これは、あるチャネラーの方に語られた、出口王仁三郎という方からのメッセージだとされるものです。ここでも、出口王仁三郎氏の情報については、ご紹介して来ましたが、このメッセージは、それらの脈絡とも完全に一致したものであると思います。部分的に編集しております。カッコ内は補注です。
(ここから)
出口王仁三郎じゃ。
そなたたちは、今日、この日本の国の中で、このような使命を与えられたことを、最高の幸せと思うがよい。
我らが日本神道は、先程、日本武大神が、尊が出られていたようじゃが、我らが裏神道の力も、侮るほどのことではないぞ。
我らが、そなたたちの守護警備を担当しておる。そのことは、もう何年も前に伝えておったはずじゃ。
そなたたちは、この、日本神道、裏神道という立場は、どのような区分けで我々の立場、役割が分けられているか、とても不思議に思うとるであろう。
だが、それは、かつて昔、そなたたちの知らぬ時に、神々がこの大和の地を創る時、立ち上げて行く時に、やはり、力で国を治めて行こう、まとめ上げて行こうとする者たちと、法の光の中で、天照大神のように、和を以って人々と相和することの、神の光だけで、まとめ上げて行こうとした者たちの、意見の相違によるものじゃ。
わしも、近代の日本に生まれて、色々な使命を果たしたが、今は高天原の一角に居座っている。今、我らの世界において、裏神道、表神道という言葉は、なくなりつつある。
その垣根を払った中で、我々も、今回和解をし、我々が、表の神々と呼ばれた方々よりも遥かに、我々の法力という力によって、魔を封印して行くという力を持っている。
自然界の中で、地球の根本的な法則、摂理というもので、人々に影響を与える力を、神より授かっているのが、我らが裏神道、元裏神道と呼ばれている者たちの力、技である。
その力を、今、我は最大限に使い、龍神や竜宮界や、仙人や天狗と呼ばれて来た者たちでも、決して決して、下に堕ちている者たちばかりではおらんことを、そなたたちも、もう知っているであろう。
その者たちの持っている技術や、技、法力、磨いたものによって、今日、霊文明というものを花開かせようと思うとるのじゃ。
それを、神の国の花壇を彩る一つの花々として、忌み嫌うものでなく彩りとして、裏神道の力を、今日の、この日本に表すことで、神のお力の全てを出し切ろうという、そのような話し合いが行われたのじゃ。
我々の世界でも、やはり各個人の修行がある。それぞれの意見の相違というものもある。然れども、そのような神の国で、神々が仲違いしているようであっては、本当の意味での和を持つということは意味をなさぬであろうという、そのような反省も行われたのじゃ。
じゃから、我々は、その力を以って神々の計画に参画することで、この悲願である計画のために、逆に、一丸となって力を合わすことにより、仲違いしていた者たちが心から許し合い、手を差しのべ合うことで、一つにまとまることが出来たのだ。
じゃから、逆に言うと、今回の計画が、数々に座礁に乗り上げて来たこと、難航を極めたことを、わしは、そなたたちにも、この地上の者たちにも、半面感謝したい思いがある。
我らは、裏、裏と呼ばれ、その力を忌み嫌われて来た。しかし、我らが修行せし力も、神が与え賜うた力であるということ。そのことをもっと認めて欲しかったがゆえに、暴れて来たきらいもある。
我らが修行したもの、我らが力、我らが法力は、そんなにも忌み嫌われるべきものなのか。何の価値もないものであるのかと、それが裏側の者たちの主張でもあった。
神の力の中には、そのような力を以って、その、ある意味で、そなたたちの言葉で言うならば、超能力とか、今この者(チャネラー)がやっているような力も、根源的な神の力に近いものがあるのである。
それを、たまたま強く持ち合わせた、霊系団の者たちが居る。その者たちの力を、忌み嫌うものとして排他的に扱うのであるならば、それは、根本的に、調和を旨とする日本神道の考え方には、反するのではないかという主張もあった。しかし、今それを、お互いに手を取り合うことにより、我々は、彼らと歩み寄り、彼らも、我々に歩み寄ってくれた。
法というものは、本来が一番大切なものである。我らが裏神道は、どちらかというと、法の神髄を学ぶというよりは、その、元々持てる力を磨くことの方を最優先して来たきらいがある。どうしても、その能力による慢心的な気持ちの中で、その法力合戦になって来た可能性もある。それは、我らが、大いに反省すべき点である。
然れども、そのような力でこそ、魔を封印し、そのような力で、神の使徒たちが道を切り開くというその道を守護し、神の国を、その法のもとに具現せしめる、実現させ、現象化させて行く力、そのような力には、この我々が持つ法力というものが、非常に力を持つ時がある。
造化の瞬間、天地創造の造化の瞬間に神が使われるのは、我らが力と同じである。宇宙の中で、この物質界に、何もない所に波動を集中せしめ、現象化し、物をこの世に映し出していく。この具現化して行く力は、我々が持っている力と同じである。
それを我々は引き継ぎ、それを継承する者としての霊系団がある。その者たちが、モーゼと呼ばれている方にしてもそうであるが、超能力とか、様々な法力とか、中国にも仙人界があるように、そのような力の方を優先している者たちがいるのである。
その者たちの力を、悪とみなし、裏とみなし、忌むべきものとして封印されて来たという歴史がある。常に、表の方だけが最優先されるという、その表の力を、最高の価値あるものとして認められて来た歴史がある。
だが、今は表も裏もない。表も、裏の力を持たぬが、理屈理論だけで、法を学んだと慢心した者が堕ちるということも、反省の中で、あるであろう。
我らが世界は、即実行であり、即実現である。その実現される、具現化される力がなければ、我らが世界では一向に認められぬ。あそこにあるリンゴひとつ、眼力だけで落とせぬようであったら、どう理屈をこねたとて、そなたに「力がある者」と言えぬであろう、というのが、我らの世界である。
それは、もっと言うのなら「この地上で、神の子と、どんなに騒げども、どんなに法を知った坊主であろうとも、人々のために、国民のために、一つでもいいことをなさねば、その口に法を語る資格はないわ」と。「この地上に、行動で具現せしめる力なくて、きれい事を言うのではない」と。逆に、そういうのが我々の立場でもある。
頭だけに神の法を詰め込んでも駄目である。感性の中で、悟りの中で、実際にこの地上において、自らの命を削ってでも、この神の国を実現させる人々の力になるために、どれだけのことが具体的に出来たかという行いを以って、その地上に具現させる力を以って、我らは、神の国の、神の子としての証を示すことを、その使命として来た。それが、我らが裏神道のルーツである。行って来た足跡である。
だが、今やっと、それが認められた。表の神々とも和解をし、我々も、もう少し法を学ぼうと、そのような謙虚な反省の中に入っているのが、我らの今の状況である。
裏神道が、我々のような力を持った者たちが、軽視されるというのは、その法はおかしいぞ。最近はどうじや。やたらあっちにも、こっちも霊言が出るという話も、さっき聞いておった。
いいか。スプーンを曲げてみせたユリゲラー。
いいか。あの世の、いや、下に迷っておる者たちもいるが、その者たちの言葉を伝えた、数々の霊能力者というのも、テレビやなんかに言わせたであろう。あの者たちは、大体、わしの配下にある者たちじゃ。その者たちが邪魔だったと言うか?その人生が無駄だったと言うか?
