窓からの雪景色
伊藤勇雄の「見果てぬ夢」・・・69歳にして南米パラグアイへ移住し、理想郷建設を志す
天に宝を積め、汝らの宝のある所に、心もあるからである。
「事業」と呼ばれる卑俗な嵩の上に判決を下すべきにあらず。・・・「老いゆけよ、我と共に」;25節
ロバート・ブラウニング
伊藤勇雄は岩手県南部の雪深い小さな山村で生まれた。先祖達は山の中腹にやっと開いた五反分ばかりの田畑を代々守り続けてきた。彼は長男で跡取り息子だったが、生涯を墓を守るためだけに生きようとは思わなかった。岩手出身の多くの先人達がそうであったように、彼もまた若き時代、岩手の風土の外で生きようとした。明治32年、彼は親が決めた許嫁を捨てて上京し、働きながら英語やエスペラント語を学び、トルストイやホイットマン、ペスタロッチ(教育者)などの影響を受けた文学青年だった。そして戦前は激しい農民運動への参加を通して、戦後は三度にわたる開拓を通して、時にはキリスト教伝道者の内村鑑三を知り、また文学者の
|
武者小路実篤と出会って、その「新しき村」の運動に参加したりもした。
彼が終生追い求めてきたのは、「大自然の中で働きながら人間が人間らしく生きる理想郷を作りたい」という、夢であった。
関東大震災に遭遇した彼は九死に一生を得て故郷である岩手の川崎村に帰り、そこで村議から県議、教育委員などを務めた。彼の巡ってきた開拓地はいずれも大きな成功を収めた。晴耕雨読の開拓者生活を続けて23年、当時彼を知る住民の誰もが、彼は生涯をこの地で送るものと信じていた。
しかし彼の理想主義はやがて、狭い土地の上で食べることのみを追い続ける他の農民たちの生活感情からは次第に浮き上がって行った。67歳の秋、4年にわたる綿密な下調べの後、伊藤勇雄は四度目の開拓を決意した。しかも場所は地球の反対側、南米パラグアイだった。そしてその夢の実現のために、余生をパラグアイのジャングルに賭けようと決意した。
岩手県岩手郡玉山村外山開拓地、それが彼の日本における最後の住処となった。移住の同志を求めて巡る彼に住民たちは「何故68歳にもなって移住を決意したのか?」と問うた。それに対して彼はこう語っている。
「私は別に今、生活に困っているわけでもない、また何かこっちに居づらいことがあって、困ることがあるから行くんじゃないんですよ。私は南米の移住地を見てきてね、この国は世界中の人たちが集まって、非常に仲良くやっている。こういう楽しい人間生活ができるところこそ理想郷を築くのに最もいい場所だと感じた。
あちらではどす黒い土で土地が肥えていて、20年も30年も無肥料で米も麦も収穫できる。大豆などは丈が3尺ぐらい伸びて、枝がたくさん架かって、一本に300莢ぐらいも採れる。
みなさんがたも今の生活に甘んじて、ここに満足しちゃいかんですよ、自分の考えを変えればもっといい生活をできる場所があるんです。
・・・
真冬の3か月の間多くの農民が南米の話に耳を傾けた。だが彼らは思った。
「まあ今まで20年間暮らして来て、今更昔の入植当時のことをもういっぺん繰り返すのはつらい」別に今の生活がいいわけでもないけれども、住み慣れたこの地を離れて、兄弟とか親類縁者とかと別れたくない。
・・・
やがて春来た。雪と寒さから解放された農民たちはいっせいに野良に出た。木々が芽吹き陽炎が立ち、土の香りが野山の水辺に立ち込めた。あれほど身近に感ぜられた異国の話も農民の胸からは次第に遠のいて行った。
結局7月乗船の移住希望者はついに一軒も出なかった。勇雄は何としても共に移住する最低十戸の農家が欲しかった。その後の説得が行き詰まるにつれ、伊藤は身内固めがより大切だと考えるようになった。一方で九月には訪れる南米の春は逃したくはなかった。彼は肉親たちにこう語っている。
「以前に病気して分かったことだが、健康が一番でいいんだ。まあこの土壇場に来てまで、行くとか行かないとかでごたごたするわけにはいかんから、ともかく三年も行って見て向こうでどうしても暮らせない、自分の健康にも合わないということであれば、帰ってお互い別々に暮らすというのも止むを得ない。
・・・
勇雄の妻エソさんは始め頑強に移住に反対した。その時のことを思い起こしつつ彼女はこう語っている。
「なかなかね、今更電気のないところへ行って、それこそ歳も取っているんだしね。下見に行くというので、送り出したわけだけれども、帰ってきた時にはもう移住するということで有頂天になっていて、こう言うんですよ。「お前、行きたくなかったら行かなくてもいい。その代わり俺は一人では許可にならないから、別なのをもらって行くから、あとから考え直して「自分も行く」って言ったって遅いぞってね。(笑い)
・・・
勇雄は言った。「長男の龍太郎は川崎村の家を維持してもらわなければならないし、お母さんを見てもらわなければいけないから、移住してもらうわけにはいかない。」
だが、それにしては五男六男があまりにも幼い。そこで長男龍太郎夫妻の中学生の息子、英樹に目を付けた。勇雄の申し出に対して龍太郎夫妻は長い間悩んだ。“たかだか二丁歩の百姓で終わるよりは、息子の一生を考えればこの際思い切って彼を南米へ旅立たせるべきかもしれない”と考え、夫婦は長男英樹を手放すことにした。
英樹に向かって両親は言った。
父:「ほんとに向こうさ行きたいか?」
母:「人に負けない気持ちを持たなければならないんだよ。いつまでもおじいちゃんが生きているわけでもないんだから」
父:「大牧場を自分で経営するような気持ち持たなくちゃダメなんだぞ。」
それから三男の鷹雄はぜひ俺と一緒に南米に行ってもらいたい。彼はブロック屋で、夫婦で稼げば月々十万を下らない。妻の美津子にとって月々十万の生活は捨てがたかった。だが夫の鷹雄は一生をブロック屋では終わりたくない。南米の大地に賭けるなら若いうちだと考えていた。美津子はみんなに言った。「できればね、母ちゃんは去年九月に死んでいるしね、お盆にはみんなで会って、いろいろ相談して、それから行ったら、少しは気が楽になるかなと思って・・・」
それから和夫はまだ独身で、(一級理容師で、良子という将来を誓い合った恋人がいた。彼女は三人兄弟の長女で、彼は良子の家へ何度となく足を運んだが、両親は、「結婚して盛岡に住むならともかく、地球の反対側の未開の地へ行く男に娘はやれない。」とその度に断られていた。)どうせこれから面倒見なければいけないから、一緒に行って協力してもらいたい。
長女の婿の勇君には子供たちの将来を考えて、いろいろ心配する点もあるだろうけれども、ぜひ行ってもらいたい。」
そして四一年七月二日、先発の二家族と長男の息子英樹たちは、南米の地に足を踏み入れた。
離婚まで考えた美津子であったが、結局夫の決断に従った。
先発隊に加わるかに見えた和夫は間際になって三月に延期し、二人は年が明けてすぐ婚姻届けを役場に出して結婚した。
やがて一二月の中旬、先発隊からの手紙と八ミリフィルムが送られてきた。
「拝啓、御無沙汰いたしました。一二月ともなればそちらは日一日と寒くなっていることと思います。こちらは伐採も終わり、火入れは十一月二〇日でした。姉さんの子供たちもみんな元気です。美津子も船の中で妊娠が分かりました。父ちゃんたちが着く頃にはきっと生まれているでしょう。勇さんは今毎日小屋づくりに追われています。正月は新しい小屋に落ち着くことができそうです。それから物価が高く、物が少ないので来るときはなるべく持てるだけ持って来てください。・・・
勇雄は移住を勧めるある講演会でこう語った。私はドン・ホーテである。なぎなたをふるって風車に立ち向かうような者である。そんな風に私自身も時々反省するわけですが、しかし私自身にとってはそれが他の人から見れば仮に失敗に見えるようであっても、失敗じゃない。それが真理であって人類の未来に対してそういう仕事が正しいということであれば、必ず後継者が出てくる。私自身は完成しないけれども、誰かが出て来てこれを完成してくれるという固い信念を持っているんです。・・・そういうことですから私はすこぶる朗らかなんですね。南米に行くのは実に楽しい
まあ、(おやじは)六十八歳という歳から言えばこの先長いとは思わない。だから親父が好きなことやるんなら、今まで世話になりっぱなしで何にも親孝行していないわけだからせめてでも親の側にいてやれることだと俺は思う。
・・・
「さよなら、げんちゃん、まこちゃん・・・さようなら」
四三年三月二日、伊藤一族、第二陣七人は移住船「アルゼンチナ丸」に乗船、日本を後にした。
岩手を去るにあたって伊藤さんは、日本での最後の思いを日記にこう書きしるした。
私はよわい六九である。この膨大な夢を実現する寿命は幾ばくもあるまい。おそらく小さなを作るのが精いっぱいであろう。しかし私は人類の楽園を築くという遠大な理想を終生持ち得るだけでも、満足して死ぬことができるのである。
・・・
出港後四九日目アルゼンチナ丸は終着港 ブエノスアイレスに到着した。一家はあわただしく国際列車でパラグアイに向かい一週間後に現地に着いた。
開拓地は国道沿いの日本人移住地からさらに十三キロも入った、巨大な樹木に取り囲まれた密林の真っただ中だった。
・・・
十年後に伊藤家を訪ねて
伊藤エソさん五十六歳(伊藤勇雄さんはすでに亡くなっていた)
こんにちは。
はーい、いらっしゃいませ。
ようこそまあ、しばらくでした。その節はいろいろとありがとうございました。
ほんとうに、十年一昔と言いますが、おかげさまで元気に今日まで過ぎ越して来れました。
こんにちは。(伊藤玄一郎さん二一歳)
あの時はこんなにちっちゃかったものね。
11歳の時でした。
おじいちゃんにすごく似てきたですね。
英樹君; やっぱり孫だからね。
奥さんのエソさんが勇雄さんの最後の様子を語ってくれた。
「俺は自分がやりたいように、やりたいことをやって来た。だから世界一幸せな男だ。そういう世界一幸せな男のそばで暮らせるというのはお前は世界一幸せな女なんだよ」と、主人が最後の時に言ったわけです。「だからもう誰のことも心配ないし、やっぱり私は世界一幸せな男の妻としてこれからも最後まで幸せに暮らせるでしょう。」って言ったら ・・・口を一杯あけてね、声は出さないけれども顔いっぱい あれしてね。それで・・・
主人は金があるうちに牛を飼わないと駄目だというのでね、イグアスに着いてすぐに、まだ牧草が生えないうちに試験場から買ったもんですから。ほかの人から物笑いみたいだったけど。
それでこの場所は米を作ったりマンジョカ作ったり、うちで食べるもの一切をここで作っていたんですけど、もうすっかり荒らしてしまって。一応バラ線を回しているんですが。
今のところ百二十町歩分ぐらい切り開いています。ここはほんとうにものすごいジャングルの原始林で、大きな木が多かったんですよ。主人が、開拓の土地を選ぶときは木が大きいのでなかったら土が肥えていないんだということを常々言っておりました。玄一郎が「まさかり」でカチリカチリと叩いて、いい木はチェーンソーで十本ぐらい切り目を入れて最後に将棋倒しでずーっと倒すんですよ。
玄一郎が、「母ちゃん、男らしい仕事だよ」と言っていました。
末っ子拓二郎君は日本出発当時四歳で、船一番のいたずら坊主と誰からも折り紙をつけられた子供でした。 その拓坊はすでに一六歳になっていて、アルゼンチンの学校に入っていました。
それは三育学園(アドベンティスタ)と言って、最初は小さい小屋を先生と子供たちと一緒に造って、そこで寝起きし、働きながら勉強ができる。そういう寺子屋式の学校で初まって、小学校から大学まで、今では立派な校舎ができています。
父が、「そうだ、俺も金がないとか何とか言っていないで寺子屋式でもいいから」ということを言いまして「人類文化学園共同農場」という看板をあげましてね。
当時大学生だった玄一郎君の夢
今学んでいるのは?
「教育学と、神学です。
神様?何になるつもりかね。
「僕の計画は学校つくりです。」僕と拓次郎が行っている学校がそういう学校で、やはりキリスト教の土台がなくてはそういう学校はできない、僕の考えでは、ぼくは親父ができなかったのをキリスト教の理想の中でね、それを完成することができるんじゃないかという考えに基づいていて、だから神学と教育学を勉強しているんです。
伊藤勇雄が最後に描いた夢は働きながら学べる学園村の建設であった。22年前のことである。
10年前パラグアイを訪ねてみると、牧場の一角に大きな門柱が立っていた。人類文化学園共同農場、そして遺書には
私の南米における施策は僅かである。しかし私の生涯は敗北ではない。勝利である。
人類を愛し |
2012年6月ブラジル・リオデジャネイロ
国連持続可能な開発会議の中の「持続可能な発展」というテーマで各国の代表がスピーチを行った中での
ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領の演説
・・・私たちは「持続可能な発展」と「膨大な数の貧困者対策」について話し合って来ました。
けれど私たちの本音は何でしょう?今の発展を続けることが本当に豊かなのでしょうか?
質問させて下さい。
もしドイツ人が一家族ごとに持っているほどの車をインド人もまた持つとしたら、この地球はどうなってしまうのでしょう?私たちが呼吸できる酸素は残されるのでしょうか。(インドの人口は13億人)
もっとはっきり言いましょう。
例えばもっとも裕福な西側諸国と同じようなレベルで七十億八十億の人々に浪費が許されるとしたら、それを支えるだけの資源が今の世界にあるのでしょうか。それは可能なのでしょうか。それとも別の議論が必要でしょうか?
この文明をつくったのは私たちです。
私たちは市場と競争社会から文明という落とし子を生みだし、物質面での驚異的な進歩をもたらしました。そして市場経済は市場経済をつくり出しそれを世界規模に拡大してしまいました。
いわゆるグローバリズムです。そのグローバリズムを私たちはコントロールできていますか?
逆にコントロールされてはいないでしょうか?
こんな残酷な競争で成り立つ社会で「みんなで世界を良くして行こう」などという議論が本当に出来るでしょうか?
私たちは本当に仲間なのですか?
私は今回の会議を否定するために言っているのではありません。違います。逆です。
我々が今挑戦しようとする目の前の巨大な困難は―決して環境問題ではなく、明らかに政治の問題なのです。
人類は今、消費社会をコントロールできていない。逆に人類の方がその強大な力に支配されているのです。
私たちは発展するためにこの地球上にやってきたのではありません。幸せになるためにやって来たのです。
人生は短く、あっという間です。しかもその人生こそが何より価値あるものなのです。余計なものを買うために、もっともっと働いて人生をすり減らしているのは、消費が「社会のモーター」となっているからです。
なぜなら消費が止まれば経済がマヒしてしまい、経済がマヒすれば不況というお化けが我々の目の前に姿を現します。しかし今、この行き過ぎた消費主義こそが地球を傷つけ、さらなる消費を促しています。商品の寿命を縮めて、できるだけ売ろうとする。今の社会は1000時間持つような電球はつくってはいけないのです。本当は10万時間20万時間ももつ電球はあるのにそんなものはつくらない。なぜなら我々はもっと働き、もっと売るために
使い捨て文明を支える悪循環の中にいるからです。これは政治の問題です。
我々は今までと違う文化のために戦い始めなければならない。
私は石器時代に戻ろうとは言っていません。このままずるずると消費主義に支配されるわけにはいかないのです。
私たちが消費主義をコントロールしなければならないと言っているのです。
ですから私はこれが政治問題だと言いました。とても謙虚な思いからです。
かつての賢人たち、エピクロネスやセネカ、そしてアイマラ人たちは言っています。
「貧しい人とは少ししか持っていない人ではなく、もっともっとと、いくらあっても満足しない人のことだ」と
大切なのは“考え方”です。だからこそみなさんと共にこの会議に参加し国家指導者として皆さんと共に努力したいのです。
私の発言は皆さんを怒らせるかもしれない
しかし気づかなくてはいけません、水問題や環境の危機がことの本質ではないということです。見直すべきは我々が築いてきた文明のあり方であり我々の生き方です。何故そう思うのか?
