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デンマークという国の話/後世への最大遺物

2011年02月27日 04時00分11秒 | 後世への最大遺物
デンマークという国の話

信仰と、樹木を植えることで国の危機を救った人々。
内村鑑三

荒野と渇いた地とは楽しみ、
砂漠は喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う、
これにレバノンの栄えが与えられ、
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。
彼らは主の栄光を見、我々の神の麗しさを見る。
(イザヤ書35章1~2節)

 今日は少しこの世界の現実にあった出来事についてお話したいと思います。
 デンマークはヨーロッパの北部にある一つの小さな国です。その面積は日本の十分の一で、北海道の約半分に当たり、九州の一つの島にも当たらない国です。そしてその人口はたったの250万人で、日本の約二十分の一に過ぎません。実に取るに足らないような小さな国です。が、この国についてたくさんの面白い話があります。
 例えば、単に経済的な面で観察しましても、この小さな国は決して侮ることのできない国であることが分かります。申し上げましたように、この国の面積と人口は日本には到底及びませんが、その富の量においてははるかに日本以上なのです。
 具体的な例をあげますと、日本の二十分の一に過ぎない人口のデンマークは、実に日本の二分の一の外国貿易を行なっています。すなわちデンマーク人一人当たりの外国貿易高は、日本人一人の十倍にも相当するのです。これを見ただけでも、いかにその富が多いかがおわかりになるかと思います。
 ある人が言うには、デンマークの人々はたぶん世界中でもっとも富んでいる民族であろうとのことです。つまりデンマーク人一人が持っている富は、ドイツ人または英国人、またはアメリカ人が持っている富よりも多いのです。実に驚くべきことではないでしょうか?
 ではデンマークの人々は、どうやってこれらの富を得たかと言いますと、それは彼らが国外に多くの領地を持っているからと言うのではありません。
 無論、彼らは広いグリーンランドを持っています。しかし北氷洋の氷の中にあるこの領土に経済的価値がほとんどないことは誰もが知るところです。
 彼らはまたその面積においてはデンマーク本土の二倍に相当するアイスランドを持っています。しかしその名のごとくそれは肥沃な土地ではありません。
 ほかにはわずかに羊毛を産出するフェロー諸島があり、また、やや豊かな西インド洋のサンクロア、サントーマス、サンユーアン島があります。
 これらは確かにデンマークの富の源ですが、経済的には収支が合わないために、かつてはこれらをアメリカ合衆国に売却しようとの計画もあったほどです。
 ですからデンマークの富の源と言いましても、別に本国の外にあるわけではありません。
 ところがこのデンマーク本国が、決して富んだ豊かな土地と言うことができないのです。そこに鉱山があるわけでもなく、大規模な港で全世界の船舶を惹きつけるというようなものがあるわけではありません。デンマークの富は主にその土地から産出するのです。
すなわち、その牧場とその家畜、樅と白樺の森林と沿海の漁業にあるのです。
 ことにその誇りとしているのは、酪農であり、それから産するバターとチーズです。デンマークは実に酪農でもって成り立っている国だと言うことができます。
 トーヴァルセンによって世界の彫刻芸術界に新しい機軸を打ち出し、アンデルセンによって近代おとぎ話の元祖とならせ、キェルケゴールを出して無教会主義のキリスト教を世界に唱えさせたデンマークという国は、実に柔和な牝牛を産出することによって立つ、小さくて静かな国であります。
 ではありますが、今から40年前のデンマークは、もっとも憐れな国でした。1864年にドイツ、オーストリアの二大強国に圧迫されて、その要求を拒んだ結果、ついに開戦の不幸に至り、デンマークの人々はよく戦いましたが、デッペルの一戦に北軍が破れて、再び立ち上がることができないまでになりました。
 デンマークは講和を乞い、その結果、敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二カ国に南部でもっとも良い二つの州、シュレスウィヒとホルスタインを分け与えなければなりませんでした。
 戦争はここに終わりを告げました。しかしデンマークは窮乏し、貧困の極みに達したのです。初めからそれほど多くもない領土の、しかも最良の部分を持ち去られたのですから。
これからどうやって国の運命を回復しようか、どうやって敗戦による大きな損害を償おうか、これはこの時、デンマークを愛する人たちが頭を絞って考えた問題でした。国土は小さく、人口は少なく、しかも残った土地は荒れ果てた砂漠のようなところが多いというありさまだったのです。
 しかし、国民の精神力はこのような時にこそ試されるのです。戦いには敗れ、国土は削られ、国民の意気は消沈し、何ごとにも手がつけられないような、このような時にこそ、国民の真の価値は明らかになるのです。
 戦いに勝った国の戦後の経営は、どんなつまらない政治家にもできます。国の威信が上がったことによって、それに伴うさまざまな事業を発展させることは、どんなつまらない実業家にもできます。難しいのは戦いに敗れた国の戦後の経営です。国の運命が衰退して行く時にその事業をどう発展させるかです。
 実に戦いには敗れても、精神においては敗れない民族が、真に偉大な民族です。
 宗教であれ、信仰であれ、国の運命が盛んになって行く時には、何の必要もないのです。しかしその国に暗い影が覆う時にこそ、精神の光が必要になるのです。その国が立ち行くか、滅んで行くかは、この時に決まるのです。
 どんな国にも、時には暗黒の影が覆います。そんな時、これに打ち勝つことのできる民族が永久に栄えるのです。
 それはあたかも、病気になった時に、人間の健康の度合いが分かるのと同様です。普段の時には、弱い人も強い人も外見上は変わりありません。しかし、病気になった時に弱い人間は死に、強い人間は生き残るのです。
 それと同じように、真の意味で強い国は、困難に出遭っても滅びないのです。それは、軍隊は敗れその財源は尽き果てて、その時なお立ち上がる精神力を蓄えている国です。それはまさに国民にとって試練の時です。この時に滅びないものは、運命がどう変わろうとも、永久に滅びないのです。
 デンマークの兵士たちは戦いに敗れて、我が家に帰って来ました。そして帰って来たところ、国は荒廃し、財産は尽き果て、目に見るものは全て悲しみと憤りと失望の種にほかなりませんでした。
「今はまさにデンマークにとって災いの日々だ」と彼らはお互いに言い合いました。
 この挨拶に対して、「いや、そうではない」と答えることができる者は彼らの中に一人もいませんでした。
 しかしながら、ここに、彼らの中に一人の工兵士官がいました。彼の名はダルガス(Enrico Mylius Dalgas)と言い、フランス系のデンマーク人でした。彼の祖先は有名なユグノー党(16世紀から17世紀における近世フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義))の一員で、彼らは信仰のために故国フランスを追放され、デンマークに逃れて来た人々でした。ユグノー党の人たちは、至るところで信仰の自由と熱烈な信仰と勤勉さを表しました。英国ではエリザベス女王のもと、今や世界のトップを占める製造業を起こしました。そのほかにも、オランダにおいて、ドイツにおいて、たくさんの有意義な事業が彼らによって起こされました。
 旧来の宗教を維持しようとした結果、フランスが失った多くのものの中で、最大の損失と言うべきものは、ユグノー党の海外脱出でした。そして19世紀の末においても、彼らは未だなお、その祖先からの精神を失わなかったのです。