かつての某団体では、非常に蔑視した言い方をされたであろう。だが、彼らが知性だけで蘊蓄かました時に、多くの人々は目を引いたであろうか。目に見えない世界ということを人々が受け入れただろうか。ああ、ひょっとしたら、この物質至上主義の、この三次元の中で、どうじゃ、目に見えぬ世界があるやもしれぬ。ひょっとしたら死後の世界があるかもしれぬ。そのような、きっかけを強烈に印象づけたのは、我らが配下の者たちの仕事ではなかったのであろうか。違うか?
確かに、物珍しさだけで言う、求めるような、現象だけの世界というのは、危険なものはたくさんある。だけども、スプーンをいきなり曲げて見せ、色々な、様々な超常現象というものを見せる者たちがいて、それが一体何になるのであるか。実際、何にもならんのである。
ここにあるワイングラスを、パーンと割ることなど、我らの世界では簡単なことだ。この間、いきなりポーンと、竹筒を割った者がおったであろう。そのような、物質的に、この次元の物を、ある意味で瞬間的になくしてしまうことですら簡単である。そんなことばかりを彼らはやっている。
それが何のためになるのかと、そんなものは、神の子のためには余計なことであり無駄なことであると、そのようにかつての某団体では言われていたのではないか。なんの役割もなかったであろうか。
多くの者たちに、目に見えない世界がある、魂は永遠の命を持ち、転生輪廻を繰り返して行くものがある、そのように伝えておったはずじゃ。
だが、もし死んで迷っているじいちゃん、ばあちゃんでも、自分をいじめ抜いて死んだ、姑や嫁が、出て来たとしても、もしそこで話が出来たり、地獄で苦しんでいる姿を伝えられたら、それは、逆に、魂が永遠で生き通しであるということを、現象の中で示していることであろう。理屈は分らなくても、実証の中で、この三次元の人々に伝えている(と言える)のであろう。
それを我々は、現象の中、現象しかないと言われても、現象を通して、目に見えぬ世界が実在するのだと、人問には、潜在的に持っている、もっともっと多くの力があるのだということを、難しい理屈や法理念が伝えられなくても、ただその現象を通して繰り返して見せることで、人間たちに、物質界以外の世界の力があると、人間には、肉体が滅びれば全てが終わりではなく、霊の力があるのだということ、霊的な力があるのであるということを実証せしめていた(のである)。そのような役割もある(ということだ)。
だから、そのような者たちであっても、今生、生まれて来る使命はあったし、そのような者たちにも、しっかり神の子としての使命があったのだということを、資格があったのだということを、それを、わしは、もっと生前多くの人々に伝えたかったし、それと、この間、何某という者が説いていた某団体の教えというものも、あまりにも難しく、あまりにも立派過ぎて、我々の力を、非常に侮ったところがあった。それが故に、簡単に、ある意味で足をすくわれたというのがあるのではないだろうか。
我々(裏神道)の世界は、全て行いがあるのみ。全て技があるのみ。その力があるかないかは、自己の研鑽にもよるし、実際、地上に生まれて行った時、何が出来たか(という事でのみ判断されるのである)。
人が驚くようなものであっても良い。そのようなことが、何がこの地上に生まれた時に為せたか。それが、たとえ下らないものであったとしても、イタコのようなことであったとしても、霊的な世界の実証の一翼を担ったということには変わりないであろう。何もしなかった人生よりは、ましであろう。
これからは霊性の時代と言われている。この、物質的に、みな満たされたこの時代から、よいか、これから、霊的な自らの神性の中にある、神の子としての霊性に目覚めていく時代が来る。その時に、そなたたちは、もっともっと自らの力を信じ引き出さねばならぬ。
我らが裏神道、裏の力を持った者たち(だけ)が、霊的な力を持つのではない。そなたたち一人ひとりも、気付いていないだけの、もっともっと霊的な力を持っている者たちであるということ。霊言のような、このような力は、神より選ばれし者にだけが降りる力ではあるけれども、我らが磨いている様な力ならば、そなたたち一人ひとりでも十分発揮出来るものである。
それが邪魔になる時もあろう。しかし、これから霊文明の、霊性の証明ということをして行く時に、そなたたちのように知的に法理論も持った者たちが、多くの現象を通して語って行くことが、もし可能であるならば、もっともっと多くの者たちが、そなたたちの言うところの力を信じていくであろう。
だから自己限定をしないこと。自らの力を信じること。そのようなことによって、そなたたちの使命を果たすという、そういう側面が(今は)欠けておろう?違うか?
