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モロカイ島でライ病の人たちと共に生きたダミエン神父

2013年02月12日 08時22分46秒 | ダミエン神父

「モロカイ島でライ病の人たちと共に生きたダミエン神父」

 

 「人は何のために生き、そして死んでゆくのか」これは宗教における永遠のテーマである。

 宇宙が誕生し生命が進化して来た過程で、人間は確かにこの世界を意識する生き物として今存在している。しかしそれにしてはあまりにも不完全で、不安定な存在である。空間的にも、時間的にも極微で3次元的な制約を超えられないでいる。それどころか、近年は科学万能の世界観が覆っているのを私たちは見る。

 しかし先人たちの中には目に見えない世界を感じ、それに信じ込み、それぞれの人生を全うした人たちもいる。現代に生きるあなた方に私は問いたい。「死」を越えた復活の生命を貴方は信じますか?!

 キリストの使徒パウロはこう言っている。

 「もし死人がよみがえらないのなら、わたしたちは飲み食いしようではないか。明日もわからない命なのだ。」(コリント第一の手紙15・32)

 しかり、もし永遠の生命の世界が存在しないのなら、これまで重ねられて来た善行や偉大な業績は何になるのか?全てが無に帰すると言うなら。・・・・

 ここに約150年前、その復活の生命を信じ、親兄弟とも別れ、地の果ての南海の孤島で、世から見捨てられたライ患者と共に生きて死んで行ったダミエン神父を紹介しよう。

 

 彼を紹介するのは彼を讃えるためではない、貴方がこれから新しく生きるためである。

 

 ジョセフ・ダミエン

ジョセフ・ダミエン・デ・ヴェスターは1840年1月4日 ベルギーのさびしい村トレメルーに生まれた。「ダミエン」という名前は彼が修道僧になってからのものである。

 父は10エーカーほどの小さな土地を耕す農夫で、信仰の篤い、しかも厳格な性格の人だった。母もまた祈りの人、瞑想の人で、子供たちはその膝元に群がり、ベルギー語で書かれた木版画入りの「殉教者列伝」を毎晩のように読み聞かせてもらったという。

 父はダミエンがモロカイ島に上陸して2年後に、母はダミエンに先立つこと2年前に83歳で地上を去ったが、6人の子供たちのうち、二人の姉妹は尼僧となり、ダミエンとその兄は修道院に学んで伝道者となった。

 ダミエンの子供のころの逸話をいくつか紹介しよう。

彼が4歳の時、家族一緒に村祭りに出かけたが、途中で見えなくなってしまった。ほうぼう探してみると、その幼子が、面白く楽しい人ごみを避けて、なんと近くの教会の聖壇に跪いて一心に祈っていた。

また彼が動物を可愛がることは尋常でなく、ある時、人が殺そうと言っていた病気の牛を夜っぴいて看病し、とうとうその命を取り止めたこともあった。

7歳の時だった。学校に通う道すがら他の3人の級友たちと共に林に分け入って、小鳥の声を聞いたり、谷川の水に触れたり、木陰に跪いて祈ったりしながら、修道僧の真似事をして遊んでいた。村人たちは彼らが行方不明になったということで、さんざんに探しまわったが、ついに森の中で彼らを発見した。彼らはかねがね母親から聞いていた聖徒たちのように、荒野で祈り、聖別されたいと純粋に願っていたのだった。

特にダミエンは若い時から生涯を神に奉げる決心をして、身体を鍛えようと修練を積んでいた。たとえば、一枚の板をベッドの下に隠しておいて、夜寝る時にはそれを取り出してその上に横になって寝るのを常としていた。(後に母親に発見されて禁じられた)
 だが、老い先短い両親を養うことは主にダミエンの責任であり、父母の望みは彼の肩にかかっていたので、両親はやがては彼を実業に従事させて、一家を支える者とするつもりだった。しかし、あまりにも熱心に彼が勉学を望むので、17歳の時にフランス語を学ぶという名目でやむなくワルーンのプレ・ラ・コムト学校に入学させた。