私は環境に恵まれた小さな国の代表です。人口は320万人ほどしかいません。また素晴らしい羊が800万から1000万頭います。食べ物、乳製品、そして肉の輸出国です。国土の90%が有効に使えるほど豊かな国なのです。
だからかつて私の仲間たちは8時間労働のために闘い、ついには6時間労働を勝ち取った人もいます。しかしそうなったら今度は仕事を2つ持つようになりました。なぜか?たくさんの支払いがあるからです。バイクやマイカーのローンを次から次へと支払っているうちに私のようなリューマチ持ちの老人になって人生が終わってしまう。 そして自分に問いかけるのです。これが私の一生だったのかと
私が言っているのは基本的なことです。発展は幸せの邪魔をしてはならない。発展は人類の幸せ「愛、」子育て、友だちを持つことそして必要最低限のもので満足するためにあるべきものなんです。
なぜならそれらこそが一番大事な宝物なのだから
環境のために闘うのなら、一番大切なのは人類の幸せであることを忘れてはなりません。
(ユーチューブで実際の演説を聞くこともできます。「世界で最も貧しい国の大統領の演説」
韓国孤児たちに注がれつづけた神の愛
1)田内千鶴子の生涯<知ってるつもり>より
日本から一番近い国韓国、そして一番遠いかもしれない国韓国、その南端に木浦(モクポ)という港町があります。この町はずれにある養護施設「共生園」には現在およそ180人の、親と暮らすことのできない子供たちが生活しています。その園児、卒園生達から今もオモニ(お母さん)と語りつがれる一人の日本人女性がいたのをご存知でしょうか。 その人の名は田内千鶴子(韓国名 尹 鶴子)、韓国孤児の母と呼ばれた人です。昭和11年から亡くなるまでの32年間、孤児たちのために人生を奉げてゆかれました。
<生い立ち>
明治43年、日本は朝鮮半島を併合しました。その2年後の大正元年千鶴子は高知市若松町で田内徳治-ハルの一人娘として生まれました。千鶴子が故郷高知を後にし、母親と共に韓国の木浦に渡ったのは7歳の時でした。 当時朝鮮総督府木浦支庁の役人だった父の下で暮らし始めたのです。
その木浦とは、当時韓国で生産されたコメや綿、塩などを日本に送り出す港町で、韓国の中でも特に反日感情の強いと言われた町でした。しかし日本人町で育った千鶴子はそんな人々の心を知る由もなかったのです。
ところが二十歳の時に突然父が急死、母ハルは助産婦をしながら、千鶴子と一緒に韓国に残ることになりました。その3年後、今度は千鶴子自身が子宮筋腫に侵され、もう子供は産めないだろうと宣告されてしまったのです。
そんな時期、千鶴子は木浦の町はずれにあった孤児院「共生園」と偶然出会ったのです。その粗末な施設には一人の青年伝道師と40人の子供たちが生活を共にしていました。青年の名は尹致浩(ユン・チホウ)そして子供たちは行くあてもなく街をさまよっていた孤児たちでした。当時木浦では貧しさゆえ親に捨てられ、路上で命を終える子供たちが後を絶ちませんでした。彼はそんな子供たちのためにたった一人で「共生園」を作り食べ物や身の回りの世話をしていたのです。
「共生園」を訪れて、千鶴子は驚きました。施設とは名ばかりで、壁もふすまもない、30畳程度の部屋が一つあるだけのみすぼらしい施設でした。
そこに50人ほどの子どもたちがいて、園長が一人で子どもたちの世話をしていたのです。ここで千鶴子は子どもたちに歌を教え始め、歌だけでなく子供たちの身の回りの世話を始めたのです。もちろん無報酬でした。彼女は孤児たちに本当の親のように接する尹園長の姿に感動していたのです。周囲から彼は乞食大将と呼ばれていましたが、1928年ごろから街で物乞いする子供たちを
連れ帰り面倒を見ていたのでした。
2年ほど経ったある日、尹園長は千鶴子のそんな人柄に惚れ込んで千鶴子にプロポーズして来たのです。
しかし千鶴子は朝鮮総督府という韓国を支配する役人を父に持った娘、その上子供ができないと宣告された身でした。一方チホウも日本人を妻に持つことは当時の韓国人には考えられないことでした。
周囲の日本人は嫌悪感をもって陰口をたたきましたが、母は「結婚は人間と人間がするもの。天国では日本人も朝鮮人もありません」と言い切り、千鶴子の背中を押したのでした。
突然のことに驚きながらも、彼女は結婚の意思を固めて行きました。そして、チホウの意志は固く、「二人でこの子供たちの親になろう」と千鶴子に語りました。それを聞いた千鶴子は周囲の反対や冷たい視線をも乗り越え、そして韓国人ユン・チホウの妻となる道を選んだのでした。
新婚の甘い夢とは、およそ無縁の生活が始まりました。電気もガスもない生活。子供たちは、裸足で出入りし、夜は雑魚寝状態。彼女は子どもたちに顔や手を洗うことを教え、食事前の挨拶を教え躾を教えることから始めることにしました。
<共生園卒園者の話>
田内さんは私たち孤児を全部集め、お腹がすいている時にはご飯をくれました。そして誰かが病気で食べられない時には、ご飯や水を口移しでくれました。
―そうやって孤児たちは命を救われたのです。道端で命を落としたかもしれない子供達、その小さな命を守るため千鶴子は生涯ふるさと日本に帰ることもなく、この「共生園」に骨を埋めたのです。そんな千鶴子を誰もがオモニ、オモニ(おかあさん)と慕ったと言います。
結婚した千鶴子は日本の着物を脱ぎ、韓国の服、チマチョゴリをまとい始めました。そしてみそ汁や漬物の日本食にも別れを告げ、キムチなど韓国式の食事をし始め、何とか韓国人になり切ろうとしたのです。しかし50人の子供たちを抱えての「共生園」での毎日は食事の準備だけでも大騒ぎ、そのうえ、掃除洗濯、子供たちの世話と目の回るような忙しい日々が始まったのです。しかも夫が食料調達に町に出かけている間、留守を任された千鶴子の責任は重大でした。
ところがそうして1年が過ぎたころ、無理だと宣告されていた子供が千鶴子に宿ったのです。母になれた喜び、ますます張り切る千鶴子は大勢の孤児たちの世話に明け暮れながらも夜我が子のもとに戻ればどんな疲れも癒される思いだったと言います。
しかし二人目の子供が物心つき始めたころ、園の子供たちと自分の子供達との間にトラブルが起き始めたのです。
<長男;田内基さんの話>
「園の兄貴たちからお前は橋の下で拾って来たんだよ。実の子じゃないんだということで非常にいじめられたりしました。・・・」
―それを知った千鶴子はある決心をしたのです。わが子と孤児を別け隔てすることなく一緒に園の中で育てようと。
「夜寝る時も離れて寝て、食事も大勢の子供たちの中で食事をしてね。母だというのに、私に特別声をかけてくれるかなあと一生懸命眺めてみても、いつもの通りみんなの母であって、やっぱり恨めしく思って育ちましたね。」
―どの子供にも平等に接したいという千鶴子の心は、わが子の恨みを買っただけだったのです。
1945年8月終戦、韓国は36年に及ぶ日本の占領から解放され人々は歓喜に酔いしれました。そして一瞬にして日韓の立場は逆転、千鶴子や子供達にも危険が忍び寄ったのです。このまま韓国にとどまりたい、しかし、韓国の状況はそれを許さないのです。悩みぬいた末、夫や共生園の子供たちに心を残しながらも彼女は木浦を後にすることしかできなかったのです。
そして生まれ故郷高知へ戻ったものの、寝ても覚めても思い出されるのは木浦のことばかり。まもなく宿していた3番目の子供を無事出産した千鶴子はますます木浦のことが気にかかります。あれほど手を焼いた子供たちは今どうしているのか。たくさんの子供たちを抱え、夫は一人で困り果ててはいまいか。しかし韓国に戻れば安全の保障はない。
それでも千鶴子は子供を連れ木浦へ引き返す道を選んだのです。そして共生園の門を潜った時、「オモニだ!オモニが帰ってきた!」と子供たちが叫び喜びました。
私の選んだ道は間違いではなかった。それから彼女は韓国人ユン・ハクチャと名乗り始めたのでした。
そんなある日、村人が集まって、日本人を妻にしている尹夫婦を殺す計画が持ち上がりました。不安に震える千鶴子に孤児たちは「お母さんが日本人でも、僕たちのお母さんだ。誰一人、お母さんに手を出させない」と言って抵抗しました。村人らが押し寄せた時、子どもたちが手に棒や石を持ち、盾となって叫びました。「僕たちのお父さん、お母さんだ。僕たちも黙っていない」。泣きながら訴える子どもたちの姿に村人たちは圧倒され、引き上げて行きました。千鶴子は子どもたちを抱きしめながら泣きました。そして、この子らのために一生を捧げる決意をあらためて固めたのでした。
園児の数は一挙に300人に膨れ上がりました。しかし千鶴子はどの子にも等しく手を差し伸べました。
路上には孤児たちが溢れました。かつて日本の支配下で行われた悲しい出来事が、今度は同じ民族同士の間で始まり、またもや子供たちが犠牲になったのです。
共産軍が木浦市内に入ってきたのは7月の下旬。千鶴子にもとうとう危険が迫りました。いわゆる人民裁判が開かれたのです。「共生園」の運動場に村人たちが集められ、指揮官が演説口調で叫びました。
やり玉に挙がったのが、尹致浩と千鶴子の二人でした。孤児救済という仮面のもとに人民から金銭を搾取した。また日本人を妻とする親日反逆者という嫌疑でした。
日本がこの国にしてきたことを思えば、自分が処刑されるのも当然と千鶴子は覚悟しました。しかし夫チホウは、混乱の韓国に身を置き孤児たちのためだけに生きてきた千鶴子を何とか救いたいと必死に弁明を始め、こう叫びました。「もし妻を処刑するなら、その前に私を殺してください。」
その瞬間一人の男が静寂を破って叫んだのです。ユン・ハクチャは無罪だ!
そしてその声に会場から拍手が起こったのです。かつて千鶴子に石を投げつけた木浦の人々が今千鶴子の命を救うため惜しみない拍手をしているのでした。
共産軍の支配はわずか2ヶ月にすぎませんでした。
1959年9月マッカーサーの仁川上陸で連合軍は北朝鮮軍を38度線まで追いやったものの泥沼の戦いはこの後、3年も続きました。
そんな中で今度はチホウが北朝鮮軍に協力をしたのではないかという嫌疑をかけられて連合軍によって逮捕されてしまったのです。生活がどんなに苦しくなっても夫が帰るまでは子供たちを守らなければ、千鶴子はいよいよ懸命になるのでした。
やがて韓国はついに強制徴兵に踏み切り、共生園の子供たちも戦場に駆り出されることになったのです。
戦争で親を失くした子供たちが、今自らの命を失うかもしれない戦場へ送られる。出征する子供たちに何かしてあげられることはないか。駅に駆け付け、列車の窓に愛する子供たちを見つけた千鶴子はお結びを差し出したのです。
ところが、「兵隊に行けば白いご飯が食べられます。どうかこのお結びは園の子供たちにあげて下さい。」と言って彼らはお結びを受け取らないのです。そして子供たちは言いました。
「もう一度オモニと呼ばせてください。オモニありがとう!オモニお達者で!」
共生園から戦場へ駆り出され、生還したのはわずか6人だったと言います。
<「共生園」卒園者の話>
「戦場でのただ一つの希望は生きて「共生園」へ帰ることでした。そして園に戻った時、私をただ抱きしめて、「死なずに生きていたんだね。オモニはどんなに待っていたか。」と言って、頭にキスをしました。そんなオモニが今でも忘れられません。
共産軍から解放された市民の喜びは大きかったのですが、人民委員長だった尹致浩は、共産軍に協力したというスパイ容疑で逮捕されてしまいました。
3か月にわたる拘留の後、まもなくチホウが帰って来ました。やせ衰え、歩くのもおぼつかないほど弱っての帰宅でした。そのチホウが見たものは共生園のあまりの困窮ぶりでした。チホウは千鶴子が止めるもの聞かず翌朝食料の調達に出かけて行ったのです。そしてそのまま消息を絶ち、二度と戻ることがありませんでした。
衰弱して野垂れ死にしたのか、共産軍の残党に虐殺されたのか。千鶴子は不安で眠れぬ日々を過ごしながら、夫の帰りを待ちました。しかし何の消息もなく月日は無慈悲に流れるだけでした。千鶴子はまたもかけがいのないものを失ってしまったのでした。
<共生園の解散を決意する>
園の食糧事情は深刻でした。女手一つで80人を越える孤児の世話には限界があります。彼女は悩んだ末、苦渋の決断をしました。10歳以上になる孤児50名に自活を求めたのです。10歳未満の幼い孤児たちを守るためでもありました。物乞いでも、ガム売りでもして、何とか生き延びれば、いつの日にかまた会える。各自が生き残るための解散に、千鶴子も園児も抱き合って泣きました。
その日から、千鶴子は毎日、リヤカーを引いて町に出て、残飯をはじめ食べられそうなものは、何でももらい歩きました。
その年が明けた元旦の朝、嬉しいことがありました。年長の子どもたちが、風呂敷包みをかかえて園を訪ねて来たのです。風呂敷には、ほかほかのもち米が入っていました。幼い子供たちのために、食べるものも食べずに働いて準備したものでした。千鶴子は後に「あのご飯の味を、私は今も忘れられない」と語っています。
彼女は夫が行方不明になって以来、あまりの大変さに、逃げ出してしまおうと思ったり、死への誘惑にかられたことも一度や二度ではなかったと言います。そんな彼女を支えたのは、常に子供たちでした。食べるものが何もない時に、子供たちは率先して魚を釣りに海に飛び出して行きバケツいっぱいの魚を持ち帰りました。「お母さん、これで今日の夕飯はできたね」と言って、無心に喜んでいる彼らの姿を見るにつけ、「私はひとりぼっちじゃない。この子どもたちがいる」と思い直して、心を奮い立たせるのでした。千鶴子はそんな子供たちの姿に力づけられ、二度と共生園の解散を考えなくなったのでした。
もう一つ、彼女を支えていたものは、夫にまた会える日へのささやかな希望でした。夫が戻った時、共生園を守り抜いた姿を見てもらいたかった。彼女は周囲に常々「園長が帰ってくるまで辛抱するのよ」と語っていました。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。
<長女の話>
朝鮮戦争の時はまだ大丈夫でしたが、今度は夫まで失ったので、度重なる苦痛に彼女は痩せ、力も使い果たし、布団の中でお祈りしているのを私はよく見かけました。そして布団に伏して泣き崩れていました。父がいなくなったことで周りの人たちは母に子供を連れて日本に帰れと言ったようです。しかし父が帰るまでは私は帰国できない。孤児や園を守らなければ、気構えをしっかりしなければと言っていました。
そして時は流れ、成長した子供たちは希望を胸に社会に羽ばたいて行きました。子供たちの巣立って行く姿を見るたびに千鶴子はオモニとして精一杯のことをしてあげたと言います。
そんなある日、卒園者のひとりが生まれたばかりの子供連れて里帰りして来たのです。今まで親のいない子供達ばかりを見て来た千鶴子にとってこの孫は卒園者からの何よりの贈り物でした。千鶴子はこの孫をいつまでも抱き続けていたそうです。
ところが翌朝、この夫婦は乳飲み子を残し木浦の海に身を投じてしまったのです。死を覚悟のうえで二人は千鶴子に子供を託しに来たのでした。その背景にはこんな現実があったのです。
<千鶴子をよく知るある作家の話>
当時は、さて社会に送り出す場合に彼がどういう職業にありつけるか、ということが非常に悩みだったらしい。その人のバックを知らなければなかなか雇ってくれないというのが韓国式なんですよ。これは身元を知らないから、いつ変なことをして、どこかへ消え失せたらどうしようかという、そういう懸念があったんでしょう。
1965年6月、日本と韓国はようやく国交を回復、木浦にも穏やかな日々が訪れました。その木浦で千鶴子が最も力を注いだもの、それは職業訓練学校の建設でした。巣立っていく子供たちが二度と社会の壁に挫折しないようにとの強い願いから精力的に募金活動を始めたのです。
そんな千鶴子に対し木浦市は第一回の市民賞を贈ることを決め、その功績を讃えたのです。しかし、千鶴子は、ほんとうはこんな物いらないと言っていました。
ただ夢中で孤児たちを育ててきた千鶴子の仕事はいつの間にか社会事業にまで発展していきました。そして1964年、日本でも支援の団体が発足するなど、活動範囲が広まって行ったのです。
しかし1967年その負担に耐えかねるように、千鶴子は肝障害で倒れてしまいソウルの聖母病院に入院してしまいました。かつて千鶴子は病床で長男にこんな思いを洩らしたと言います。
<長男田内基さんの話>
ある気分がいい日、私の靴下を洗ってね、あなたにはすまなかった、あなたの靴下を洗ったのもこれが初めてだ。こんな母親でもずっと面倒見てくれてありがとうと。
―このとき基さんははじめて母千鶴子のほんとうの思いを知ったと言います。
その病床の千鶴子に対して日本政府は外国人に対して尽くした日本人に対しては異例の藍綬褒章を送りました。しかし彼女は「ただ、主人が始めた仕事を、留守中なんとか守ってきただけですから……」と応えるばかりでした。彼女の偽らざる気持ちでした。大袈裟なことは何もない。食糧が尽きればリヤカーを引いて街にくり出し、子どもが病気になるとおぶって病院を駆け回る。こうして十数年の歳月が過ぎただけなのでした。
そしてその受賞に際しても勲章より子供たちに鉛筆一本でも贈ってもらった方がどんなに嬉しいかと彼女は言っていたそうです。
勲章授与の2年後、彼女は肺ガンに倒れ、摘出手術を受けなければならなくなりました。この時も彼女を助けたのは、園の出身者たちだった。彼らはみな、千鶴子の入院を知って、苦しい生活の中からなけなしの金を集めて届けてくれたのでした。
以後、彼女が命を落とすまでの3年間は、病気を押して、日韓の間を往復し資金集めに奔走しました。高熱に苦しみ、医者から入院を勧められもしたが、耳を貸そうとはしませんでした。入院費が払えないからであり、たとえお金があっても、共生園の子どもたちの生活や教育費用に充てたいと考えていたからです。こんな無理がたたったせいか、肺ガンが再発し、彼女は入院を余儀なくされました。体は日に日に衰弱、視力障害まで引き起こしてしまったのです。
1968年10月20日、千鶴子は木浦の共生園に戻って来ました。せめて共生園の子どもたちに会わせてあげたいという配慮でした。彼女の意識はすでになくなっており、死期が迫っていました。10月31日、この日は千鶴子の56歳の誕生日。園内は祝いの準備でにぎやかだった。牧師による記念礼拝が終わり、牧師が眠り続ける千鶴子の頭に手を置き、祈り始めたちょうどその時、まるでその瞬間を待っていたかのように、たくさんの園児たちに取り囲まれ、千鶴子は静かに息を
引き取ったのです。
11月2日、千鶴子の亡骸は木浦市民からの強い願いにより、初の市民葬が行われました。20人の園の出身者が千鶴子の棺を運び、懐かしい共生園の隅々を回り歩きました。園児たちは窓ガラスにへばりつくようにして泣いていました。その後、棺は霊柩車に乗せられ、市民葬が行われる駅前広場に向かいました。広場は3万人の人々で埋め尽くされていました。17歳になる園児が代表して哀悼の辞を述べました。