霊的なことは全てこの者(チャネラー)に任せ、自分たちは表であるという理論の中だけで、悠然としているように我には思われる。しかし、神の子が神の子であるということ。その可能性は無限であるということ。その自らの力をもっと信ぜよ。そうすれば、大いなる力が発揮されて来るであろう。
悟りというものが、難しい、難しい修行の過程の中で、蘊蓄かました、小難しい理論に囲われたものでなければ、何にも高みまでに行けないならば、それは、少しも、神理などというものは人間を自由にしないものであると、わしは思う。
悟りというものは、高くなればなるほど、自己の魂を自由にするものである。自由に、自らの神の子としての神性を表現せしめ、人々に対して、多くの愛というもの、まあ何というか、夢というものを広げて行ける、そのようなものである、と、わしは思う。
その時に、坊主と呼ばれている連中は、あれもしない、これもしない、だから一生懸命、修行して、自分を高みに(上げていくに)連れて多くの悟りを開いて、人々を、衆生を、指導しようとするかも知れないけれども、あれもしてはいけない、これもしてはいけないという思いの中で、非常に魂を不自由に縛っている様に思う。
然れども、我が思う悟りの中には、高みに昇れば昇るほどに、修行というものは、魂の中で神の子の神性を開き、自由に、この大海原のように、この宇宙の中を自由に自在に飛んで行き泳ぎ、自分の中の光を自由自在に発揮できる、その様なものが悟りであると、わしは思う。
だから、一面的な画一的なものの中だけで悟りというものを考えず、自分の中に自己限定をせず、自由に、神のもとに自らの与えられた個性というものを信じて、大いに頑張って頂きたいと、わしは思う。
わしが、大本教や、数々の中で予言したもの。それが当たったものもあれば、外れたものもあるであろう。そのようなものは、もう終わったことである。
それは、今日のことを目指し、やはり、そのことを思うための先陣として、わしは、あの時代に命を持った。然れども、今は、その本番の時を迎え、神の国の計画というものが、今、難航、座礁し、また新たな計画が立てられている。
ノストラダムスと呼ばれている世紀の大予言者においても、然りであろう。決して外れたというわけではないけれども、あの時はあの時の計画の中での未来のビジョンというものがあった。
今は、それが最終的な段階に来て、これからどの様になるか、それは、上の神々におかれても分からぬことがあるということ。だから、そなたたちは、みだりな予言は禁止されているはずである。何故ならば、上の神々であって(さえ)も分からぬことがある(からである)。
それは、それ程に、旧来の流れの中での、そなたたちの動きではないということ。その、そなたたちの頑張り、次の世代に生まれた者たちの頑張りにより、未来というものは、いくらでも塗り替えられて行くから(である)。だが、そなたたちが頑張れなければ、その先に見える未来は、語る必要はないということ。逆に言うと、未来はないということである。だからこそ、予言は、今降ろされぬ。
我が降ろした予言。それは、その時代の中で、その当時の計画、神の計画に沿うた未来をそのままに映し出したビジョンであった。それを口にすることで多くの迫害があったけれども、そなたたちに同じ思いをさせたくはない。
つまらない未来を、予言することにより、そなたたちが、本来の使命を果たさねばならぬことから、つまらぬトラブルで、エネルギーや時間を取られることを、わしも望まない。多くの神々も望んではおらぬ。
だから、あの時代と今とでは違うということ。そして、我も、今は、あのとき生を終え、この天上界に帰って来たその当初より、今も、数々の変化を乗り越え、今このような状況の中で、これから先の未来に対する願いに近いような思いで、そなたたちを見ている。
それは、我ら天上界の神々全てがそなたたちに思っている、非常に強い、切ない願いでもある。それを、そなたたちは、我らの思いを引き受け、どうか、自由に、自ら神の子としての力を発揮して、この地上最後の計画の中に邁進されて頂きたいと思う。
決して自己限定されることなかれ。地下の者たちに通じると思って、このような霊能力を全て忌み嫌うことはない。逆に、本当に正しき思いの中で、霊能力というものが使われたのであるのならば、それは多くの、数々の人を、もっと、より円滑に効率良く人々を救ったり、指導する力にもなるであろう。
そして、何よりも大事なことは、目に見えぬ世界が実在するということ。そればかりは、どんな理屈を以っても証明出来ぬ。それはやはり現象を以ってしか証明出来ぬであろう。かの高橋信次と呼ばれる方も、現象を以ってその愛の教えを説かれたからこそ、今日、以って、このような名が残られ、多くの人々に慕われている。
イエス・キリストにしても然り。モーゼにしても然り。多くの預言者、多くの救世主と呼ばれて行った者たちには、やはりその知恵ある愛の法というものに足して、加えて、その霊能力というものがあったればこそ、彼らが、巨大霊媒としての役割として、多くの神々の言葉を地上に降ろせたからこその、法の神髄というものが降りたのであると。巨大霊媒としての、天上界の援助というもの、言霊(ことだま)というものを、地上に降ろす力がなかった救世主は、一人たりと言えどもいないのである。
であるならば、霊媒的な力というものは、救世主界を以って、最上の力を以って常に兼ね備えているものであるのならば、決して、その霊能力というものを、忌み嫌う必要はないはずであろう。
霊能力から入って行っても、最後、法を学べばよいのである。霊能力を持っているからと言って異常な迫害をされた時代がある。ちょっとでも霊視が出来たり、ちょっとでも預言が出来ると、ほんと魔女と言われるような、大変な迫害を受けたのが、世の東西を問わずあったであろう。忌み嫌われ、村八分にされ、殺された者たちもいる。そのような者たちの力を、「裏」と言って忌み嫌う必要はないのである。
