内村鑑三先生の代表的日本人の中の日蓮の項を英語から私訳しました。日本が生んだもっともユニークな宗教人 日蓮をあらためて見直してください。
実際にはワードにより日本語と原文の英語を対照できるように作りましたので、ご希望の方は管理人までメール下さい。折り返し添付ファイルにより英文対照つきの私訳 代表的日本人-日蓮をお送りします。(管理人のメールアドレスはoyamakuniopy@gmail.comです。)
<日蓮上人-仏教僧侶>
Ⅰ.日本における仏教
宗教は、人間のもっとも主要な関心事である。
普通に理解されているところでは宗教を持たない人間など考えられない。
この不可解な人生において、我らの欲望が我らの能力以上に大きく、我らの望むところが、世界が行いまた与えることができる一切をはるかに超えている時に、何かがこれらの不釣合いを取り除く為になされなければならない。-もし我らの行動においてでなければ、少なくとも我らの思想においてである。
実際、我々は往々にしてある人たちが「彼らは無宗教だ」などと言うのを聞く。
だがそれは、彼らがただ、ある特定の教義に署名せず、彼らの導き手として祭司たちの命令に服することなく、そして彼らの神として何ら木や金の、あるいは精神的な偶像に敬意を払わないということに過ぎない。
しかしそれにもかかわらず、彼らは宗教を持っているのである。
彼らの内にある「不可解なるもの」はある方法によって、飼い慣らされているのである。すなわち「黄金礼拝」とか「ウィスキー聖餐」とか、あるいはそのほか彼自身が選んだ催眠法とか鎮静法によって、不甲斐なくされているのである。
人の宗教は、人生についての彼自身の説明である。そしてその何らかの説明がこの争い多い世界においてうまくやっていくために、絶対に必要なのである。
それだから、死についてのすべての重要な問題、-それは貧しい者の希望であり、富める者の恐怖なのだが、-それはあらゆる問題中の問題なのである。
「死」のあるところ、宗教は必ず存在しなければならない。それは我々の弱さの徴であるかも知れないが、しかしそれに加えてまた、我々が高貴な生まれであり、我々の内側には不死が宿っていることの徴でもある。
死んでも死なない生命、-これこそはすべての人の子たちが追い求めるものであり、宗教心に富むヘブライ人、あるいはインド人に劣らず、それは日本人の憧れでもあった。
そして我々が「復活」について何も聞かなかった過去二十五世紀の間、我々は自分たちの持っていた善き宗教のおかげで、何らかの形で、中には非常に立派に「死」に処して来たのである。
この美しい国土を我らの地上の家として、桜は我らの楽しい春を飾り、紅葉は我らの澄み渡った秋を彩り、そして平和な家庭生活を人生における我らの嗣業として、生きていることはただ極めて稀に我らの重荷だったに過ぎず、それだけに死はいっそう我々には悲しいものだった。
我らが、千代に八千代に生きていたいと願いつつも、死を考えることは二重の苦痛であり、さらに善き国に-それが神道の天上における聖徒の家であれ、仏教の極楽における蓮華の台であれ-我らを導くことができるという信仰によってのみ、それは和らげられたのである。
我らが死を恐れたのは、卑怯な心からではなく、むしろこの美しい国土に愛着を持っていたからである。
運命または義務が我らの生まれた、愛する国土より我々を召し出し、去らせようとした時に、宗教が我々には必要だったのである。
日本民族は自分自身の宗教を持っている。それはおそらく中央アジアの彼らの生れ故郷から携えて来たものだろう。
その宗教が本来どのような性格のものだったか、それは簡単に説明はできない。
最近それが、聖書の「出エジプト記」にあるイスラエルの「モーセ宗教」への類似性を指摘された。また別に、我々の中にユダヤ民族の伝承にある「失われた十部族」を見出そうという試みが行われたこともある。
しかし、それが何であったにせよ、それはインドに始まったはるかに一層複雑な、言ってみれば一層洗練された信仰によって取って代わられ、その影が薄くなる時が来たのである。
我々はヒンヅー教が始めて日本人の間に入って来た時の影響をやすやすと想像することができる。
