和気清麻呂(わけのきよまろ)公(こう)とご神託
ここに立っている銅像は今から約1200年前の人、和気清麻呂公です。当時、僧・弓削道鏡は称徳天皇(後の孝謙天皇)の寵愛を受け、しばしば政治に介入して皇位を狙い「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とするお告げが宇佐八幡大神よりあったと、偽りの奏上をさせました。 宇佐神宮を深くご崇拝になっておられた天皇は、真相確認のため和気清麻呂公を派遣しました。・・・
西の海たつ白波のうえにして
なにすごすらんかりのこの世を
と詠んで彼は都を立ち、10日余りの旅の後に宇佐神宮に到着し、斎戒沐浴して神殿にぬかづいたところ、7月11日の日に次のようなお告げを受けました。
「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(天皇)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」
そこで 彼は八幡大神託宣記2通を作り、1通は神宮に納め、1通を陛下にご報告する者にして、同月の21日に都に帰り着き、御所へ報告しました。
清麻呂公37歳の時でした。
公は古事にも通じ「民部省例や和氏譜を著し、当時の大事業だった平安遷都にも大功を残しました。一方道鏡は冠位を剥奪され、下野国薬師寺別当として赴任させられ、宝亀3年4月に死んだと言われています。 かくして道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ、脚の腱を切られた上、大隅国(現在の鹿屋市)へ流されました。途中、暗殺を謀って送られた道鏡の刺客らが襲いかかろうとした時、突然天地雷鳴が轟きわたり、300余頭の猪の大群が押し寄せて彼を護ったり、さらに宇佐神宮に詣でたところで、道鏡に傷つけられた脚が全快したりするなど、数々の奇跡が起きたと伝えられています。 翌年天皇が崩御され、光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改めたおり、清麻呂公は召し返され元の位につきました。
思うに皇室が今日あるのはひとえに敢然として神意に従った、和気清麻呂公の至誠の精神にあったと言っても過言ではないでしょう。
他の資料から
少年日本史より
p157
・・・ところで仏教を奉ずる僧が、鑑真や行基のように大和上と尊ばれ、菩薩と仰がれるような孝徳の人であれば良いのですが、中には悪い僧もいました。その代表例が弓削道鏡です。
彼も初めは評判が良かったので、聖武天皇の後を継いだ女帝、孝謙天皇の信任を得ました。しかししばらくして、初めは大臣禅師、2年後には太政大臣禅師などという、律令の制度にもなかった不思議な冠位に任ぜられ、政治においても、仏教界においても最高の地位を兼ねるようになりました。
さらに翌年には法王の位を授けられ、その宮職として長官、次官なども発令されて、法王庁が組織されました。そして神護景雲3年の正月には大臣豪族一同が頭を下げて年頭の挨拶に行くようになり、九州の太宰府宇佐八幡宮の宮司は、道鏡は間もなく天皇の位を狙うのではないかと見て、早手回しに御機嫌を取って置こうとしました。そして、「宇佐八幡の神託として、道鏡が天皇の位につけば、天下太平である」と告げたのです。
宇佐八幡に信仰の篤かった天皇は、そこで信任の厚い尼の法均を遣わし、真偽を確かめたいと思いましたが、婦人の身で九州にまで行くのは容易でなかったため、その弟の和気清麻呂を代わりにお遣わしになりました。