Enrico Mylius Dalgas
 ダルガスは、年齢はその時36歳でした。工兵士官として戦争に赴き、橋を架けたり、道路を建設したり、溝を掘ったりした時に、彼は詳しく故国の地質を研究しました。
 そうして戦争はまだ終わっていませんでしたが、その時すでに彼は胸の中で、故国を回復させる方策を考えていました。
 すなわちデンマークのヨーロッパ大陸に連なる部分で、その領土の大部分を占めるユトランド(Jutland)の荒れ地を変えてこれを肥沃な土地にしようとの大計画を、彼は既に胸の中に懐いていたのです。
 ですから戦いに敗れて、彼の同僚たちが絶望感に押しつぶされて故国に帰って来た時に、ダルガスはただひとり、その顔には微笑みを浮かべ、希望の春を夢見ていました。
 「今はデンマークにとって災いの時だ」と彼の同僚たちは言いました。
 「ほんとうにそうです」とダルガスは答えました。
 「ですが、私たちは外に失ったものを、内において取り返すことができます。あなた方や私が生きている間に私たちはユトランドの荒野を変えてバラの花が咲くところにすることができます」と彼は答えました。
 この工兵士官の胸には預言者イザヤの精神が宿っていました。彼の血管の中に流れるユグノー党の血は、この時に遭遇して彼を平和の天使としました。他の人たちが失望している時に、彼は失望しませんでした。彼はその国の人々が剣を持って失ったものを、鋤を持って取り返そうとしました。
 この時に敵の国に対して復讐の戦いを計画するのではなく、鋤と鍬とを持って残された領土の荒廃と戦い、これを田園に変えて、敵に奪われたものを補おうとしました。
 ほんとうにクリスチャンらしい計画ではありませんか。真の平和主義者はこのような計画を立てなければなりません。
 しかしながらダルガスはただの預言者ではありませんでした。彼は単なる夢見る者ではありませんでした。工兵士官だった彼は、土木学者であったと同時に、また地質学者でもあり、植物学者でもありました。彼は詩人であったと同時にまた実際家でもありました。彼はどうしたらその理想を実現できるかを知っていました。
 このような軍人を私たちはときどき欧米の軍人の中に見ます。軍人と言えば人を殺す技術にたけている者だとの考えは、外国においては一般になされていないのです。
 ユトランドはデンマーク国土の半分以上を占めます。そして当時その三分の一以上が不毛の地だったのです。総面積3万9千平方キロのデンマークにとっては約8千平方キロの荒野はあまりにも広い、役立たずの土地です。
 この土地を改良して肥沃な土地とし、外に失ったものを内において償おうとするのがダルガスの夢だったのです。それでこの夢を実現するにあたって、ダルガスの取った武器はただ二つでした。
 その第一は水でした。そしてその第二は樹木でした。荒れた地に水を注ぐことができ、これに木を植えて植林の成果を上げることができれば、それでことは成就するのです。それは至って簡単でした。しかし簡単でしたが、容易ではありませんでした。
 この世界に制御することが難しいものとて、人間が作った砂漠のようなものはありません。もしユトランドの荒れ地がサハラ砂漠のようなものだったならば、問題ははるかに容易だったのです。
 自然の砂漠は水をさえこれに注ぐことができれば、肥沃な土地になるのです。しかし人間が何もせずに、世話を怠っていた結果できた砂漠を回復するのはもっとも難しいのです。そうしてユトランドはこのような種類の荒れ地だったのです。
 その昔800年以前には、そこには良く茂った林がありました。そうして今より200年前までは、ところどころに樫の木を見ることができました。
 それなのに文明が進むと時を同じくして、人々の欲望はますます大きくなって、人々は土地から搾取するに急で、これに報いるに緩やかでした。そのために土地は時を経るに従いますます痩せ衰え、ついに40年前には憐れむべき状態になってしまったのです。
 しかし人間の飽くなき欲望によっても大地を永久に死滅させることはできません。神と大自然が啓示するある適切な方法によれば、このような最悪の状態にある大地も、元からの肥沃な土地に返すことができます。
 まさに詩人シラーが言ったように、大自然は永遠の希望であり、その崩壊と腐敗はただ人間の間に見るのです。
 (その方法とは)まず溝を掘って水を流れさせ、ヒースと呼ばれる荒野の植物を駆除し、これに替えてじゃがいもと牧草を植えるのです。
 このことは、それほど困難ではありませんでした。しかし最も難しかったのは荒れ地に木を植えることでした。そしてこのことのためにダルガスは非常に苦心し研究しました。
 植物の種類は多いですが、ユトランドの荒れ地に適し、成長してレバノンの栄えを表すような樹木はないだろうかと彼は研究に研究を積み重ねました。そこで彼の心に思い当たったのはノルウェーで生育する樅の木でした。これこそユトランドの荒れ地にふさわしい樹木であるということは、はっきりしました。しかしながら実際にこれを植樹して試してみますと、思ったようには行きません。
樅の木は生育しますが、数年経つ内に枯れてしまいます。ユトランドの荒れた土地は今やこの強靭な樹木をさえ養うことができないほどに、養分が不足していました。
 しかしダルガスの熱情はこのことによってくじけることはありませんでした。彼は大自然が彼にこの問題の解決を示してくれることを確信していました。ですから彼はさらに研究を続けました。そうして彼の脳裏にふと浮かんで来ましたのは、アルプスで生育する小さな樅の木でした。
 もしこれを移植したならばどうだろうかと彼は考えました。そしてこれを取り寄せて、ノルウェーの樅の木の間に植えると、不思議なことに両方の樅の木は共に並んで成長し、年月が経っても枯れなかったのです。
 これによって大きな問題は解決しました。ユトランドの荒野に初めて緑の野原を見ることができたのです。
 緑は希望の色です。ダルガスの希望であり、デンマークの希望であり、その国民250万人の希望は現実となったのです。
 しかし問題はそれでも完全には解決していませんでした。緑の野原はできましたが、緑の林はできなかったのです。ユトランドの荒れ地から建築用の木材を伐採しようというダルガスの野心的な願いは事実とはなりませんでした。
 樅の木はある程度まで成長して、止まってしまいました。枯れることはアルプスの小さな樅の木を一緒に植えることによって防ぐことができましたが、いつまでも成長を続けることができなかったのです。「ダルガスよ、お前が預言した材木をくれ」と言ってデンマークの農夫たちは彼に迫りました。あたかもエジプトから逃れ出て来たイスラエルの人たちが、一部の失敗のためにモーセを責め立てたのと同じようでした。
 しかし神はモーセの祈りを聞いて下さったように、ダルガスの心の叫びをも聞いて下さいました。(神の)黙示は今度はダルガスに臨まず、その息子に臨みました。彼の長男をフレデリック・ダルガスと言いました。
 彼は父の気質を受け継いで、優秀な植物学者でした。彼は樅の木の成長の仕方について大きな発見をしました。
 若いダルガスは言いました。樅の木がある程度以上成長しないのは一緒に植えた小さな樅の木をいつまでもその側に生やしておくからだ。もしある時期が来て小さな樅の木を伐り払ってしまうならば、樅の木はその土地を占有して成長を続けるだろうと。
 そして若いダルガスがこのことを実際に試してみたところ、実にその通りでした。側に植えられた小さな樅の木はある程度まで、もともとの大きな樅の木の成長を促す力を持っています。しかしそれがある程度に達した時には却ってこれを妨げる作用があるという、奇妙な植物学上の事実が、ダルガス父子によって発見されたのです。
 しかもこの発見はデンマークの国土の開発にとっては、実に絶大な発見でした。これによってユトランドの荒れ地を元に戻すという難しい問題は解決されたのです。その結果デンマーク各地に鬱蒼(うっそう)とした樅の林を見るようになりました。
