良い本を電子化して残そう

管理人の責任において、翻訳、または現代語による要約を紹介しています。

新渡戸稲造の架けようとした橋

2019年03月14日 17時07分29秒 | 紹介します
新渡戸稲造 感動人生:/テレビ番組「知ってるつもり」のナレーションより
 
 時代が大きく変わろうとしていた江戸末期、明治維新の6年前の1862年
9月1日、南部藩士の三男として新渡戸稲造は岩手県盛岡市で生まれました。
 明治維新を迎え南部盛岡藩が官軍に敗れると母 勢喜(せき)は稲造と兄に重大な決意を告げ
ました。


 「東京へ行きなさい。偉い人になりなさい。立派な人になるまでは決して帰って来るのではありません。」
 この突然の母の言葉に稲造はその言葉の意味も判らぬままに、追われるように家を出ました。
明治という時代を生き抜くには学問を身につけなければ。心を鬼にしてせきは稲造を送り出したのでした。
 稲造8歳の旅立ちでした。
 上京した稲造は叔父(太田時敏)の家に身を寄せ、築地にある英語学校に通い始めます。
 勉強を続け偉い人になればお母さんに会える、その思いだけで稲造は英語を学んだのでした。
そして6年、稲造は東京英語学校へ入学、英語を自分の身につけようと希望に燃え、学問の道
を進もうとしたのでした。

     叔父太田時敏→

 しかし東京でのお金の面倒を見てくれていた叔父の家が倒産。
 もう叔父さんに頼るわけには行かない。
 8歳の時に家を出され、母からは未だ帰郷の許しが出ない。もう誰もぼくを助けてくれない。英語学校もやめなければ。いったいどうしたらいいんだろう。
 途方に暮れて街を歩く稲造の目に飛び込んで来た一枚の広告がありました。
 それは札幌農学校の生徒募集でした。
(札幌農学校第二期生徒募集。北海道開拓に夢を持つ若人を集う。)
 奨学金が出る。ここならお金の心配がない。稲造16歳、彼は一枚のビラにすがるような思いで、札幌農学校へ入るため汽船で札幌に向かったのでした。
 汽車で行けたら途中でお母さんに会えたのに、一目でもと残念がる稲造に母せきは手紙で
こう答えたのです。

 「お前は8歳の時、私のもとを離れました。身も心も成長したことでしょう。
 年老いた母でも別れに耐えられますからもちろんお前も耐えられます。」
 
 札幌農学校の創設者のひとりクラーク博士はすでに学校を去っていましたが、
彼の残した教えは生きていました。
 この学校に規則はない。ただ紳士であれ!(Be gentleman)、
 学問は自分から学ぶものだ。
 そして有名な「Boys be ambitious!」(少年よ、大志を抱け!)

 稲造はこの教えに強い感化を受けました。自分にとって大志とは何なのか。
稲造は勉学の中にその答えを見出そうとしたのです。・・・
しかし、急ぎ盛岡に帰った稲造を待っていたのは母せきの物言わぬ姿でした。
 「立派な人になるまでは帰って来てはいけません」というその母の思いに応えようとしていたのに、母の死に目に会えなかった。稲造は自分の不甲斐なさを責め、やり場のない思いに立ち尽くしてしまいます。もう何もできない。
 稲造は札幌に戻ることもなく、亡き母の眠る盛岡で悶々とした日々を過ごしていたのでした。
 そんな稲造に二人の友人が手紙を書いてきました。ともに札幌農学校の同級生で、のちに植物学
者となる宮部金吾とキリスト教指導者となる内村鑑三でした。

 青森県三本木原、今は豊かなこの土地も江戸時代には水がほとんど流れていない涸れた不毛の地でした。この土地を生き返らせよう、稲造の祖父と父は苦しむ農民のために十和田湖から用水路を引こうとしたのです。稲を生むと書いて稲生川、こう名付けられた用水路の建設は数十年にも及ぶ
大事業でした。不可能と言われた用水路建設に挑み、やがて黄金の実りをもたらした祖父と父。
 自分もそんな大志を抱かなければ。・・・戻ろう、札幌へ。