それは、神が元々、我々神の子たちに与えられた力である。それが中途半端に出て、教えというものが伴っていないから、霊能力ばかりが優先してしまったから、人々に薄気味悪がられ、それが、表の坊主と呼ばれていた、坊主というか、仏教徒というか、仏弟子の者たちから見たら、その様なものは、いらぬ力であるというふうに言われたかも知れないけれども、やはり、そのような力というものも、人々の中に埋め込まれ、神が与え賜うた力であるということ。
(今、これから向かう先の時代)それが、科学と宗教が統合され、完成を見る時であると言われている。物質至上主義の世界と、霊文明が合体する、総仕上げの時期であると言われている。それと同時に、神の法と、霊能力という、その霊媒の力のようなもの、それが最終的に統合されるということが打ち出される時代でもある。
それが、文明の最終的な大詰めの、最終試験と呼ばれている総合的な能力を試される、今の時という、その総仕上げの時期に、神から人類に与えられている知恵なのである。その集大成の時にあたっている。だから「卒業試験」と言うのである。その流れの中に、どれだけ、ついて来ることが出来るか。
そなたたちは、その最先端の中で、神から降ろされる叡智というものを、人々に提示していく、最先端の力の中で、今、霊言が降りて来ている。それを、どれだけ理解出来るか。
理解出来ぬ者は、「魔だ」と言う。自らの理解能力の不足を棚に上げ、自らの霊的な知覚能力を棚に上げ、この者(チャネラー)の力を魔だ、と言う。それは、自らの学習が足りぬだけ。自らの器が足りぬだけ。自らの力が、識別力が足りぬだけなのに、神よりの使者を「魔」と言う。それは、いつの時代もそうであった。イエス・キリストでも同じであった。「神の名を語るとは」、と言われた。彼は、最後、十字架にはりつけになった。
ジャンヌ・ダルクという女性もそうである。そうであろう。「神の子、私は、ミカエル大天使より指導されている」と「神により指導されている」と言っただけで、結果的に火あぶりの刑になった。そのような無理解、未熟さ、それが神の使者を最終的に死にやる過程を、今までが踏んで来たのである。
今の日本は法治国家であり、言論の自由が認められている。だから、そのように殺されることはない。そのような平和な時代に、愛の使者として、そなたたちが、神の使者として使命を果たせる時代にあることをこの道を引いてくれた者たちに感謝するべきであろう。そのために、我らが出る前に、明治維新の者たちが出て来たのである。
その明治維新の、多々ある者たちの偉業を、霊言を通して学んだであろう。その中で何が一番大事であったか。彼らが地上に行った時は、もう少し地上的な価値により評価されていた。彼らが死して我らが世界に戻って来た時は、神の国と呼ばれている世界に通ずる者だけで反省を行い、彼らの評価というものが決められて来た。
神の尺度、神の価値観で、何が一番大事なのか。時代的な英雄たちが、このように評価されるのだということを地上に降ろすことにより、神の国の尺度、価値観を、この地上の尺度、価値観として、今降ろす時代にあることを、大切なこととして今霊言を降ろしているのである。
分かるか。そなたたち、三次元の、地上の者たちが持っている価値観などは、我らが世界に、死して来ては、何も通用せぬものであるということ。そのことを思うのならば、今、神の国の価値観、尺度というもの、それを今書籍、霊言により、地上に降ろすということが、いかに、いかに重大なことであるか。
神の目によって、神の子たちを見たときに、どのように評価されるか、どのようなことが一番大切なことであるかということを、我らは、この地上の者たちに伝えるために、こうやって霊言を降ろしている。
神の国の、神の巫女として、神々の言葉を伝えられる者は、それほどたくさんはおらぬ。しかし今、我々の神々の言葉を、今伝えられる者がいる。であるならば、そなたたちは、今我々の言葉を伝えよ。そして、神の国の価値観を、神の国の目からみた尺度というものを、この地上の価値観として、尺度として、人々に伝えて行き、それが、いつかこの三次元、地上で一体化した時に、この地上は神の国になり(地球は)愛の星になるのである。
今の様な、間違った、名声や権力や支配欲や、この地上的な富とか肩書きとかそのようなものが、本当の意味で神の子としての尺度になるのか。神の子としての本来幸せなものであり、神の目から見た、評価される高き尺度になるのかと言ったら、そんなことはない、ということぐらい、もう、そなたたちは理解しているであろう。
然れども、それを知らぬ者たちがいる。その中で、つまらぬつまらぬ限定をしないこと。おなごを抱いたからといって地獄に堕ちるのなら、この出口王仁三郎などは、とうの昔に堕ちておるわ。数々の女を抱いたからといって堕ちるぐらいの、酒を飲むから霊言もとれぬ、酒を飲んだから地獄に堕ちる、そのようなつまらぬ自己限定をするものではない。
人間は、本来、もっともっと自由なのである。その動機こそが大事なのである。
神の国の価値観を、この地上に降ろすということ。そのことを以って、今後の、この地上の体制を立て直して行くのである。そなたたちは、この間から、体制を立て直して行くには、何が一番大事かということを、重ねて聞いておった。
それは、神の目から見た、神の子としての尺度、神の目から見た視点、それによる価値観が、その方向が定まったときに、教育制度も、政治体制も、憲法も、全てが、医療もそうである。そのようなものが、全て連鎖反応的に変わる時が来る。
変わる時は一瞬である。碁をさす時そうであろう。ポーンと勝った時に、瞬間的にパーンと色が変わるであろう。あれじゃ。その瞬間が来ることを、わしは願うとる。そのために今、我々は、こうやって霊言を降ろしている。