その豪華な儀式、高遠な神秘主義、奔放で入り組んだ思索は、この単純な心情の国民に驚異の念を起こさせたに違いない。
それは無知な人たちの目を満足させ、教養のある人たちの知性を刺激した。
外来宗教の大規模な輸入に対して若干の愛国的反発があったにもかかわらず、ヒンヅー教は巨大な歩みをもって日本に広がって行った。
少なくとも一時期、古い信仰はまったく背後に斥けられ、新しい信仰が続く数世紀の間、至上の権力を揮った。
仏教が日本に伝わったのは二九代欽明天皇の代の十三年、キリスト紀元で言えば五五二年、仏教年代記で言えば、仏滅後千五百一年である。
天王寺の大伽藍は早くも紀元五八七年に、かつてこの国に在位したもっとも賢明なる皇子であって、日本仏教の父である聖徳太子によって、難波(大阪)に建立された。
次の世紀である七世紀には、活発な改宗運動が全国に見られ、天皇自らこのことに率先した。
この頃、中国においては唐代の名僧玄奘の指導の下に仏教の大復興が起こった。(彼の冒険的なインド旅行はバルテルミイ・サン・ヒレイルによって、きわめて活き活きと記述されている。)
そして学者たちは日本から海を渡って、この仏教を発生の地において求めた人の下で学ぼうと、派遣された。
奈良朝歴代の天皇(七〇八-七六九)はことごとく仏教の強力な支持者だった。 今なおその王朝と同名の旧都を飾る巨大な寺院は、新しい宗教が我が国に伝わって後、速やかに獲得した勢力を証明するものである。
しかし、新たな宗教的熱心が絶頂に達したのは九世紀の初頭、最澄、空海の二人の仏教僧がそれぞれが選んだ宗派を携えて、中国での研鑽から帰国した時だった。
奈良から京都に遷都した桓武天皇は両者にそれぞれ、寺院を建てるための広大な敷地とそれに伴う資金と特権とを与えた。
最澄は、新しい都の北東、すべての災いがやって来る方角と考えられていたところに比叡山延暦寺を建てた。
空海は、紀伊の国である高野山に、その地位を確立したが、都の南端に彼に与えられた寺領を持っていた。今日京都停車場の真南に見える五重の塔のある東寺は、彼自身が設立したものだった。
比叡山延暦寺は七八八年(延暦七年)に、高野山金剛峯寺は八一六年(弘仁七年)にその基が据えられ、仏教はここに固くその根を我が国の土に降ろしたと言うことができる。
いかなる他の信仰もそれと競争することは不可能だった。そしてその創立者らが、その基礎は彼らがその上にそれを建設した山々のように揺るぎないものとして据えられたと考えたとしても不思議ではない。
こうして九世紀の初頭には、いわゆる「仏教八宗」の確立を我々は見るのである。(それについて不案内な人たちのために、ここにそれらが何であるかを記すと、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗である)。
空海が亡くなって後の四世紀間、日本に新しい宗派が伝わったこと、または成立したことを我々は聞かない。
「八宗」は次第にその勢力と感化力を加えたが、最澄の天台宗は他のすべてを先導していた。
そしてここに他と同じように、宗団が権力を握ると、それとともにあらゆる腐敗がもたらされた。
まもなく僧侶階級は「帝王の帝王」となった。ある天皇(白川上皇)は「我が意に任せないのは(双六の賽の目と)賀茂川の水の流れと、山法師ばかりだ」という、有名な言葉で僧侶の横暴を嘆かれた。
天皇は天皇に、貴族は貴族に倣って、それぞれの捧げものとして寺院を建立し、寄進し、またそれらを飾り立てた。そして大京都市とその郊外は、それらの壮大な宗教的建造物、回廊、塔、堂宇、鐘つき堂などにより、かつて我々の間に繁栄した信仰の一大記念碑となっている。
十二世紀が閉じようとするころ、長く激しい戦争の後、国内の安定的な平和は、宗教思想において新しい活動を起こした。
鎌倉幕府の将軍、源頼朝は僧侶から世俗的な権力を奪い取ったが、人々の精神的指導者として相応の尊敬を彼らに示した。そしてその結果、学識と徳において多くの尊敬すべき指導者たちが輩出した。
その後継者である北条氏は、だいたいにおいて忠実な仏教の尊宗者だった。