 1860年にはユトランドの山林はわずかに6万3千ヘクタールに過ぎませんでしたが、47年後の1907年になった時には19万ヘクタールの広さに達しました。
 しかしこれはなお全国土の7.2パーセントに過ぎません。さらにダルガスの方法に従って植林を続けるなら、数十年後にはこの地に数百万ヘクタールの緑の森を見るに到るでしょう。実に大いなる希望があると言うことができます。
 しかし植林による効果は木材の収穫だけにとどまりません。第一にその良い影響を受けたのはユトランドの気候でした。樹木の生えていない土地は熱しやすくまた冷めやすいです。
 ですからダルガスが植林をする以前には、ユトランドの夏は、日中は非常に暑く、夜は時には霜が降るほどでした。一日の間に熱帯の暑さと冬の初めのような霜に出遭っては、植物の成長には堪りません。
 その当時、ユトランドの農夫たちが、収穫する希望を持って植えることができた植物は、じゃがいも、黒麦、そのほかの少数の種類に過ぎませんでした。しかし植林が成功してからのこの地の農業は一変しました。夏の時期に霜が降ることは全く止みました。今や小麦や砂糖大根など、北欧で生産できる穀物、または野菜で育たないものはなくなりました。
 ユトランドの荒れ地は樅の林が茂ることによって、優良な田園と変わりました。木材を収穫することができるようになった上さらに、温暖な気候に恵まれるようになりました。植えるべきはまさに樹木です。
 しかも植林による良い影響はこれにとどまりませんでした。樹木が生い茂ることによって、海岸から吹き寄せられて来る砂(すな)埃(ぼこり)によって荒れ地となることが防がれました。北海沿岸に独特な砂丘は海岸の近くだけに食い止められました。樅の木は根を張って、襲いかかって来る砂埃に対して言いました。
 「ここまでは来ることができる、しかしここを越えてはならない。」
 ヨブ記38章11節
 北海沿岸の国にとっては、敵国の艦隊よりも恐ろしい砂丘が、戦艦ではなく緑の樅の林によって、ここに見事に撃退されたのです。
霜は降りなくなり、砂埃は抑えられ、その上に第三の効果として、洪水の被害が無くなったのです。
 これはどこの国でも植林の結果としてすぐに現れるものです。
もちろん海抜180メートルが最高点のユトランドでは我が国のような山の多い国のように洪水の被害を見ることはありません。しかしその比較的少ないこの被害すら、ダルガスの事業によってなくなったのです。廃れてしまっていた町並みは再び活気づきました。町や村が新たに起こりました。土地の値段は非常に高騰し、あるところでは40年前の150倍に達しました。道路と鉄道は縦横に建設されました。日本の四国とそれに2万6千平方キロを加えた広さのユトランドはこうして復活しました。戦争によって失われたシュレウスウィヒとホルスタインは、今日に至ってはすでに償われてなお余りあるということです。
 しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、さらに尊いものは国民の精神です。デンマークの人々の精神はダルガスの植林が成功したことによって、全く変わったのです。
 失望していた彼らはこのことによって希望を回復しました。彼らは自分たちの国を削られて、さらに新たな良い国を獲得したのです。それは他の国を奪ったのではありません。
 自分たちの国を造り替えたのです。自由な宗教観から来る熱誠と忍耐と、そしてこれに加えて樅の木の持つ不思議な力とによって、自分たちの荒れ果てた国を挽回したのです。
 ダルガスのそのほかの事業について、私は今ここでお話しする時間がありません。彼はどのようにして砂地を田園に変えたか、沼地の水を排水したか、どのようにして石地を開墾して果樹園を作ったか、このことは植林事業に劣らず興味ある物語です。これらの問題に興味を持たれる方は直接に私にご質問下さい。
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 今日、ここでみなさんにお話しましたデンマークの話は、私たちに何を教えてくれるでしょうか。
 第一に戦いに敗れることは必ずしも不幸ではないことを教えてくれます。国は戦争に敗れても亡びません。実際のところ戦争に勝利したのに滅びてしまった国は歴史の上で決して少なくはないのです。国が栄えるか、亡びていくかは戦争の勝敗の結果によりません。その国民の普段からの心のありようにあります。良い宗教、良い道徳、良い精神が(国民の間に)ある時に、国は戦争に敗れても衰えることはありません。いや、その全く反対が事実です。堅固な精神のあるところ敗戦はかえって、良い刺激となって不幸に陥っている民族を立ち上がらせます。デンマークは実にその良い実際例です。
 第二は自然の無限な生産力を示します。富の源は大陸にも、島々にも、沃野にも、砂漠にもあります。大陸の所有者が必ずしも富んでいる者ではありません。小さな島を持っている者が必ずしも貧しい者ではありません。ですから小さな国は決して嘆く必要はありません。逆に国が大きいことによって誇るということはできません。富というものは形として現れたエネルギーです。そうしてエネルギーは太陽の光線にもあり、海の波にも、吹く風にもあり、噴火する火山にもあります。もしこれを利用することができますならば、それらはみなすべて富の源です。かならずしもイギリスのように、世界の陸地面積の六分の一の所有者となる必要はありません。デンマークで足ります。いや、それよりも小さな国で足ります。外に拡大するよりは内を開発するべきです。
第三に信仰の実力を示します。国の実力は軍隊ではありません。軍艦ではありません。はたまた金ではありません、銀ではありません。信仰です。
 このことに関しましてはマハン大佐(アメリカ海軍の軍人・歴史家・戦略研究者)もいまだ真理を語りません、アダム・スミス(イギリスの経済学者・哲学者)、J・S・ミル(イギリスの哲学者にして経済学者)もいまだ真理を語っていません。このことに関して真理を語っているものは、やはり聖書です。
 もしからし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって「ここからあそこへ移れ」と言えば、移るであろう。このようにあなたがたにできない事は、何もないであろう。
 マタイ伝17章20節
とイエスは言われました。
 なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
ヨハネ第1の手紙5章4節
と聖ヨハネは言いました。
 世に勝つ力、地を征服する力はやはり信仰です。ユグノー党の信仰はその中の一人の人によって、鋤と樅の木とでもってデンマークを救いました。
 あるいはまたダルガス一人に信仰がありましても、デンマークの人々全体に信仰がありませんでしたら、彼の事業も効果なく終わったのです。この人があり、この民族があって、またフランスから携えてきた自由な信仰が、デンマークの地に自ずと生まれ出た信仰があって、この偉大な事業が成功したのです。
 宗教は詩人や愚かな人には関係ないと唱える人は誰ですか。宗教は詩人や愚かな人には向いているけれど、実業家や知恵のある人には必要ないなどと唱える人は、歴史も哲学も経済も何も知らない人です。その国にもしこのような「愚かな知恵ある者」だけがいて、ダルガスのような「知恵のある愚かな人」がいなかったならば、不幸にも一歩を誤って、敗戦の悲運に遭った時に、その国はたちまち滅びてしまうのです。
 国家の大きな危機に際して、信仰を無用のものと白眼視するようなことは、あってはなりません。
 私が今日ここでお話しししましたデンマークとダルガスについての事柄は、大いに軽薄な世の知識人にとって戒めるべきことです。
「後世への最大遺物 デンマルク国の話」/内村鑑三著より