「私たちは、あなたの愛を飢えた動物のように探し求めました。でも、お母さんのその愛を今どこで探せばいいのでしょう。お母さん!私たちはあなたが望まれたいい子供たちになります」。涙をぬぐおうともせずに千鶴子に語りかける園児の声は、広場いっぱいに響き渡り、参加者の涙を誘いました。
かつては石を投げつけた木浦の人々が千鶴子の葬儀に駆け付けたのです。その数およそ、3万人。国境を越えた一人の日本女性の死を悼み、この日木浦中が泣いたのでした。
語り尽くせない運命の荒波に翻弄されながらも、千鶴子は夫の事業を立派に守り抜き、3千名の孤児たちの母となりました。
今、千鶴子は韓半島に平和が訪れ、日韓両国が仲良くなる日を夢見ながら、韓国の地で両国を見守っています。
2)38度線のマリア
動乱の歴史に翻弄されてきた朝鮮半島、そこでたった一人で100人以上の孤児たちを育てた日本人女性がいます。望月カズ、23歳です孤児たちから「母ちゃん」と言って慕われていました。
子育てに満面の笑みのカズ
<生い立ち>
彼女は1927年は昭和2年、東京の杉並高円寺で生まれました。
父親の記憶はありません。母親は望月近衛(ちかえ)と言いました。4歳の時(昭和6年)母親と一緒に開拓団が入植していた滴道という小さな町に移住したのです。
二人が渡った翌年に満州国が建国されます。満州国とは、現在の中国東北部と内モンゴル自治区の半分にあたる、日本の約3倍の面積を持ち、人口は約3500万人が暮らしていました。ここに満鉄(満州鉄道)が建設され、その警備のために日本の軍人たち、関東軍が駐屯していました。カズの母は、親族の軍人に進められて、この関東軍相手の物品納入という商売のために、満州に来たのでした。母の商売は成功し、カズは「お嬢様」と呼ばれるほどだったそうです。ところが昭和8年(1933年)、カズが小学校に入る直前、大変なことが起こりました。母親が突然亡くなったのです。原因不明の不審死でした。一説によると、使用人による毒殺とも言われています。何故かというと、使用人は財産すべてを持ち出し、6歳のカズを農家に農奴として売り払ったのです。
こうして6歳にして天涯孤独となり、通えるはずの学校にも行けないまま、彼女は満州で農奴として他の農家に転売されたり、アヘン窟で働かされたりもしたそうです。また、主人たちからは日本語を使うことを禁じられました。それでも幼いカズは、寝る前に「自分の名前、母の名前、日本と富士山と日の丸、東京高円寺」という大事な言葉だけは、忘れないようにいつも復唱していたそうです。
以後、人から人へと売られていき、何度も逃亡を図りましたが、その度に捕えられ連れ戻されました。昭和13年(1938年)の冬、12歳の時ついに脱出に成功し日本人の多い勃利の町に逃げて、牡丹江駐在の日本軍に保護されました。そこで、掃除、洗濯、などの仕事をし、仕事の合間に彼らから文字と算数を教わりました。
1950年6月に北朝鮮軍が北から南へ押し寄せ、国連軍が押し返したものの、支那義勇軍がまた北から南へ蹂躙しました。そして約3年の間に戦死者277万人・行方不明者39万人も出し、結局、朝鮮半島は南北に分裂されることになりました。
街には戦争孤児が溢れていました。カズはソウルから釜山に向けて避難していたのですが、その最中胸を撃たれて銃弾に倒れた女性に抱かれて血まみれになっていた男の子を助けたことが「孤児たちの母」になるきっかけとなりました。
その時カズ自身も孤児でした。天涯孤独で辛苦の人生を歩んできた彼女にとって彼ら孤児たちに何を感じ、何を見たのでしょうか。そして、何を心に決めたのでしょうか。
この時、カズは23歳でした、昭和26年(1951年)。一人で生きて行くことさえ困難であった過酷な環境の中にあって、彼女は道すがらなおも孤児を拾いながら一緒に暮らしはじめました。休戦の翌年、ソウルに戻った時には、孤児の数は17人になっていたと言います。
そこでバラックを建て、港湾で荷揚げ作業をしながら、さらに青空床屋を始め生活しました。彼らの暮らしはそれは、それは貧しいものだったようです。軍手を編んだり豆炭を売ったり、時には自分の血を売ったりして彼女は孤児たちを育てました。食べることにとても困っていたようで、他人が捨てた野菜くずなどを拾って来たりしていました。
けれどもカズは卑屈な生き方を嫌い、子供たちにも甘えは許しませんでした。家の壁にだるまの絵を飾り、「これは日本のだるまだよ。だるまのお尻はまんまるだろう。だから転んでも、転んでも立ち上がれるんだよ。」と教えていたそうです。
端午の節句にはこいのぼりを毎年上げました。「こいのぼり」を掲げるとき、カズは孤児たちにいつも、「日本では、今日はこどもの日で、子供たちが丈夫に育つように、これを掲げるんだよ」と教えていたと言います。
彼女は、どんなに貧しくても子供たちを学校に通わせました。孤児の数は50人にも上ったこともあります。
子供の一人だった東由利子は「お母さんに差し上げる手紙」で、次のように書いています。・・・多くの子女を、人に後ろ指をさされない人物に育てるために、母ちゃんが血を売り、他人の捨てた葉っぱや、じゃがいもを入れたかゆをみんなで食べながら、学問を続けさせてくださいました。
カズはソウルに戻っても青空理髪屋を続けました。そして1960年4月に、仁寺洞に土地を手に入れ、「永松理髪」のカンバンを掲げました。ところが、その2年後、彼女は、理容師資格と身元が問われ、警察に連行されてしまいました。
学校や職場から帰って来た子どもたちは、彼女が警察につれて行かれたことを知って、警察署に押し寄せ「オンマ(カアちゃん)を帰せ」と泣き喚いたそうです。
そのとき32人いた子供たちは、そのまま警察署の前で一夜を明かしました。それで警察もやむをえず彼女を一時釈放しています。
この連行の一件が世間の関心を引きました。「韓国人孤児を育てている日本人がいる。」新聞に取り上げられたのをきっかけにカズの献身的な姿が韓国人の心を動かしました。そして世論の後押
しを受け、晴れて美容師の免許を取得、バラック小屋を改良し店を構えました。
そのころ彼女は過労で倒れ、入院することもしばしばでした。それでも新たな孤児を引き取り続け、そして1971年、日本人としては異例の大韓民国名誉勲章を受章し、その後も孤児も育て続け、孤児の合計は133人にのぼりました。こうして彼女はいつしか「38度線のマリア」と呼ばれるようになったのです。
1971年の大韓民国国民勲章の叙勲式では、彼女は平服と下駄履き姿で大統領府に現れました。そこで職員から、せめて靴だけでもはきかえて欲しいと要求されましたが、カズは「私はほかに何も持っていません。これでダメなら帰ります」と拒否し、結局そのままの姿で式に臨みました。
こうしたカズの頑固さは、韓国にいながら常に日本人であることにこだわった姿勢にも現れています。当時も非常に強い反日気運の中にありながら、カズは和服かもんぺ姿を守り、端午の節句には、堂々と鯉のぼりを上げたといいます。
「望月カズ」と姓を変更したのは1982年のことで、カズが亡くなる前年のことです。「満州で殺害された母の霊を慰めてあげたい一心」からだったそうです。
1983年11月12日、カズは脳内出血で倒れ、帰らぬ人となりました。56歳でした。
「私たちは知っていますよ。温室の花のようには育てず、どんな強い嵐に遭っても、耐え抜ける根の深い木に成長させようとして下さった、あなたの深い愛を!」
これはカズの死後、残された子供達の中の一人が葬儀の時に朗読した「母に捧げる手紙」の一節です。カズは子供達に深い愛情を注ぎました。育て方は傍から見て、どこか乱暴なところもあったようですが、何よりも卑屈な生き方を嫌い、決して甘えを許さないという、厳しい一面もあったようです。彼女が言い続けたことは、子供には家族が必要だということ。さらに彼女自身が学校に行けなかったという思いから、どんな苦労をしても、学校に行きたい子には学問を続けさせました。
彼女は言っています。「戦争がどんな理由で起こされたか知りませんが、子供から親を奪う権利が、誰にあるでしょうか?」
また、カズの伝記『オンマの世紀』を著わした麗羅氏は、彼女はきわめて直感直情行動型の人物で、物事を計算しながら行動するタイプではなかった。」と語っています。カズの困窮した生活を見かねて孤児院を国の公認の施設にするよう勧めた人もありましたが彼女は断固として聞き入れませんでした。それを麗羅氏は、「公認の施設になったら『オンマ』ではなく園長先生になるわけだ。カズは子供達から『オンマ』と呼ばれたかったのだと思う。『オンマ』とは、 韓国語でいう『母ちゃん』である。彼女を呼ぶのにこれほどぴったりする言葉はない。」とも語っています。
参考動画
https://www.youtube.com/watch?v=OLZ-9uZIFs8&t=5s
https://www.youtube.com/watch?v=zq0N4TuFxnU
https://www.youtube.com/watch?v=ZsFUZdIJqK8
https://www.youtube.com/watch?v=vWoSBYYyXXg
<編集後記>
韓国孤児に尽くした二人の女性;田内千鶴子、望月カズについては、知っていた人もあり、知らなかった人もある。多くの人たちが後援会を作ったりして、今もその遺徳を偲び、彼女たちの事業を受け継いでいる。しかし戦争になれば確実にその犠牲者が出る、特に戦争孤児たちが生まれてくる。だが、現実にはこの世界から戦争はなくならない。
彼女たちの愛は愛さねばならないという愛ではなく、せずにおれない(英語では、OUGHT TO)の愛だったと思う。孤児たちに注がれつづけた神の愛、願わくば私自身も今生かされている場でそのような愛に燃やされて生涯を全うしたい。 4月10日 雫石にて 大山国男
人その友のために己が生命を捨てる、これより大いなる愛はなし
(ヨハネ15.16)
時代が大きく変わろうとしていた江戸末期、明治維新の6年前の1862年9月1日、南部藩士の三男として新渡戸稲造は岩手県盛岡市で生まれました。
明治維新を迎え南部盛岡藩が官軍に敗れると、母 勢喜(せき)は稲造と兄に重大な決意を告げ
ました。
「東京へ行きなさい。偉い人になりなさい。立派な人になるまでは決して帰って来るのではありません。」
この突然の母の言葉に稲造はその言葉の意味も判らぬままに、追われるように家を出ました。
明治という時代を生き抜くには学問を身につけなければ。心を鬼にしてせきは稲造を送り出したのでした。
稲造8歳の旅立ちでした。
上京した稲造は叔父(太田時敏)の家に身を寄せ、築地にある英語学校に通い始めます。
勉強を続け偉い人になればお母さんに会える、その思いだけで稲造は英語を学んだのでした。
そして6年、稲造は東京英語学校へ入学、英語を自分の身につけようと希望に燃え、学問の道
を進もうとしたのでした。
叔父太田時敏→
しかし東京でのお金の面倒を見てくれていた叔父の家が倒産。
もう叔父さんに頼るわけには行かない。
8歳の時に家を出され、母からは未だ帰郷の許しが出ない。もう誰もぼくを助けてくれない。英語学校もやめなければ。いったいどうしたらいいんだろう。
途方に暮れて街を歩く稲造の目に飛び込んで来た一枚の広告がありました。
それは札幌農学校の生徒募集でした。
(札幌農学校第二期生徒募集。北海道開拓に夢を持つ若人を集う。)
奨学金が出る。ここならお金の心配がない。稲造16歳、彼は一枚のビラにすがるような思いで、札幌農学校へ入るため汽船で札幌に向かったのでした。
汽車で行けたら途中でお母さんに会えたのに、一目でもと残念がる稲造に母せきは手紙で
こう答えたのです。
「お前は8歳の時、私のもとを離れました。身も心も成長したことでしょう。
年老いた母でも別れに耐えられますからもちろんお前も耐えられます。」
札幌農学校の創設者のひとりクラーク博士はすでに学校を去っていましたが、彼の残した教えは生きていました。
この学校に規則はない。ただ紳士であれ!(Be gentleman)、
学問は自分から学ぶものだ。
そして有名な「Boys be ambitious!」(少年よ、大志を抱け!)
稲造はこの教えに強い感化を受けました。自分にとって大志とは何なのか。稲造は勉学の中にその答えを見出そうとしたのです。・・・
しかし、急ぎ盛岡に帰った稲造を待っていたのは母せきの物言わぬ姿でした。
「立派な人になるまでは帰って来てはいけません」というその母の思いに応えようとしていたのに、母の死に目に会えなかった。稲造は自分の不甲斐なさを責め、やり場のない思いに立ち尽くしてしまいます。もう何もできない。
稲造は札幌に戻ることもなく、亡き母の眠る盛岡で悶々とした日々を過ごしていたのでした。
そんな稲造に二人の友人が手紙を書いてきました。ともに札幌農学校の同級生で、のちに植物学
者となる宮部金吾とキリスト教指導者となる内村鑑三でした。
大事業でした。不可能と言われた用水路建設に挑み、やがて黄金の実りをもたらした祖父と父。
自分もそんな大志を抱かなければ。・・・戻ろう、札幌へ。
稲造は復学するや図書館に残されたクラーク博士の蔵書を読破していったのです。汲めど尽きない泉のような学問の魅力に取り憑かれ、農学校卒業後東大に向かいました。
しかし札幌ですでに西洋の文献を読破していた稲造にとって、東大の授業は何も新しいものを与えてくれなかったのでした。欧米の学会では8年も前に反響を読んだ本が、東大には未だ紹介されていない。稲造は日本の教育の遅れを痛感したのでした。
親友宮部金吾はハーバードへ、そして内村鑑三もアメリカに行くことが決まっている。自分ひとり東大に留まっていていいのだろうか。・・・少年よ、大志を抱け!稲造23歳、彼は大きな決心を胸にしたのでした。・・・
渡米した稲造はジョーンズ・ホプキンズ大学で経済と農業の勉強に着手、
クラーク博士の教えを育くんだ自由と平等の教育、ここにはそれがあったのです。稲造の中で教育とは何かがはっきりした形になって表れてきたのでした。
しかしそんなアメリカでも日本はまだ中国の一部と勘違いされるほど、未知の国
でした。稲造は日本を紹介するための講演を依頼されますが、会場を訪れる人は多くはなかったの
です。
そんな講演会のある会場で稲造は一人の女性と出会います。メリー・エルキントン。
彼女は大学で日本のことを知り興味を覚え、講演会場を訪れたのでした。そんなメリーは日本の話を聞くため何度も講演会場を訪れ、熱心に語る稲造に惹かれて行ったのです。
そして稲造もまた、彼女の姿を目にするたびに心の中に温かいものを感じるのでした。
そんなおり稲造のもとに母校の札幌農学校から助教授就任の依頼が届きました。
日本に帰らなければ。稲造はメリーに自分の気持ちを打ち明け、二人は結婚を決意します。しかしそれに対して周囲からは強い反対の声が上がります。
日本人の男との結婚なんて・・・製粉工場を経営するメリーの両親はとりわけ強硬にこの国際結婚に反対、娘を日本などという未知の国に嫁がせることなど論外だとメリーの話に取り合おうともしませんでした。
文化も生活も違う二人、不安は稲造の中にもありました。
稲造は「日本ではたった一部屋で暮らすような生活になるのです。」と告げました。するとメリーは「では、日本の屏風を買ってください。お客様が見えた時はそれで
部屋を区切りましょう。」と、こともなげに答えたのでした。決意を確かめ合った二人は出会いから5年後に結婚。友人たちだけが祝う、つつましやかな門出でした。
明治24年、稲造はメリーを伴って帰国。
稲造は母校の教壇に立つ傍らアメリカで学んだ教育の平等を実践しようと、働く貧しい人たちのための夜学設立に力を注ぎます。しかし、資金づくりに走り回る稲造に、地元の有力者や金持ちたちは貧しい者に教育は必要ないと耳を貸そうともしませんでした。
教育を受ける権利は誰もが持っている。何故わかってくれないのか。
それでもなお夜学のために努力を続ける稲造は心身ともに疲れ果ててしまいます。やはり日本では平等な教育は無理なのか。資金の目途が立たず稲造の夜学は夢と終わりそうになります。
しかし、アメリカから大金が届きました。それは結婚に反対していたメリーの両親から送られたものでした。(自分と夫の夢が今潰えようとしている。メリーは両親に宛て夜学設立にかける思いを訴えたのです。)このお金は両親が二人の結婚を認めた証であったのです。こうしてできたのが「遠友夜学校」でした。稲造の理想とする自由と平等の教育、その第一歩が妻メリーの協力で始
まったのです。
夫婦で作り上げた「遠友夜学校」は様々な人が学べる場として大成功を収めました。さらに嬉しいことには待望の長男が誕生、遠益(トーマス)と名付けられます。稲造とメリーは幸せに包まれていました。
しかしその時間はあまりにも短かったのです。(長男遠益(トーマス)は一週間後に死亡)・・・このあまりにも大きな衝撃にメリーは体をこわしてしまいます。メリーを療養させるため稲造は夜学校を仲間に託し二人は札幌を離れました。
心身ともに疲れ切った二人はカリフォルニアで疲れを癒していました。そんなある日、メリーは稲造にこんな疑問を投げかけたのです。
なぜ日本人は贈り物をするときツマラナイものですが、と言うの?日本人の道徳観はどこに根差しているの?こんなメリーの疑問に稲造は、妻のメリーに日本人の考え方、道徳観を分かってもらうための本を書こう。と思い付いたのです。
こうして英語で書かれたのが武士道という一冊の本でした。この中で稲造はメリーの疑問に答えるとともに、日本人の考え方や習慣を説き、そしてその題名から大きく離れ、自らの平和を求める
気持ちまで書き綴っていったのでした。
そしてメリーは稲造にこう告げました。私はこれまであなたを尊敬し愛してきました。しかし今はっきりとあなたの何を尊敬しているのかが分かりました。結婚する時両親につらい思いをさせてしまいましたが今、両親は私があなたと結婚したこと以上の親孝行はないと言ってくれています。
こうして一冊の本が日本とアメリカを、そして世界を結び稲造の考える太平洋の橋がその第一歩を踏み出したのです。
稲造はメリーを連れ8年ぶりに帰国しました。そして明治39年第一高等学校
(今の東大教養学部)の校長に就任。稲造は再び教育の現場に立てることを喜び、学生たちに世界に通ずる広い心を持てと教えました。
しかし日露戦争の勝利に湧く日本は、日本人こそ世界一優れた民族と驕り
浮かれ、稲造の目指す自由で平等な教育に耳を貸す者などいませんでした。
そんな中でも稲造は学生たちにこう説き続けたのです。
ほんとうに偉大な民族とは世界平和に向かって努力する民族だ。これからの時代は世界から日本を見なければならない。
こう説く稲造に人々は日本人の恥、アメリカ人の妻をもって日本人の心を忘れたと言って中傷しました。そして軍国主義の影響はついに教育の現場にも現れました。 文部省は清国の留学生を締め出す方向へと動き出したのです。稲造はこの差別に対して、誰にでも教育を受ける権利があると主張。文部省に敢然と抗議。しかし受け入れられず。稲造は校長辞任を決意します。第一高等学校を離れる時、稲造は学生たちにこう語りました。