 
 稲造は復学するや図書館に残されたクラーク博士の蔵書を読破していったのです。汲めど尽きない泉のような学問の魅力に取り憑かれ、農学校卒業後東大に向かいました。
 しかし札幌ですでに西洋の文献を読破していた稲造にとって、東大の授業は何も新しいものを与えてくれなかったのでした。欧米の学会では8年も前に反響を読んだ本が、東大には未だ紹介されていない。稲造は日本の教育の遅れを痛感したのでした。
 親友宮部金吾はハーバードへ、そして内村鑑三もアメリカに行くことが決まっている。自分ひとり東大に留まっていていいのだろうか。・・・少年よ、大志を抱け!稲造23歳、彼は大きな決心を胸にしたのでした。・・・
 
 渡米した稲造はジョーンズ・ホプキンズ大学で経済と農業の勉強に着手、
クラーク博士の教えを育くんだ自由と平等の教育、ここにはそれがあったのです。稲造の中で教育とは何かがはっきりした形になって表れてきたのでした。
 しかしそんなアメリカでも日本はまだ中国の一部と勘違いされるほど、未知の国
でした。稲造は日本を紹介するための講演を依頼されますが、会場を訪れる人は多くはなかったの
です。

 そんな講演会のある会場で稲造は一人の女性と出会います。メリー・エルキントン。
 彼女は大学で日本のことを知り興味を覚え、講演会場を訪れたのでした。そんなメリーは日本の話を聞くため何度も講演会場を訪れ、熱心に語る稲造に惹かれて行ったのです。 
 そして稲造もまた、彼女の姿を目にするたびに心の中に温かいものを感じるのでした。
 
 そんなおり稲造のもとに母校の札幌農学校から助教授就任の依頼が届きました。
 日本に帰らなければ。稲造はメリーに自分の気持ちを打ち明け、二人は結婚を決意します。しかしそれに対して周囲からは強い反対の声が上がります。
 日本人の男との結婚なんて・・・製粉工場を経営するメリーの両親はとりわけ強硬にこの国際結婚に反対、娘を日本などという未知の国に嫁がせることなど論外だとメリーの話に取り合おうともしませんでした。
 文化も生活も違う二人、不安は稲造の中にもありました。
 稲造は「日本ではたった一部屋で暮らすような生活になるのです。」と告げました。するとメリーは「では、日本の屏風を買ってください。お客様が見えた時はそれで
部屋を区切りましょう。」と、こともなげに答えたのでした。決意を確かめ合った二人は出会いから5年後に結婚。友人たちだけが祝う、つつましやかな門出でした。
 明治24年、稲造はメリーを伴って帰国。
 稲造は母校の教壇に立つ傍らアメリカで学んだ教育の平等を実践しようと、働く貧しい人たちのための夜学設立に力を注ぎます。しかし、資金づくりに走り回る稲造に、地元の有力者や金持ちたちは貧しい者に教育は必要ないと耳を貸そうともしませんでした。
  教育を受ける権利は誰もが持っている。
何故わかってくれないのか。
  それでもなお夜学のために努力を続ける稲造は心身ともに疲れ果ててしまいます。やはり日本では平等な教育は無理なのか。資金の目途が立たず稲造の夜学は夢と終わりそうになります。
しかし、アメリカから大金が届きました。それは結婚に反対していたメリーの両親から送られたものでした。(自分と夫の夢が今潰えようとしている。メリーは両親に宛て夜学設立にかける思いを訴えたのです。)このお金は両親が二人の結婚を認めた証であったのです。こうしてできたのが「遠友夜学校」でした。稲造の理想とする自由と平等の教育、その第一歩が妻メリーの協力で始
まったのです。