(要約)後世への最大遺物(1)

2008年11月23日 02時47分25秒 | 後世への最大遺物

内村鑑三の肖像画/石河光哉画伯
『NPO法人今井館教友会転載承認済』
<はじめに>
 内村鑑三講演「後世への最大遺物」は明治二十七年七月に神奈川県箱根駅近くで開かれたキリスト教徒第六夏期学校において、そこに集まって来た学生たちに向けて語られたものです。その主張は今でも、人生をいかにして歩もうかと模索している青年たちにとって、大きな示唆に富んだものだと私は考えます。
 原文は残念ながら文語体の講演口調のため、繰り返しの多い冗長な文章となっています。
 もし内村先生が二十一世紀の現代に生きておられたら、若者たちに向かってどう語られただろうか、カーライルの言うように、霊感は日ごとに新しくされ、新しい言葉でもって書き直されなければならないのかも知れませんが、内村先生に示されたこの霊感を語り継ぐ人が現代にはいるでしょうか。
 物質主義、金銭至上主義のはびこる世にあって、真に生きるとはどういうことか、僭越とは思いますが、私は内村先生の叫びを現代に伝えたいと願い、敢えてこのような形で先生の講演を要約させていただきました。
 読者がこれを機会に、先生の講演の一端を知り、先生の志すところ、思いを受け止めて下さり、それぞれの人生において活かされることを願っています。
 当然のことながら、この要約文のすべての責任は私にあることをここに明記しておきます。
 最後に内村先生ご自身の改正版への序に、この書自体が「後世への最大遺物」となったことを記しておられますことは、まことに私の意を得たものと実感しています。
二○○八年十一月二十二日(土) 大山国男

<(内村先生の)改正版への序>
 この講演は、日清戦争のあった年、すなわち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年だったときに、海老名弾正先生司会のもと、箱根山上、芦ノ湖湖畔おいて行ったものです。その年は私の娘ルツ子が生まれた年です。その娘はすでに世を去り、またこの講演を本の形にして世に出した親友中村弥左衛門氏もついこのごろ世を去りました。その他この本が発表されて以来の世の変化は非常です。
 多くの人がこの書を読んで志を立てて成功したと聞きます。その内に私と同じようにキリスト信者になった者も少なくないとのことです。そして彼らの内のある者はすでにキリスト教を「卒業」して今は背教者となっている者、またはキリスト教の文筆家となって、その攻撃の鉾先を私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。そして私は幸いにして今日まで生きながらえて、この書に書いてあることに多く相違せずに自分の生涯を送って来たことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物」の一つとなったことを感謝します。まさに頼山陽の詩のごとく「天地無始終(てんちしじゅうなく)、人生有生死(じんせいせいしあり)」です。しかしいつかは死ぬべき人生において永遠の生命を発見する道があります。天地は滅びてもなお滅びないものを得る道があります。それを少しでも握ることができれば、それは成功であり、また私にとりましては大なる満足であります。
 私は今よりさらに三十年生きようとは思いません。しかし過去三十年間生き残ったこの書は今よりなお三十年、あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。
 私はこの小著をその最初の出版者である故中村弥左衛門氏に捧げます。彼の霊の天にあって安からんことを祈ります。
  大正十四年(一九二五年)二月二十四日