彼らはその当時のさまざまな宗派の荘厳華麗ではあるが浅薄な信仰に飽いて、瞑想を重んずる宗派である「禅」を紀元千二百年に中国から輸入させた。そしていくつかの大寺院が京都、鎌倉、越前に建立され、国内に新しい礼拝形式がそれから永く普及するに至ったのである。
この新しい宗派は上流階級や知識階級にとって特愛の信仰となった。その秘教主義と終わりのない形而上学とはそれまでの旧い宗派の儀礼的立ち振る舞いに対して、強い対照を見せていた。
禅の高度な主体的知性、あるいはそのほかの宗派の近寄り難さに比して、庶民はまた、ひとつの別な信仰を必要としていた。
そしてこのような信仰は、源空(法然上人)と呼ばれる一人の僧侶によって備えられた。彼は千二百七年ごろに、その後「浄土宗」(清い国の教え)と呼ばれる宗派を彼らの間に伝えた。
それは他の何にもまして浄土へ入ることができるのはただ阿弥陀仏の名を呼ぶことによると教えた。それだから一名「念仏宗」とも呼ばれた。
単純な「南無阿弥陀仏」(永遠の光でいまし給う仏よ、私はあなたに我が身を委ねるの意)が、鈴の音に合わせて唱えられた。そして全員が節をつけて訴えるかのような声で、往々にして踊りを伴って唱えられた。このようにしてこれまでの非常に尊厳だった信仰形式に対し、まったく新しい特徴を与えたのである。
この一分派が「真宗」だった。ほとんど同時代に範宴(親鸞聖人)という一僧侶によって創始され、国民大衆の上に持つことになった影響力によって、他のすべての宗派を圧倒することになった。
この宗派の非常に目新しい特徴は、僧侶階級から肉食妻帯禁止の誓いを除去したことだった。それによってかなりの寛大さが彼らに与えられ、自由に人生の普通の喜びに耽ることを差し支えなくしたのである。
仏教はこのように俗化し、庶民へのそれに近づく道は大いに容易なものとなった。そして今や宣教に何ら、宮廷の権威なしに、人々の間にひとつの勢力となり始めた。-このことは後の時代に非常に大きな結末をもたらした。
さらに念仏宗にもうひとつの宗派である「時宗」が加わって、日本において顕教派仏教の発展がここに完成した。この三つの宗派は、人々によって、お互いに、ほとんど同時に、採用されることになった。またそれと共にその時代の教養ある社会には、秘教派の禅宗が浸透して行った。
我が国はそこでさらにもう一つの宗派を持つことになった。最後に言及した宗派を含めて合計十二である。
であるから、十三世紀は日本仏教において最後のそして最大の形成期だったと言うことができるだろう。
十三世紀はまさに日本においてのヒンヅー教の変革時代だった。
その時、我々が見たようなそのような如何なる光も、以来現れなかった。そして今世紀に生きる我々は今もなお、その時、その時代の確信を篭めて語られた言葉に縋りつつあるのである。
ここに、ほかと同じように、熱心は迷信がはびこり始めると共に消え失せた。そして我々は、非科学的であることを恐れて、臆病な生き物となって、我らの行動をまったく見えるものの上に、人々が我々が今持っているような知識がなくとも誠実だった時代のかすかな木霊の上に、そして我々のように圧倒する思い煩いなしに英雄的だった時代の上に置くのである。
二、誕生と献身
貞応元年(一二二二年)のある春の日、太陽が波高き水平線の彼方に昇り、地の国々の最東方の前哨点がその最初のばら色の光線を捉えたとき、安房の国最東端の岬に近い小湊(小さな港)村の一漁夫の家に、一人の男児が生まれた。
父はある政治的理由によって、その地に亡命していた者であり、今は一介の見る影もない貧しい漁夫だった。母もまた卑しくない生まれで、日輪(太陽神)の熱心な崇拝者であり、長い間子供を与えられることを求めていたが、今や彼女の祈りに応えてそれが授けられたのである。
彼らはその子を善日麿(善い太陽の児)と名づけて、授けて下さった神を恭しく記念した。-それは、この児が後に見るように、この世界に対して自分の使命を決定するに至った時に考慮すべきひとつの事実だった。
彼の誕生に伴って起きたと伝えられるすべての不思議や奇跡-どのように水晶のような泉が滔々とその漁夫の庭の中に湧き出て「誕生地の穢れを洗い去ったか」とか、どのように常ならぬ大きさの白蓮がまったく季節外れにその傍に花開いて「空中に妙なる香りを放ったか」などなど-今世紀の我々はこれをその時代の敬虔な人達の空想とするのに慣れている。
