、この水俣病というのはどうしても解決がつかないんだということなんじゃないでしょうか。
S:海を中心にして「生態系の輪」の中で生きて来た生き物の原体験の中にあって、「チッソ」もその輪の中に入れたうえで考えていかなければ何もわからないんだということになる。
それから木の舟で半年間「チッソ」の前で座り込みをされましたね。何故ですか?
O:正確に言うと、座り込みではなく、その日一日を「チッソ」の正門前で暮らすという、私にとっては「チッソ」の前は表現の場としてとらえたんですね。笑いたい人はどうぞ笑ってください。石投げたい人はどうぞ勝手にやって下さい。受け取り方はそれぞれで、私はただ自分の武装解除した姿を晒しただけなんです。
S:具体的には何をしていたんですか?
O:七輪で魚焼いて、焼酎飲んだりお茶飲んだり、草鞋を編んだり、・・・そのために作った木の舟だったんですよ。それこそプラスチックの舟で行くと早いんだけども、なんとなく癪に障るんですよね。ですから大工さんにわざわざ木の舟を作ってもらって、
S:その活動を見て「チッソ」の人たちはどういう反応を見せましたか?・・・
O:びっくりしてました。「一人で来られると困る」って言うんですよ。集団で来ると強制排除したり警察を呼んだりできるので、世間もある程度わかってくれるけれども、一人で来て、しかも営業妨害をしているわけではないので、排除しにくい・・・
I:そこで七輪で魚焼いててね。
O:一番最初に来たお客さんは猫だったです。魚の匂いで・・・
I:猫も、もしかしてチッソの前で表現してたかも・・・
O:小一時間、一緒に食べた後座っていた・・・義理を果たした・・・
S:猫も我々も魚を食べて生きているわけです。これこそ、悲しく楽しく深刻で、全部混ざったものじゃないですか。・・・
そんな中で石牟礼さんはどういう反応をなさいましたか?
O:一番早く分かってくれたですね。
I:理解を示された・・・
O:理解というか、共感というか。むしろ喜んでくれたんじゃないかと思います。「常世の舟(とこよのふね)」という名前を道子さんに書いてもらって、それを大工さんに掘ってもらったんですね。
I:Oさんから見て石牟礼さんはどんな方ですか?
O:あの方は深いまなざしを持っています。私は<古層の現れ>というふうに思っています。古い時代がこの現代社会に立ち現れて、働きかけている姿を見ます。
そして不知火海沿岸の人たちの中でさほど、貨幣経済に染まっていない人たちが被害者になってしまったんです。ですからどちらかというと、感じる世界で暮らしてきた。それを文学として表現したのが道子さんだったと思います。
I:ではもうひとかた石牟礼さんが大きな影響を受けた患者さんを御紹介しましょう。
水俣病で両親を亡くし、自らも患者として 抱えながら漁業を続けてきた杉本英子さん。親しかった石牟礼さんに杉本英子さんはこう語ったと言います。
石牟礼道子:私たちはもう許すことにした。全部許す。日本という国も許す。「チッソ」という会社も許す。いろいろ差別した人も許す。許さんばきつうしてたまらん。みんなの代わりに私たちは病んでいる。それで許す。英子さんはそう仰っていました。
それで私たちは許されているんですよ。代わりに病んでいる人たちから許されて生きている。罪なことですね。
やがて英子さんは耐え難い苦しみを与えた水俣病を「のさり」;海の恵みだと表現するようになります。病を得たからこそ、見いだせたものがあると、亡くなるまで語り部としても活動を続けました。
S:これまたすごい話だなあ・・・許す・・・
I:水俣病の患者さんからこういう言葉が出てくるんですね。
O:杉本英子さんが言う「のさり」というのは、天から授かるという意味合いなんです。熊本弁でたとえば子宝に恵まれるのを「のさる」と言います。危ういところを助かって命が「のさった」とかですね。大漁だった後で・・・「のさった」と。さらにその逆にも使います。苦しいことがあった時、悲しいことがあった時も本人に言い聞かせるように、「これもまたのさりぞ」と。杉本英子さんが使っているのは「苦もまたのさり」すべてのことを身に引き受けるという意味ですね。
S:もちろん、今もそうは片づけられない被害者の方がたくさんいると思うんですが、時間をかけて一部の人たちだけでもこう言ってくれていることで、・・・これを言われちゃうと我々に借りはないなんて思えないんですよ。俺らは許された側じゃないかということになりますよね。そうするとやっぱり恥ずかしさというか・・・。