この学校は、貧民伝道を主とする、聖アルフォンソーが1732年に創立したもので、ある時、そこで特別伝道集会があった。説教を聞いている間にダミエンは魂の目が開かれ、神よりの召命をありありと感じた。家に帰って来ても何かにひどく感激したようで寝室に入らず、夜の明けるまで祈り続けていたというようなことがあった。 

この時を機に彼は全く一変した。そして全てを捨てて神の召しに応える生き方がそれから始まった。

ダミエンの19歳の誕生日である1月3日の日に、父は彼を連れて兄パンフィーレの学ぶルヴエンの神学校を訪ねた。兄弟は心ゆくまで語り合い、ダミエンはぜひ自分も神学校に入学したいと願ったが、当時の教会の制度として、平信徒、唱歌隊員、伝道者試補、伝道者の序列があり、彼にはギリシャ語やラテン語の素養もなかった。しかし、校長はその熱心さのゆえに、特別に唱歌隊員としての入校を許してくれた。父はこれを聞いて、余儀なくこれを許し、親子はその場で袂を分かつことになったのだが、さすがに母親思いのダミエンは後に母を訪ねて、その許しを得、祝福の祈りを受けて、それから全生涯をかけて修道僧としての生活に入ったとのことである。

そこでは、自分たちで薪を割り、水を汲み、一汁一菜の完全な自給自足の生活で、時には食料が不足することもあったが、ダミエンはそんな時、教友にスープとポテトを譲ったこともあったという。

半年後に彼はラテン語の翻訳もできるまでに長足の進歩を遂げ、やがて伝道試補へと進み、「清貧、服従,貞潔」の誓を立てて修道僧となった。学校には今も彼の使っていた机が残されている。そこには、「黙想、反省、祈祷(Silence,Recollection,Prayer)の言葉が刻まれている。

また礼拝堂にはイエズス会の伝道師として日本にもやって来たフランシスコ・ザビエルの肖像画が飾られていて、ダミエンはよくその前に跪き、黙想していた。ザビエルはまさにダミエンの理想の聖徒だったようで、彼が南海の孤島に伝道に出かけようとする直前に取った写真を見ると、キリストの十字架像を手にしているその姿は、ザビエルそっくりである。

ザビエルが日本人を評して「彼らは才知と勇気とに富み、心広く学を好めば真理を信ぜしむるに十分の見込みがあるが、外国人を軽蔑する傾向がある。特に仏教者からは散々に侮蔑される。また国中に山賊が満ちている。だからこの国に来る者は、心身ともに堅固にして十分の才識を具えていなければならない。」と言っていることに留意したい。

またダミエンの性格の一端を覗かせるものとして、次のような逸話がある。

ある時、講堂を建てるためにレンガ造りの煙突のある古い建物を取り壊すことになった。ところが非常に危険な仕事で誰もその煙突を解体しようという者がなかった。この時ダミエンはどこからか梯子を借りてきて友人に支えさせ、その梯子をよじ登って一つ一つレンガを取り壊して、とうとうこの煙突を解体してしまった。彼はこのように実に大胆であり、かつ慎重な性格の持ち主だった。

ワイ伝道のきっかけ

そのころのことである。ルヴエンから海外伝道のため、当時はまだ野蛮な太平洋の孤島であったサンドイッチ島(現在のハワイ島)へ、数名の神父達を送り出すことになった。この時、ダミエンの兄パンフィーレは真っ先にこれに応じ、船の切符まで買い求めていたが、いよいよ出発という間際になって、腸チフスの病人の世話をしていた彼自身もこれに感染してしまい、高熱が出て危険な状態に陥ってしまった。そして懸命に介抱していた医師さえもはっきりと、「神父、あなたはこんな状態で無理をしてご出立になったところで、一行の迷惑にこそなれ、何の役にも立たないでしょう。」と宣言せざるを得なかった。そばで聞いていたダミエンも、「そうです。お医者さんのおっしゃるとおりです。兄さんはとても行かれません。もし出かけたとしても、途中でまた発熱するでしょう。ご存知の通り伝道局では強健な人を必要としているのです。」と言って、「如何でしょう。お兄さんの代わりに、私が行ったら?お兄さんのような立派な仕事はできないでしょうが、出来るだけ最善を尽くしましょう。」と提案した。