しかし、彼の誕生の年月は、ここに特筆する価値がある。後年この若き熱心家の心に、我が国の救済という重大な問題が湧き起こったとき、彼が沈思黙考した一点はここにあったからである。
その年は釈迦が涅槃の境に入って後二一七一年であり、それは、第一の「正法千年」が終わり、第二の「像法千年」もまた経過して、最後の第三の「末法千年」がまさに到来していた時だった。その時とは、「大いなる教師」によって預言されたように、末世の暗黒を輝かすひとつの光が、かの東方より現れることが期待されていた時だったのである。
その日は陰暦の二月十六日であって、釈迦の生涯にとってあの大いなる出来事の一日後だった。
このような一致は、我らの主人公の心には、計りしれないほどの重要性を持つものだった。
彼が十二歳になった時、信心深い両親の意向によって彼を僧侶にすることが決まった。
後年彼がなしたことを考えると、我々は彼の特筆すべき幼少時の多くの物語をさもあらんと信ずることができる。そして我々はこの亡命漁夫である親の願いとして、その息子が僧職に身を捧げることが、その子の立身出世の機会として、厳格な社会的差別があったその時代においては、宗教だけが、賎しい身分に生まれた天才が世に出る唯一つの道だったことを不思議には思わない。
彼の生まれたところから遠くないところに、清澄寺という寺があった。その貫主・道善は学徳その地方に名高い人だった。
少年善日はそこに伴われ、この慈しみ深い師に預けられた。師はこの少年に特別な楽しみを抱いたように思われる。
四年の稚児生活を過ぎ、彼は正式に僧侶として、十七歳の時に新たに連長の名をもって得度を受けた。そしてすでにこの貫主は、その若い弟子の異常な才能を観察して、自分の跡を継ぐべき者として彼を指名しようと考え始めていた。
若者は依然として両親の希望であり、師の誇りだった。しかしその時すべての外側に見えるものの背後で、葛藤は彼の心の中に深まりつつあったのである。そしてそれが遂に彼を生まれ故郷を離れて、国中に光を求めるために追いやったのである。(つづく)
実際にはワードにより日本語と原文の英語を対照できるように作りましたので、ご希望の方は管理人までメール下さい。折り返し添付ファイルにより英文対照つきの私訳 代表的日本人-日蓮をお送りします。(管理人のメールアドレスはoyamakuniopy@gmail.comです。)
<日蓮上人-仏教僧侶>
Ⅰ.日本における仏教
宗教は、人間のもっとも主要な関心事である。
普通に理解されているところでは宗教を持たない人間など考えられない。
この不可解な人生において、我らの欲望が我らの能力以上に大きく、我らの望むところが、世界が行いまた与えることができる一切をはるかに超えている時に、何かがこれらの不釣合いを取り除く為になされなければならない。-もし我らの行動においてでなければ、少なくとも我らの思想においてである。
実際、我々は往々にしてある人たちが「彼らは無宗教だ」などと言うのを聞く。
だがそれは、彼らがただ、ある特定の教義に署名せず、彼らの導き手として祭司たちの命令に服することなく、そして彼らの神として何ら木や金の、あるいは精神的な偶像に敬意を払わないということに過ぎない。
しかしそれにもかかわらず、彼らは宗教を持っているのである。
彼らの内にある「不可解なるもの」はある方法によって、飼い慣らされているのである。すなわち「黄金礼拝」とか「ウィスキー聖餐」とか、あるいはそのほか彼自身が選んだ催眠法とか鎮静法によって、不甲斐なくされているのである。
人の宗教は、人生についての彼自身の説明である。そしてその何らかの説明がこの争い多い世界においてうまくやっていくために、絶対に必要なのである。
それだから、死についてのすべての重要な問題、-それは貧しい者の希望であり、富める者の恐怖なのだが、-それはあらゆる問題中の問題なのである。
「死」のあるところ、宗教は必ず存在しなければならない。それは我々の弱さの徴であるかも知れないが、しかしそれに加えてまた、我々が高貴な生まれであり、我々の内側には不死が宿っていることの徴でもある。