<後世への最大遺物>
 この夏期学校に来るついでに、私は東京に立ち寄りました。その時父が頼山陽の古い詩を持ち出して来ました。これは私が彼からもらって初めて読んだ山陽の詩です。冒頭に幼い時に私の心を励ましてくれた一篇の詩があります。
 「十有三春秋 逝者巳如水 天地無始終 人生有生死 安得類古人 千載列青史」
(じゅうゆうさんしゅんじゅう ゆくものはみずのごとし てんちしじゅうなく じんせいせいしあり いずくんぞこじんにるいして せんざいせいしにれっするをえん)
という、彼が十三歳の時に作った有名な詩です。
 私は子供の時から体が弱く、社会に打って出ようという志もなく、また特別なつてがあったわけでもありませんが、この詩のように「千載青史に列する(歴史に名を残す)人間になりたい」という願いを抱いていました。
 ところが、ある時キリスト教に触れて、この願いがだいぶ薄れてしまい、世の中を厭う気持ちが起こって来て、このような願いは、肉欲から来る、不信者の異邦人的な考えで、キリスト教徒たる者は、持ってはならないと思うようになりました。
 確かに後々まで自分の名前をこの世の中に遺して、後世の人々に褒めてもらいたいなどというのは、ちょうど昔エジプトの王様が自分の名前が後の世に伝わるようにと願って、たくさんの奴隷を酷使して壮大なピラミッドを造成したり、日本では糸平という人が「自分のために特大の墓を建てよ、そしてその墓には『天下の糸平』と有名な人に書いてもらえ」と遺言して、その結果立派な花崗岩で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っていたりしますが、これは決してキリスト教的な考えではないと思います。
 しかし、私は「千載青史に列するを得ん」という考えはそんなに悪い考えではなく、むしろキリスト者が持つべき考えではないかと思うのです。
 私にとってこの地上の人生は天に行く階段であって、ちょうど大学に入る前の予備校のようなものです。もし私たちの人生がわずか五十年で全てが消えてしまうと言うのなら、それは実にはかないものです。私は永遠の世界に私という人間を準備するためにこの世に中に生まれて来て、そこで流す涙も喜びも、すべての喜怒哀楽というものは、私の霊魂を徐々に作り上げ、ついに不滅の人間になって、もっと清い生涯を送るためにあるのだと確信しています。
 ただ、私がこの世の中を生き抜いて安らかに天国に行き、予備校を卒業して天国である、大学に入ってしまったならば、それで十分かと自分の心に問うてみると、その時、私の心に聖なる願いが起こって来ます。
 私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、我々を育ててくれた山や川、この楽しい社会、それらに私が何も遺さずには死んでしまいたくないとの願いです。
 私はこの地上に何かを遺して逝きたい。それによって後世の人に私を褒めたてて欲しいとか、名誉を遺したいというのでなく、ただ私がどれほどこの地球を愛し、どれほどこの世界を愛し、どれほど私の同胞を思っていたかという記念のものをこの世に置いて逝きたいのです。すなわち英語で言うMementoを遺したいのです。
 私はアメリカの大学を卒業した時、同志と共に卒業式の当日、一本の樹を校内に植えて来ました。これは私を四年間育ててくれた学校に、私の感謝のしるしを遺して置きたかったからです。中には同級生で、金のあった人は、音楽堂や図書館、あるいは運動場を寄贈した者もありました。
 お互い地上に生まれて来た以上は、この世の中にある間に少しなりともこの世の中を良くして行きたいと、私は思うのです。
 有名な天文学者のハーシェルが二十歳くらいの時に、友人に語って言いました。「我が愛する友よ、我々が死ぬ時には、我々が生まれた時より、世の中を少しなりとも良くして行こうではないか」と。実に美しい青年の願いではありませんか。ハーシェルの伝記を読むと、彼はこの世の中を非常に良くして行った人です。今まで知られなかった南半球の星を、植民地だったアフリカの喜望峰に行って描いて、すっかり天体図に載せました。それによって、今日の天文学者はどれだけ助けられたか、キリスト教伝播に直接、間接どれだけの助けになったか計り知れません。
 それで次に、何を我々が愛するこの地球に遺して去ろうかと言う問題です。
 その中でまず第一番に大切なものは「金」です。死ぬ時に遺産金として、自分の子供にばかりでなく、それを社会に遺して逝くということです。
 こういうことをキリスト信者に言いますと、金を残すなどというのは、実に賤しい考えだと反対します。
 私が明治十六年に初めて今の札幌農大を卒業して東京に出て来ました頃、東京ではキリスト教のリバイバルが起こっていました。私は実業教育を受けましたので、もちろんその頃は、億万の富を日本に残して、日本を救いたいという考えを持っていました。
 ところがそのことをあるリバイバルに熱心な牧師先生に話したところ、さんざんに叱られました。「金を遺したい?何と意気地のない!そんなものはどうにでもなるから、君は福音のために働き給え。」と言って戒められました。しかし私はその決心を変えませんでした。今でもそうです。金を遺すことを賤しめるような人はやはり金のことに卑しい人です。けちな人です。
 金の必要性はみなさんも十分に認めておいでなるでしょう。「金は宇宙に満ち満ちているものだから、いつでもできる」と言った人に向かって、フランクリンは「それなら今あつらえて見給え」と言ったそうです。なるほど金と言うものはいつでも得られると思いますけれども、実際金の要る時になってから、それを得るのは非常に難しいものです。ほんとうに神の助けを受けた人でなければその富を一箇所に集めることはできないということです。
 たとえば秋になると雁が空を飛んで来ます。それは誰が捕ってもよろしい。しかしその雁を捕まえるのは難しいことです。人間の手に雁が十羽なり、二十羽なり集っているならば、それに価値があります。すなわち、手の内の一羽のスズメは木の上にいる二羽のスズメよりも価値がある、と言うのはこのことです。
 そこで後世の人がこれを用いることができるように金を貯めて逝こうとする願いがみなさんの中にあるならば、私は心からそのことをその人に勧めたいと思います。
 どうか、キリスト信者の中にもどんどん金持ちの実業家が起こってもらいたい。そして我々の後ろ盾になって、我々の心を十分に理解して、金銭的にも我々を支えていただきたい。
 我々の今日の実際問題は、社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうと、とどのつまりはやはり金銭問題です。
 フィラデルフィアのジラードというフランスの商人が、アメリカに移住して建てた有名な孤児院があります。これは世界一の孤児院です。小学生くらいの子供たちがおよそ七百人ばかりいます。中学、大学くらいまでの孤児を加えますならば、多分千人以上でしょう。彼の伝記を読みますと、細君は早く死んでしまって、彼は「妻はなし、子供はなし、私には何の生きる目的もない、けれども世界一の孤児院を建てたい」と言って、ただそのひとつの目的を持って、金を貯めたのです。一生涯かかって貯めた金は、おおよそ二百万ドルばかりでした。それを持ってペンシルバニア州の人気のないところに地所を買った。死ぬ時に「この金で二つの孤児院を建てよ、一つは俺を育ててくれたところのニューオルリンズに、一つは俺の住んだところのフィラデルフィアに建てよ」と言いました。
 その孤児院は寄付金が足りないために、事業が差し支えるような孤児院ではありません。ジラードが生涯かかって貯めた金をことごとく投じて建てたもので、それが今日のペンシルバニア州において大量の石炭と鉄を産出する山になっています。その富は何千万ドルするか分かりません。ですから今はどれだけ事業を拡張しても良い、ただ、拡張する人がいないだけです。
 また有名な慈善家ピーポディーはどうやって彼の大いなる事業を成し遂げたかと申しますと、彼が初めて故郷のベルモントの山から一文無しで出て来た時には、ボストンに出て大金持ちになろうという大願を持っていました。それで旅館の主人に「私はボストンまで行かなければならない。しかし日が暮れてしまうので今夜泊めてもらえないか」と聞いたら、その主人が可愛そうだから泊めてやろうと言って喜んで引き受けてくれた。けれども、その時に彼は主人に「ただで泊まるのは嫌だ、何かさせてくれるならば泊まりたい」と言って、家を見渡したところ裏に薪がたくさん積んであった。それで「御厄介になる代わりに、裏の薪を割らして下さい」と言って、主人の承諾を得て、昼過ぎから夜までかかって、薪を挽き、これを割り、だいたいこのくらいで宿賃に足ると思うくらいまで働いて、その後に泊まったそうです。このピーポディーは一生を何のために費やしたかと言うと、何百万ドルと言う金を貯めて、ことに黒人の教育のために使った。
 今日アメリカの黒人がそれなりに社会的地位を獲得しておりますのも、それはピーポディーのような慈善家のお蔭だと言わなければなりません。私はアメリカ人は、金にはたいへん弱い、金権主義にだいぶ侵食された民族だと言うことも知っています。けれども、アメリカ人の中に金持ちがありまして、彼らが聖き目的を持って金を貯め、それを聖きことのために用いて来たことによって、今日のアメリカの隆盛をなしたと言うことだけは、私も分かって日本に帰って来ました。
 それでもし我々の中にも、こういう目的を持って金を貯める実業家が出て来ませんと、いくら起こっても国家の利益になりません。キリスト教信者が立ち上がって、自分のために儲けるのではなく、神の正しい道によって金を儲け、その富を国家のために使う実業家が今日起こることは、神学生の起こるよりも、私の望むところです。
 彼の紀伊国屋文左衛門のように、百万両貯めて百万両使って見ようなどという卑しい考えを持たないで、百万両貯めて、百万両を神のために使って見ようというような実業家が出て欲しいのです。その百万両を国のために、社会のために、遺して逝こうという願望は、実に聖なる願望だと思います。
 また、もしみなさんの中にそういう願望がありますならば、教育に従事する人たちは、「あなたの事業は卑しい事業だ」などと言って、その人を失望させないようにしてもらいたい。またそういう願いを持った人は、神がその人に命じたところの考えだと思って十分に自らそのことに励まれることを望みます。
 しかしながら、誰もが金を貯める能力を持っていない。これはやはり一つのGenius(天才)ではないかと私は思います。私は残念ながらこの天才を持っていません。
 私の今まで教えました生徒の中に、非常にこの才能を持っている者がいました。その人は北海道に一文無しで追い払われましたが、今は私に十倍する富を持っています。それで彼に「今に俺が貧乏になったら、君は俺を助けよ」と言っておきました。実に金儲けというものは、やはりほかの職業と同じように、ある人たちの天職です。誰でも金を儲けることができるかということについては、私は疑問です。
(つづく)