自分と異なる主張を排斥するような高慢なことをしてはならない。君たちに望むのは自由を愛する心です。
稲造が第一高等学校を去って7年、時代は再び稲造を必要とし始めます。第一次世界大戦の連合国側の勝利により1918年パリで世界平和会議が開催され、その席でアメリカのウィルソン大統領が国際連盟の設立を提唱。
日本にも事務次長を出すように求めたのでした。戦争の阻止を目的とする国際連盟の日本代表には新渡戸しかいない。この求めに稲造は、これまで教育の場で世界平和を訴えて来たが、今こそ直接的に平和のために働こうとメリーを伴いジュネーブに赴いたのでした。59歳新たな挑戦のスター
トでした。
このままでは日本は孤立してしまう。いずれは世界を敵にして戦うことになってしまうだろう。
稲造は一人中国侵略に反対の声を上げたのでした。しかしその稲造の声は日本の人々によってかき消されてしまいます。弾圧の激しい中で彼はメリーに一つの決意を打ち明けます。日本が君の国アメリカと戦うことになるかもしれない。このまま放っておくわけには行かない。和平のためにアメリカへ行こう。稲造はすべての役職を辞し、一人の民間人新渡戸稲造として船に乗りました。71歳悲壮な旅立ちでした。
昭和7年アメリカへ乗り込んだ稲造は日米間の戦争を防ぐため各地を講演して
歩きました。いま日本がしていることは、国民の総意ではありません。どうか方向を修正する時間を下さい。しかし声の限りこう訴える稲造にアメリカの人々は罵声を浴びせ、日本の人たちも稲造の努力を非国民となじったのでした。
それでも稲造は日米和平のため講演を続け、ワシントンに入りました。そして
フーバー大統領に会見を申し込んだのです。稲造は大統領に会えたなら両国の
平和を守るための努力を諦めないで欲しいと訴えるつもりでした。フーバー大統領は会見を申し込んで来た日本人が、あの武士道の著者と知り快く会見に応じた
のです。大統領に会える。これで和平への足がかりが作れた。
しかし、会見の席で大統領の口から出た言葉は、血気にはやる青年将校が
クーデターを起こし犬養首相を暗殺したというものでした。
この5・15事件をアメリカ大統領から伝えられた稲造は言葉を失ってしまいます。もう誰も軍部を止められないのか。いや、なんとしても止めなければ。日本にメリーを戻せば身に危険が及ぶと考えた稲造は一人で日本に戻ったのです。もう一刻の猶予もない。急ぎ帰国した稲造の耳に飛び込んで来たのは彼が手塩にかけ育てて来た国際連盟からの脱退でした。それは日本の孤立を意味していました。
(1933年3月27日)
自分が今までやってきたことは何だったのか。もう和平への道はすべて途絶えたのか。稲造は最後の望みをかけ、カナダで開かれる太平洋問題調査会に出席
(1933年8月2日)。疲れ果てた体に鞭打ちながら諸外国の人々の前で
訴えたのです。
稲造72歳の心の叫びでした。しかしこの演説から2か月後 ・・・
新渡戸稲造没享年72歳(1933年10月15日)
外国人の老妻をただ一人残していく。よろしく頼む。
これがバンクーバーで最後に残した言葉でした。
1か月後、72歳でバンクーバーで倒れた稲造の遺骨は妻メリーの手によって日本に帰って来ました。
教育を通し、日本の近代化に一生を奉げた新渡戸稲造。
彼の教育とは、知識を与えるのではなく自由と平和を愛する心を教えるものでした。しかし自分の願いと逆行する時代のうねりの中で新渡戸稲造はどんな思いでこの世を去ったのでしょうか。
何世代もが受け継いで初めて架けられるものだ。
新渡戸稲造 感動人生
https://www.youtube.com/watch?v=iWtOdExe_GI
新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾「世界を結ぶ『志』
https://www.youtube.com/watch?v=vofCprxlD3g
新渡戸稲造 生誕150年記念 第2弾「未来につながる『道』
https://www.youtube.com/watch?v=kJBb9Z4TC5g
新渡戸稲造 生誕150年記念 第3弾「すべてに根ざす『愛』
https://www.youtube.com/watch?v=_xgGp83z8kQ
編集後記;
盛岡の先人記念館に行くと大きなスペースを割いて新渡戸稲造の業績が展示されている。私は彼について国連の事務次長だったこと、「武士道」を書いた人としてしか知らなかった。が、テレビ番組「知ってるつもり」で紹介されているのを見て凄く感動した。
それによると彼は8歳の時に母親から送り出されて東京の叔父の下に身を寄せ、そこで英語を学んだ。やがて札幌農大で―クラーク博士はすでに去っていたが―二期生として、その感化を受けて成人した。盛岡に一時帰郷した際には、その二日前に最愛の母を失った。アメリカで後の伴侶となるメリーと出会った。「武士道」を英語で出版。国連事務次長への就任。そして日本がいよいよ軍国主義化しつつある中、71歳でアメリカに渡って和平のために奔走し、最後にはカナダで客死した。
これが新渡戸稲造の生涯であり、世界のさまざまな場所で彼の業績は記念されている。
さらに生誕150周年の記念番組で、個人的に親しい藤原賢一さんが新渡戸稲造の志を嗣いでカナダに移住したことを証しされている姿を見て私は感動と驚きを禁じ得なかった。
そこで最後に彼の証しを紹介して、このしおりを閉じることにしたい。
新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾より親友 藤原賢一さんの証
ですね。感無量な思いでおります。
ホロコーストから生還した少年の物語
イスラエル・メイル・ラウ著 滝川義人訳
深淵より ラビ・ラウ回想録 ・ミルトス
この本を私はある集まりで著者を叔父と呼ぶ方の講演を聞いた後で読んだ。これまでユダヤ関係の本を何冊か読んできたが、これほど強烈なインパクトをその一節、一節から受けたことはない。この本に書かれていることは現実に、この地球上で、つい数十年前に起こったことなのだ。
人種的偏見によって、他の人間を自分たちより劣った動物とみなし、彼らの心情、思想、文化、歴史に目を留めることなく、選別し処分するという残虐な行為を人類は幾たびもしてきた。
いや、もしかしたら自分自身の中にも人を別け隔てし、距離を置き、差別し、見限ってしまう心が潜んではいないだろうか。
そう思うと空恐ろしくなる。「人類みな兄弟」とか「普遍的な愛」などという言葉はあまりにも空しい。
私たちは知らなければならない。そして記憶しなければならない。
この現実に目を背けることは意識あるものとして怠慢ではないだろうか。そう思ってまずは本書の初めの部分;収容所への拘束から解放までの部分の私の抜き書きを読者に紹介したいと思う。
<本の帯見出しより>
(元イスラエル国首相)シモン・ペレスによる序文・・・ユダヤ民族史上最も苛烈にして過酷、最悪、最暗黒の時代が描かれている。・・・本書は一語一句が血で書かれた書である。・・・著者のラビ・イスラエル・メイル・ラウ師はディアスポラとイスラエルにおける自分の人生の紆余曲折を描く。背筋の寒くなる描写を読み、心を引き裂く苦悩が行間に溢れる文章を読んで行くと、私は言葉を失い、目は涙でかすむ。・・・そして何故という問いかけには、苦難の果てのどん底に至っても、答えは返ってこない。
(ホロコースト作家)エリ・ヴィ-ゼルによる序文・・・本書は・・・アケダー・・つまりアブラハムと息子の時以来、我が民が支配されていると思われる永遠の暗い影なのか?本書は後年イスラエルの主席ラビとなった少年の物語である。しかしそれだけではない。・・・劇的な回想が豊富に描かれ・・・ゲットーの話、シナゴーグにおける残虐行為、選別、相次ぐ家族生き別れの恐怖、情景は苛烈の度を強め深手の傷となり、凄惨な修羅場と化す。・・・
<まえがき;強制収容所解放60周年の記念式典で>
・・・死の陰を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。・・・あなたは私の魂を死から助け出してくださった。・・・命あるもの地にある限り、私は主の御前に歩み続けよう。詩篇23篇
・・・そのとき私には犠牲になった人々の姿がはっきり見えた。移送列車が到着し、貨車から降りる人々。それから到着したその場で、生か死かの仕分けをする”選別”のため列を作って並ぶ人々。・・・そしてユダヤ人たちをこづきまわし鞭をふるうゲシュタポとその手下のウクライナ人、人を威嚇して低い唸り声をあげるどう猛な犬。もぎ取るように力まかせに乳幼児や子供たちを両親から引き離す兵隊たち、残忍な仕打ちで家族はばらばらとなり、これが永遠の別れとなる。
・・・私は本書を永遠のともしびとして綴った。あの暗黒のトンネルの中で起きたことについて、闇の中に差し込んだ光の輝きについて、そしてその後に続く希望と信仰について、後々の世代に語りかける不滅の記憶として書き残した。
本書の内容は、ホロコーストに関する私自身の記憶である。業火の炉からの脱出、体と心を痛めつける苦しみ、両親も家もない中での成長の記録である。
・・・時がたてば、生き残った者の激しく燃える炎は残り火となってくすぶり、やがて消える。私はその火が絶対に消えないように、残り火をあおぎ続ける。私は自分の話が、読者の意識に触れ奮起させ、もう一度考える縁(えにし)になれば、と願っている。そしてホロコーストがつきつけたあらゆる問題があるにもかかわらず、これを乗り越え「命あるものの地にあるかぎり、私は主の御前を歩き続けよう(詩篇116篇)との結論を得ていただければ、幸いである。
・・・エジプトで宰相となったヨセフが、食料を求めてやってきた兄弟たちに、末弟のベニヤミンを連れて来いと謎めいた要求をした時、「それによってお前たちは試される」と言った。(創世記42章)信仰は測り知れない、不可思議なことを通して試されるのである。
私は神を信じる者であり、死を迎える日までそれに変わりはない。
「主は私を激しく懲らしめられたが、死には渡されなかった。(詩篇118篇)
私は偶然を信じない。私が信じるのは神の摂理である。私がまだ答えを得ていない問題は、何故という問いであり続ける。何故あれが起きなければならなかったのか。・・・私には分からない。しかし、それで私の信仰が薄れることはなく、いつも朝の祈りで「御手に私の霊を委ねるのである。(詩篇31篇)
<第一部 ;刃物そして火、薪>
第1章 最初の記憶、蹂躙、消滅
<ユダヤ人たちが集められ収容されて>
・・・この選別の後、警備兵たちが女子供を男性から分けた。彼らは私の母、兄シュムエル、そして私を大シナゴーグに入れた。・・・その日の夜遅く、二人のゲシュタポが入ってきてドアの近くに陣取り、名前を読み上げられた者はすぐに起きて家に帰れと言った。最初に呼び上げられたのは私の母、ラウ・ハヤであったが、母は二人の息子が呼び上げられるのを待っていたので立ちあがらなかった。・・・最後に促されて母は「今行きます!」と叫んで二人を抱えて通ろうとした。・・・ゲシュタポの一人が両手を振り下ろした。それで左側にいたシュムエルはシナゴーグの床に倒れ、戻らざるを得なかった。これが運命の別れ道であった。その後シュムエルを見ることは二度となかった。
・・・帰ってきた父は私たちにさよならと言い、シナゴーグに戻った。そこではトーラーの巻物をしっかりと抱きしめ続け、移送の時が来ると昂然として列車に向かい、トレブリンカのガス室へ向かった。そして死出の旅に出る人々に向かい、ラビ・アキバの最後について触れ、・・・ローマ人たちがアキバの肉体を鉄櫛で引っ掻いたとき、弟子たちは拷問に耐えられるかと心配した。するとアキバはシェマー(聞け、イスラエルよ、我らの神は唯一の神である)の神への絶対的帰依の表明の後、「あなたは心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という個所について、・・・たとい主があなたの魂をとっても、あなたの神を愛せよ、という意味に理解した。私はこの掟を守る機会をいつ持てるのであろうかと自問した。今がその機会である。私が見逃すことがあり得ようか」そう言うと、彼はシェマーの章句を誦し、最後の、「唯一の主」を長く引きのばして唱え魂が抜け息絶えた、と話した。
・・・父はその場のユダヤ人たちに向かって言った。613のミツボット(掟の数々)の内、私たちが尊守しなければならないミツバー(掟)が一つ残っている。・・・神の聖名のためにあなた方の命を捧げることである。・・・さあ、兄弟たちよ、この掟を喜びのうちに守ろう。この世は法の支配がない。憎悪と流血で沸き立つ暴風雨でしかない。私たちに残されたミツバーは「神の聖名を聖別」することである・・・ラビ・シムハ・プニム師は「喜びに満ちて私たちは去る。喜びを力として私達は、この世界の様々な困難、苦しみそして試練を後にする。」と言った。
・・・その後父はヴィドィ(死の前に神と向き合ってする告白)を唱え、「あなたの前に罪を犯しました。」と祈りを捧げた。群衆は父の後から斉唱した。祈りは囁くような低い声で始まった。「シェマー・イスラエル(聞け、イスラエルよ)、主は我らの神、主は唯一である。神がしろしめす。未来永劫、神はしろしめす。祈りは大合唱で終わった。
ナフタリは父と交わした最後の会話について思い出を語った。父は自分の家系と母方の家系が代々ラビを天職とする家で、ともに37代続いていると語った。父は抹殺の脅威から誰かが生き残るならば、その人は伝統の鎖をつなぎ守って行く責任がある、と示唆したのである。
「あなたの未来には希望があると主は言われる。(エレミヤ記);「息子たちは自分の国に帰って来ると述べ、私たちがもしこの地獄の業火から無事に逃れるなら、家を探すすべも分かって来る。その家は(今私たちが住んでいる)この家でもなく、この敵の地に建つ家でもない。「君の家はたとえ大きな苦しみを通して確保しなければならぬとしてもエレッツ・イスラエルにある。
・・・1944年ロシアの飛行機が飛来して上空を旋回するようになったころ、・・・(収容されていた私たちの群れは)命令によって女子供と男に分けられた。・・・私の母親は、区分けの意味をとっさに判断した。・・・母は私を力いっぱい男子グループの方へ押しやった「トゥレク、ルレクをよろしくね。さようならトゥレク、さようならルレク!」と言っているのが聞こえた。母の母性本能がとぎすまされ、決定的瞬間にそれが発揮されたのである。彼女は男子に比べれば女子供に生存のチャンスは少ないと理解した。・・・ロシア軍の反攻に備え、ドイツは戦時生産で労働力を必要とする。自分といるよりナフタリと一緒の方が良いと判断し、私を長兄のほうへ押しやったに違いない。
・・・当時を振り返ってみると6年間の戦争中一番辛かったのはこの日の出来事である。後にも先にもあれほど泣いたことはない。母から引き裂かれるのは普通の子にとっては考えられぬことであり、心を傷つけ、その傷は生涯残る。・・・母が私をナフタリの方へ押しやったのは私を助けるためであった、と理解したのはずいぶん時間がたってからである。
第2章 家族の絆
・・・戦争になりドイツが占領するとゲシュタポがラビ・イスラエル・ヨセフに仰天するような仕事の遂行を命じた。ユダヤ人墓地を取り壊し、墓石を割る作業である。ナチスは道路の敷石に使うつもりであった。
ラビは状況の深刻性を理解した。そしてユダヤ人社会のメンバーたちに中心シナゴーグへの集合を求めた。断食し祈るためである。その後ラビはメンバーたちを墓地に導いた。そしてつるはしを手に、先代ラビの傍らに立って言った。「ここに眠る偉大なラビ、そして皆の先祖家族に、この行政命令を遂行すべきかを訊ねるなら、答えは分かっている。もしこの行為で各人の命がたとい一日でも延びるなら、故人はやむなく私達に遂行させるだろう。天と地の創造主;天の証人は、私たちが力づくでやらされることを、お分かりになっている。」と述べ、神に対するタハヌン(祈願)の祈りを捧げながら、つるはしをあげ、ラビの墓石を掘った。ユダヤ人社会の有力者たちがこれにならい、やがて全員がそれぞれ自分の家族の墓を掘り始めた。・・・
<惜しみなく注がれる愛>
カントールには天の授けた才能がある。ナフタリはそう考えた。彼はハシドの人たちの中に座り込み、ピョートルクフのラビ・ラウの息子であると自己紹介した。回りの人たちは全員私の父とその一族だけでなく、母親とその一族についても知っていた。私たちの家系については、ナフタリや私よりも熟知していた。彼らは温かい愛で兄を包み、私たちの住む暗黒世界で一条の光となってくれた。
第3章 命を救った言葉
・・・この小汚いガキ共が何のためになる。全くの役立たつだ。ここでやっているのはメシを食うことだけだ。
・・・私はこの時、キャンプの所長に生まれて初めて自己主張して、演説をした。それは必死で生きようとする私の命がけの演説であった。・・・「僕たちは役立たずとか能力がないなどと、所長さんはどうしてそんなことを言うのだろう。ぼくはピョートルクフのガラス工場で一日12時間働いていました。・・・今はその時より年をとっているし、もっとできます。一番年少の僕だって、ぼくより年長の子供も生きる権利があります。」
・・・移送担当のゲシュタポ隊長が・・・私の顔に警棒を突きつけ、頸筋をつかむと「子供は母親と一緒だ!」と怒鳴った。そして私を突き飛ばして同じ列車の別の貨車に入れた。・・・ナフタリはそれがやがては別の収容所へ向かうことを知った。・・・私が一号貨車に押し込められたころ、ナフタリはほかの男たちと、同じ移送列車の後方の貨車に入れられた。・・・父との約束、兄は父の前で私から目を離さず、家系の継続に手を尽くすと誓ったのである。移送列車が止まった後、ナフタリは友人たちと一緒に扉を開け、線路に降りて貨車の下に潜り込むと肘を使い前の貨車まで匍匐(ほふく)前進した。
第4章 ヴッヘンヴァルトー暗黒のトンネルと一条の光
収容所入り口の門扉に書かれていた言葉:イェーデム・ダス・ザイネ:古代ギリシヤ以来の正義の概念である。「各人に各人のものを」・・・この呪われた場所では自分で自分の未来を選択することはできなかった。待ち構えていたのは、強要された恐ろしい運命であり、・・・相手はあらゆる手段を使って、人々から人間性を奪ったのである。自己責任を問うこのセンテンスと現実との間には無限の距離があった。
・・・2004年5月IDF(イスラエル国防軍)のある兵員輸送車が地雷に触れて大破、乗車中の兵隊たちが吹き飛んだ。IDFは兵員の遺体が如何に小さな断片でも良い、取り戻して埋葬するために、テロリストと交渉すべきかを訊ねてきた。私の返事は、・・・兵士はその生死にかかわらず、「運命は人それぞれ」という規定のもとで扱われてはならない。・・・兵士全員を家族のもとに戻す責任がある。・・・惨事があったとしても、遺体はきちんと敬意を払って戻さなくてはならない。そうしなければ、戦場に赴く兵士や、困難な任務に就く国民の士気にかかわる。負傷すれば味方から見放され戦場に遺棄される、という考えに苛まれる。生存者の安全と福祉を守るだけでなく、死者の名誉のために、私たちは兵士全員の帰還を果たすため、あらゆる努力を払う責任がある。