死んでも死なない生命、-これこそはすべての人の子たちが追い求めるものであり、宗教心に富むヘブライ人、あるいはインド人に劣らず、それは日本人の憧れでもあった。
そして我々が「復活」について何も聞かなかった過去二十五世紀の間、我々は自分たちの持っていた善き宗教のおかげで、何らかの形で、中には非常に立派に「死」に処して来たのである。
この美しい国土を我らの地上の家として、桜は我らの楽しい春を飾り、紅葉は我らの澄み渡った秋を彩り、そして平和な家庭生活を人生における我らの嗣業として、生きていることはただ極めて稀に我らの重荷だったに過ぎず、それだけに死はいっそう我々には悲しいものだった。
我らが、千代に八千代に生きていたいと願いつつも、死を考えることは二重の苦痛であり、さらに善き国に-それが神道の天上における聖徒の家であれ、仏教の極楽における蓮華の台であれ-我らを導くことができるという信仰によってのみ、それは和らげられたのである。
我らが死を恐れたのは、卑怯な心からではなく、むしろこの美しい国土に愛着を持っていたからである。
運命または義務が我らの生まれた、愛する国土より我々を召し出し、去らせようとした時に、宗教が我々には必要だったのである。
日本民族は自分自身の宗教を持っている。それはおそらく中央アジアの彼らの生れ故郷から携えて来たものだろう。
その宗教が本来どのような性格のものだったか、それは簡単に説明はできない。
最近それが、聖書の「出エジプト記」にあるイスラエルの「モーセ宗教」への類似性を指摘された。また別に、我々の中にユダヤ民族の伝承にある「失われた十部族」を見出そうという試みが行われたこともある。
しかし、それが何であったにせよ、それはインドに始まったはるかに一層複雑な、言ってみれば一層洗練された信仰によって取って代わられ、その影が薄くなる時が来たのである。
我々はヒンヅー教が始めて日本人の間に入って来た時の影響をやすやすと想像することができる。
その豪華な儀式、高遠な神秘主義、奔放で入り組んだ思索は、この単純な心情の国民に驚異の念を起こさせたに違いない。
それは無知な人たちの目を満足させ、教養のある人たちの知性を刺激した。
外来宗教の大規模な輸入に対して若干の愛国的反発があったにもかかわらず、ヒンヅー教は巨大な歩みをもって日本に広がって行った。
少なくとも一時期、古い信仰はまったく背後に斥けられ、新しい信仰が続く数世紀の間、至上の権力を揮った。
仏教が日本に伝わったのは二九代欽明天皇の代の十三年、キリスト紀元で言えば五五二年、仏教年代記で言えば、仏滅後千五百一年である。
天王寺の大伽藍は早くも紀元五八七年に、かつてこの国に在位したもっとも賢明なる皇子であって、日本仏教の父である聖徳太子によって、難波(大阪)に建立された。
次の世紀である七世紀には、活発な改宗運動が全国に見られ、天皇自らこのことに率先した。
この頃、中国においては唐代の名僧玄奘の指導の下に仏教の大復興が起こった。(彼の冒険的なインド旅行はバルテルミイ・サン・ヒレイルによって、きわめて活き活きと記述されている。)
そして学者たちは日本から海を渡って、この仏教を発生の地において求めた人の下で学ぼうと、派遣された。
奈良朝歴代の天皇(七〇八-七六九)はことごとく仏教の強力な支持者だった。 今なおその王朝と同名の旧都を飾る巨大な寺院は、新しい宗教が我が国に伝わって後、速やかに獲得した勢力を証明するものである。
しかし、新たな宗教的熱心が絶頂に達したのは九世紀の初頭、最澄、空海の二人の仏教僧がそれぞれが選んだ宗派を携えて、中国での研鑽から帰国した時だった。
奈良から京都に遷都した桓武天皇は両者にそれぞれ、寺院を建てるための広大な敷地とそれに伴う資金と特権とを与えた。
最澄は、新しい都の北東、すべての災いがやって来る方角と考えられていたところに比叡山延暦寺を建てた。
空海は、紀伊の国である高野山に、その地位を確立したが、都の南端に彼に与えられた寺領を持っていた。今日京都停車場の真南に見える五重の塔のある東寺は、彼自身が設立したものだった。