(要約)後世への最大遺物(2)

2008年11月23日 02時41分51秒 | 後世への最大遺物
 それで金儲けのことについては少しも考えてはいけない人が金を儲けようとしますと、その人は非常に穢く見えます。そればかりではなく遺し方が悪いと、ずいぶんと害を与えます。
 それで金を貯める能力を持った人ばかりでなく、金を使う能力を持った人が出て来なければなりません。彼の有名なグルードという人は、生きている間に二千万ドル貯めたのですが、そのために親友四人までを自殺に追い込み、たくさんの会社を倒産させました。ある人が言うには「グルードが千ドルとまとまった金を慈善のために出したことはない」そうです。
 彼は死ぬ時にその金をただ自分の子供に分け与えて死んだだけです。すなわち、グルードは金を貯めることを知って、金を使うことを知らなかった。それで金を遺物としようと思う人には、金を貯める能力とまたその金を使う能力がなくてはなりません。この二つの考えのない人、この二つの考えについて十分に弁えない人が 金を貯めるということは、はなはだ危険なことだと思います。
 さて、では私のように金を貯めることの下手な者、あるいは貯めてもそれを使う能力がない人は、後世への遺物として何を遺そうか?もし金を遺すことができないならば、何を残そうか?それで、金よりも良い遺物は何だろうかと考えて見ますと、事業です。事業とはすなわち金を使うことです。金は労働力を代表するものですから、労働力を使ってこれを事業に変え、事業を遺して逝くことができます。金を儲ける能力のない人でも事業家はたくさんいます。金持ちと事業家は二つの別もののように見えます。商売する人と金を貯める人とは人物が違うように見えます。大阪にいる人はたいそう金を使うことが上手ですが、京都にいる人は金を貯めることが上手です。東京の商人に聞いてみると、金を持っている人には商売はできない。金のない者が金を使って事業をするのだと言います。
 純粋に事業家の成功を考えて見ますと、決して金があったからだけではありません。バンダービルトは非常に金を作ることが上手でしたが、彼は他人の事業を助けただけです。有名なカリフォルニアのスタンフォードは、たいへん金を儲けることが上手でした。しかしながらそのスタンフォードに三人の友人がいました。その友人のことは面白い話ですが、時間がないからお話しませんけれど、金を儲けた人と、金を使う人と、色々います。
 そこで、どういう事業が一番誰にも分かりやすいかと言うと、土木事業です。一つの土木事業を遺すことは、実に我々にとっても楽しいことですし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います。
 今日も船に乗って、湖の向こうまで行きました。その南のほうに向かって水門があります。その水門というのは、山の裾をくぐっている一つの隊道です。その隊道を通って、この湖水の水が沼津のほうに流れて、二千石から三千石の田を灌漑していると聞きました。そして昨日ある友人から、その隊道を掘った人の話を聞きました。それは今から六百年も前と言うことですが、誰が掘ったかは良く分からない。ただこれだけの伝説が残っています。
 箱根の近くに百姓の兄弟がいて、互いに語り合って言った。「我々はこのありがたい国に生まれて来て、何か後世に遺して行かなければならない。何か我々にできることをやろうではないか」。兄は言った。「我々のような貧乏人には大事業を遺して逝くことはできない」。すると弟が言った。「この山をくり抜いて湖水の水を取り、水田を興してやれば、それは後世への大なる遺物になるではないか」。兄は「それは非常に面白い考えだ。ではお前は上のほうから掘れ、俺は下のほうから掘ろう。一生涯かかってもこの穴を掘ろうじゃないか」と言って二人して掘り始めた。どういうふうにやったかと言いますと、その頃は測量器械もないから、山の上にしるしを立てて、両方から掘って行ったようです。毎年毎年掘って行って、何十年か後に、下のほうから掘って来た者が、湖水のほうから掘って行った者の一メートル上に行き着いたけれども、御承知の通り水は高い方から低いほうに流れますから滝のように下に向かって流れ落ちて行った。
 この二人の兄弟は生涯かかって、誰も人が見ていない時に、後世に事業を遺そうという奇特な心から、この大事業を成し遂げました。これは、今日に至っても我々を励ます所業ではありませんか。それによって、今の五ヵ村が、湖水の流れるところですから、旱魃になったことは一度もなく、頼朝の時代(千五百年)から今日に至るまで年々米を収穫して来ました。
 もし私が何もできないならば、私はこの兄弟に真似たいと思います。そのころは火薬もダイナマイトもなかった時代でしたから、あの隊道を掘るのは実に大変なことだったろうと思います。しかしそのことを成し遂げることができたこの兄弟は実に幸せな人間だったと思います。
 大阪の天保山を切り開いて彼の安治川を作った人は日本のために、非常な功績を残した人だと思います。安治川があるために、大阪の木津川の流れを北の方に取りまして、水を速くして、それによって水害を取り除いてしまったばかりでなく、深い港を造成して九州、四国から来る船をことごとくあそこに繋ぐことができるようになったのです。また秀吉の時代に切り開かれた吉野川は、以前は大阪の裏を流れていて、水害でもって人々を悩ましたのですが、堺と住吉の間に開鑿することによって大和川の水害がなくなり、そのおかげで何十ヵ村という村が大阪の後ろに生まれました。これは非常に大きな事業です。
 それから有名な越後の阿賀野川を切り開いたことも実に偉大な事業です。今、新発田の十万石は日本におけるたぶん富の中心だろうと言われています。
 これらの大事業を考えてみます時に、私の心の中には、もし金を後世に遺すことができないならば、私は事業を遺したいという考えが起こって来ます。
 また土木事業ばかりでなく、その他の事業でも、もし我々が心をこめて成そうとする時には、ちょうど金に利息がつくようにだんだん大きくなって、終わりには非常に大きな事業となります。
 このことを考えます時に、私はいつも有名なダビッド・リビングストンのことを思い出さずにはいられません。それで諸君の中で英語のできる方にはスコットランドの教授、ブレーキという人の書いた「Life and Letters of David Livingstone」という本を読まれることをお勧めします。
 私にとって聖書のほかに、私の生涯に大きな刺激を与えた本は二つあります。一つはカーライルの「クロムウェル伝」です。そのことについては後でお話します。それから次にこのブレーキ氏の書いた「ダビッド・リビングストン」という本です。
 それで、ダビッド・リビングストンの生涯はどういうものだったかというと、私は彼を宗教家、あるいは宣教師と見るよりもむしろ大事業家として尊敬せざるを得ません。もし私は金を貯めることができないならば、あるいはまた土木事業を起こすことができないならば、ダビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。
 この人はスコットランドの機屋の子でして若い時から公共事業に関心がありました。彼はどこかに事業を起こしてみたいという願いを持って、始めは中国を目指していましたが、英国の伝道会社がその必要はないと言って許さなかったので、ついにアフリカに入って三十七年間自分の生涯をアフリカのために差し出し、初めのうちは主に伝道をしていましたけれども、アフリカを永遠に救うには伝道よりも、まずアフリカの内地を探検してその地理を明らかにし、これに貿易を開いて勢力を与えなければならない、そうすれば伝道は商売の結果として必ず進んで行くに違いないと考えて、伝道を止めて探険家になったのです。彼はアフリカを三度縦横に横切り、解らなかった湖の場所や、河の方向も定められました。それによって種々の大事業も起こりました。
 しかしリビングストンの事業はそれで終わりませんでした。それがスタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題について、リビングストンの事業が原因となっていないものは何一つありません。コンゴ自由国、すなわち、欧米九ヵ国が同盟して、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に建てるに至ったのも、やはりリビングストンから始まったと言わなければなりません。
 それから今日の英国、またアメリカ合衆国は偉大な国だと言われますが、それは何から始まったかと考えてみると、少し偏向するかも知れませんが、その理由はイギリスにピューリタンという党派が起こったからだと私は考えます。そしてピューリタン(清教徒)が大事業を遺しつつあるのは、その中に偉大な人物がいたからです。
 オリバー・クロムウェルという人物です。彼の政権はわずか五年で、その事業は彼の死と共にまったく終わってしまったように見えますけれども、そうではありません。彼の事業は今日のイギリスを作りつつあります。それだけではない、英国がクロムウェルの理想を達成するのはまだずっと未来のことだろうと思います。彼は後世に英国を、アメリカ合衆国を遺したのです。アングロサクソン民族がオーストラリアを従え、南アメリカに権力を得て南北アメリカを支配するようになったのも彼の遺した偉業と言わなければなりません。