そなたたちも、なにゆえ、このような霊言が、次から次へと降りるかを、理解していないとこもあるであろうが、今そなたたちが、これから、無心に本を出していくこと、霊言を降ろして、それを文章化していくということが、後世に対する神の視点というものを、しっかりと明確に打ち出す、そのような規範として、この地上に打ち出される、そのような時が、今であるということで、そなたたちは、今の仕事に邁進されたしと思う。
地上は、決して、そんなに不自由なところではない。間違うてはならぬが、間違ったら引き返せばいい。それぐらいの太っ腹な気持ちで生きてゆけ。間違わないこと、間違わないことばかりを恐れて、ケチくさい小さな器になるな。間違ったって、いつでも帰って来られる。なぜなら、全部、神様の懐の中だから。どこに行ったって神の国さ。下に行ったって神の国。ならば、違ったと気付けば戻って来ればよい。
よいか。そうやって自分を限定し、囲って小さな中に入ってしまう方が、自らの力を引き出せず、自らを限定し、不自由にすることは、他を裁くことに繋がっていく。そのような気持ちで、多くの人々を裁いてはならぬ。
自分が自由になれぬ不幸さを噛み締めるからこそ、その怒りが、他者に対する批判に結びついて来る。それを思うならば、常に自由であれ。
常に、人生を満喫して、自己限定をせず、幸せに臨んで、何ならば神の子として出来るかと、最高に自らを出せることを最優先し、そなたたちの力を出して行けば、必ずや神は、そなたたちに、そなたたちの本来の使命というものを現したもう。
使命が現れて来て、その自らの認識したレベルに応じて使命というものを明かされて行くのだから、その認識したレベルにおいて、与えられた使命を精一杯働け。
そしたら、それを一生懸命したならば、それを通して学んだのならば、その上の認識力を以って、また更に高度な使命がそなたたちに与えられるであろう。そうやって使命というものは、徐々に徐々に上に向かって、多くの者を救済出来る使命が与えられるのである。
だから、実力を持つには、認識力を持ち、行動力を持ち、この地上で、いかに一人でも多くの者たちを幸せにすることが出来るか、行動をなすことが出来るか、そのことが最大の地上の者たちの修行であるということを、心に、肝に銘じ、自由に生きて頂きたい。
どこまで行ってもお釈迦様の手のひら、という言葉があるが、どこまで逃げたって神の手のひらである。ならば恐れることはない。どこに行っても、帰って来れぬ神の国なぞないのである。
間違えればこそ修行になり学べるのが人の道、人間である。ならば、神の子として、もっと安心して、我において如来であるならば、そなたたちだって如来を目指せ。平気で仙女たちと戯れようと、女を抱こうと、酒を飲もうと、我は如来である。そのような、神の国の自由さというものを、もっとそなたたちも学んで頂きたい。そうでなければ、多くの者たちは、ついて来ぬ。
不自由な所で、正しいことだけで清まって、排他的な考え方の中に(いる)、そんな人間に、多くの一般大衆は魅力を感じてついて来るであろうか。多くの者たちがついて来るのは、自分たちとおんなじ、痛みや悲しみや、欲望や快楽やそういうものを、全部呑み込んで、それを一緒に泣き笑いして喜んでくれる者たちにこそ、多くの人々はついて来るのである。その者が語る言葉であるからこそ多くの大衆がついて、後をついて、その人を手本に、ついて来るのであるぞ。酒も飲まぬような奴はダメじゃ。酒ぐらい飲め。女ぐらい抱け。そんなもので神の国が極められないような、ケチくさい神さんなんて捨ててしまえ。
捨てられるぞ、そなたたちは皆んな神の子じゃ。であるならもっともっと自由に生きよ。そして、もっともっと自らの力を信ぜよ。どこまで行っても神の国なんだから、神の子としての可能性を追求せよ。
そして、全生涯を、今回の稀なる計画のために、そなたたちの自由な魂を泳がせ渡る、泳がし生き抜くことで、そなたたちの使命を果たされよ。そうすれば、素晴らしき彩りに満ちた人生と共に、彩りのあるこの世界を具現化させることが出来るであろう。
墨衣だけの世界はいかん。黒と白だけの世界はいかん。神の世界は、もっともっと彩りに満ちている。もっともっと色鮮やかな、喜びや楽しみに満ちている。
我は今、マヌ神と呼ばれている方が出られていることを喜んでいる。非常に自由な方である。そのような方でも九次元におられるということ。我が言葉より、もっともっと説得力があろうが。しかし、あのような神が、今、通信を送っておられるということを、我は、非常に喜んでいる。そのように、今、地球的な意味で、総合的な集大成の時期だ、ということを肝に銘じ、そなたたちは、これからの使命を果たして行かれたい。
この世界に、我々が世界(霊界)に、そなたたちが使命を終えて帰って来られたら、どうか、酒を一献傾けよう。そして、地上の土産話を我に話して頂きたい。地上にも、いい女がたくさんおるが、天上界にも、いい女がごまんとおるから、われが、美しい仙女を紹介しようと思う。
いいぞ、仙女は。かわいいぞ。いいぞお、おなごは。もっと、おなごの力を信ぜよ。このおなご(チャネラー?)も、なかなかいいので、わしも口説こうと思っとるが、言うことを聞かぬ。
今は、非常に多くの神々が見られているので、いらぬことは申せぬ。品の悪いことは申せぬので、少し真面目な話をしたつもりである。そなたたちは見えぬであろう。ものすごい数の神々が、今この場に、おられるということ。次の神に道を譲り、われは今日、これにて失礼しようと思う。
(次の回)
国常立之神がお出になられ、そなたたちにとっては、余りある名誉の中で、霊言を受けることが出来たことを幸せに思うがよいぞ。ついでに、わしも出て来た。そなたたちに祝福しようと思って出て来たのじゃ。
わしの世界の中で、最高位にあられる神であられるということ。その方の指導を受けられるということがどれだけ幸せなことであるか、そなたたちは本当に分かっておるかのう?