 夫婦で作り上げた「遠友夜学校」は様々な人が学べる場として大成功を収めました。さらに嬉しいことには待望の長男が誕生、遠益(トーマス)と名付けられます。稲造とメリーは幸せに包まれていました。
 しかしその時間はあまりにも短かったのです。(長男遠益(トーマス)は一週間後に死亡)・・・このあまりにも大きな衝撃にメリーは体をこわしてしまいます。メリーを療養させるため稲造は夜学校を仲間に託し二人は札幌を離れました。
 心身ともに疲れ切った二人はカリフォルニアで疲れを癒していました。そんなある日、メリーは稲造にこんな疑問を投げかけたのです。
 なぜ日本人は贈り物をするときツマラナイものですが、と言うの?日本人の道徳観はどこに根差しているの?こんなメリーの疑問に稲造は、妻のメリーに日本人の考え方、道徳観を分かってもらうための本を書こう。と思い付いたのです。
 こうして英語で書かれたのが武士道という一冊の本でした。この中で稲造はメリーの疑問に答えるとともに、日本人の考え方や習慣を説き、そしてその題名から大きく離れ、自らの平和を求める
気持ちまで書き綴っていったのでした。
 アメリカ大統領のルーズベルトは「武士道」を読んでこれまでこの本ほど日本人の心を明らかにした本はなかった。これこそが現代日本の説明なのだ。と深い感銘を受けたと言います。
そしてメリーは稲造にこう告げました。私はこれまであなたを尊敬し愛してきました。しかし今はっきりとあなたの何を尊敬しているのかが分かりました。結婚する時両親につらい思いをさせてしまいましたが今、両親は私があなたと結婚したこと以上の親孝行はないと言ってくれています。
こうして一冊の本が日本とアメリカを、そして世界を結び稲造の考える太平洋の橋がその第一歩を踏み出したのです。
 稲造はメリーを連れ8年ぶりに帰国しました。そして明治39年第一高等学校
(今の東大教養学部)の校長に就任。稲造は再び教育の現場に立てることを喜び、学生たちに世界に通ずる広い心を持てと教えました。
しかし日露戦争の勝利に湧く日本は、日本人こそ世界一優れた民族と驕り
浮かれ、稲造の目指す自由で平等な教育に耳を貸す者などいませんでした。
そんな中でも稲造は学生たちにこう説き続けたのです。
 ほんとうに偉大な民族とは世界平和に向かって努力する民族だ。これからの時代は世界から日本を見なければならない。
こう説く稲造に人々は日本人の恥、アメリカ人の妻をもって日本人の心を忘れたと言って中傷しました。そして軍国主義の影響はついに教育の現場にも現れました。 文部省は清国の留学生を締め出す方向へと動き出したのです。稲造はこの差別に対して、誰にでも教育を受ける権利があると主張。文部省に敢然と抗議。しかし受け入れられず。稲造は校長辞任を決意します。第一高等学校を離れる時、稲造は学生たちにこう語りました。
自分と異なる主張を排斥するような高慢なことをしてはならない。君たちに望むのは自由を愛する心です。
 稲造が第一高等学校を去って7年、時代は再び稲造を必要とし始めます。第一次世界大戦の連合国側の勝利により1918年パリで世界平和会議が開催され、その席でアメリカのウィルソン大統領が国際連盟の設立を提唱。
日本にも事務次長を出すように求めたのでした。戦争の阻止を目的とする国際連盟の日本代表には新渡戸しかいない。この求めに稲造は、これまで教育の場で世界平和を訴えて来たが、今こそ直接的に平和のために働こうとメリーを伴いジュネーブに赴いたのでした。59歳新たな挑戦のスター
トでした。
  1920年稲造は国際連盟事務次長としてジュネーブに着任。彼は連盟の中に教育や科学、文化を通して世界平和を実現するために国際知的委員会という組織を作ろうと考えます。この稲造の呼びかけに応え集まって来たのが相対性理論で有名な、アインシュタイン博士やラジウム発見でノーベル物理学賞を得たキュリー夫人と言った世界的な学者、文化人たちでした。この国際知的委員会は現在のユネスコに引き継がれ活動を続けています。
 7年間の任期を終え稲造とメリーは帰国、しかし日本に降り立った二人を待ち受けていたのは中国大陸へと侵攻する軍部の台頭だったのです。
 このままでは日本は孤立してしまう。いずれは世界を敵にして戦うことになってしまうだろう。
稲造は一人中国侵略に反対の声を上げたのでした。しかしその稲造の声は日本の人々によってかき消されてしまいます。弾圧の激しい中で彼はメリーに一つの決意を打ち明けます。日本が君の国アメリカと戦うことになるかもしれない。このまま放っておくわけには行かない。和平のためにアメリカへ行こう。稲造はすべての役職を辞し、一人の民間人新渡戸稲造として船に乗りました。71歳悲壮な旅立ちでした。
  