W:ぼくなんかやっぱり、彼らが今も苦しんで生きてくれている。その生涯から意味深いものを掬い取るのは後世の者の務めだと思うんです。そして石牟礼さんはそれを50年前に見つけて、「苦界浄土」の中にギュッと結晶させた。・・・
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<ゆき女聞き書きより>
5月、患者の雪はこんな望みを語るのです。海の景色も丘の上と同じに夏も冬も秋も春もあっとばい。うちはきっと海の底には竜宮があると思うとる。夢んごと美しかもね。海に飽くってこたあ決してなかりよった。
磯の香りの中でも、春の色濃くなった「あをさ」が岩の上で潮の引いた後の陽に焙られるにおいはほんに懐かしか。
自分の体に日本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと身体を支えて、ふんばって立って、自分の体に二本の腕のついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、「あをさ」を採りにいこうごたるばい。
うちは泣こうごたる。もういっぺん行こうごたる、海に。
S:この望みは都会の言うところの贅沢でもないし、ささやかなことじゃないですか。これがでも一番の望みなわけですよね。
I:海に春があるっていうことでしたけど。不知火海の春の海ってどういう感じなんですか。
O:陸上より海の底のほうが春は先に来ると私は思っています。その一番典型的なのが若芽ですね。年が明けるころからもう芽が出始めて、正月のころには芽がちょっと出ているんですよね。
S:新芽がもう出ているんですか?
O:だから若い芽と書いて若芽というんです。それがだんだん成長して若芽もヒジキも成長して行くわけです。
I:ゆきの最期の望みも春の海に行きたい、自分の腕で櫓を漕いで「あをさ」採りに行きたいということでしたね。
O:その気持ちはよく分かりますね。海の春っていうのは、いのちの賑わいの中に、人が参加できるわけですよね。・・・
W:石牟礼さんにお会いした時に、「どういう気持ちで「苦海浄土」をお書きになっていましたか」という質問をしたことがあります。その時、「大変苦しかったです」と仰ると思っていたんですが、彼女はそのために身体を壊していくんですけれども、彼女が言ったのは「荘厳されているような気持でした」と仰いました。「荘厳」というのは仏教用語でもともとは深いところから仏様の光に照らされていくといったような意味なんですね。彼女がおそらくその時に語ってくれたのは、患者さんたちの深い祈りに包まれているような心地がした、たくさんの苦しみ、たくさんの悲しみをあじわったけれどもその先にある何か、祈りとしか言いようのないものに支えられて、自分は一文字一文字書いてきた、と仰っていました。
I:最初のイメージとはだいぶ違って深く、この「苦界浄土」を深く読み解いてきました。
S:なんだかわからないけど、ぼく最初の一文で声が詰まったんですけど。そういう意味で本を読んで理解するんじゃなくて感じたいなと思いました。本音を言いますとどの作品よりもエネルギーがいりましたね。
完
以下は私の感想・・・
水俣病などの公害問題は文明の進歩とともに、起こって来たし、今も日本だけに限らず世界中に起こりつつある。
特に私は現象としての自然界や肉体を蝕む公害はもちろんだが、人間の精神を蝕む「公害」が蔓延しているのではないだろうかと危惧する。
過去においては、テレビの普及によって「一億総白痴化」ということが言われたが、昨今はインターネットとスマートフォンの普及によって、個々の人間の精神が矮小化しつつあるのではないだろうか。目の前の人と人との関係が希薄となり、ヴァーチャルな自分だけの世界で個々人が生き始めている。しかもその個々人が個性豊かに成長して行くというならまだしも、没個性的な大衆迎合主義に冒されてしまいやすい。ビッグデータを解析し、自ら進化し続けるいわゆるAI(人工知能)に人間が支配される時代が始まっているようにも思える。
いま私たちに必要なのは立ち止まる勇気だ。そして人間を含むすべての生物は進化の過程で物質(塵)から創造されたものに過ぎないという存在の原点に立ち返るべきである。
目を上げてこれらのものを視よ!誰がこれらを創造したか? 聖書の詩編
あらゆる真実を希求する宗教はそこに辿り着く。