清麻呂はこの時、37歳、勅命を奉じて宇佐八幡へ向かい、神前にぬかづいて、謹んで神意を伺いました。 この時、忽然として神が顕現され、「我が国は天地開闢以来君臣の分定まれり。しかるに道鏡何たる無道であるか、臣下の身でありながら天位を望むとは。天位は必ず皇統をもって継承されよ、無道の者は早く取り退けるがよい。」とお告げがありました 清麻呂は奈良へ帰り、そのことをありのままに上奏しました。道鏡は怒って清麻呂を鹿児島へ、姉の法均を広島へ流罪にしてしまいました。
この姉の法均は元の名は広虫というのですが、清麻呂と共に早くから孝謙天皇に仕え、深く信任されていました。そして天皇が出家されると、自分も出家して尼となり、名を法均としていたのです。
かつて、恵美押勝の乱があって375人の者が死刑に処せられる筈でしたが、法均は固く天皇を諫めて流罪や禁固の刑に減じさせたことがありました。
またこの乱の後、飢えと病に苦しんで、捨て子をする者がたくさんあった時に、彼女は「藪の中に捨てられている子供を拾い集めて」自分の養子にして育てました。それが83人もいたと言います。
そういう人でしたから天皇は重大な問題について神意を伺う大任を彼女に命ぜられたのです。
この姉から見込まれて代行を命ぜられた、清麻呂の人となりも推して知るべしです。
宇佐へ出発する前に道鏡から呼ばれて行くと、「首尾よく大任を果たしたなら大臣に取り立てる」と約束されたそうです。
清麻呂の上奏を聞いた道鏡は大いに腹を立てて、鹿児島へ下る途中の清麻呂を暗殺しようとしましたが、果たせませんでした。
詳細
和気公と護王神社より
・・・
2.姉広虫の貞節
清麻呂公の生涯を理解するには、まず3歳年上の姉、広虫姫について知らねばならない。広虫姫は14歳の時、皇后付きの役所に勤める葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚し、夫と共に宮廷への出入りを認められ、やがて孝謙女帝の女嬬(じょじゅ)として仕えるようになった。夫に先立たれてほどなく孝謙上皇が出家されると、広虫姫も隋って尼となり、法名(法均)としてひたすら忠勤を励むようになった。そのため上皇の腹心として破格の信任を得ていた。
ところがその孝謙上皇は、出家後も政治の実権を掌握していて、時の太政大臣、恵美押勝(えみのおしかつ)よりも、上皇にとりいって来た弓削道鏡を重用され、764年、押勝は反乱を起こしたが、逆に近江で官軍に捕えられ斬殺された。その際、朝廷では、道鏡の画策により、押勝の一味375人を死罪にすべきだという意見が強かったが、それを聞いた法均尼は、乱後に再び即位された称徳女帝(孝謙上皇)に切々と訴えたので、女帝は直ちにその諫言を入れ、刑を減じて流罪などとされた。
これには二つの重要な意味がある。ひとつは、乱後まさに世は道鏡太政大臣の天下となり、他の多くの官々が雌伏せざるをえなかった当時、尼僧の身で敢えて反乱関係者の命を救おうとした広虫姫の勇気と見識である。彼女としては、慈悲の仏門に心を寄せられた上皇が再び天皇の御位に即かれたのであるから、主上のためを思えばこそ、身の危険を顧みず、過酷な処断を下されないように進言したと思われる。いまひとつは、道鏡を過信されたかに見える称徳女帝が、広虫姫のような一女官の忠告に耳を傾けられ、直ちに関係者全員の減刑措置を実行されたことである。これらは天皇が如何に広虫姫を深く信任しておられたかを示すと同時に、必ずしも道鏡の言うがままになっておられたわけではなかったことを伺わせる。
しかも広虫姫は押勝の乱の後、貧しい人々が飢餓や疫病に苦しみ、幼児を草藪に捨てて行くのを見るに忍びず、孤児83人を養子として育て、彼らに「葛木首」(かつらぎのおびと)の氏姓を賜り、自活できるようにしてやった。さらに「続日本記」によれば、その8年前には「京中の孤児を集めて衣糧を給し養い、成人した男9人、女1人に葛木連の姓を賜い、戸籍に編入して親子の道をなさしむ。」とある。養老・太平年間に興福寺や左右京に設けられた悲田院が公立の救貧孤児院だとすれば、これはまさに私立の孤児院の魁(さきがけ)だった。このように広虫姫は慈悲深く、毅然とした態度を貫く女性だった。それゆえ、称徳女帝の崩御後も光仁天皇から重用され、齢70歳で没した。