わしが出て来ただけでも、そなたたちは、目が潰れんがばかりの栄誉に浴しているということを、分かっておらぬようだが、どうやら、ここではあまり歓迎されないのであるが、わしは他の所に行くと、大人気な指導霊である、神様であるということを、そなたたちももう少し、ちと理解しなくてはいかんぞよ。
そなたたちが負っているこの使命というものが、これから、やっと具体化して行くということ。今までは時を待っていたということ。それゆえに我らは長いこと待たされていた。荒神一同、最初の頃、あいさつに出たことはあれども、そなたたちに、このように指導を直接する段階に来てはいなかったから、あまり長いことしゃべることは許されなかったのである。
しかし、喜ばしきことに、無事に幾多の霊言が降り、法の中核が降りて、そなたたちが具体的な行動をする段階に来たので、そなたたちの使命がやっと我らが指導のもとに回って来たということ。そのことを、我はとてもうれしく思い、国常立之神と共に喜んでいる。
そなたたちは、見ていると、あまりにも自己限定が多いということを、わしは思う。何をそんなに恐れておるのだ。なんと言われようとよいではないか。女好きと言われようと、酒飲みと言われようと、わしのような素晴らしい境地に達している者もいるのである。
そうやって、「女に触ったから地獄に堕ちる」とか、「酒を飲んだから道を迷う」とか、そのような、つまらないものを考えるから、本当の意昧での、大きな器の仕事が出来ないのである。
大物という者は、つまらないことは詮索せず、大きな、大目標だけに焦点を据えて、自ら研鑽したことを命懸けでやる者のことを言うのだぞ。そなたたちの中で、そのような大きな器の者が、どれほどおるかのう。おなごが好きでなけりや、この世は、少しも楽しくない。酒も飲めなければ喜びも半減するであろう。そういうものを、全ての活力と変えて、そなたたちは命懸けになってこの使命を果たしていく。その位の度胸と大らかさを持て。
先ほど、国常立之神が言われたようなそなたたちの使命というもの、それを繰り返す気は毛頭ないが、わしは、そなたたちに「もっと大物として、器の大きな、魅力的な男として輝け」と言いたいんじゃ。
おなごがキャーキャー騒がんような男で、どうする?酒の一杯や二杯、一升瓶の一本ぐらい飲めないで、どうする?そんなことで地獄に堕ちるなどと思ってるような輩がいるからこの地上でろくな仕事が出来ぬのじゃ。そのようなことを言うから、わしは「裏に行っとけ」とか言われてしまうのじゃがな。だけども、そのような力も必要だということじゃ。
それが、そなたたちの心の垣根を取り払い、鎖を取り払って、そなたたちの魂の中にある本質的な力を開花する。そのような力となって行く、そのような突破口となって行く、ということを、わしは言いたいのじゃ。
自己限定がある限り、自分はこうあるべし、これは出来ないと思っている限りは、本当にその力を使いこなすことは出来ぬ。そこに、ひょっとしたら素晴らしい力が宿っている、かも知れんぞ。だが、それが出来ないと決めてしまったら、永久に出来ないのじゃ。
あらゆる方向の扉を、開けておけ。あらゆる自分に対する可能性を開けておけ。そして、ひるむことなく、そして失敗を恐れることなく、それを味わいながら楽しみながら仕事をして行くのじゃ。
大きな目標さえ、自分が何をしなければいけないかさえわかっていれば、そなたたちが、道を誤ることはなかろう。数々の失敗があるが、あまりにも細かいことに、教条主義的なことにこだわり過ぎて、人間としての大らかさを、神の子としての愛の深さという素晴らしさを、寛容さを見失ったときに、釈迦教団は堕ちて行ったのではなかろうか。
自らを偉しとし、知天狗になったということはそういうこと。知だけが全ての上に立ち、知の階段を登ることだけが全ての悟りの、究極の唯一の道である、と驕り高ぶったとき、人は大らかさを失くす。縛りを一杯付け、自らのあらゆる可能性を、自己限定の鎖で縛り上げてしまう。
だから、皆が、同じような型通りのやり方でしか、修行という形態の中で悟りを上がっては行けぬ。だが(本当は)あらゆる道があるということ。その個性の分だけ、あらゆる階段があり道があるということを、そなたたちが理解するのなら、いくらでも道は開かれようぞ。
魔が来ても、こっちから捕まえようと思ったら、あちらからするり、あっちから捕まえようとしたら、こちらからぬらり、そのように出てみよ。それ位の変幻自在の思いを持ってみよ。そうすれば、そなたたちは、いくらでも魔に引き倒されることはない(ように出来るだろう)。
あまりにも頑なであり、あまりにも一本気であり、あまりにも一つの方向性しかなく、その中に柔軟性を持たなかったが故に、釈迦教団の、今回の救世事業は倒れたのである。
もっと大らかに、もっと寛容さを持って、人の数分だけ可能性があり、人の数分だけ素晴らしさがある。入り口がある。自らもそうである、と思うのならば、人に対する裁き心もなくなるであろう。
裏神であるとか、表であるとか、仏教系であるとか、キリスト教系であるとか、はたまた男が優秀であり、おなごは優秀でないとか、そんなつまらぬものに何ゆえに縛られるかというと、登り口が一つしかないから、一つの方向しかないから、そなたたちは自己限定をするのである。
だけれども、ここにいて自らの蓄えて来た力を発揮せねば、今まで何ゆえの修行であったかということも言えるであろう。
この者も、そして同時に来た者たちも、自らの力を限定することなく、恐れることなく、自分の力を出して行きなさい。そのような力で神の恩に報いる道もあるということ。この救世の事業に役立つ、力も扉もあるということ。
それを、自分の全ての可能性を受け入れ、認め、そして許して、自らの弱さも共に許してそれを受け入れるということ。それでこそ、トータルな力で、神のために使命を果たすことが出来るという、その大らかさを、そなたたちは学ばねばならぬ。
今回のことを見ていると、やはり大らかさというか、寛容さがないが故に、このような、窮屈な思いが出て来ている。裁き心が出て来ている。
今回、裁いて行った者たちの心を見よ。やはり知により、仏陀光線のような者、法だけの道しか道がないという、そのような思いに縛られているから、他の価値観を、表現を受け入れられないのであろう?