比叡山延暦寺は七八八年(延暦七年)に、高野山金剛峯寺は八一六年(弘仁七年)にその基が据えられ、仏教はここに固くその根を我が国の土に降ろしたと言うことができる。
いかなる他の信仰もそれと競争することは不可能だった。そしてその創立者らが、その基礎は彼らがその上にそれを建設した山々のように揺るぎないものとして据えられたと考えたとしても不思議ではない。
こうして九世紀の初頭には、いわゆる「仏教八宗」の確立を我々は見るのである。(それについて不案内な人たちのために、ここにそれらが何であるかを記すと、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗である)。
空海が亡くなって後の四世紀間、日本に新しい宗派が伝わったこと、または成立したことを我々は聞かない。
「八宗」は次第にその勢力と感化力を加えたが、最澄の天台宗は他のすべてを先導していた。
そしてここに他と同じように、宗団が権力を握ると、それとともにあらゆる腐敗がもたらされた。
まもなく僧侶階級は「帝王の帝王」となった。ある天皇(白川上皇)は「我が意に任せないのは(双六の賽の目と)賀茂川の水の流れと、山法師ばかりだ」という、有名な言葉で僧侶の横暴を嘆かれた。
天皇は天皇に、貴族は貴族に倣って、それぞれの捧げものとして寺院を建立し、寄進し、またそれらを飾り立てた。そして大京都市とその郊外は、それらの壮大な宗教的建造物、回廊、塔、堂宇、鐘つき堂などにより、かつて我々の間に繁栄した信仰の一大記念碑となっている。
十二世紀が閉じようとするころ、長く激しい戦争の後、国内の安定的な平和は、宗教思想において新しい活動を起こした。
鎌倉幕府の将軍、源頼朝は僧侶から世俗的な権力を奪い取ったが、人々の精神的指導者として相応の尊敬を彼らに示した。そしてその結果、学識と徳において多くの尊敬すべき指導者たちが輩出した。
その後継者である北条氏は、だいたいにおいて忠実な仏教の尊宗者だった。
彼らはその当時のさまざまな宗派の荘厳華麗ではあるが浅薄な信仰に飽いて、瞑想を重んずる宗派である「禅」を紀元千二百年に中国から輸入させた。そしていくつかの大寺院が京都、鎌倉、越前に建立され、国内に新しい礼拝形式がそれから永く普及するに至ったのである。
この新しい宗派は上流階級や知識階級にとって特愛の信仰となった。その秘教主義と終わりのない形而上学とはそれまでの旧い宗派の儀礼的立ち振る舞いに対して、強い対照を見せていた。
禅の高度な主体的知性、あるいはそのほかの宗派の近寄り難さに比して、庶民はまた、ひとつの別な信仰を必要としていた。
そしてこのような信仰は、源空(法然上人)と呼ばれる一人の僧侶によって備えられた。彼は千二百七年ごろに、その後「浄土宗」(清い国の教え)と呼ばれる宗派を彼らの間に伝えた。
それは他の何にもまして浄土へ入ることができるのはただ阿弥陀仏の名を呼ぶことによると教えた。それだから一名「念仏宗」とも呼ばれた。
単純な「南無阿弥陀仏」(永遠の光でいまし給う仏よ、私はあなたに我が身を委ねるの意)が、鈴の音に合わせて唱えられた。そして全員が節をつけて訴えるかのような声で、往々にして踊りを伴って唱えられた。このようにしてこれまでの非常に尊厳だった信仰形式に対し、まったく新しい特徴を与えたのである。
この一分派が「真宗」だった。ほとんど同時代に範宴(親鸞聖人)という一僧侶によって創始され、国民大衆の上に持つことになった影響力によって、他のすべての宗派を圧倒することになった。
この宗派の非常に目新しい特徴は、僧侶階級から肉食妻帯禁止の誓いを除去したことだった。それによってかなりの寛大さが彼らに与えられ、自由に人生の普通の喜びに耽ることを差し支えなくしたのである。
仏教はこのように俗化し、庶民へのそれに近づく道は大いに容易なものとなった。そして今や宣教に何ら、宮廷の権威なしに、人々の間にひとつの勢力となり始めた。-このことは後の時代に非常に大きな結末をもたらした。
さらに念仏宗にもうひとつの宗派である「時宗」が加わって、日本において顕教派仏教の発展がここに完成した。この三つの宗派は、人々によって、お互いに、ほとんど同時に、採用されることになった。またそれと共にその時代の教養ある社会には、秘教派の禅宗が浸透して行った。
