第10章(最終章) 白浜権現崎周辺 ~そして熊楠の海~
過去の章でも述べたが、若い時からダイビングをしていれば体力もあり慣れているから大丈夫なのだろうが還暦にもなるとスキンダイビングでも疲労が激しい。スキューバ―ダイビングの取得はあきらめてスキンダイビングでも楽しめるポイントが年齢にふさわしいと思うようになってきた。スクーバにすると水深10mとか20mとか降下していくので、特に魚類は相当数な種類が見れ、本来ならば望ましい。しかし危険はつきまとい深度が高い水中から一気に浮上してしまうと潜水病になり大変なことになる。これから身の安全を考えるとスキンダイビングの方が格段安全のように思えるのである。
さて、和歌山大学の学生さんが制作した「白浜サンゴマップ」によると白浜地区の海岸でもっともサンゴの大群生が見られるのは白良浜の右側堤防から100m程度離れた沖合の場所とされる。串本海洋センターの学術レポートでも白浜四双島・田辺湾沖ノ島そしてこの周辺は大群生がある、と報告されていた。水深は5m程度でこれならばスキンダイビングで充分であった。
ネットで白浜の魅力を発信されているハンドルネームchurashiraraさんの美しい写真のレポートでもその大群生の様子が撮影されておりその周辺はすばらしい景観が広がっているのを見て大変な興味をいだいた。
是非いかねば!と思い立った。奈良から180kmのポイントに行くのだ。
ポイントは白良浜のすぐ隣に位置しているので駐車場が大変である。夏になるとこの時とばかり民間の駐車場も大動員し海岸通りは駐車場呼び込みのお祭り騒ぎになる。
あきれるのはシーズンとはいえ1日3000円もぼったくる箇所もあり、私が権現崎のために駐車した箇所も4時間で2000円支払ったのには全く閉口した。臨海浦周辺は一日1000円ほどで比較すると一体知名度とはいえ白良浜がそれほどのブランド力があるのかどうか疑わしい。またガソリンスタンドも20%程度市街地より高い価格になっており冬は温泉、夏は海水浴で白浜は大変潤っているのではと勘繰りたくなるのである。
愚痴はさておき3人用のサンシェードテントを白良浜に備え付け、同行してもらった知人はやや高齢なのでそこでアイスボックスに色々な食べ物があるから好き放題にたべてもらい海を眺めて留守番をしてもらった。
白良浜は人出が多いことからライフガードや救急テントなども完備され安心の海水浴場である。海岸に備え付けられたスピーカーからは権現崎の岩場の方には行かないようにと何度も海水浴客に呼びかけていた。たしかにサンゴの群生する箇所は潮流が速くそのためサンゴも良く育っているのだが、何も知らない海水浴客が知らず知らずのうちに流されたり足がつかないところで痙攣を起こし溺れたりを考えれば警告は妥当かもしれない。かといって、白良浜の100万単位の人出でちょっと100m先の沖合に沖縄に負けない大サンゴ群生があるとは知らずに家に帰っていってしまうのはレジャーとしても大変おしいと思うのである。
さて、権現崎の堤防の岩場を慎重に降り、海中にエントリーする。
しばらくは岩の景観が続いていたがある箇所から急にテーブルサンゴが群生するエリアが出現した。
ほとんどがクシハダミドリイシで覆われていたが良く見るとエンタクミドリイシや日本ミドリイシも成長しておりその合間にキクメイシなども張り付いているという写真で見る沖縄のような景色が続いていた。ウエットスーツを着用していたので浮力はあり、やや楽であるが周辺は水深3-5mぐらいある箇所なのでサーフィンボードのようにつかまって休憩できるような物がなければ「とりつく島もない」ということわざ通りの状態になってしまい初心者では危険である。おまけに潮流が速くフィンを付けていても潮流に逆行する推進ではほどんど加速せずこれまた具合が悪い。
しかし群生の景色は見事であった。
クシハダミドリイシが優占するこのエリアはクシハダ王国を築きあげており長い年月をかけて同じサンゴ族の競争に打ち勝った結果である。そのほかのサンゴは遺伝子上で低水温に耐えられずその競争に敗れそのエリアから去ってゆく。あるいはサンゴ同士がポリプを延ばし、溶解合戦の激しい戦いで敗れたサンゴも多いはずである。静かではあるがその熾烈な競争を知ることができる。
水中は青い世界でその色彩に吸い込まれるようであった。
サンゴ群生が視界の奥深く広がっているのを見れば、それがひょっとすると宇宙全体につながっているのではないかと錯覚を起こすほどの空間美に魅惑される。
さしずめその間をスイスイ泳ぐチョウチョウウオは星間連絡宇宙船のようで、水中では動きの鈍い私をあっさりと置いてゆくのであった。
海中から顔を出し周りの景色をみると遠くに円月島や南方熊楠翁の記念館も見える。
そうそう今日も南方熊楠翁は観察フェチな私をまた見つけてくださっただろうか?
「おぅ!またきたんけ?今度はそっちの方かい?」と。
和歌山がうみし神童、南方熊楠翁の輝かしいエピソードを最後に私からも僭越ながらご紹介したい。
今はもうご逝去された昭和天皇は生物学の権威であり、その深い探求心から日本でも稀有なこの田辺周辺の粘菌類について熊楠翁に進講をお望みになられた。
時に1929年昭和4年であった。
当時のお役所はちょっと変わった熊楠翁に警戒し、他の人物にその役をになってもらおうとしたが、天皇陛下は是非熊楠にと指名されたのだった。お役人の目論見はもろくも崩された。
いつも裸で暮らしていた熊楠翁はこのときは紋付羽織袴で半時間にわたり熱心に天皇に説明され、お土産にキャラメル箱に珍しい粘菌類を入れ天皇に献上された。
天皇陛下は研究家として通じるなにかがあったのか、あるいは意表を突くキャラメル箱が痛く気に入っておられたのか、その後熊楠が昭和16年になくなったが、21年後の昭和37年に昭和天皇は白浜を行幸された。その際に亡くなった熊楠翁をいつくしみ、
「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」
とお詠いになった。民間人の名前を挙げてお詠いになったのはあとにも先にもこれが初めてだったという。
10章にわたる和歌山の海のエッセーはこれでおしまいとする。長らく拙いエッセーをご覧いただいた皆様に感謝するとともに、その間海難事故もなくやってこれたのは 南方熊楠翁 がひょっとしていつも守ってくださったのではないかと私の勝手な想像であるが翁に深い敬意と感謝の念を抱くのである。
和歌山のすばらしい海。美しい海岸。皆が愛でる海。
これを僭越ながらこれからの未来の世代に受けついで欲しいと願い、筆をおくこととします。 完