そんな狭い、ケツの穴の小さい男でどうするのじゃ。男たちが力を合わせて、本当の意味で、地球規模の救世の大事業をするということ。そのことを、そなたたちは心に決めよ。それでこそ男じゃろう。それでこそ、男としての本懐というものがあるのだ。
そなたたちの中に、大らかな、海より広い、山より大きい、空のように広大な、その様な、大きな器の磊落な気持ちというものを持てば、その心の広さの中に、全人類の弱さも悲しさも喜びも、包み込むことが出来るであろう。受け入れることが出来るであろう。
自ら狭い器の者は、他者の喜びや、悲しみや、喜びを受け入れる余裕がどこにあるのだ。本当の意味での大らかさというものは、愛の深さであり広さであるということ。それを学ばねばならぬ。それが分からないようでは、そなたたちの中には悟りはない。悟りから程遠いということ。
そなたたちの気持ちの中に迷いがあるということは、まだまだ、自らが思う、信仰とか、神という形態について、こうあらねばならぬという思いが強いから、わしのように、仙女にキャーキャーされるような者が出て来て、そなたたちよりも、よっぽど霊格の高い所にいる者として、こうやって天上界でものさばって居られるということをもう一度考えよ。
小さなことで自己限定している坊さんたちのことを思うと、人生を何も楽しんでおらぬ、この、神がお創りになった、この宇宙の素晴らしさを、少しも味わっておらぬ者たち、であると、不潤に思うのである。
神の国は素晴らしい。この宇宙は素晴らしい。それを味おうて、味おうて、味わい尽くそうではないか。
神の世界の素晴らしさは、尽きることなく、おなごの美しさも尽きることなく、わしは、今回、日本神道だけではないおなごがいるということを知って、すっかりファンになったのだが。
仙女たちも美しいが、金髪の女もいいぞ。日本酒も旨いが、たまには赤ワインもいいぞ。わしにも注げ。
そなたたちの中で、味おうている美しさ、味おうている多様さというものを、もっともっと前面から受け入れ、赤ワインを飲んでいる者たちも祝福出来るような男でなくて、どうするのじゃ。そうであろう?
黒髪の女も美しいが、金髪の女も美しいと思うことにロマンというものがある。神はなぜこのように素晴らしい幾多の女性たちを創りたもうたか?
そのような女性を、味わうということかも知れぬ。そのようなものを通して、数々の美しいロマンスと出会って、素晴らしい、男としての仕事をしろということかも知れぬ。違うという声もあるが、だが、わしは、それを活力として仕事をして行きたいぞ。モテて何が悪い。そなたたちも、その位の気概を持て。
僧侶たちは、どうも、おなごに触るとそれだけで地獄まっしぐらと思うようだが、そんなことは少しもない。おなごの美しさを味わわなくて、何が、おなごを愛するという、愛というものを語ることが出来ようぞ。酒の美味しさを味わわなくて人生の喜びを語る資格があるか。
まあ、わしの言うことは、ちと、ちょっと極端なのは知っておるが、だがその位の気持ちで行け。そんなことを言うわしが下に堕ちてはおらぬということ。それを見、聞いただけで、そなたたちは、相当、安心したのであろう。しないか?