また「日本後記」には、光仁天皇が「侍従たちの多くは毀誉紛紛であるが、法均(広虫姫)のみは、他人の過ちを語るのを未だ聞いたことがない。」と仰せられたとある。
姉弟の仲が好く、家財も一緒にして分けなかったとか、死に臨んで「自分の死後77の忌日や忌明けには追い福の法要などしないで2,3の僧が静かな部屋に座して仏様を礼拝するだけでよい」と弟の清麻呂に遺言したと伝えられている。
・・・
4.命がけの皇統護持
このように清麻呂公は平城の都で近衛将監として称徳女帝の近辺警固役を勤めていたが、30代半ばですでに妻子もあり、平穏な家庭を築いていたと思われる。そこに人生の大きな試練が待ち受けていた。
弓削道鏡は孝謙上皇=称徳女帝の看病僧として寵愛され、権勢を欲しい儘にするようになった。特に恵美押勝の乱の翌年には太政大臣禅師の職に任じられ、さらに法王の位を授けられてからは「政治の一切を取り仕切り、あたかも天皇のごとく振る舞った。さらに769年の正月には大臣以下の拝賀および寿詞を受けるなど自ら天皇になぞらえるかのごとくだった。
そしてそのような道鏡の御機嫌を取る者まで現れて来た。その一人が太宰府の主神(かんづかさ)となった中臣習宣阿蘇麻呂(なかおみすげのあそまろ)である。彼は道鏡の弟、弓削浄人(ゆげのきよんど)と結託して?宇佐神宮の神主を仲間に引き入れ、宇佐八幡の神の託宣として「道鏡をして皇位に即かしめ給わば天下太平とならん」と奏上してきた。
この託宣を聞いて道鏡は喜んだが、彼を寵愛して来た称徳女帝は、あらためて事の重大さに驚かれ、思い悩まれた。そんなある夜、夢に「八幡の神の使いが現れ、(宇佐八幡の)大神さまは天皇に真実を伝奏したいので、尼の法均(広虫姫)を遣わすように請うて居られる」と告げた。称徳天皇は「法均のような女の弱い足では遠路に堪え難いから、代わりに弟の清麻呂を遣わしたい」と答えられたところで夢が覚めた。よって早速、清麻呂公を召され「汝よろしく早く参りて神の教えを聞くべし。」と命じられたのである。
それを知った道鏡は、ひそかに清麻呂公を呼んで「宇佐の大神が遣使を請うのは、我を即位せしめよと告げるためであろうから、そのように返奏してくれるならば、汝に「大臣の位をも与えるであろう」と誘惑した。そして清麻呂公の本姓を改めたり、出身地の藤野郡を和気郡と改めるなど、公の歓心を引こうとやっきになった。また当時弟の浄人は大納言など多くの役職を兼ねて、兄道鏡の権勢を笠に着ながら内外ににらみを利かせていた。
もしも清麻呂公が自己一身のみの安泰を考えられるならば、このような道鏡の甘言に乗り、浄人の武威に服さざるを得ない状況だった。
(2)清麻呂公の信念
しかし、清麻呂公は毅然として九州に赴かれた。時に37歳である。郡を発つ際、かつて道鏡の師匠であった路真人豊永(みちのまひととよなが)が、ひそかに清麻呂公と会い、「もしも道鏡が天皇の位に登るようなことになれば、われ何の面目をもってその臣となることができようか。われ二三子と共に「今日の伯夷となるのみ」(覇王に仕えることを拒んだ伯夷叔斉のごとく節を全うする者)となるのみ。」と打ちあけた。清麻呂公はその言葉を深く胸に秘めるとともに、固く「致命の志」(命がけの決意)を懐いて、宇佐神宮に詣でられたのである。
ところがその社頭に額づかれた公に、神主の口から伝えられた託宣は、先と同じく道鏡に天皇の位を授けるがよい、というものであった。そこで、清麻呂公は必死の祈りを込めて、次のごとく叫ばれた。
「いま(八幡)大神の教えたまうところ、これ国家の大事なり。託宣は信じ難し。願わくば神異を示し給え」