兄も、ダミエンのそんな唐突な願いが、到底許可されようとは思わなかったが、場合が場合なので、「もしそんなことができるなら、どんなに幸いなことだろうか?!」と言って承諾した。ダミエンは早速、パリの伝道本部の管長に宛てて、内密に、烈々たる熱意を込めて請願書をしたためた。この赤裸々な訴えに管長も心を動かされ、破格の扱いですぐに許可証が修道院に送られて来た。
 これを読んで、修道院長は仰天して、「何と言うことか。大体において、正式の伝道者にもなっていないお前が、大それたことを願い出たものだ。とは言え、決まったことなのだからとにかく行かなければならん。」と言って兄の代わりに行くことを認めてくれた。
 ダミエンは、管長の手紙を持って兄の病室に飛び込んで行き、手紙を振り振り、「兄さん、ボクはあなたの代わりに行くんですよ!行くことになったんですよ!」と躍り上がって喜んだ。同僚たちは、彼は気が狂ったと思ったほどだったが、管長からの手紙が届いて二、三日の間にこのことが決まったのだから、当然のことであったろう。
 この時ダミエンは23歳。彼は直ちに、父母兄弟に別れを告げるため、故郷トレメルーに帰り、パリでは先述の記念写真を撮ったりして、準備万端を整えた。そして12年間は故郷に帰らずという誓を立てたが、実際にはそれは25年となり、彼が再び故郷を見ることはなかったのである。
 1863年10月31日、彼らはドイツのプレマヘブンを出立した。船中では病人を見舞い、水夫たちを助け、不自由な生活を続けた。船が希望峰を回る頃には、大嵐に見舞われて数日間はただ荒波に揉まれるばかりだった。しかし、ダミエンは「神を畏れる者は、世界中何も怖れるものはない。」と言いきって、乗組員たちを励まし、漸くにして翌年の3月19日、ホノルルの港に着いたのであった。
 船中からダミエンは母国の両親に宛てて次の手紙を書いている。
 

さようなら、最愛の父上、母上、さようなら。
 いつも良きキリスト教徒として生活され、決して霊魂を汚すような心の罪など犯すことなく、義の道を歩むことをお誓い下さいますように。これが私の最後の願いです。そうすればお二人様のことについて、私は何らの不安もありません。
 天国でまたお会いできる日のあることを信じ、私はこの信仰を持って前進してまいります。神がお二人の晩年を護り給い、永遠の幸いを授けられ、やがて聖なる死を恵み給いますように。日毎に祈りをささげつつ。心からの愛をこめて。
 あなた方の愛する子 ジョセフ・デヴェスター
 

ハワイ伝道のはじまり

当時この地は四海荒涼として、半裸体のカナカ人が跋扈し、言語は通じず文字もなく、文明とはほど遠いところだった。メークインランのダミエン伝によれば、彼は上陸早々2ヶ月の間沈黙閉居し、水垢離をとって精進潔斎して心準備をしたとある。

新任地のブナには徒歩で3日間、一週間後に到着した。当時のカトリック教徒は約350人だった。はじめ教会らしきものはなく、野原で説教し礼拝を行い、馬とらばに乗って着任三ヶ月の間に二度巡回し、最初の巡回では29人の受洗者があった。

ダミエンの手紙に、「心配なことや、色々面倒なこともありますが、私は至極元気に健康で暮らしています。」とある。

やがて熱心な信者もできて、教会を建てるということになり、ダミエン自ら彼らとともに山から木を伐り出し、図面を書いて、大工となり、土台を据えてとうとう教会を建てた。しかしそれよりも大事業だったのは、彼らを真のキリスト者として福音に浴させることだった。彼の両親に宛てた手紙の一節に、

御両親様、このようなことを申し上げれば、さぞかし異様と感じられるでしょうが、この地の人々は決してスプーンも、フォークも用いず、また、テーブルも椅子も使いません。はじめ私は彼らのために、ベンチを作りましたが、彼らはこれを使わず、土間に座り、指を使って食事をしておりました。