我が国はそこでさらにもう一つの宗派を持つことになった。最後に言及した宗派を含めて合計十二である。
であるから、十三世紀は日本仏教において最後のそして最大の形成期だったと言うことができるだろう。
十三世紀はまさに日本においてのヒンヅー教の変革時代だった。
その時、我々が見たようなそのような如何なる光も、以来現れなかった。そして今世紀に生きる我々は今もなお、その時、その時代の確信を篭めて語られた言葉に縋りつつあるのである。
ここに、ほかと同じように、熱心は迷信がはびこり始めると共に消え失せた。そして我々は、非科学的であることを恐れて、臆病な生き物となって、我らの行動をまったく見えるものの上に、人々が我々が今持っているような知識がなくとも誠実だった時代のかすかな木霊の上に、そして我々のように圧倒する思い煩いなしに英雄的だった時代の上に置くのである。
二、誕生と献身
貞応元年(一二二二年)のある春の日、太陽が波高き水平線の彼方に昇り、地の国々の最東方の前哨点がその最初のばら色の光線を捉えたとき、安房の国最東端の岬に近い小湊(小さな港)村の一漁夫の家に、一人の男児が生まれた。
父はある政治的理由によって、その地に亡命していた者であり、今は一介の見る影もない貧しい漁夫だった。母もまた卑しくない生まれで、日輪(太陽神)の熱心な崇拝者であり、長い間子供を与えられることを求めていたが、今や彼女の祈りに応えてそれが授けられたのである。
彼らはその子を善日麿(善い太陽の児)と名づけて、授けて下さった神を恭しく記念した。-それは、この児が後に見るように、この世界に対して自分の使命を決定するに至った時に考慮すべきひとつの事実だった。
彼の誕生に伴って起きたと伝えられるすべての不思議や奇跡-どのように水晶のような泉が滔々とその漁夫の庭の中に湧き出て「誕生地の穢れを洗い去ったか」とか、どのように常ならぬ大きさの白蓮がまったく季節外れにその傍に花開いて「空中に妙なる香りを放ったか」などなど-今世紀の我々はこれをその時代の敬虔な人達の空想とするのに慣れている。
しかし、彼の誕生の年月は、ここに特筆する価値がある。後年この若き熱心家の心に、我が国の救済という重大な問題が湧き起こったとき、彼が沈思黙考した一点はここにあったからである。
その年は釈迦が涅槃の境に入って後二一七一年であり、それは、第一の「正法千年」が終わり、第二の「像法千年」もまた経過して、最後の第三の「末法千年」がまさに到来していた時だった。その時とは、「大いなる教師」によって預言されたように、末世の暗黒を輝かすひとつの光が、かの東方より現れることが期待されていた時だったのである。
その日は陰暦の二月十六日であって、釈迦の生涯にとってあの大いなる出来事の一日後だった。
このような一致は、我らの主人公の心には、計りしれないほどの重要性を持つものだった。
彼が十二歳になった時、信心深い両親の意向によって彼を僧侶にすることが決まった。
後年彼がなしたことを考えると、我々は彼の特筆すべき幼少時の多くの物語をさもあらんと信ずることができる。そして我々はこの亡命漁夫である親の願いとして、その息子が僧職に身を捧げることが、その子の立身出世の機会として、厳格な社会的差別があったその時代においては、宗教だけが、賎しい身分に生まれた天才が世に出る唯一つの道だったことを不思議には思わない。
彼の生まれたところから遠くないところに、清澄寺という寺があった。その貫主・道善は学徳その地方に名高い人だった。
少年善日はそこに伴われ、この慈しみ深い師に預けられた。師はこの少年に特別な楽しみを抱いたように思われる。
四年の稚児生活を過ぎ、彼は正式に僧侶として、十七歳の時に新たに連長の名をもって得度を受けた。そしてすでにこの貫主は、その若い弟子の異常な才能を観察して、自分の跡を継ぐべき者として彼を指名しようと考え始めていた。
若者は依然として両親の希望であり、師の誇りだった。しかしその時すべての外側に見えるものの背後で、葛藤は彼の心の中に深まりつつあったのである。そしてそれが遂に彼を生まれ故郷を離れて、国中に光を求めるために追いやったのである。(つづく)