すると、不思議なことに身の丈3丈(9m)あまり、満月のように輝かしい大神が忽然として姿を現したので、さすがの清麻呂公も、魂を消し、度を失って仰ぎ見ることもできなかった。この時、あらためて次のような託宣が下されたのである。
「わが国家は開闢より以来、君臣定まれり。臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く払い除くべし。」(続日本後記)
「わが国家は君臣の分定まれり。道鏡、悖逆無道にして、たやすく神器を望む。ここをもって神霊震怒し、その祈りを聴さず。汝、帰りて吾が言のごとく奏すべし。天津日嗣は必ず皇緒を続けよ。汝、道鏡の恨みを懼れることなかれ。吾れ必ず相済わん。」(日本後記)
これこそ、清麻呂公が神前において直接感得された神の神託であり、先の託宣は全く神慮に反する偽宣だと言うことが明確にされたのである。
これはまさしく清麻呂公の確固たる信念が宇佐の大神に通じて、それが託宣として示されたものと解することができよう。この託宣通りに称徳天皇に奏上すれば必ずや身に危険が迫ることを予測し、それでも敢えて節を曲げてはならないと決意して居られた清麻呂公の並々ならぬ固い覚悟のほどを示すものとみなしてよいであろう。
(3)復奏と大隅配流
かくて、清麻呂公は、非常な決意のもとに帰京して「神教」のとおり復奏された。それを聞かれた称徳天皇はさぞ安堵されたことであろう。しかしながら、野望を挫かれた法王道鏡は、烈火のごとく怒り、天皇に強要して詔を出させた。それによれば、清麻呂公は姉法均と共謀して「いと大きに悪くかためるいつわりごと」を「大神のみことのりと偽りて」奏上したと非難し、「別部穢麻呂」と改名させ、九州の大隅の国(鹿児島)へ配流すると同時に、法均尼も還俗のうえ、「別部狭虫」と改めさせ、備後の国(広島)へ配流してしまったのである。
道鏡は清麻呂を死刑にせよと迫ったが、それはならず、またその刺客が清麻呂公を殺そうとしかけた時、称徳天皇が遣わされた勅使の到来により、危難を免れることができた。
さらに参議の藤原百川が清麻呂公の忠烈に感じて、封戸収入の一部を配所に送ったとも言う。これは当時の中央政界にも清麻呂公をひそかに支援する反道鏡派が少なからずいたことを示すものと言えよう。
なお、薨伝と「水鏡」(扶桑略記)によれば、清麻呂公は道鏡のために脚の筋を切られて脚が萎え、起きて立つこともできなくなった。しかし大隅へ流される途中、宇佐八幡の大神に参詣するため豊前の国宇佐郡下田村まで至ると、野猪が300頭ばかり路を挟んで連なり、清麻呂公はその野猪たちに護られながら輿に乗って参拝を果たされたところ、起って歩むことができるようになった。平野邦雄博士によれば。豊前の上下田近辺には秦氏ゆかりの下田氏など在地の土地勢力で清麻呂に呼応する者があったようである。賀茂縁起に猪のかむりして祭を行う習俗を秦氏などが持っていたという。
一方法王道鏡は反省するどころか、一挙に野望を遂げようと、道鏡の故郷に建てた弓削宮を平城の宮都に準じて、「西京」と称し、その所在地である河内の国を、都に置かれていた摂津職と同じく河内職に格上げしている。おそらくここに都を移して自ら天皇の位につこうとする布石だったのであろう。
しかし称徳天皇はどんなに道鏡に強要されても、ついに皇位を譲ることはなく、770年53歳で没した。その直後道鏡は造下野薬師寺別当に左遷され、浄人らは土佐に配流され、清麻呂公とその姉法均は召喚された。
コラム 清麻呂公の子孫達
公には六男三女があった。長男の広世は弘分院を創立し、内外の経書数千巻を収め、墾田20町を寄進して永く学科に充てしめた。また五男の真綱は「稟性敦厚、忠孝兼資、事の中を執り、未だ嘗つて邪なし」と称され、常に正言を貫く孤直の人であった。さらに六男の仲世は「天性至孝・・・奉公忠謹」と称され、毎晩寝る時宮城に足を向けたことがなく、播磨に国主として赴き清静にして民を化育したと記されている。・・・・・・・・・・