ところが彼らの住んでいる所に行きますと、きれいなマットに座り、日曜日には相当に着飾って教会に来るのに、平日は半分裸体の有様です。・・・それで彼らの中に有望な若者を見出した時は、彼を特訓し、神父が巡回できないようなところでは、祈祷会を司会し感話させるようにしました。彼らは非常に信仰熱心で、これによってキリストの恵みに浴した者も多くあります。

ダミエンは病弱なクレメントがコハラで苦闘しているのを見て自ら進んで彼と交代し1865年3月コハラに引き移った。ちょうどこの当時大地震が起きダミエンの記録によれば

火山の噴火で30人、水に流されて40人が溺死し、全村が滅亡したもあった。また新築したばかりの石造の教会も破壊されたと記されている。ダミエンは教育においても熱心だった。姉ポーリンに送った手紙によると

「・・・私はこのごろはヨーロッパ人よりも進歩した文明人ではないかと思うほどに彼らを敬愛しています。彼らは読み書きそろばんを学びつつ、聖日には着飾って、私が巡回する4つの教会にやって来ます。中には私の不在の時に代わって説教してくれる者までおります。

しかしながら、私の日課として病人を訪問していますが、土人の医者はいわゆる魔術師のようで、病気になった時には、偶像に供え物をして病を治そうとします。人々はその迷信を信じております。

私は彼らが病気になったときには、説教を通し、また愛を持って彼らの介護に当たることを通して、多くの信者は平安の中にこの世を去っています。彼らは常にミサを通してキリストの最後の晩餐に与ることを喜んでいます。

ここでは死者の数は生まれる者の数よりも多く、従って土人の人口は日々減少して今ではおよそ6万人くらいになっています。

以前に大暴風雨が吹き荒れ、百軒以上の家が倒壊しましたが、私の教会は難を免れました。しかし必要に迫られて、会堂の飾りなど大工の仕事をしたりしていますが、なかなか大変です。苦労多く慰めの少ない今の私の生活ですが、神様の御憐れみによりくびきも楽しく、重荷も軽くかんじつつ暮らしております。少しいやなことがあったり、もろもろの煩いに追い回されるような時などは、世の終わりが近いことを感じて自分を慰めています。まさに熟練の職工の手にある利器のように、神の御手に全てを委ねて生きたいと願っています。生きている時も、死んだ後も私たちはみなキリストに属する者なのですから。どうか、私のために祈ってくださいますようにお願いします。・・・」

ある日の出来事としてこんなこともあった。

馬に乗って伝道に出かけていく途中、海岸近くで一艘の難破船を発見した。すぐに海に飛び込んで泳ぎ着いてみると、全員が力尽き果てて倒れていた。彼らはインドに行く予定でカナダから出帆したのだが、途中船火事を起こして8日間漂流していたところだったのだが、ダミエンによって九死に一生を得たのだった。

またある土曜日のこと、伝道旅行中に乗っていたカヌーが転覆し、何もかもずぶぬれになってしまった。しかしダミエンはそこで勇気を奮い起こし、さらに4日間かかって目的の伝道地に到着した。この熱烈さに打たれてそこではほぼ全村民がこぞって洗礼を受けて信者になったとのことである。

山の奥にキリスト教に回心した一があると聞いて、ダミエンは初めてそこへ行こうとして馬に乗って出かけたが、途中馬を捨てて岩山をよじ登り、第2の山を越えた時分には靴も破れ、血だらけになってしまい、絶体絶命の窮地に陥った。その時突然、「キリストは十字架に血を流し苦しまれた、我らの贖いのためにその血潮を流されたが、それは今自分が行こうとしているこの山間の僻地の憐れな霊魂のためにも血を流されたのだと思うと、勇気が百倍して第3の山の頂に辿り着くと、そこに人家の煙が立ち昇っていた。そして何年もの間伝道者など来たことのないこの小村落の人々が村中総出でダミエンを歓迎してくれた。