IDFとイスラエルを導く道義の力は、「ユダヤ人は全員が互いに責任を共有する(コールイスラエル・アレヴィム・ゼ・ラゼ)という言葉に表現されている。
・・・私は奇跡とたまたま出会った善意の人々のおかげで、選別過程を通り抜け生きのびた。戦時中の少年時代を振り返ると、私は自分が経験した奇跡の連鎖に驚く。そして偶然ではなく、神の摂理の手がすべてを導いていると、心の中で思っている。
・・・(収容所では)シャワー室を出てから・・・一人一人に番号を与えられた。その時から私たちの名前は抹消され、番号だけの存在となる。・・・私は金髪で色白であったから・・・ポーランド人の子供ということになり、兄と別れて第8ブロックに移った。そこにはフョ―ドルというロシアの軍人がいた。…まるで私の守護天使のような人だった。よくジャガイモを盗んできて、温かいスープを作ってくれたものである。・・・黒っぽいスェーターをほぐして耳覆いを編んでくれた。
・・・私の帰属はユダヤ人ではないポーランド人児童の身分であったが、そのようなことにお構いなく、ナフタリは収容所のユダヤ人の動静についていつも私に教えてくれた。私は極めて幼かったので、ユダヤ教についてまだ教育を受けておらず、ユダヤ人社会の慣習も祝祭日に関する知識も非常に限定されていた。
・・・プリム祭で手作りのエステル記を読んだ後、アブルムはいつものように、倒れそうな人たちを支え、命を救った。このタフなユダヤ人を大いに尊敬していた、ウクライナ人監視兵が・・・彼の耳元で囁いた。「ヒトラー、カブート」ヒトラーはくたばったの意味である。・・・私を滅ぼそうとしたハマンよ、呪われよ。/ヤコブのバラは歓喜し、意気上がり・・・祭りの夕べの歌が翌朝再び歌われた。解放の1か月前である。
・・・戦争は終わりつつあった。・・・移送されることになったナフタリは私のところに来て言った。「ルレク、私は連れて行かれる。そこからここへは戻れない。再会できるといいけど、どうなるか分からない。君はあと数か月で8歳になる。立派な大人だ。ほんとうの話しは隠せないし隠そうとも思わない。この地獄からは助からない。もうこれで世界の終わりだ。お父さんはもういない。ミレクもだ。母がどうなったか分からない。・・・ほんとうに生きているかどうか、兄さんには分からない。今度は兄さんの番だ。君は一人ぼっちになる。でもここには友達がいる。・・・奇跡が起きて、君はずっと生きているかも知れぬ。こんなことはいつかは終わる。・・・よく聞いておくのだよ。この世界にエレッツ・イスラエルというところがある。
・・・ドイツ人たちは全員を集めゲートの所へ移動させた。残虐行為の目撃者である囚人を一人でも残さないためである。それから彼らは待機中の列車に囚人たちを積み込んだ。・・・思惑通り、生きて移送列車を降りた囚人は一人もいなかった。
ナフタリの回想録「バラムの託宣」より
この50年間私は、トレブリンカに移送される前に父が私に託した責任を守って来た。父は当時5歳の虚弱児の面倒を見よと言ったのである。小さくて3歳児、いやもっと幼く見えた。以来3年、私たちがルレクと呼んでいた弟イスラエル・ラウの父親、母親、後見人そして守護者として行動した。状況が状況であり、私はしばしば絶望感に襲われ、自分自身度々破滅の淵に追い込まれた。普通であれば、私たちの家族に振りかかった恐るべき運命に屈したであろうが、弟の安全を守りラビの家系である一家の血を絶やすなという父の指示があった。私たちの命のために戦うという使命感が私に生き抜く力と意志を与えてくれたと思っている。・・・
第5章 解放
1945年4月11日ヴッヘンヴァルト解放の日。
・・・どうにかして助かりたい、考えることはそれだけである。私はジャガイモの皮を集めて口に入れ、無くなるまでもぐもぐ噛んだ。・・・
それは米第3軍の従軍ラビは、ハーシェル・シャクター師であった。・・・師は両眼を大きく見開いて睨みつけている私を見つけてぎょっとしたらしい。殺戮の現場、血の海の中に、いきなり小さい子供に出くわしたので驚くのも当然である。・・・師は私を両手で抱え上げ、父親のように抱いて言った。「何歳だね、ぼくは?」。・・・私は彼の両眼に涙が溢れるのを見た。それでも私は、染みついた習慣から・・・「どうしてそんなこと聞くの?ぼくの方が大人なのは分かっているでしょう。」・・・おじさんは子供のように笑ったり、泣いたりしているからだよ。ぼくは長い間笑っていないよ。もう泣くこともできない。どっちが大人か分かるでしょう。」と答えた。
・・・このアメリカ人ラビはイーデッシュ語で「ユダヤ人よ、君たちは解放されたぞ!」と叫んだ。
・・・4月末ロシア兵捕虜たちは自国へ戻されることになった。私が大変なついているフョードルは、私が一緒にロシアに帰ることを、当然のように思った。・・・チフスにかかって病院に収容されていたナフタリは、彼らが帰還の途につく日、見送りのため病棟を出て恐ろしい光景を見た。・・・私がフョードルと一緒に小さいスーツケースを提げ、もう一方の手は彼の手をしっかりと握っていた。・・・がっかりした兄の顔を見て、私はフョードルの手をふりほどき、彼の所へ行って言った。「トウレク(ナフタリのこと)、ぼくは行かないよ、フョードルのスーツケースを持ってあげるだけだよ。・・・ぼくはお兄ちゃんと一緒だよ。エレッツ・イスラエルへ行くって言ったよね。」・・・私にとってイスラエルは誰も殺されずにすむところであり、・・・私たちの家であった。
1945年5月私ははしかにかかった。・・・私は病院の二階病棟に隔離されていたが、ある日、チフスから回復したばかりの体で兄は私をおぶって、イスラエルへの移住許可証をもらうために並ぶことになった。彼は言った。今この列に並ばないと、ヴッフェンヴァルト残留となりエレッツ・イスラエルには行けなくなると付け加えた。
1945年6月2日、・・・私たちは汽車でフランスへ向かった。・・・出発の前一人のアメリカ兵が軍支給の古いスーツケースを私にくれた。このスーツケースはいつも私と一緒だった。 ・・・結婚するころになると、それはぼろぼろの状態になっており、妻は捨てたいと言った。しかし私は断固として拒否し、「これは私の拠りどころだ。・・・今は神の御心によって、子供たちは何不自由のない生活をしている。しかし、いつか子供のひとりが、あれが足りない、これが足りないなどと文句を言うようになったら、その子に屋根裏部屋からそのスーツケースを持ってこさせ、そして何十年もたくさんのところでこれが父さんの拠りどころだった。不平を言ってはならないよ、父さんは一度も言ったことがないのだ」と諫めるつもりだ。」と妻に言った。・・・残念ながらそのスーツケースは今は存在しない。
しかしエリ・ヴィーゼルがある時バンクーバーのホロコースト教育センターの展示の中から、そのスーツケースを手に笑っている私の写真を見つけて、私に送ってくれた。(文頭参照)
・・・私はその写真を玄関の右手の壁にかけ、外出する度にそれを見ている。・・・左手にはメズザー(聖句箱)がとりつけてある。この二つのシンボルが私を囲み、私の世界を構成している。写真を見るたびに私は、「イスラエル・ラウよ、君には命をかけた任務がある。殺害された父、母そして兄の遺志を継ぎ言葉を伝える者として仕え、宗派の一門を守って、君の存在とその存在が正しいことを証明せよ。」と自分に言い聞かせている。
賢者たちは「汝は自分がどこから来たのか理解せよ」と言った。私は自分の生涯をかけて、毎日、毎時間この任務のために働いている。・・・
汝は、自分がどこへ進んでいるのか、そしてどなたの前で弁明し申し開きをするのか、理解せよ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<「水俣病」が私たちに投げかけている終わりなき問い>
W:水俣病の患者さんたちは病気を負うことで大変な苦しみや悲しみや嘆きというものを生き抜かなければならなかった。そこから大変深い思想や哲学が生まれて来ています。石牟礼さんも彼らから深い影響を受けたと仰っています。
I:水俣病の患者の一人である漁師のOさんを御紹介します。
水俣で代々漁業を営むOさん、両親と兄弟8人が水俣病に侵され、自らも長年手足のしびれや頭痛に苦しめられています。水俣病を広く伝える活動を続けて来ました。
I:あのご家族で8人も水俣病に罹ってしまわれたそうですね。
O:私の兄弟家族を含めてですけど、一番衝撃を受けたのは私が6歳の時に、父親が発病して2か月足らずで亡くなってしまいました。私は今62歳で、これは水俣病60年ということとも重なり合うので、非常に小さい時にどでかい課題を与えられたなという気持ちでいます。
S:今も漁に出られるんですか
O:そうですね。ほぼ毎日漁に出ています。水俣病が起きた不知火海で今も漁をしているわけですけど、私たちはどこかで海に養われてきた恩義があるものですから・・・
S:それがとても外の人間にはわからない部分でね。大本をたどればそれは「チッソ」から、都会のしわ寄せから来たんですけど、海から毒も来たわけじゃないですか。それでも自分たちは海と暮らすという・・・
O:多くの水俣病の被害者や患者からは、海や魚を怨む言葉はほとんど出て来ません。海があったればこそ自分たちが支えられて来たということを肌身で感じてきたからだと思いますね。もう一つは何千年、何万年と食べてきた魚に毒が入っているなんて簡単には信じられないんですよね。食というものは生き物の生命の記憶として長い間続けれられて来たものですから。だから「魚を食べるな」というのは、「鳥に空を飛ぶな」というのと同じなんですよね。空気みたいなもんで、我々はそれを吸わないと生きていけないんですけれども、・・・
S:生命の記憶ごと汚されたということなんですよね。
I:ではOさんがこれまで歩んでこられた道を見てみましょう。
水俣病の認定を求めて行政を提訴したOさん、400人の患者団体の先頭に立って闘って来ました。
・・・しかし、気が付けば「チッソ」や行政との戦いはお金の問題になっていました。「苦界浄土」にも次のような場面が描かれています。
水俣病患者互助会59世帯には、死者に対する弔慰金32万円、患者成人年間10万円、未成年者には3万円を発病時にさかのぼって支払い、過去の水俣工場の排水が、水俣病に関係があったことがわかっても、一切の追加補償は要求しないという契約を取り交わした。
「大人の命10万円、子供の命3万円、死者の命は30万」・・・と、私はそれから念仏にかえて唱え続ける。命さえもお金に換算される現実、多くの患者たちは疲弊して行きました。
Oさんは31歳の時、患者団体を抜けて、たった一人で戦う道を選びました。認定申請も取り下げるという厳しい覚悟で臨んだ道です。そして時代と逆行するようにプラスチックではなく、木の舟を作りその船で「チッソ」本社前に通い、半年にわたって一人で座り込みを続けたのです。
Oさんは次のような境地に達します。
<私は「チッソ」というのはもう一人の自分ではなかったか?と思っています。>
O:それまでは外側にいる敵として「チッソ」を見ていたわけですけれども、もし自分が「チッソ」の工場の中で働く労働者や重役の一人だったらどうしただろうかという問いを初めて持ったわけです。それまでは被害者患者家族という視点から責任を問うていたんですけれども、どこかでそれがお金に換算されていく、補償金とかね。そのことに非常に絶望感を感じて命さえも値付けされていくということに居たたまれなかったんですね。
S:ぼくはこの歳になってやっと文明を追い求める自分も加害者側なんだということが少しだけわかって来たような気がするんですね。それを当事者が分かるってどういうことですかね。当事者はどんなに恨んだっていいじゃないですか。
O:それはたぶんそこで私の視点が変わったんですよ。ほかの生き物たちから見たらどう見えるだろうか。亡くなった死者たちから見たらどう見えるだろうか?例えば、お金は亡くなった人たちには直接通用しないんですよね。それからほかの生き物、魚や猫に、これでなかったことにしてくれというわけにはいかないんですよね。人間の社会だけでかろうじて通じている価値観だけで、なかったことに、終わったことに、忘れてくれなんて言う話になっちゃっているんです。人間の一人として、私も問われているんではないか。ということが起きちゃったんですね。
I:じゃあ一人で闘おう。認定の申請も取り下げる。・・・今のお話って石牟礼さんが「人間が担って行かなくてはいけないんだ」という、その価値観とも通じるものなんでしょうか。
W:そうですね。やっぱりOさんも人間からの視点からだけじゃないという点がぼくはとても心打たれるんですね。石牟礼さんも強くおっしゃっていますけれども、とにかく人間が見て、いいんだ悪いんだ、という人間にとって得だ、損だというような倫理観、人間中心の倫理観、世界観だけでは、この水俣病というのはどうしても解決がつかないんだということなんじゃないでしょうか。
S:海を中心にして「生態系の輪」の中で生きて来た生き物の原体験の中にあって、「チッソ」もその輪の中に入れたうえで考えていかなければ何もわからないんだということになる。
それから木の舟で半年間「チッソ」の前で座り込みをされましたね。何故ですか?
O:正確に言うと、座り込みではなく、その日一日を「チッソ」の正門前で暮らすという、私にとっては「チッソ」の前は表現の場としてとらえたんですね。笑いたい人はどうぞ笑ってください。石投げたい人はどうぞ勝手にやって下さい。受け取り方はそれぞれで、私はただ自分の武装解除した姿を晒しただけなんです。
S:具体的には何をしていたんですか?
O:七輪で魚焼いて、焼酎飲んだりお茶飲んだり、草鞋を編んだり、・・・そのために作った木の舟だったんですよ。それこそプラスチックの舟で行くと早いんだけども、なんとなく癪に障るんですよね。ですから大工さんにわざわざ木の舟を作ってもらって、
S:その活動を見て「チッソ」の人たちはどういう反応を見せましたか?・・・
O:びっくりしてました。「一人で来られると困る」って言うんですよ。集団で来ると強制排除したり警察を呼んだりできるので、世間もある程度わかってくれるけれども、一人で来て、しかも営業妨害をしているわけではないので、排除しにくい・・・
I:そこで七輪で魚焼いててね。
O:一番最初に来たお客さんは猫だったです。魚の匂いで・・・
I:猫も、もしかしてチッソの前で表現してたかも・・・
O:小一時間、一緒に食べた後座っていた・・・義理を果たした・・・
S:猫も我々も魚を食べて生きているわけです。これこそ、悲しく楽しく深刻で、全部混ざったものじゃないですか。・・・
そんな中で石牟礼さんはどういう反応をなさいましたか?
O:一番早く分かってくれたですね。
I:理解を示された・・・
O:理解というか、共感というか。むしろ喜んでくれたんじゃないかと思います。「常世の舟(とこよのふね)」という名前を道子さんに書いてもらって、それを大工さんに掘ってもらったんですね。
I:Oさんから見て石牟礼さんはどんな方ですか?
O:あの方は深いまなざしを持っています。私は<古層の現れ>というふうに思っています。古い時代がこの現代社会に立ち現れて、働きかけている姿を見ます。
そして不知火海沿岸の人たちの中でさほど、貨幣経済に染まっていない人たちが被害者になってしまったんです。ですからどちらかというと、感じる世界で暮らしてきた。それを文学として表現したのが道子さんだったと思います。
I:ではもうひとかた石牟礼さんが大きな影響を受けた患者さんを御紹介しましょう。
水俣病で両親を亡くし、自らも患者として 抱えながら漁業を続けてきた杉本英子さん。親しかった石牟礼さんに杉本英子さんはこう語ったと言います。
石牟礼道子:私たちはもう許すことにした。全部許す。日本という国も許す。「チッソ」という会社も許す。いろいろ差別した人も許す。許さんばきつうしてたまらん。みんなの代わりに私たちは病んでいる。それで許す。英子さんはそう仰っていました。
それで私たちは許されているんですよ。代わりに病んでいる人たちから許されて生きている。罪なことですね。
やがて英子さんは耐え難い苦しみを与えた水俣病を「のさり」;海の恵みだと表現するようになります。病を得たからこそ、見いだせたものがあると、亡くなるまで語り部としても活動を続けました。
S:これまたすごい話だなあ・・・許す・・・
I:水俣病の患者さんからこういう言葉が出てくるんですね。
O:杉本英子さんが言う「のさり」というのは、天から授かるという意味合いなんです。熊本弁でたとえば子宝に恵まれるのを「のさる」と言います。危ういところを助かって命が「のさった」とかですね。大漁だった後で・・・「のさった」と。さらにその逆にも使います。苦しいことがあった時、悲しいことがあった時も本人に言い聞かせるように、「これもまたのさりぞ」と。杉本英子さんが使っているのは「苦もまたのさり」すべてのことを身に引き受けるという意味ですね。
S:もちろん、今もそうは片づけられない被害者の方がたくさんいると思うんですが、時間をかけて一部の人たちだけでもこう言ってくれていることで、・・・これを言われちゃうと我々に借りはないなんて思えないんですよ。俺らは許された側じゃないかということになりますよね。そうするとやっぱり恥ずかしさというか・・・。
W:ぼくなんかやっぱり、彼らが今も苦しんで生きてくれている。その生涯から意味深いものを掬い取るのは後世の者の務めだと思うんです。そして石牟礼さんはそれを50年前に見つけて、「苦界浄土」の中にギュッと結晶させた。・・・
*****
<ゆき女聞き書きより>
5月、患者の雪はこんな望みを語るのです。海の景色も丘の上と同じに夏も冬も秋も春もあっとばい。うちはきっと海の底には竜宮があると思うとる。夢んごと美しかもね。海に飽くってこたあ決してなかりよった。
磯の香りの中でも、春の色濃くなった「あをさ」が岩の上で潮の引いた後の陽に焙られるにおいはほんに懐かしか。
自分の体に日本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと身体を支えて、ふんばって立って、自分の体に二本の腕のついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、「あをさ」を採りにいこうごたるばい。
うちは泣こうごたる。もういっぺん行こうごたる、海に。
S:この望みは都会の言うところの贅沢でもないし、ささやかなことじゃないですか。これがでも一番の望みなわけですよね。
I:海に春があるっていうことでしたけど。不知火海の春の海ってどういう感じなんですか。
O:陸上より海の底のほうが春は先に来ると私は思っています。その一番典型的なのが若芽ですね。年が明けるころからもう芽が出始めて、正月のころには芽がちょっと出ているんですよね。
S:新芽がもう出ているんですか?