<第二回>
 昨晩は後世へ我々が遺して逝くべきものについて、まず第一に金のことを話し、次に事業のお話をしました。事業をするには神から賜る天才がいるばかりでなく、また社会的地位も必要です。我々は時々、あの人は才能があるのに、なぜ何にもしないでいるのかと言ってその人を責めますけれども、それは酷だと思います。人は地位を得ますとずいぶんつまらない者でも大事業をするものです。ですから、事業を以って人を評することはできません。
 それで私は事業の才能もなし、地位も友だちも社会の賛成もなかったならば、世の中に何も遺すことはできないかというと、まだ残っているものがあると思います。何かと言うと、著述をすることと、学生を教えると言うことです。
 それでこの二つのことをこれから論じたいと思います。まずその第一、著述をすることについてですが、すなわち思想そのものだけを遺して行くには本を書くことによる以外にありません。書物は我々が心に常に抱いている思想を後世に伝える道具です。
 偉大なる思想は、時には今の世の中でただちに実行することができないこともあります。だから、種だけを播いて逝こう、「我々は恨みを抱いて、地下に降らんとすれども、汝ら我が後に来る人々よ、折あらば我が思想を実行せよ」と後世へ言い残すのが書物です。
 二千年前のユダヤの漁夫や世に知られない人々が「新約聖書」という書物を書きました。そうしてその小さい本がついに全世界を改めました。また頼山陽という人は勤皇論を書いた人ですが、彼は日本を復活させるには日本を一つにしなければならない、それには徳川の封建政治をやめて、皇室を尊び王朝の時代に戻さなければならないと言う大思想を持っていました。しかしながら山陽は彼の生きている間にはとてもこのことができないことを知っていました。それで自分の志を「日本外史」に書き残しました。そして特別に王室を保護するように書くのではなく、源平以来の皇室以外の歴史を勤皇の精神を持って書き遺しました。
 今日の王政復古を来たらせた原動力は何だったかと言えば、多くの歴史家が言うとおり、山陽の「日本外史」がその一つでした。彼はその思想を遺して日本を復活させたのです。彼の骨は洛陽東山に葬られていますが、彼のAmbition(願望)は「日本外史」を通して、新しい日本を誕生させたのです。
 イギリスに今から二百年前、痩せこけて背の低い病気がちな一人の学者がいました。いつも貧乏で裏だなのようなところに住んでいました。そのころ、十七世紀中ごろというのは、ヨーロッパでは国家主義が全盛でした。イタリア、イギリス、フランス、ドイツ、みな国家的精神を養わなければならないと言って、社会は挙げて国家と言う全体主義に全思想を傾けていた時です。
 しかし彼は人とは違った一つの大思想を持っていました。個人は国家よりも大切だと言う思想です。この人はジョン・ロックで、その書いた本は「Human Understanding」です。
 この本がフランスに渡って、ルソーが読み、モンテスキューが読み、ミラボーが読みました。そうしてその思想がフランス全国に行き渡って、ついに一七九〇年フランスの大革命が起きて、フランスの二千八百万の国民を動かしました。やがて十九世紀の初めにはヨーロッパ中が動き出しました。それから合衆国が生まれました。またフランス共和国が生まれました。ハンガリーの改革もあり、イタリアの独立もありました。これらはすべてジョン・ロックの思想から影響を受けているのです。彼は実に今日のヨーロッパを支配する人となったと言えます。
 それで、もし我々が事業を遺すことができなければ、思想を遺して将来において、事業をなすことができると私は思います。
 ところでここで、みなさんに注意しておかなければならないことがあります。我々の中で誰でも筆を取って雑誌か何かに批評でも載せれば、それで文学者だと思う人がいます。「文学」と言うものは怠け書生の一つのおもちゃであって、誰にでもできる気楽なもののように考えられています。その生涯はどんなものだろうと思っているかと言うと、赤く塗ってある御堂の中に美しい女が机の前に座っていて、向こうから月が上がって来るのを、筆をかざして眺めているというような風景です。これは何かと言うと、紫式部が源氏の間で本をしたためている姿です。これが日本流の文学者です。
 しかし、文学がこんなものならば、後世への遺物ではなく、却って後世への害物だと私は思います。なるほど、源氏物語は美しい言葉を日本に伝えたかも知れません。しかし、「源氏物語」が日本人の士気を鼓舞するために何をしたでしょうか。何もしないばかりでなく、我々を女のような意気地なしにしたのです。あの様な文学は我々の中から根こそぎ絶やしてしまいたい。
 文学はそんなものではありません。文学は我々がこの世界で戦争する時の道具です。今日戦争することができないから、未来において戦争しようと言うのが、文学です。それですから、文学者が机の前に立ちます時には、ルーテルがウォルムスの会議に、パウロがアグリッパ王の前に立った時と同じであり、クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨んだ時と同じことです。
 この社会、この国を更に良くしよう、敵である悪魔を平らげようとの目的を持って文学で戦争するのです。ルーテルが部屋で書き物をしていた時、悪魔が出て来たので、インクスタンドを取って悪魔にぶっつけたという話がありますが、これがほんとうの文学だと思います。
 有名なウォルフ将軍 がケベックの町を取るときに、グレイのエレジーを口ずさみながら語った言葉があります。「このケベックを取るよりも、我はむしろこのエレジーを書かん」と。
 このエレジーは過激な文章ではありません。しかしイギリス人の心を、ウォルフ将軍のような心をどれだけ慰め励ましたか知れません。
 このトーマス・グレイという人は有名な文学者で博学、多才な人でした。しかし、彼が何を遺したかというと、たぶん二百か三百ページくらいの本で、しかもその中のエレジーと言う、たった三百行の詩のほかに目立ったものは何もありません。彼の四十八年の生涯はエレジーを書いて終わってしまったのです。
 しかしたぶん英語が話されているかぎり、彼のエレジーは忘れられないでしょう。なぜなら、この詩ほど多くの人を、ことに多くの貧しい人を慰め、世に容れられない人たちを慰め、志を抱いていながらそれを世の中に発表することのできない者たちを慰めたものはありません。彼はこのこのことによって実は大事業を行った人だと思います。
 また有名な説教者ヘンリー・ビーチャー が言った言葉に「私は六、七十年の私の生涯を送るよりも、むしろチャールス・ウェスレーの書いた「Jesus Lover of my soul」の賛美歌を作ったほうが良い」と申しました。彼がウェスレーの熱烈な崇拝者であったにしても、この歌の中に、どれだけの真情、どれだけの趣き、どれだけの希望があるのかを見ます時、あるいはビーチャーの言ったことはほんとうかも知れません。
 このようにもし我々に思想があって、それをただちに実行できないならば、それを書物として後世に遺すことは大事業ではないかと思います。
 こう申しますと、諸君の中にはまたこういう人があるでしょう。すなわち、文学者は特別の才能を持った人で「我々には本を書くなどということはとてもできない、これまで筆を執ったこともないし学問もない。源氏物語を見ても、とてもこういう流暢な文は書けない、山陽の文を見てとてもこういうものは書けないと思って、自分は文学者になることはできないと失望する人がいます。
 その失望はどこから来たかと言いますと、文学についての柔弱な考えから起こったのです。すなわち「源氏物語」的な文学思想から起こったのです。しかし、文学と言うものはそんなものではありません。
 ジョン・バンヤン という人はちっとも学問のない人でした。もしあの人が読んだ本があるならば、バイブルとジョージ・フォックス の書いた「Book of Martyrs」(殉教者についての本)という二冊でした。
 後のほうの本ですが、今ではこのような本を読む忍耐力のある人はいません。私は札幌にいたころそれを読んだことがありますが、十頁くらい読むと後は読む気がしなくなる本です。特にクエーカーの書いた本ですから、間違いだらけです。しかしバンヤンは初めから終わりまでこの本を読みました。そして彼は言いました。  「私はプラトンの本も、またアリストテレスの本も読んだことはない。ただイエス・キリストの恵みにあずかった憐れな罪人だから、自分の思うまま、そのままを書こう」と言って「Pilgrims Progress」(天路歴程)という有名な本を書きました。
 それでイギリス文学の批評家の中で第一番というフランス人テーヌという人が、バンヤンのこの書を評して何と言ったかというと、「たぶん純粋と言う点から英語を論じた時にはこれに勝る文章はあるまい、これはまったく外からの混じりけのない、もっとも純粋な英語だろう。」と言っています。
 このように、かくも有名な本は何かと言うと、無学な人が書いた本です。それでもし我々にジョン・バンヤンの心がけ、すなわち我々が他人から聞いた、つまらない説を伝えるのではなく、自分の作りあげた学説を伝えるのでなく、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということだけを書くならば、世間の人はどれだけ喜んでこれを読むか知れません。
 現代の人が読むだけでなく、後世の人もきっと喜んで読むでしょう。バンヤンはほんとうに「真面目な宗教家」です。心の実験を真面目に表したものが英国第一等の文学です。
 もし我々の中に文学者になりたいと思う気持ちを持つ人がありますなら、バンヤンのような心がけを持たなくてはなりません。彼のような心がけ持ったならば文学者になれない人はいないと思います。
 この前、「基督教青年」という雑誌を出している丹波さんが私のところへ来まして、それをどう考えますかと聞かれたので、実につまらない雑誌だと答えました。どうしてかと言いますと、それは、青年が学者の真似をして、つまらない議論をあちこちから引き抜いて来て、のりでくっつけたような論文を出すからです。もし青年が心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切に遺しておきましょうと申しました。
 私は誰かの名論卓説を聞きたいのではありません。私は、女からは女の言うようなことを、男からは男の言うようなことを聞きたい。青年からは青年の、老人からは老人の思っている通りのことを聞きたいのです。それが文学だと思います。
 ただ我々の心のままをすなおに表してみて下さい。そうすれば、いくら文法が間違っていても、世の中の人は読んでくれます。それこそが我々が後世に遺すものです。
 私の家には高知から来た一人の女中がいます。非常に面白い女中で、いろいろの世話をしてくれますが、ある時はほとんど私の母のように世話をやいてくれます。その女が手紙を書くのをそばで見ていますと、非常に変わった手紙です。仮名で、土佐言葉のまま、長い手紙を書きます。実に読むのに骨が折れる。しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます。
 文学とは、我々の心情に訴えるものです。我々が文学者になれないのは、筆を取ることができないからではなく、漢文が書けないからでもありません。我々の心に鬱勃とした思想がこもっていて、我々が心のままに、ジョン・バンヤンのように綴ることができるならば、それが最高の文学です。
 こうしてもし我々が今の世の中に事業として遺すことができなければ、我々は書物を以って我々の考えを後世に遺して逝くことができます。
 しかしこう申しますと、またこういう問題が出て来ます。我々は金を貯めることができず、また事業をすることもできないならば、みんなが文学者になったら良いのでしょうか?文学者が増えると言うことは、ただ印刷所と製紙会社を喜ばすだけで、あまり社会に益とならないかも知れません。
(つづく)