ダミエンは自分のことをダミヤノと呼んだ。カミヤノというのは土人がダミエンを呼んだ名前であるが、それが現在に至るまで記憶されている。

1873年5月4日マウイ島ワイルク市の郊外にある教会の献堂式があったが、その時ビショップ・マグレットがモロカイ島におけるライ患者の惨状を語った。

ダミエンはコハラで伝道している間に、現地のど人たちとも親しくなり、ライ病患者の現状を目撃していて、彼らがライ病に罹ると、親は子に、妻は夫に別れて再び帰る望みのないモロカイ島に送られてしまうことを見て知っていた。自身の信者の中にもそのような人がおり、彼らを助けるすべも、慰める道もなかった。ただ一つの道は、彼らのいるところに自分が行くことであり、彼らと運命を共にすることであった。

ビショップは「彼らはまったく、飼う者のない羊のようだ。・・・」と語ったのに対して、ダミエンは「先生、私ははじめに教会の伝道者として受け入れられた時、自ら進んで道に殉ずるということは、新しい生命への門出であることを体験することができました。ですから私は大胆に告白します。私は不幸薄命なモロカイ島のライ者の間に私自身を生きながら埋める覚悟ができました。新しい伝道者が着いたことですし、彼を私の後任にして、どうぞ私をモロカイ島にお遣わし下さい。」と告白した。

そうしてただちに送別の集まりもせず、着の身着のままでモロカイ島に出発した。この時ダミエンは33歳だった。しばらくしてからこんなことを語っている。

「主は弟子たちを伝道にお遣わしになった時、財布も袋も草鞋も携えるなと言われた。ほんとうにその通り、何も携えて行かなくとも、何の不自由もなく、必要なものは与えられた。コハラでもっていたものは全て後任のフェービン師に遺し、私は無一物でこのモロカイ島にやって来たが、常に備えられていた。

第9章           ライ者の使途ダミエン

モロカイ島は東西38マイル、南北7マイルの細長い島で、ライ患者たちは三方が2000フィートから5000フィートに達する懸崖に隔てられ、一方に船着場がある4マイル四方の土地に隔離されていた。人々はここを「生きたままの墓場」と呼び、まさに地獄だった。ダンテは神曲の中でここに来る者は全ての希望を捨てよと言っている。

 ここにはカラウパパとカラワオという二つの村がある。まったくの無法地帯であり、酒に酔いしれ、淫蕩と窃盗が横行していた。

 ダミエンの第一の仕事は不潔な会堂を掃除して改造し、立派な礼拝堂にしたことである。

 彼らの生活状態は滅茶苦茶で、その悪臭は鼻をついて耐えがたく、少しでも側によると、胸が塞がるような、身体に痛みを覚えるような感じで、この臭いを消すために、元来は喫煙の習慣がなかった彼がタバコを吸うようになった。食物も不足がちだった。しかし、モロカイ島の一番の問題は水の不足だった。初めのころは患者たちが遠い泉や川から少しずつ運んで来たのであった。ある時ダミエンに現地の土人が、山奥に泉のあることを告げた。

7年が過ぎたころ兄に送った手紙には

「私はここへ来て以来190から200人のライ病患者を葬りました。私は墓堀人夫です。私は棺桶を作る大工です。時間があればいつも棺桶を作っていました。もし、棺桶が間に合わない時は、彼らを着の身着のままで葬るほかにありませんでした。

ライ患者のほとんど半分以上は内側からライ菌に冒され外見にも達してとても醜い姿に変わり果てています。」

療養所と言っても医師も看護婦もおらず、患者の中には自分で棺おけを持って来た者もあるくらいであった。

ダミエンはまた二つの孤児院を建てた。そして16年間のモロカイ伝道期間中に、1600人のライ患者を葬り、1000個の棺おけを自分で作った。と言うのも、食料に対する援助はあったが、棺おけを買う費用はなかったのである。当時棺おけは2ドルであった。

晩年の私信に

「ハワイ政府はここに700人を収容する病院を建設することに決定しましたが、私にそのすべてを委託しました。私は目下のところ、伝道者であるばかりでなく、医師として、建築士として奉仕しております。」

4.ダミエンの日常生活

彼の日常の業務はライ患者を見舞い、看護し、慰め励まし、死につつある者に対しては神の愛を語り、なくなった時には、自分で棺おけを造って遺体を納め、埋葬した。・・・・つづく