O:だから若い芽と書いて若芽というんです。それがだんだん成長して若芽もヒジキも成長して行くわけです。
I:ゆきの最期の望みも春の海に行きたい、自分の腕で櫓を漕いで「あをさ」採りに行きたいということでしたね。
O:その気持ちはよく分かりますね。海の春っていうのは、いのちの賑わいの中に、人が参加できるわけですよね。・・・
W:石牟礼さんにお会いした時に、「どういう気持ちで「苦海浄土」をお書きになっていましたか」という質問をしたことがあります。その時、「大変苦しかったです」と仰ると思っていたんですが、彼女はそのために身体を壊していくんですけれども、彼女が言ったのは「荘厳されているような気持でした」と仰いました。「荘厳」というのは仏教用語でもともとは深いところから仏様の光に照らされていくといったような意味なんですね。彼女がおそらくその時に語ってくれたのは、患者さんたちの深い祈りに包まれているような心地がした、たくさんの苦しみ、たくさんの悲しみをあじわったけれどもその先にある何か、祈りとしか言いようのないものに支えられて、自分は一文字一文字書いてきた、と仰っていました。
I:最初のイメージとはだいぶ違って深く、この「苦界浄土」を深く読み解いてきました。
S:なんだかわからないけど、ぼく最初の一文で声が詰まったんですけど。そういう意味で本を読んで理解するんじゃなくて感じたいなと思いました。本音を言いますとどの作品よりもエネルギーがいりましたね。
完
以下は私の感想・・・
水俣病などの公害問題は文明の進歩とともに、起こって来たし、今も日本だけに限らず世界中に起こりつつある。
特に私は現象としての自然界や肉体を蝕む公害はもちろんだが、人間の精神を蝕む「公害」が蔓延しているのではないだろうかと危惧する。
過去においては、テレビの普及によって「一億総白痴化」ということが言われたが、昨今はインターネットとスマートフォンの普及によって、個々の人間の精神が矮小化しつつあるのではないだろうか。目の前の人と人との関係が希薄となり、ヴァーチャルな自分だけの世界で個々人が生き始めている。しかもその個々人が個性豊かに成長して行くというならまだしも、没個性的な大衆迎合主義に冒されてしまいやすい。ビッグデータを解析し、自ら進化し続けるいわゆるAI(人工知能)に人間が支配される時代が始まっているようにも思える。
いま私たちに必要なのは立ち止まる勇気だ。そして人間を含むすべての生物は進化の過程で物質(塵)から創造されたものに過ぎないという存在の原点に立ち返るべきである。
目を上げてこれらのものを視よ!誰がこれらを創造したか? 聖書の詩編
あらゆる真実を希求する宗教はそこに辿り着く。
I:石牟礼さんご自身はその近代の闇にどう立ち向かおうとしていたんですか?
W:石牟礼さんを頻繁にお訪ねして、ある時「苦界浄土」をどんなお気持ちで書かれたんですかとお聞きしたら「戦いだ」、「一人で戦うつもりで書きました。今も戦っているつもりでいます。」と仰っていましたね。
近代という「バケモノ」に我々が立ち向かおうと思ったときに、我々は最初は個人で立ち向かわねばならない。一人立つというときに何か計り知れない力がある。
I:現代はすごく人とつながりますし、集まったり群れたりということが簡単にできますけれども、個人で立ち向かうという厳しさというのを聞きますと、・・・
S:自分が正しいと信じて独りでやっていたら誰かがわかってくれるということかな?
I:石牟礼さんの闘い続けているその強さと、そして今もなおその問題が続いているということを我々は忘れてはいけませんよね。
W:「水俣病は終わらない」ということを言った人がいます。我々はそこから今も大きな問いを突き付けられていると思います。
I:今日は<近代の闇>ということで読み解いてきました。公害に第三者はいない、近代化の恩恵を私たちも十分解っていて、このことは自分たちの物語でもあるんだなと感じ始めたところです。
Sさんいかがですか?
S:ぼくは「チッソ」という企業が、水銀を大丈夫だと思って流し続けた時代と、わかっていてそれでも止まれなかった時期の問題と、そこには結構大きな差があって、少なくとも自分たちは止まる勇気とか、スピードを落とす勇気とか、時には逆行に見えることをする勇気みたいなのがないと、いけないということを学びました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<いのちの尊厳とは>
水俣病の存在を広く世に知らしめた石牟礼道子の「苦界浄土」
患者さんとその家族の声なき声を掬い上げ、その意義を問うた作品として「いのちの文学」とも言われます。そこには経済成長を優先して来たこの国の姿も浮かび上がってきます。
S:ぼくらが子供のころ、日本が近代化するのに必要だったプラスチックを作るためにできたのが「チッソ」という工場で、そこから流れ出た水銀が巻き起こした水俣病だったという、この関係性みたいなものが、現代でも終わっていないんじゃないかということを考えさせられます。
W:「いのちの尊厳」ということが「苦界浄土」という作品を通じて、石牟礼さんがずーっと考え続けてこられたテーマなんですね。
*****
劇作家で俳優の砂田明さん(1928-1993)は「苦界浄土」を読み大きな衝撃を受けます。
水俣に移住し、一人芝居を製作、全国で上演して「苦界浄土」の世界を多くの人々に伝えようとしました。・・・
砂田さんは「苦海浄土」についてこのように語っています。
水俣病は最も美しい土地を侵した、最もむごい病でした。そのむごさはまず力弱きもの、魚や貝や鳥や猫の上に現れ、次いで人の胎児たちや稚子、老人たちに及び、ついに青年壮年をも倒し数知れぬ生命を奪い去りました。生きて病み続ける者には骨身を削る差別が襲いかかりました。
そして大自然が水俣病を通して人類全体に投げかけた警告は無視され、死者も病者も打ち捨てられ、明麓の水俣は深い深い淵となりました。
S:「苦界浄土」がさらにこの砂田さんの心を打ち抜いて、そのメッセージ;「大自然が水俣病を通して人類全体に投げかけた警告」が無視されたという言葉は心に刺さるものがありますね。
W:つまり水俣病、水俣病事件と言ったほうがいいのでしょうか、それを人間の目からだけでは見ない。魚や猫などの生き物の目で見てみる、そして生者、死者両方に彼の眼差しが注がれています。
I:石牟礼さんもこのような視点で、「土の低きところを這う虫に逢えるなり」というようなことを言っていますね。
W:人間というのは1メーター少しくらいの高いところから、どうしても世界を眺めているわけなんですね。けれども大変苦しいことがあって地面を這いつくばらなければいけない時に見えてくる光景というものが人生の中に幾度かあるんだと思うんですね。
水俣病患者さんたちはそういうことを強いられた人々で、彼らは我々とは全く違う世界を視ている、人間も地を這うような虫になってみて初めて見えてくる世界があるのではないかということを彼女が詩の中で歌っています。
S:さっきの砂田さんの文章にあった、鳥、貝、猫、魚、胎児、これが繋がっているということをぼくらは気づかないんですけど、初めてこういう病気になった時に・・・繋がっているということを理解するのかな。
W:石牟礼さんは時々、「生類(しょうるい)」という言葉をお使いになるんですね。「生類」という大きな世界があってその中に人類があるんだと言って「人間の犯した罪を自分も背負わなくてはならない」ということをお書きになっていらっしゃいます。それは水俣病が「人類が「生類」に対して犯した大きな罪なんだ」と。
*****
<苦海浄土より>
杢太郎(もくたろう)とその祖父
石牟礼さんを姉さんと呼ぶ漁師は「苦界浄土」の中でもひときわ強い印象を残す漁師です。9歳になる杢太郎は重度の胎児性水俣病患者として生まれて来ました。自分一人では歩くことも食べることも、喋ることもできません。そんな杢太郎のことを老人はこう語ります。
杢は、こやつは物を言いきらんばってん、人一倍魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。なんでも聞き分けますと。聞き分けはでくるが、自分が語るっちゅうこたできません。
働き者だった杢太郎の父親も水俣病にかかり、母親は子供を遺して家を出て行きました。老人は自分が死ねば一家がどうなるか、心配で先立つこともできないと嘆くのです。
「姉さん、この杢のやつこそ仏さんでござす。こやつは家族のもんにいっぺんも逆らうっちゅうことがなか。口もひとくちも聞けん、飯も自分で食やならん。便所も行きゃならん。それでも目は見え、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。ただただ家のものに心配かけんごと気ぃつこうて、仏さんのごて笑うてござりますがな。」
ある日沖に漁に出た老人は、網にかかった石があまりに人の姿に似ているので、大切に持ち帰って来ました。焼酎をかけて魂を入れ、この石に杢太郎の守り神になってもらおうと考えたのです。
「あの石を神さんちゅうて拝め、爺やんが死ねば、爺やんちゅう思うて拝め、・・・分かるかい、杢。お前やそのような体して生まれてきたが、魂だけはそこらわたりの子供と比ぶれば、天と地のごとくお前のほうがずんと深かわい。泣くな、杢。爺やんのほうが泣こうごたる。」
S:この<人の形の石>は誰を癒すのか。杢君のために持ってきて、彼にあげる石なんだけど、爺やんの癒しのため、救いでもあると思う。爺やんがいなくなった後、不安を少しでも薄めるための石でもあるし、・・・
I:杢太郎君はお母さんのおなかの中で水銀中毒にかかって生まれてきた胎児性水俣病で、こうした方もたくさんいらっしゃったんですよね。
W:胎児性水俣病というのは大変小さな肉体の中に、水銀の被害が及ぶのでとても深刻になっていくわけですね。今年はちょうど水俣病公式確認から60年という話をした時に、石牟礼さんが「60年間も一度も自分の思いを伝えられない人がいるんですね」と仰るんですね。
I:長い年月ですね。
W:人が生涯の間に一言も自分の思いを語ることができないということがどういうことか。・・・杢っていう少年は人の言っていることは全部わかるんです。だけども自分の思いを伝えることができない。
S:最初は爺やんがそう思いたいということもあるのかと思ったんです。でも最後の涙のくだりを読むとほんとうに言葉以上に杢太郎君に通じているということがよく分かりました。
I:おじいさんは杢太郎君のことを人一倍魂の深い子と言うんですよね。
W:我々は自分の思いを語るということに慣れているんですが、「沈黙」というのは我々の心を深めて行きますよね。自分で言いたいことを言えないというときに、人は魂を掘り始めるんだと思います。そして杢太郎は魂を掘ることだけを定められた人間なんですけど、現代人は言葉というスコップでいろいろなものを掘ろうとする。けれども、杢太郎は素手で大地を掘るように生きているんですね。
S:言葉を喋れないというのは、果てしなくきついことだけれども、言葉がなくてもできたコミュニケーションがあるんですね。・・・
I:お爺さんと杢太郎君のような・・・魂のやり取りというか・・・
<石の神様に込められた祈り>
I:お爺さんは拾ってきた石を杢太郎君の守り神にしようとしましたね。
W:ぼくは、<祈り>ということをどうしても感じてしまいます。・・・「苦界浄土」という作品はもちろん、怒りや恨みも描かれています。しかしその底に何とも言葉にできないような深い祈りが、怒りと恨みを支えている。
S:逆に言うと一番正しい信仰、宗教の起こり方のような気がします。たまたま人間に似ているように思えた石に託してそれに祈りたい。
W:石牟礼さんはイハン・イリイチという大変世界的に知られた思想家と対談しているんですけど、その中で「水俣病が起こった時、日本の宗教はすべて滅びたと感じた」と語っていますね。それはぼくにとってはとっても衝撃的だった。確かに水俣病が起こった時、それに寄り添った宗教者たちはいたんです。しかし、宗教界は沈黙した。
こういうところで新しい信仰というものが生まれていると石牟礼さんは言っています。
W:それから、この事件が起こったのは辺境の地だったということですね。日本人はどうしても東京中心の世界観で生きている、しかし近代の闇を突き付けてくるような問題は東京からではなく、辺境から起こる。それは見えにくい。我々はそのことにしっかり目を見開いていかなくてはならないと思います。
S:福島のことを忘れてしまって今となっては何も考えない人もいるわけじゃないですか。でも福島は東京にたくさん電力を送るために作られていた原子力発電所で、それが天災であるところの地震とミックスされた形で、今現在「被災地」と呼ばれるところになっているわけですね。それに対して、「福島大変ですね」という人もいる。でもこれですらちょっと他人事じゃないですか?
W:東日本大震災以後ですね、何が起こったかというと、やはり人々が故郷を奪われたということがとても大きいと思います。自分の生まれたところの命のつながり、時間のつながりというものが失われた。水俣病事件というのはそういう現実を我々に突き付けて来たんですね。
S:ぼくは新製品が好きだし、未来的なものが好きだから、進歩を止めろという側にはならないんですが、でも、何かが前進するときそう簡単じゃないよというということは肝に銘じておかないといけないんじゃないかなと思いました。
I:「苦界浄土」というのは50年前に書かれた本ですけど、今を生きる私たちも深く受け止めて行かなくてはならないということを噛みしめました。
私はここ雫石に住んで思うことがあります。「ほんとうの豊かさ」とは何だろう。確かに近代になって、私たちの生活は大変便利になり、快適になったが、それによって失ってしまったものも多いのではないだろうか。それは一言でいうと、心の豊かさだ。
私は2000年前のナザレやガリラヤ地方の情景を懐かしむ。また日本でいうと、江戸時代の武士や町人たちの生きざまに惹かれる。(もちろんその時代にはその時代なりの苦悩があったであろうが。)
昔を今に帰すことはできないし、現代の科学技術がもたらした恩恵を捨てて、原始時代に帰ろうとも思わない。しかし、ここで立ち止まって、失いつつあるものを再認識し、本来の人間らしい生き方に立ち帰ることが人類には絶対必要だと思う。もしそうしなければ早晩この文明は破局を迎え、滅亡するだろう。
そのことに関して先に、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を通して、そのような兆候が現れていることを指摘したが、さらに日本国内で起こったいわゆる水俣病事件を通して、近代化によって人々の心が如何に蝕まれたか、いや人間だけではなく、自然が破壊されてしまったかを指摘したい。
題材は「100分で名著:「苦海浄土」を読み解く」から引用した。コメンテーター名を記号で記したのは、あくまでも私個人のとらえ方である一方、さまざまな見方を紹介するためだ。
番組そのものに興味がある方はユーチューブなどで上記番組名を検索してご覧になっていただきたい。
<100分で名著:「苦海浄土」を読み解くより>・・・
敗戦後目覚ましい高度成長を遂げた日本、豊かさの代償として公害問題が各地で起こりました。大気汚染や工場排水で自然が汚れ、人体に深刻な影響を与えていたのです。
中でも甚大な被害をもたらした水俣病、その水俣病と向き合い真実の姿を世の中に知らしめたのが「苦界浄土」です。作者の石牟礼道子さんは水俣に住む一介の主婦でありながら患者たちの魂の声を伝えようとしました。
I:「苦界浄土;我が水俣病」は、1969年に出版されまして、広く社会に水俣病を知らしめる作品になったわけですね。今年は水俣病公式確認から60年という年ですので、そんな節目に深く読み解いてまいりましょう。指南役のWさんです。よろしくお願いします。
Wさんが「苦界浄土」を読まれたきっかけは何だったんですか?
W:たまたま古本屋で見つけたんですが、「もしこの本を読み通してしまったら自分の人生が変わってしまう」と感じたことを今でもはっきりと覚えています。
I:震災後に改めて読んだということですけれども。
W:我々が東日本大震災で直面したことは「命」と「生きる意味」という問題だったと思うんですね。この二つをめぐってこの本が書かれているということが、その時になってやっと分かったという感じがしましたね。
I:では基本情報を見ていきましょう。
苦界浄土;わが水俣病 作者は石牟礼道子(いしむれみちこ) 第一部が1969年に発表され、その後第3部「天の魚」/1974年を先に出しまして,次に第2部「神々の村」/2006年と、およそ40年かけて書かれた大作です。
|
W:この本は何となく告発文学のようにとらえられています。しかしよく読んでみると決してそれでは終わらない、むしろこの物語の一番大事なところはそこにないと思います。
S:タイトルやなりたちを見たりすると、ルポルタージュと言いますかね、でもメインのところはそうじゃない・・・
W:やはりこの物語の主人公は言葉を失なった人たちだということが、とても大事なことだと思うんですね。水俣病というのは人間から喋る機能を著しく奪う病なんですね。
そういう人の、言葉にならない思いっていうのを石牟礼道子という人が掬い上げて書き上げたというところに、独自の意味があるんだろうと思います。
<苦界浄土が生まれた背景>
熊本県の最南端不知火(しらぬい)海に臨む水俣市は昔から豊かな海が人々の暮らしを支えて来ました。今から60年前、保健所の医師からある届け出がありました。「手足のしびれや言語障害を症状とする奇病が発生している。」
原因は化学肥料などを造る「チッソ」の工場が垂れ流していた有毒の有機水銀でした。しかし「チッソ」はその事実を知りながら排水を止めなかったのです。経済成長の名のもと国や県も規制をせず、被害は広がって行きました。
ひとたび水俣病にかかると段々言葉が不自由になり、自分の苦しみを表すこともできなくなります。初期の患者たちは激しい痙攣や硬直を起こして亡くなっていきました。
その姿を目にした、地元に住む石牟礼さんは思わずペンをとりました。
最初に書かれたのは「ゆき女きき書き」という章です。(苦界浄土第3章)
******
昭和34年5月下旬、まことに遅ればせに水俣病患者を一市民として私が見舞ったのは、坂上ゆき(37号患者、水俣市月の浦)と彼女の看護者であり夫である坂上茂平のいる病室であった。
真新しい水俣病の特別病棟の二階廊下は、かげろうの燃え立つ初夏の光線を透かしているにもかかわらず、まるで生臭いにおいを発している洞穴のようであった。それは人々のあげるあの形容しがたい「おめき声」のせいかもしれなかった。
ゆきは早くに夫を亡くし、同じく連れ合いと死に別れた漁師の茂平と再婚、夫婦(めおと)船で仲良く漁に出ていましたが、ゆきが病にかかると茂平がその世話をしていました。ゆきの体はずっと痙攣(けいれん)し続けており自分で食事をすることも、歩くこともできなかったのです。
嫁に来て3年もたたんうちにこげん奇病になってしもうた。残念か。
うちは自分の体がだんだん世の中から離れていきよるような気がするとばい。自分の手でものをしっかり握るということができん。世の中から一人引きはがされていきよるごたある。
うちはさびしうしてどげんさびしかか。あんたにはわかるみゃあ?