(要約)後世への最大遺物(3)

2008年11月22日 15時12分51秒 | 後世への最大遺物
 それでは、その他には後世への遺物はないのでしょうか。
 なるほど、文学者になることは、やさしいこととは思いますが、しかし、誰でも文学者になることは、実際には望まれることではありません。
 たとえばそれは、学校の先生が、・・・ある人が言うように、誰でも大学に入って学士の称号を取り、その上にアメリカへでも行って学校を卒業して来れば、それで先生になれると思うのと同じことです。
 私の通っていたアマースト大学のシーリー教頭が、「この学校では月謝を払えば、地質学を研究する人、動物学を研究する人など、いくらでも学者は育てられる。しかしながらそれを教えることができる人は実に少ない」とたびたび仰っておられたことを今でもよく覚えています。
 これは我々が深く考えるべきことで、学校さえ卒業さえすれば、必ず先生になれるという考えは持ってはならないと思います。学校の先生になるということは、特別の天職だと私は思っています。
 良い先生というものは必ずしも大学者ではありません。私が札幌におりました時にクラーク先生という教師がいて、植物学を受け持っていました。その頃には我々はクラーク先生を第一級の植物学者だと思って、先生の言われることは植物学上誤りのないことだと思っていました。
 ところが彼の本国であるアメリカに行って聞くと、ある学者などは、「クラークが植物学について口を利くとは不思議だ」と言って笑っていました。
しかしとにかく、先生は教えるということについてはカリスマ的な力を持っていた人でした。どういう力かというと、植物学を青年の頭の中に注ぎ込んで、植物学という学問に対してInterest(興味)を起こさせることができる人でした。
 ですから学問さえあれば誰でも先生になれるという考えは、捨て去ってしまわなければなりません。先生になる人は、学問ができるよりも、-学問もなくてはなりませんが-それを伝えることができる人でなければなりません。これは一つの才能です。ここに非常に重要な意味が含まれています。たとえ我々が文学者になりたい、学校の先生になりたいという望みがあっても、必ずしも誰にでもなれるものではないと思います。
 ここに至ってまたこういう問題が出て来ます。文学者にもなれず、学校の先生にもなれなかったら、後世に何も遺すことができないかという問題です。私は無用の人間として、平凡な人生を送り死んで行かなければならないのでしょうか?
 私はそれよりももっと大きい、今度は前の三つとは違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思います。これは実に最大遺物です。金も事業も大いなる遺物に違いありませんがこれらを最大遺物ということはできません。文学も後世への価値ある遺物とは思いますが、私はこれを最大遺物と言うことはできません。
 その理由の一つは、誰にでも遺すことのできる遺物ではないからです。そればかりではなく、その結果は必ずしも害のないものではありません。お金は用い方が悪いと、たいへん害をもたらすものです。事業も同じです。クロムウェルの事業とか、リビングストンの事業はたいへん利益があります代わりにまた害が伴っています。また本を書くことも、その中に善いこともあり、また悪いこともたくさんあります。我々はそれを完全なる遺物または最大遺物と名づけることはできません。
 それならば最大遺物とは何でしょうか?誰にでも遺すことができる遺物、利益ばっかりで害のない遺物、それは「勇ましい高尚な生涯」だと私は思います。つまり「この世の中は決して悪魔が支配する世の中ではなく、神が支配する世の中だ」と言うこと、「失望の世の中ではなく、希望の世の中だ」と言うことを信じ抜いて生きる生涯です。それを生涯かけて実践し、世の中への贈り物としてこの世を去るということです。
 今までの偉大な人々の事業や文学を考えて見ます時に、それらはその人の生涯に比べれば実に小さい遺物だろうと私は思います。
 パウロの書簡は実に有益ですけれども、彼の生涯に比べれば価値のはなはだ少ないものではないでしょうか?彼自身はこれらよりもはるかに偉大な存在だと思います。
 クロムウェルがアングロサクソン民族の王国を造ったことは大事業ですけれども、彼があの時代に立ち上がって自分の思想を実行し、勇壮な生涯を送ったことは、その十倍も、百倍も価値のあることではないかと考えます。
 私は昔からトーマス・カーライルの本を非常に愛読しそれを読んで利益を得、刺激を受けて来ました。そして彼を非常に尊敬しています。けれども、私は彼の書いた四十冊ほどの本をみな集めてみても、カーライル彼自身の生涯に比べた時には、それらは実に価値の低いものだと思います。
 先日カーライル伝を読んでそのことを強く感じました。彼の著したもので一番有名なのは、「フランス革命史」です。この本を読む人は、今から百年ばかり前のフランス革命の歴史を目の前に活きている絵のように見せてくれることに感動するでしょう。
 しかしながら彼の生涯の実験を見ますと、この本よりもまだまだ立派なものがあります。その話しは長いのですが、ここにみなさんにお話しすることを許していただきたい。
 カーライルがこの書を著すのは彼にとってほとんど一生涯の仕事でした。広く材料を集めて、歴史的研究を凝らして出来上がった本です。何十年かかかって、実に カーライルの生涯の血を絞って書いたといっても過言でないものです。
 彼はこれを原稿用紙に書いておいて、出版する時機を待っていました。ある時友人が来て、カーライルがその話しをしたら、「実に結構な書物だ。今晩一読を許してもらいたい」と言いました。カーライルは他人の批評を仰ぎたいと思ったので、それを貸してあげました。その友人はそれを家へ持って行きました。すると友人の友人がやって来て、これを手に取って読んで見て「これは面白い本だ。一つどうか今晩私に読ませてくれ」と言った。そこで友人が「明日の朝、早く持って来い。それならば貸してやる」と言って貸してあげた。するとこの人はまたこれを家へ持って行って一生懸命に読んで、明け方まで読んだが、明日の仕事に妨げになるというので、その本を机の上に放りっぱなしにして、床について寝入ってしまった。翌朝下女がやって来て、彼の起きない前にストーブに火をつけようと思って、何かいい反古紙はないかと思って調べたところ、机の前に書いたものがだいぶ散らかっていたので、これはいいだろうと思って、それをみんな丸めてストーブの中に入れて火をつけて焼いてしまった。カーライルの何十年かかかって書いた「革命史」が三分か四分の間に煙となってしまった。それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた。なんとも言うことができない。紙幣を焼いたならば、紙幣で償うこともできる。家を焼いたならば、家を建ててやることもできる。しかし思想の凝ってなったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったものは、償いようがない。死んだものはもう生き返らない。そのために腹を切ったところで、何も変わりません。それで友人に話したところ、友人も実際どうすることもできず、一週間黙っていた。何と言っていいか分からない。仕方がないから、そのことをカーライルに言った。
 その時、カーライルは十日ばかりぼんやりして何もしなかったと言うことです。さすがのカーライルもそうだったろうと思います。それで腹が立った。ずいぶん短気の人でしたから非常に腹を立てた。彼はその時は歴史の本などはほうりだして、つまらない小説を読んでいたそうです。しかしその間に自分に帰って「トーマス・カーライルよ、お前は愚人だ。お前の書いた「革命史」はそんなに貴重なものではない。最も尊いのはお前がこの困難に耐え再び筆を取ってそれを書き直すことだ。それがお前のほんとうに偉いところだ。実にこのことについて失望するような人間が書いた「革命史」を社会に出しても、役に立たない。だからもう一度書き直せ」と言う内なる声を聞いて、自分で自分を鼓舞して、再び筆を取って書いたのが「フランス革命史」です。
 この話しはこれだけです。しかし、我々がその時のカーライルの心情を理解しようとすると、実に想像に余りあります。カーライルの偉いところは「革命史」という本によってではなく、火で焼かれたものを再び書き直したと言うことです。もしその本が残っていなくとも、彼は実に後世への大いなる遺物を遺したのです。たとえ我々がいくらやり損なっても、いくら不運にあっても、その時に事業を捨ててはならない、勇気を奮い起こして再びそれに取り掛からなければならないという心を起こしてくれます。これによって、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないでしょうか?
 今の日本は、金がない、事業が少ない、良い本がない、と人々は言います。しかし、日本人お互いが今必要としているのは何でしょうか?私が考えるに、今日の第一の欠乏はLife(生命)だと思います。
 近頃はしきりに学問や教育、すなわちCulture(修養)ということが大きな関心事になっています。我々はどうしても学問をしなければならない。またどうしても我々は青年に学問を注ぎ込んで、後世の人に伝えなければならないと言います。
 このことは大変良いことですが、もし我々が今から百年後にこの世に生まれて来たとして、明治二七年頃の歴史を読むとすればどうでしょう。ここにも学校や教会、青年会館が建っている。それはある人がアメリカに行って金をもらって来て建てたとか、あるいはこういう運動をして建てたかという時に、「ああ、とても私にはそんなことはできない。今ではアメリカに行って金はもらえまい。私にはそういう真似はできない。私はそういう事業はできない」と言って失望するでしょう。
 すなわち彼らは、学校や教会という建物を受け嗣ぐかも知れないが、彼ら自身を動かす大切な原動力をもらわない。
 ところが、もしここに売却してみたところでほんのわずかの価値しかない教会が一つあったとします。それが建った歴史を聞いた時にこういう歴史だったとします。・・・
 この教会を建てた人はほんとうに貧乏で、学問も別にない人だった。けれども彼は自分の全ての浪費を節約して、全ての欲情を去って、ただ自分の力だけに頼ってこの教会を建てた。・・・
 こういう事を知ると私にも勇気が起こって来ます。彼にできたならば、自分にもできないことはない。私も一つやってみようと言うようになる。
 さて、ここで私は近世の日本の英傑、あるいは世界の英傑と言っても良い人の話しをしましょう。その人は、ちょうど我々が泊まっているこの箱根の山の近所に生まれた人で二宮金次郎という人です。
 この人の伝記を読んで私は非常に感動し、大きな感化を受けました。彼の事業はそれほど日本に広がってはいません。全部まとめてみても、二十カ村か、三十カ村かの人民を救っただけに止まっています。
 しかしこの人の生涯が私に感動を与え、今日の日本の多くの人を感動させるわけは何かと言いますと、この人は事業ではなく、「生涯」という贈り物を遺したのです。
 この人は十四歳の時に父を失い、十六歳の時に母を失い、家が貧乏で何もなく、そのために残酷な伯父に預けられた人です。兄弟は弟一人、妹一人がありました。 では孤児のようなこの人がどうして生涯を立て直したかというと、伯父さんの家で手伝いをしている間に本が読みたくなった。夜、油の明かりで本を読んでいると伯父さんに叱られた。高い油を使って本を読むなどと言うことは馬鹿馬鹿しいと言って読ませなかった。それで、川辺へ行って、菜種を蒔きました。一年かかって菜種を五、六升も取り、それを油屋へ行って油と取り換えて来て、それからその油で本を読みました。
 ところがまた叱られた。「油が自分のものなら本を読んでも良いと思うのは見当違いだ。お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするくらいなら、その時間に縄を撚れ」と言われた。それからまた仕方がないから伯父さんの言うとおり終日働いて、その後本を読んだ。・・・
 こういう苦学をした人です。村人が遊んでいるお祭りの日などに、近所の畑の中に洪水で沼になったところに田んぼを作って稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。
 その人の自伝によると「米を取った時の私の喜びは何とも言えなかった。これは天が私に初めて直接に授けたもので、その一俵は私にとって百万俵の価値があった」と言っている。それからその方法をだんだん続けて二十歳の時に伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っていた。それからやり上げた人です。 それでこの人の生涯を始めから終わりまでみますと、「この宇宙というものは天の造って下さったもので、実に恩恵の深いもので、人間を助けよう、助けようと思っている。だから我々が天地の法則にしたがって行動すれば、我々を助けてくれる」という考えを持っていました。そればかりでなく、その考えを実行しました。そしてついには多くの村々の農業を改良して献身的に働きました。江戸時代末期において、非常に功労のあった人です。
 それで我々も二宮金次郎先生のような生涯をみますときに、「もしあの人にああいうことができたならば私にもできないことはない」という考えが沸いてきます。それは特別なものではありませんが、非常に意味のある生涯だと思います。人に頼らず神に頼り、宇宙の法則に従って生きて行けば、この世界は自分の願いどおりになるということを悟ることができます。彼の事業は小さかったけれども、彼の生涯は何と大きい生涯だったか知れません。
 私だけでなく、多くの人々がこの人からインスピレーションを得ただろうと想像します。「報徳記」という彼の自伝を読むと、実に聖書を読むような感じがします。
 ですからもし我々が事業を遺すことができずとも、二宮金次郎のような生涯を生きて行ったならば、我々は実にこの世に大事業を遺す人ではないかと思います。
 長くなりましたから、もう終わりにしますが、最後に常に私の生涯に深い感動を与えて来た言葉をみなさまの前に繰り返したいと思います。
 アメリカのマサチューセッツ州マウント・ホリヨーク・セミナリーという女学校は古い女学校で、たいへんよい女学校です。この女学校に非常に偉大な女性がいました。その人は立派な物理学の機械に優って、立派な天文台に優って、あるいは立派な学者に優って、価値ある魂を持っていました。メリー・ライオンという人です。
 彼女は日本の武士のような人で実に義侠心に満ち満ちていました。彼女が生徒たちに残した言葉は、女子ばかりではなく、男子をも励ますものです。彼女は生徒たちにこう言いました。

 他の人が行くことを嫌うところへ行け。
 他の人が嫌がることをなせ。
 
 これがこの学校の土台石です。これが世界を感化した力ではないかと思います。
 我々の多くは、他の人もするから自分もそうしようと言うのではありませんか?
 しかし、我々に邪魔があればあるほど、反対があればあるほど我々は後世に勇ましい生涯を残すことができます。友だちがない、金がない、学問がないけれども、神の恩恵によって、我々の信仰によってこれらの不足に打ち勝つことにより、我々は非常な事業を遺すことができます。
 この心がけをもって我々が毎日進みましたならば、我々の生涯は川のほとりに植えた木のように、だんだんと芽を吹き枝を生じて行くものだと思います。それは私の最大の希望であり、私の心を毎日慰め励ますものです。
 我々は後世に遺すものは何もなくとも、あの人はこの世の中に生きている間、まじめな生涯を送った人だと言われるだけのことを後世の人に残したいと思います。
(完)
 なお原文をお読みになりたい方は以下のホームページを参照して下さい。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/519_2967.html