昭和7年アメリカへ乗り込んだ稲造は日米間の戦争を防ぐため各地を講演して
歩きました。いま日本がしていることは、国民の総意ではありません。どうか方向を修正する時間を下さい。しかし声の限りこう訴える稲造にアメリカの人々は罵声を浴びせ、日本の人たちも稲造の努力を非国民となじったのでした。
それでも稲造は日米和平のため講演を続け、ワシントンに入りました。そして
フーバー大統領に会見を申し込んだのです。稲造は大統領に会えたなら両国の
平和を守るための努力を諦めないで欲しいと訴えるつもりでした。フーバー大統領は会見を申し込んで来た日本人が、あの武士道の著者と知り快く会見に応じた
のです。大統領に会える。これで和平への足がかりが作れた。
しかし、会見の席で大統領の口から出た言葉は、血気にはやる青年将校が
クーデターを起こし犬養首相を暗殺したというものでした。
この5・15事件をアメリカ大統領から伝えられた稲造は言葉を失ってしまいます。もう誰も軍部を止められないのか。いや、なんとしても止めなければ。日本にメリーを戻せば身に危険が及ぶと考えた稲造は一人で日本に戻ったのです。もう一刻の猶予もない。急ぎ帰国した稲造の耳に飛び込んで来たのは彼が手塩にかけ育てて来た国際連盟からの脱退でした。それは日本の孤立を意味していました。
(1933年3月27日)
自分が今までやってきたことは何だったのか。もう和平への道はすべて途絶えたのか。稲造は最後の望みをかけ、カナダで開かれる太平洋問題調査会に出席
(1933年8月2日)。疲れ果てた体に鞭打ちながら諸外国の人々の前で
訴えたのです。
私たちはこれから平和を究極の目的として相互の理解を深めて行かなければならない。
稲造72歳の心の叫びでした。しかしこの演説から2か月後 ・・・

新渡戸稲造没享年72歳(1933年10月15日)
 外国人の老妻をただ一人残していく。よろしく頼む。
これがバンクーバーで最後に残した言葉でした。
そして新渡戸稲造がこの世を去って8年後、日本は太平洋戦争に突入したのでした。
 1か月後、72歳でバンクーバーで倒れた稲造の遺骨は妻メリーの手によって日本に帰って来ました。
 
教育を通し、日本の近代化に一生を奉げた新渡戸稲造。
彼の教育とは、知識を与えるのではなく自由と平和を愛する心を教えるものでした。しかし自分の願いと逆行する時代のうねりの中で新渡戸稲造はどんな思いでこの世を去ったのでしょうか。
橋は決して一人では架けられない。
何世代もが受け継いで初めて架けられるものだ。
新渡戸稲造が着手した架け橋は今どれほど強固なものになっているでしょうか? 
*引用
新渡戸稲造 感動人生
https://www.youtube.com/watch?v=iWtOdExe_GI
新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾「世界を結ぶ『志』
https://www.youtube.com/watch?v=vofCprxlD3g
新渡戸稲造 生誕150年記念 第2弾「未来につながる『道』
https://www.youtube.com/watch?v=kJBb9Z4TC5g
新渡戸稲造 生誕150年記念 第3弾「すべてに根ざす『愛』
https://www.youtube.com/watch?v=_xgGp83z8kQ

編集後記;
盛岡の先人記念館に行くと大きなスペースを割いて新渡戸稲造の業績が展示されている。私は彼について国連の事務次長だったこと、「武士道」を書いた人としてしか知らなかった。が、テレビ番組「知ってるつもり」で紹介されているのを見て凄く感動した。
それによると彼は8歳の時に母親から送り出されて東京の叔父の下に身を寄せ、そこで英語を学んだ。やがて札幌農大で―クラーク博士はすでに去っていたが―二期生として、その感化を受けて成人した。盛岡に一時帰郷した際には、その二日前に最愛の母を失った。アメリカで後の伴侶となるメリーと出会った。「武士道」を英語で出版。国連事務次長への就任。そして日本がいよいよ軍国主義化しつつある中、71歳でアメリカに渡って和平のために奔走し、最後にはカナダで客死した。
これが新渡戸稲造の生涯であり、世界のさまざまな場所で彼の業績は記念されている。


さらに生誕150周年の記念番組で、個人的に親しい藤原賢一さんが新渡戸稲造の志を嗣いでカナダに移住したことを証しされている姿を見て私は感動と驚きを禁じ得なかった。
そこで最後に彼の証しを紹介して、このしおりを閉じることにしたい。
新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾より親友 藤原賢一さんの証
れた新渡戸先生の跡に続くものでありたいと願いましたら、その如く、その後、一年ぐらいで移民権が与えられ、すべてが与えられて、1977年の10月にカナダへ移民いたしました。志を持つ人にこういう人がいたということを私は小さな存在ですけれども、自分の足元の子供たちや孫たちに伝えて、50年、100年単位でない、300年、500年の単位でこのような人が時代の大変な中で生きられて、ここで客死されたということを思い返して
ですね。感無量な思いでおります。