海の上はほんによかった。爺ちゃんが艫櫓ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで、今頃はいつもイカ籠やタコつぼやらをあげに行きよった。ぼらもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもも、もぞか(可愛い)とばい。
月から10月にかけてシシ島の沖はなぎでなあ・・・
I:ほんとに一部の抜粋ですけど、心を動かされるものがありますね。
S:病の様子だけではなくて、病に罹る前の元気で漁に出ていたころのきらきらした夫婦での生活も描かれていますね。
<水俣病はなぜ発病したのか>
「チッソ」水俣工場の排水に含まれていた有機水銀に魚介類が汚染され、その魚介類を食べた人が脳などの中枢神経が破壊される有機水銀中毒に罹りました。認定患者は2280人、うち死者1879人、認定を求める患者は1万2千人いるが、実際はその10倍だと言われています。未だにその治療法は見つかっていません。
S:さっきの抜粋した文章と重ね合わせると、二人で櫓を漕ぐこととかタコやイカを可愛いと感じられたりするほど海と寄り添った暮らしをしていたからこそ、罹ってしまった病なんですね。
W:病に罹った人たちは奇病ですから、そのことでまず差別を受ける。また貧しいからなったんだというほんとうに根も葉もないデマのような噂にも苦しめられざるを得なかったようです。
S:そういう状況の表現として「自分の体が世の中から離れて行くようだ」と仰っていますが、・・・
W:体が離れて行くと言うときに、彼女はとっても強く「自分の魂」を感じている。
S:つまり私たちは日ごろ世の中とくっついているんだという意識を持っているのに、これがあと数ミリで離れてしまうかも知れないという意識があるんですね・・・。
<「苦海浄土」の誕生>
1969年「苦海浄土」でセンセーショナルに文壇に登場した石牟礼道子、詩をたしなむ主婦だった石牟礼さんは水俣病と出会ったことで作家になります。
50年代からすでに奇病のうわさは町に広まっていました。
石牟礼さんがうめき声が響く病室を訪ねると、そこで見たのは苦しさのあまり患者が壁をかきむしったその跡でした。その時出会った一人の漁師、その姿を目にした時の衝撃を次のように記しています。
*****
「安らかに眠って下さい」などという言葉はしばしば生者たちの欺瞞のために使われる。この時この人の死につつあった眼差しはまさに魂魄(こんぱく)この世にとどまり、決して安らかに往生などしきれぬ眼差しであったのである。
この日はことに私は、自分が人間であることの嫌悪感に耐えがたかった。この人の悲しげな、山羊のような、魚のような瞳と、流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄はこの日から全部私の中に移り住んだ。
I:石牟礼道子さんという人は普通の主婦の生活をしていらっしゃったんですよね。
W:それが病を得た人々の姿を見て彼女が書き手になって行く。彼女は自分でなりたくてなったのではなく、ならざるを得なかったと言っています。
I:この「苦界浄土」は聞き書きでなく石牟礼さんの創作もかなり入っていると伺ったんですが。・・・
W:水俣病の患者さんたちは話すことができないわけなんですよね。だけども石牟礼さんに言わせれば我々が聞いている言葉とは違う、心から心へ伝わるような言葉を彼女は引き受けているんだと思います。それは彼女にきわめて深い実感と自覚があるからだと思うんですね。ルポルタージュという純粋な意味での聞き書きではないし、また我々が今日考えるような創作とは違う、とぼくは思っています。
S:ここはとても大事なことだと思うんです。聞いたものを理解して、その場にいなかった人間に通訳として渡す、という行為が「創作」といえば「創作」なのかもしれないけれど、心の部分を伝えるためにぎりぎりの表現をするということですね・・・
W:やはり言葉を奪われた人の口になるっていうことなんだと思います。それは自分の思いを語るのとは違う。相手はほんとうに語りたいことがたくさんあるのに、語ることができなくなったという水俣病の患者さんたちだったわけですよね。その口になるというのが、石牟礼さんの書き手として立っていくときの覚悟なんだと思います。
水俣病というのは別の言い方をすると<沈黙を強いる>病だと思うんですね。我々が今「苦界浄土」という作品を通じて、その沈黙の中にこんなに痛切でたくさんの思いが潜んでいる。
I:そう考えると独特な本ですね。
W:石牟礼さんが「自分は詩のつもりで書いています」と仰っているのを聞いた時、ほんとうに心が震えました。でも何かわかるような気がしたんですね。今までにない問題が現れて来た以上、表現も生まれ変わらなくてはならない、というのが石牟礼さんの持っていた深い認識だったと思います。
S:彼女がここで暮らしていたこと、そこでこんな恐ろしいことが起こってしまったこと、そしてたまたま彼女が詩を嗜んでいたこと、すべてに意味があった・・・
*****
<ゆき女きき書き>
病床にあってもゆきは我が庭のような海のことを懐かしがり、再び漁に出ることだけを願い続けます。しかし治る見込みがないことも感じており、こう語るのです。
人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろうか。うちはやっぱりほかのもんに生まれ変わらず人間に生まれ変わってきたがよか。うちはもういっぺん爺ちゃんと舟で海にゆこうごたる。うちが脇櫓ば漕いで爺ちゃんが艫櫓ば漕いで二丁櫓で。・・・漁師の嫁ごになって天草から渡って来たんじゃもん。・・・うちはぼんのうの深かかけん、もう一遍きっと人間に生まれ替わってくる。
W:ぼんのう(煩悩)と言いますと我々は欲望とか執着とか、捨てなくてはならないもののように理解しているんですけど、石牟礼さんは煩悩は情愛という言葉に置き換えられると仰っています。捨てるんじゃなくて深めることができる。ひらがなにすることで語り手がどのくらいこの世界を愛しているかということも伝わってきますね。
S:逆説的に言うとこの病気がどれだけ苦しいかということも・・・
W:肉体は、もう苦しいなんて言葉で言えないくらい苦しい。だけども彼女の存在の深みではとても豊かな命を生きている・・・
I:そこでこの人は生きていて、命を全うしている・・・
W:むしろ我々に命というものがどういうものかということをまざまざと教えてくれていると思います。
S:なんかほんとうに心に突き刺さりますね。
*****
<坂本きよ子さんという20代の患者さんとそのお母さんの話>
きよ子は手も足もよじれて来て、手足が縄のようによじれてわが身を縛っておりましたが、見るのも辛うしてそれがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散りますころに、わたしがちょっと留守をしておりましたら縁側から転げ落ちて地面にほうっとりましたです。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で桜の花びらば拾おうとしとりましたです。曲がった指で地面に、にじりつけてひじから血出して「おかしゃん、花ば」ちゅうて花びらば指すとですもんね。花もあなたかわいそうに地面ににじりつけられて。
何のうらみも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった1枚の花びらば拾うのが望みでした。
それであなたにお願いですが、文ば「チッソ」の方々に書いてくださいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に花びらば1枚、きよ子の代わりに拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に。
W:とても象徴的な言葉なんですが、石牟礼道子さんという人がなぜ文章を書き続けているのかということがとても鮮明に描かれていると思うんですね。「苦界浄土」というのはとっても悲しいんですけど、それだけでは終わらない美しさがやはりそこにある。・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<近代の闇>
1960年代、高度成長を果たした日本は大量消費時代に突入。人々が豊かな暮らしを手に入れ始めていたころ、各地で深刻な公害問題が起こっていました。そのさなかに刊行された「苦界浄土」は社会に大きな衝撃を与えました。それは作者石牟礼道子さんによる我々日本人への鋭い問いかけでもあったのです。
W:水俣病という病は近代という時代が生み出したものだと言っていいと思うんですね。石牟礼さんたちが暮らしていたのは、言わば古代的な自然と共に生きている世界であって、近代というのは人間中心の、人間が作った社会であって、その二つの世界がぶつかり合った、そういうところに生まれたのが水俣病だったと思います。
S:では水俣がもともとどのような場所だったのか見て行きましょう。
石牟礼さんは天草で生まれ 水俣で育ちました。幼いころから親しんだ水俣のかつての
姿を「椿の海の記」で次のように描写しています。
春の花々があらかた散り敷いてしまうと大地の深いにおいがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿は朝明けの靄(もや)が立つ。朝日がそのような靄をこうこうと染め上げながら昇りだすと光の奥からやさしい海が現れる。大崎ヶ鼻(うさぎがばな)という岬の磯に向かって私は降りていた。
楽園のようなこの場所には近代とは全く異なる暮らしが根付いていました。水俣湾を包む不知火海は魚介類の宝庫であり、村人たちはずっと海の恵みとともにありました。
*****
あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただでわが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこに行けばあろうかい。
S:病気の描写に対して逆にこっちは光の部分なんで、とても幸せなというか、・・・
I:素晴らしい場所だったんだなあというのが分かりますよね。
水俣というのはこの不知火海に面したところにあります。不知火海は九州本土と天草に囲まれた内海で、大変豊かな漁場だったんですね。
W:お魚も大変よくとれる場所なんですけれども、その分だけお米とか野菜などがあまり簡単に手に入らないわけですね。そうしますと漁民の人たちは自分で捕った魚をたくさん食べる、作品の中では一升の一升皿に入れたお魚を食べる、そういう人たちが水俣病に罹って行ったとありますね。
S:天の恵みであったお魚が逆に汚染されて行くという・・・
W:一番海を愛した人たちが、海によって傷つけられた。その海というのは自分たちの愛した海ではなくて、近代が冒した海ですよね。
I:ではその水俣が近代化の中でどう変わって行ったのでしょうか。
水俣のシンボル、「チッソ」水俣工場、明治末期に工場ができて以来会社の発展と共に水俣市も成長して行きました。戦後の「チッソ」の主力製品は塩化ビニールやプラスチックに使用する化学原料、これらは冷蔵庫や洗濯機の部品にも使われていました。経済成長と共に生産量も増加し、工場からは膨大な量の排水が流されるようになりました。
1959年熊本大学医学部は水俣病の原因として有機水銀説を発表。その時すでに「チッソ」は原因を突き止めていました。しかし、操業を止めることはありませんでした。国が「チッソ」の排水が原因と発表したのはそれから9年後のこと。長い間、謝罪もなく放置された患者やその家族の中にはこう語る者もいました。
*****
銭は一銭もいらん。その代わり会社のえらか衆の、上から順々に水銀母液ば飲んでもらう。上から順々に42人死んでもらう。奥さん方にも飲んでもらう、胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人水俣病になってもらう。あと、百人くらい潜在患者になってもらう。それでよか」
・・・もはやそれは死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである。
S:ほんとうに怒りの凝縮された言葉ですよね。
W:言葉にならない叫びですよね。
S:さっき、「姉さん、魚は天のくれらすもんでごわす。要るだけ魚とってその日暮らす、こんな幸せな暮らしあります?」って言ってた水俣の人たちがここまでになる、それだけ大事なものが、それだけ傷ついたということの裏返しでもありますね。
I:そもそも会社としても原因がわかっていたという風にありましたけれども、会社は排水を止めることができなかったんでしょうか?
W:「チッソ」という会社は水俣市という小さな町の中で大変大きな影響力を持っていたんですね。それは経済的だけでなく、様々な影響力を持っていた。また暮らしている人にとっても「チッソ」という会社は誇りだった。地元で暮らしている人たちも「チッソ」で食べている、「チッソ」によって生きているということなんです。
S:「チッソ」というのは肥料を作る会社のイメージが少しあるんですが、実はプラスチックの原料を作っていた・・・
W:そうなんですね。
S:我々の世代は、夢のプラスチックとか言って、プラスチックはすべてに優る、なんかプラスチック製品ってかっこよく見えたんですね、子供心に。
I:そうなんですか。
S:ぼくらが小学校に入るころには、プラスチックのない世の中は考えられなくなってくるわけで・・・ほんとうにプラスチックこそが近代の象徴で・・・
W:やはり自分たちが何をしているのかということを知らないで、我々はその成果だけを手に入れようとしたんだと思うんです。
W:宇井純(1932-2006)という人が「公害に第三者は存在しない」という言い方をしています。どういう事かというと、一方で我々もプラスチックを使っているわけですよね。水俣病を客観的にみると、我々も知らないうちにそれに加担しているわけですね。・・・
<近代的知性とは>
W:当時の「チッソ」という会社はですね、大学を首席で卒業したという証明書がなければ入れなかったくらい、ものすごく優秀な人たちが勤めていた会社なんですね。ぼくはこれから考えてみたいのは、近代的な知性が独り歩きするとき、とっても危ないということなんだと思うんです。
S:ぼくは進歩も近代化も完全否定はしない。それは必要だからであり、みんなが幸せになるためだと思うんですけど、どこかで進化のための進化、なんか命題が変わってしまい、<プラスチックを作る>ということが目標になる。そういうことが起きるという自覚が、現代社会に今もあるかどうか分からないけれども・・・
W:幸せとは何かということを考える前に、プラスチックを増産してお金を儲けるということが第一目標になって来るんですね。幸せを求めていたはずなんですけど、ほんとうの意味での「幸せ」すら求めなくなる。
もっと言えば、「幸せ」とは何かをよく考えないまま、我々は「幸せ」だと言われていることに向かって走り出した。これが近代という時代じゃなかったかなと思うんですね。
<近代という人格>
W:石牟礼さんは、「近代産業の所業はどのような「人格」としてとらえなければならないか」と仰っていますが、・・・
I:実体のないものを「人格」、人であるという・・・
W:今日の我々の表現でいうと、「バケモノ」みたいなもの、人間の欲望ということだと思うんですが。これは大変見えにくいですよね。例えば国家であったり、巨大産業であったり、会社であったり・・・
I:ではその「近代という人格」によって押しつぶされようとしたものは何だったのか。ごらんいただきましょう。
*****
杉原彦治の次女、ゆり、41号患者、無残に美しく生まれついた少女のことを、ジャーナリズムはかつて、ミルクのみ人形と名付けた。現代医学は彼女の緩慢な死、あるいはその生の様を規定しかねて、植物的な生き方ともいう。
ゆりはもう抜け殻じゃと、魂はもう残っとらん人間じゃと新聞記者さんの書いとらすげな。大学の先生の見立てじゃろかいな。そんなら父ちゃん、ゆりが吐きよる息は何の息じゃろか。草の吐きよる息じゃろうか。うちは不思議でよーくゆりば嗅いでみる。やっぱりゆりの匂いのするもね。ゆりの汗じゃの息の匂いのするもね。身体ばきれいに拭いてやったときには、赤子のときとはまた違う、肌のふくいくしたよかにおいがするもね。娘っ子のにおいじゃとうちは思うがな。思うて悪かろうか。ゆりが魂のなかはずはなか。そげんした話は聞いたこともなか。木や草と同じになって生きとるならば、その木や草にあるほどの魂ならば、ゆりにも宿っておりそうなもんじゃ。なあ、父ちゃん。
S:いつの時代もあるマスコミの無神経さみたいなものと、それがお母さんの心ををえぐってしまうことも含めていろいろなことがこの中に入っているような気がします。
W:ジャーナリズム、もしくは現代医学というものは目に見えるものしか見えていない。お母さんがここでほんとうに目を離さないのは、娘の魂はどこに行ったんだという問題なんですね。ここでは「娘の魂の匂い」という言葉すら使っているわけですけれども、・・・
I:実際に産んでお世話をしているお母さん、我が子の存在を匂いや汗で感じているというのが、すごく迫って来ますね。
W:その匂いや汗っていうのもお母さんにとっては魂の現れなんです。生きている魂の現れとしてお母さんに受け止められているんですね。
水俣病の訴訟、もしくは水俣病事件というのは、患者の人たちにとっては、ほんとうに今もですけれども、魂の問題なんです。
いわゆる現代医学とジャーナリズムは確かにそれを捉えにくい。けれども、魂の問題、命の問題と言い代えてもいいんですが、その問題を国が尊厳をもって受け止めてくれていないというこれは大きな「異議申し立て」なんだと思います。いくらお金をもらっても駄目なんです。
I:そしてゆりちゃんは41号患者というふうに呼ばれていたんですね。
<番号で呼ばれる患者たち>
W;そうですね。ぼくはこれは決して見過ごしてはならないことだと思います。人を番号で呼ぶというのは、アウシュビッツがそうだったんですね。ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」という本を開くと、「収容所に入れられた人たちは番号で呼ばれた、そして名前を奪われた。」という話が最初に出て来ますね。人を番号で呼ぶというときには、我々は人間がかけがいのない存在だということを忘れているんです。
S:この本はそのことをわざと投げかけてきていますよね。
W:番号にするというのは人間を量的な存在として考えるということですね。ですけれども我々の命と言うのは徹底的に質的なものですね。そして質的なものというのはかけがいのないただ一つのものということです。石牟礼道子さんの世界では、ほんとうは人間の命と言うものは、番号なんかで呼ぶことのできない何ものかであって、近代的知性というものはそれすら番号で呼ぼうとする。
I:石牟礼さんご自身はその近代の闇にどう立ち向かおうとしていたんですか?
W:石牟礼さんを頻繁にお訪ねして、ある時「苦界浄土」をどんなお気持ちで書かれたんですかとお聞きしたら「戦いだ」、「一人で戦うつもりで書きました。今も戦っているつもりでいます。」と仰っていましたね。
近代という「バケモノ」に我々が立ち向かおうと思ったときに、我々は最初は個人で立ち向かわねばならない。一人立つというときに何か計り知れない力がある。
I:現代はすごく人とつながりますし、集まったり群れたりということが簡単にできますけれども、個人で立ち向かうという厳しさというのを聞きますと、・・・
S:自分が正しいと信じて独りでやっていたら誰かがわかってくれるということかな?
I:石牟礼さんの闘い続けているその強さと、そして今もなおその問題が続いているということを我々は忘れてはいけませんよね。
W:「水俣病は終わらない」ということを言った人がいます。我々はそこから今も大きな問いを突き付けられていると思います。
I:今日は<近代の闇>ということで読み解いてきました。公害に第三者はいない、近代化の恩恵を私たちも十分解っていて、このことは自分たちの物語でもあるんだなと感じ始めたところです。
Sさんいかがですか?
S:ぼくは「チッソ」という企業が、水銀を大丈夫だと思って流し続けた時代と、わかっていてそれでも止まれなかった時期の問題と、そこには結構大きな差があって、少なくとも自分たちは止まる勇気とか、スピードを落とす勇気とか、時には逆行に見えることをする勇気みたいなのがないと、いけないということを学びました。
ヴィクトール・フランクル「夜と霧」/強制収容所におけるある心理学者の体験」をどう読むかの続き
<運命と向き合って生きる>
それは彼がアウシュビッツ収容所に連れて来られた時のことでした。
持ち物はすべて出せ!ナチスの看守の声に彼は上着を抱きしめました。彼が隠し持っていたのは精神医学の論文、出版されれば処女作になるはずでした。彼にとっては自分が生きた証でした。上着の裏に原稿を縫い付けてまで、守りたいものでした。しかし結局大切な原稿は服もろとも没収、処分されてしまったのです。それでも彼は絶望しませんでした。過酷な収容所生活の中で紙の切れ端を手に入れ、わずかな時間を見つけては原稿の復元を試みました。何としてでも論文を仕上げ世に問いたい。収容所で彼の心を支えたのはこの原稿の存在でした。
M:彼は収容所生活の中で高熱を出すんですね。彼の誕生日に囚人の友達がくれたちょっとした紙の切れ端に、彼は高熱にうなされながら原稿の復旧作業に取り組むんです。自分の仕事に対する執念ですね。
彼は自分が何かの作品を作り上げたり、あるいは仕事を通して実現して行く価値のことを創造価値と言っています。
T:具体的にはどういうことに対しての創造価値ですか?
M:例えば芸術作品を作るとか、彼のように著作を書くとかはもちろん創造価値ですね。しかし彼は大事なのは仕事の大小ではないと言っています。ある時彼の講演を聞いたある若者が、「先生、先生はいいですよ。多くの人に役に立っています。けれども私は洋服屋の店員です。毎日決まった仕事をただ、して行くだけ、こんな自分の人生に意味や価値があると言えるんでしょうか?」と問いかけました。
彼は、それは関係ない。芸術だとか、論文を書くと言うことだけではない、人が人の喜びを作っていくそこに創造価値があると言っています。
S:そうすると、芸術家が彫刻を作る;そのこと自体が創造価値なのか、その彫刻を見て癒される人がいるんだと言うことなのか、その両方なのか。
M:この彫刻を見て誰かが喜んでくれると言う思いを持ちながら作品を作って行く、そのプロセスにおいて実現されるのが創造価値だと言っていいと思います。
T:Sさんにとっての創造価値とは?
S:僕は自分で深夜のラジオ放送が自分の使命だと思っているんですけど、時々する想像で一番怖いのは、この放送が流れていなかったらどうしようと言う妄想がありますね。やっぱり伝わっていると言うことに僕は相当な<創造価値>を置いています。
T:番組を見てくれている人がいて初めてね。
S:たとえ同じギャラ頂いたとしてもぼくは嫌です。(笑い)きちんとしゃべれないと思います。
<心をふるわす経験―体験価値>
労働に疲れ果て土の床に座り込んでいた彼ら、その時一人の囚人が外から飛び込んで来て言いました。「おい、見てみろ。疲れていようが、寒かろうが。とにかく出てこい。」しぶしぶ外に出た彼らが目にしたものは、あまりにも見事な夕焼けでした。
私たちは暗く燃え上がる雲に覆われた西の空を眺め、地平線一杯に黒鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思われぬ色合いで絶えずさまざまに幻想的に形を変えていく雲を眺めました。ひとりの囚人が誰に言うのでもなく、つぶやきました。「世界はどうしてこんなに美しいんだ。」自分たちの状況とは関係なく存在する美しい自然、それを見た時彼らはつらい生活を一瞬でも忘れることができたのです。
M:彼は言っています。あなたが経験したことはこの世のどんな力も奪えない。<体験価値>というのはたとえば、大自然に囲まれている時に私たちはものすごい、圧倒的な感動を覚えますね。それからものすごい芸術作品、例えばオーケストラの音楽を聞いて感動に打ち震えているような時に、「人生に意味があるかい」と問われたら、その人は「何を決まっているじゃないか」と答えるに違いありません。
逆にほんとうに苦しい時に美しさを感じたり、笑いが人の心を和ませます。
S:実際彼がその光景を見ていると言うことの説得力は凄いんですけど、人間はその地獄のような中で見る夕陽をきれいだと思ったりするのは、何故なのか。それが人間だからとしか言いようがないですね。
M:それが人間の人間たる所以なんですね。極限状態の中で、美に感動する。そういう能力が人間特有の力なんだと、彼は考えています。
S:確かになんかこう、自然を前にして、声も出なくなるようなことってありますよね。
M:<体験価値>は実はどの方も体験している価値だと思うんです。自然や芸術だけでなく、彼はこんな体験を「夜と霧」の中で記しています。
早朝、極寒の中で彼らは作業場へ行進して行きます。身を切り裂くような風が薄着の彼らを傷つけます。ほとんど誰もが口をきかない中、彼の隣の男がつぶやきました。
なあ君、もし我々の女房が今我々の姿を見たとしたら、たぶん彼女の収容所はもっといいだろう、彼女が今我々の状態を少しも知らないといいんだが。
それを聞いた時、彼は不思議な体験をしました。
私の目の前には妻の面影が立ったのであった。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし、勇気づけるまなざしを見る。たとえそこにいなくても。彼女のまなざしは今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのだった。
T:私、正直言ってここに一番感動しました。
M:私が知っている限りでも、女性の方がこの本を読んでこのシーンが一番感動したと言う方が多いです。
S:ただこの時彼は実際に妻に会っているわけじゃないですね。
M:しかも彼は奥様と実際に一緒にいることができた時間はかなり短いんです。けれども、彼はほんの短い時間だったけれども、支えてくれたあなたの愛は私がここで体験したあらゆる苦難よりも、もっともっと大きかった、というふうに語っています。
T:どれだけ愛を感じていたかということですよね。
M:そうですね。しかも奥様はその時すでに亡くなっておられたんですね。けれども後でそのことをふり返って、彼はそのことは問題ではない。あの時私はほんとうに妻と対話をしていたし、それは過去に過ぎ去った思い出かも知れないけれど、「ほんとうに愛した思い出」があれば、それはずっとそこに残り続けるんだと彼は言うんですね。
T:決して、ただの記憶ではない。記憶が記憶以上の力を持っていると言うか。
S:「それは問題ではない」と言う結論に彼がたどり着くまでにどんなに、悲しかったか。しかも彼が見たのは幻じゃないですか。しかし実際にそういう記憶も体験もあるから問題じゃないと言うことなんですか。
M:心から愛したという思い出があれば、単なる思い出であっても人の人生を一生支え続ける力を持っているんですね。
T:軽々しくは言えないことではありますけど、今回の大震災で多くの方が大切な方や家族を失った。そうした人たちにも過去の愛した記憶がきっといつか支えになりますよ、ということがこの本のメッセージの一つかも知れませんね。
M:こういうエピソードがあります。ご高齢の夫妻だったんですけれども、奥様が亡くなった後に、―日本でも残された男性が、うつ病で苦しむ場合がすごく多いんですが、―打ちひしがれたこの方が彼のところに相談に来て、愛し合った妻もいない、こんな時間がカラカラと過ぎて行くだけの、こんな人生に生き続ける意味があるんでしょうか?と彼に聞くんですね。
その時、彼はこう問うたんですね。「もしあなたが先に死んで奥様が残されていたらどうだったんでしょうね。」・・・「おそらく妻も私を失ったことで同じように苦しんでいると思います。」と、その方が言ったんですね。
彼は、そこにあなたの生きている意味があるんです。つまりあなたが今辛い思いを体験している、そのために奥様がその辛い体験をせずに済んだんだということ。そこにあなたの生きる意味があるのですと言ったんですね。
S:たとえば、後追い自殺をしちゃおうかなって思っても、この命があることを一番喜んでいてくれた人が、愛してくれた人だからと思うと。頑張れると言う。
<人生にどう向き合うか;態度価値>
収容所生活の中で医師の仕事を任されるようになっていた彼はある時チフスにかかっていた若い女性と出会います。この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていました。それにもかかわらず彼女は私と語った時、快活でした。
「私をこんなひどい目に遭わせてくれた運命に対して、私は感謝していますわ。以前の生活で私は甘やかされていましたし、ほんとうに精神的な望みを持ってはいなかったからですの。
あそこにある木はひとりぼっちの私のただ一つのお友達です。この木と良くお話ししますの。
木はあなたに何か返事をしましたか?
しましたって。
では何て木は言ったのですか?
あの木はこう申しましたの。私はここにいる。私はここにいる。私はいるのだ。永遠の生命だ。
T:収容所でもう自分は死ぬんだと言うその間際、自分の運命に感謝する。・・・
M:どんな状況に置かれても人間はある態度をとることができる。この価値は最後まで失われない。これが人生がどんな時にも意味を失わない、最終的な根拠であると彼は言っています。
彼は人生に対する態度を変えることによって、その人生を意味あるものに変えることができると言っています。私はですね、死を目前にした状況もそうですけど、今、格差社会と言われますね。どうせこの社会は格差社会で、こんなに開いているんだから仕方がない、こんな家に生まれたんだからというような状況がありますね。確かにどんな容姿に生まれるか、どんな家に生まれるか、これは選べないですね。けれども与えられた状況に対して人間はある態度をとることができるということは、現代の我々、普通に生きている人にも十分に通用する事実だと思うんです。
S:でもそれを絶望している人に対して、<態度価値>というものがありますよ 」と言っても、人の心は動くんでしょうかね。
M:語った直後に人生が変わるということはあり得ないんですね。けれどもそれがどこかで<種>として残り続ける。それがある時、ある状況で、ある場面を迎えた時に、ふっと花開くんだと思うんです。本当に必要な時にその言葉が生きてくると、私は思いますね。
<苦しみの先にある希望の光>
T:誰しも生きていて苦しみ悩むことがあります。それをどうとらえたらいいのか。
彼が収容所の中で考え続けたこと、それは自分たちを苛む苦しみにはどんな意味があるかということでした。
彼は晩年まで人生の苦難とどう向き合えばいいのかということについて語り続けました。
人間は目的意識を持てば単に愛したり楽しむだけでなく、誰かのために、何かのために苦しむこともできるのです。
K:私が17歳、高校生でちょうど中途半端な時で、たとえば、谷に丸太が架かっていてそれを渡ると大人の世界に行ける、でもなかなか渡れない、そういう逡巡している時に、この本をちらっと読んでそこから、「目からうろこ」と言うんでしょうか、悩むと言うことは決してネガティブなことではないと、それは非常に大きな発想の転換になりましたね。
T:苦悩と言うのを彼はどう見ていたのか。
強制収容所でフランクルは苦しみについて、思索を深めて行きました。
多くの収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるかと言う問いでした。生きしのげられないのならこの苦しみには意味がないと言うわけでした。しかし彼の心を苛んでいたのはこれとは逆の問いでした。すなわち、彼らを取り巻くこの苦しみや死には意味があるのかという問いです。もしも無意味だとしたら収容所を生きしのぐことなど意味がない。身の回りに溢れる苦しみや死、その意味を考える中で、彼は苦しみや死とどう向き合うかが、最も重要なのだと感ずるようになりました。まっとうに苦しむことはそれだけで、もう何かを成し遂げることだ。苦悩と死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ。
T:人生の中で苦悩と死が充満している中でそれは何だろう?という考えが及ぶということ、これをどういうふうに考えて行ったらいいでしょうか。
K:苦悩と言うのは人間の本性であって、我々はどうしても、まず幸福になりたい、苦悩を避けたいと願うけれども、それは逆の方向に目標を設定していることになる。苦悩と言うのは単なる逸脱状態ではなく、人間の本性がそうなっているんです。
S:子供のころから親に教わって来たことは、苦悩を解消するんだ、解消しつづけて苦悩の無い状態が人間の完全体なんだというふうに、漠然と教わって来たような気がするんですが。・・・
K:それが180度変わるんですね。
S:苦悩はあるもんだと言う。
K:苦悩というと何かを我慢してストイックなイメージがあるんですけど、そうじゃなくて、人間性の一番の最高の価値は苦悩することによって現れて来る。だから、芸術家も、俳優も、あるいは漫才をやる方々も、だいたい私生活で苦悩した人がいい芸や仕事を見せてくれる。
S:ぼく自身は色々くよくよする人だから今の言葉は嬉しいですが、まっとうに苦しむということはどういうことですか。
M:彼は苦労の意味を二つにはっきり分けているんですね。一つは苦悩するがための苦悩、悩むがための悩みです。それと、何かのために悩む、誰かのために悩む、つまり人生の中で何かを引き受けるために悩む悩みですね。
S:どちらかと言うと、僕は最初のほうの苦悩になりかけます。苦悩していないことが怖い、だから悩み続ける・・・それはまっとうじゃない苦悩ということになりますかね。
K:まっとうにと言うのは、まじめにという意味で、夏目漱石の言葉の中に「あなたはまじめですか?」と言う言葉が何度も出て来るんですけれども、まじめと言うのは、具体的な声に、具体的に答えていく、・・・それができなくなった時に、自己意識の罠に引っかかって、苦悩自体が自己目的化するのではないでしょうか。
T:私、悩むなんてまさに自分と向き合う行為だと、ずっと思っていましたけれども。
M:「自分探し」なんてことを言いますね。彼に言わせると、それは本来の苦悩とはちょっと違うんですね。我を忘れて何かを取り組んでいる、誰かのために、何かのために、その時に苦悩で満たされるのであって、くるくる自分のことを考えて「自分探し」をしている間は、ほんとうの自分と言うのは見つからないと思います。
S:自分が悩んでいて、悩み過ぎて、病気の一歩手前までに行ってしまう時に、何も悩んでない人がどこかにいて、それに比べて何で私はこんなに悩みが多いんだろうというようなことがある気がします。
K:どうしても我々は比較をしてなぜあの人は幸福なのに、なぜ私は不幸なのかと言う、それは怨念になったり、ネガティブな感情になりやすいですね。
T:何で私だけと思ったり・・・
K:本当の苦悩はそれを逆転させる可能性がある、つまり自分は今苦悩の中にあるけれども、それをしっかりと受け止めてまっとうに苦しむというところが、最も人間として崇高なことかもしれないと思うと、そこから何か自分が変わって行くと思うんです。
S:なんかちょっと救われますね。苦悩している時、「それこそが今、向上しようとしている時なんです、それはとても人間らしい状況なんです」と言われるととても温かく感じますね。
<運命は贈り物>
苦しみの中身は人によって違う、そこに大きな意味があるとフランクルは言います。
どんな運命も比類ない、どんな状況も二度と繰り返されない、そしてそれぞれの状況ごとに人間は異なる対応を迫られる。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人がこの苦しみを引き受けることに、二つとない何かを成し遂げるたった一度の可能性があるのだ。誰もがその人だけの苦しみ、そして運命を持っている。運命とは天の賜物、その人だけに与えられた贈り物だと彼は考えていました。
K:運命と言うのはドイツ語で贈ると言う意味があるんですね。おそらく神様からGIFTとして贈られたもの、それが運命なのかな、彼が言うには、人類史始まって以来、二人として同じ人はいない。与えられた運命と言うのはその人だけに与えられたものだから、贈り物というわけですね。
世の中で成功するかしないかを指して、良く我々はそれを運命と置き換えるけれど、彼は運命とはもっと本質的な問題として言っていると思います。
M:多くの人間は成功か、失敗かと言う水平軸の間だけを行き来している、その結果水平的なフラットな人生を生きることになってしまっている、ちょっと喜んだり、悲しんだり、グネグネするような状態ですね。
それでは生きる意味を感ずると言う厚みが足りないですね。
彼が現代社会に復活させるべきだと言っているのは、この垂直軸、つまり、絶望の極みにおいて生きる意味を問い詰め始めると言うことなんですね。
そしてものすごく深い人生の深みに達っしたり、ものすごい高みに昇って行ったりする。この精神性の高みに昇る、垂直軸を取り戻すことが、私たち現代人が生きる意味を日々感じるためには必要ではないかと、彼は提唱しているわけです。
市場経済と言うのは言わば、横軸だけで生きているわけですね。勝ち組か、負け組かとか?でも、成功したからと言って、それがどれだけ意味があったんだろうかとか、失敗をしたけれども、そこにはすごく意味がある場合もある。意味を問うと言うのは、今の市場経済ではほとんど失われたものです。
そうするとやっぱり悩むことを知らない人も出て来るし、悩みに対して非常に免疫力がない人が多くなる。だからこの深みが人間には必要だとおもいます。
<むなしさと向き合う>
経済的な豊かさを追求して来た現代社会、そこに豊かさゆえの苦悩が生まれることを彼は指摘しています。
(フランクルの講演より)
意味の喪失感は今日非常に増えています。とりわけ若者の間に広がっています。それは空虚感を伴うことがよくあります。昔のようにもはや伝統的価値観が何をすべきかを教えてはくれません。今や人々は基本的に何をしたいのかさえも分からなくなっています。
M:何でこんなに空しいんだろうと言うのは苦悩の中の一つではあろうけれども、まっとうな苦悩とはちょっと違うんですね。
K:社会が豊かに便利になったはずなのに、生きる意味が見えにくくなっている。何を信じたらいいのかとかどう行動したらいいのかと言うことが、個々人が決断しなければならない時代です。
我々は伝統的な価値や宗教的な価値から解放されて、個人が自由になった。そうしてどう行動すべきかを自分で決めなさいと、逆に投げ返されているんですが、結局それを見出そうとしても、自分を見つめれば見つめるほど、自分の中に入り込んで行ってしまう。
M:彼が言っているのは、今の時代にストレスが足りない。そしてプレッシャーが足りない、そして緊張感がないと言っています。
これが現代の大きな問題だと言って、本来こうありたいと言う自分との葛藤で苦しむことがあっていいはずなんですが、「みんな違ってそれでいい」と言う、全部そのままでいいんだよと言う社会になって行く。そうすると緊張感がない社会になって行って、ちょっとストレスを感じると免疫がありませんから、ぽきっと折れてしまう、そういう時代になって行くと言うことを彼は1960年代にすでに言っています。
S:それを凄く感じるのは携帯電話の呼び出しで、出ない奴すごいむかつきません?
昔だったら電話に出たら「わあ、いてくれたんだと言って、喜ぶじゃないですか。電話がなかなかつながらないのが、普通だったから。でも今はつながるのが普通だから、呼び出し音が10回鳴っても出ない奴ってのは、何だよと思うじゃないですか。ぼくの場合はそういう意味でストレスに凄く弱くなっている。
K:今の我々はとにかく欲望を満たすことが幸せで、現代社会は欲望を極大化させる社会、結局見たいものだけを見る、それはテレビの番組もそうですし、ネット上でもそうなるわけですよね。見たいものだけを見ると言うことが非常に閉塞感を作り出している。
しかし、見たくないものに目を背けないことが「悩む」ことにつながる。だから彼はある意味で先見の明があったと思います。
<過去は宝物になる>
彼は人生を砂時計に譬えて説明しました。
未来は現在を通過して過去になる。歳を取ると多くの人は未来が残り少なくなってしまうと嘆きますが、彼はそれを否定します。苦悩の人生を生き抜いたとき、過去はその人のかけがいのない財産になると、彼は語り続けました。
体験したすべてのこと、愛したすべてのもの、成し遂げたすべてのこと、そして味わったすべての苦しみ、これらはすべて忘れ去ることはできないことです。過去と言うのはすべてのことを永遠にしまってくれる金庫のようなもの、思い出を永遠に保管してくれます。
T:過去と言うのは過ぎ去って行くものだと思っていましたけれども、蓄積をされるものなんですね。
M:多くの方は今、この瞬間が大事だと言われるんですけど、彼のように過去こそ一番大切なものだと言う人はなかなかいないですね。
そして彼は何もせずに失われた時間は永遠に失われてしまうけれども、生き抜かれた時間は、時間の座標軸に永遠に刻まれると言っています。
K:我々はよく、若いから価値があると言いたがるんですけど、それは間違いだと思いますね。歳を取ることは決して恐れることではない。むしろ自分の金庫に忘れがたいものが溜まって行くわけです。
M:現代の私たちがこの本に出会い考えることは、ほんとうに意味が深いと思いますね。
K:ユダヤ人が日々大変な世界の中に入れられて、それでも人生にイエスと言うのは、大変な意味があったと思いますし、それぞれにその人にしかない運命的な状況があります。
3月11日は我々に、何時、何が起きるかわからない、そういう不安の中で我々は生きているけれども、しかし、人生にイエスと言う生き方ができるんだということを、この本は示してくれる。これは我々が3月11日を経たからこそ、この意味をかみしめるべきかなと思います。
それでも人生にイエスと言う、・・・これは強制収容所で歌われた歌詞の一節です。彼は晩年までこの言葉を語り続けました。どんな状況でも人生には意味がある。今私たちの心に強く訴えかけて来ます。