わしでも下には堕ちてはおらぬということ。堕ちるのは、逆に、間違わないように、間違わないように、一生懸命、隠れた所で自分の欲望を募らせた、高位高官の僧侶たちの方が下に堕ちておるのだぞ。
一見、大僧正と呼ばれて、一見素晴らしい僧侶であると、仏弟子であると言われて、裏にドロドロの思いをため込んで、醜い思いを膨らませてしまった、そのような鬱積した思いで、下に引きずり降ろされている元宗教家というのが、どれだけ多いことか。
不自然な形で、自らを「宗教の指導者とはこうあるべし」と思って、自らを縛りつけた、その結果の反作用で、逆に宗教家が下に堕ちる場合も多いのである。
当たり前のことは当たり前として楽しむ。神の世界の美しさを、多様さを味おうてこそ、この地上を幸せにする機会もあるということ。
一般庶民の者たちが、女を恋い慕い、男を恋い慕い、酒を飲み、おいしいものを食べ、共に家庭生活をしていく。そして、美しい音色の音楽に聞き惚れ、美しい芝居や、大自然の中で、喜んで遊んで戯れる子供の姿に感動する。そういう姿を理解出来なくて、そういうものを共感出来なくて、どうやって、衆生の心をつかみ、多くの神の子たちを幸せにする方法論を考えつくというのじゃ。
自分だけが悟りすませ、自分だけは問違いのないように、自分だけは堕ちないようにという思いが、清まり過ぎた潔癖さというものを作って、一般衆生は男女まみえるが、自分だけはまみえず、自分だけは堕ちないという、自分たちだけは高い所に、一段上の境地で、他の衆生たちを指導してやらねばならぬという思いそのものに、もう既に、驕り高ぶりがあるということ。
みんなと一緒の思いの中で、分かち合い、共感し合い、彼らが望む、衆生たちが喜ぶその喜びを、本当に味わってこそ、分かち合い、共に彼らが幸せになる手立ての中で、使命を果たすことが出来るのだ。彼らを幸せにして行く道も考えつくというものじゃ。
自分だけが安全な所に居て、他の者たちが不幸になることより、自分だけが安全になることを思っていて、神の使者としての使命なんぞ、仕事の場所なぞはないということ。それを、わしは、極端な形かも知れぬが、こういう形で、そなたたちに見せている。
だから、わしのような者が、このような、ふざけたことを言う者が、下には堕ちていないということ。そのことを思ったのなら、そなたたちは、わしに比べたらまだまだ放縦生活はしてはおらんであろう。だったらば、喜んで前面から受け入れ、自分を許し受け入れ、そして、多くの人々を幸せにして行く活力とせよ。
そして、そなたたちが味おうた、その人間の、煩悩としての力をもって、多くの者たちが本当に幸せになるには、どのような道が一番幸せなのかということを、彼らと共に、手を取りおうて考えて行きなさい。それこそが本当に人を救うということ。神の子を幸せにして行く、救世の事業の担い手となれるということ。わしはそう思うぞ。
だから、これからも、わしを呼んでほしい。もう嫌がらずに、悪さはせぬから呼んでほしい。そなたたちの中で、わしも、このように酒を一献傾けさせて頂きたいと思う。
今まで、竜馬と一緒に飲んでばっかりいて、時を待っていたのだが、竜馬もやにわに人気が出て来て、本なぞ出してもらうようなことを言っておったが、わしの本は出ぬかなあ?
これから、いくらでも、連載で、出口王仁三郎霊示集、以前は出してもらって、なかなか人気があったであろう。わしも、これからは連続して出て、新版で霊言集を一冊、出してもらってもかまわん。いくらでも協力しよう。だから呼んでほしいと思う。
我ら裏神道、荒神一同、そなたたちの成功を、これからの仕事の門出を祝い、今日は参上した。では、そなたたちと一緒に乾杯をしよう。そなたたち、頑張ってほしい、そなたには。乾杯。頑張ってほしい。うまい酒と、いい女はいいのう。では、わしは、これにて失礼しよう。
(2005.4)
(ここから)
出口王仁三郎じゃ。
そなたたちは、今日、この日本の国の中で、このような使命を与えられたことを、最高の幸せと思うがよい。
我らが日本神道は、先程、日本武大神が、尊が出られていたようじゃが、我らが裏神道の力も、侮るほどのことではないぞ。
我らが、そなたたちの守護警備を担当しておる。そのことは、もう何年も前に伝えておったはずじゃ。
そなたたちは、この、日本神道、裏神道という立場は、どのような区分けで我々の立場、役割が分けられているか、とても不思議に思うとるであろう。
だが、それは、かつて昔、そなたたちの知らぬ時に、神々がこの大和の地を創る時、立ち上げて行く時に、やはり、力で国を治めて行こう、まとめ上げて行こうとする者たちと、法の光の中で、天照大神のように、和を以って人々と相和することの、神の光だけで、まとめ上げて行こうとした者たちの、意見の相違によるものじゃ。
わしも、近代の日本に生まれて、色々な使命を果たしたが、今は高天原の一角に居座っている。今、我らの世界において、裏神道、表神道という言葉は、なくなりつつある。
その垣根を払った中で、我々も、今回和解をし、我々が、表の神々と呼ばれた方々よりも遥かに、我々の法力という力によって、魔を封印して行くという力を持っている。
自然界の中で、地球の根本的な法則、摂理というもので、人々に影響を与える力を、神より授かっているのが、我らが裏神道、元裏神道と呼ばれている者たちの力、技である。
その力を、今、我は最大限に使い、龍神や竜宮界や、仙人や天狗と呼ばれて来た者たちでも、決して決して、下に堕ちている者たちばかりではおらんことを、そなたたちも、もう知っているであろう。
その者たちの持っている技術や、技、法力、磨いたものによって、今日、霊文明というものを花開かせようと思うとるのじゃ。
それを、神の国の花壇を彩る一つの花々として、忌み嫌うものでなく彩りとして、裏神道の力を、今日の、この日本に表すことで、神のお力の全てを出し切ろうという、そのような話し合いが行われたのじゃ。
我々の世界でも、やはり各個人の修行がある。それぞれの意見の相違というものもある。然れども、そのような神の国で、神々が仲違いしているようであっては、本当の意味での和を持つということは意味をなさぬであろうという、そのような反省も行われたのじゃ。
じゃから、我々は、その力を以って神々の計画に参画することで、この悲願である計画のために、逆に、一丸となって力を合わすことにより、仲違いしていた者たちが心から許し合い、手を差しのべ合うことで、一つにまとまることが出来たのだ。
じゃから、逆に言うと、今回の計画が、数々に座礁に乗り上げて来たこと、難航を極めたことを、わしは、そなたたちにも、この地上の者たちにも、半面感謝したい思いがある。
我らは、裏、裏と呼ばれ、その力を忌み嫌われて来た。しかし、我らが修行せし力も、神が与え賜うた力であるということ。そのことをもっと認めて欲しかったがゆえに、暴れて来たきらいもある。
我らが修行したもの、我らが力、我らが法力は、そんなにも忌み嫌われるべきものなのか。何の価値もないものであるのかと、それが裏側の者たちの主張でもあった。
神の力の中には、そのような力を以って、その、ある意味で、そなたたちの言葉で言うならば、超能力とか、今この者(チャネラー)がやっているような力も、根源的な神の力に近いものがあるのである。
それを、たまたま強く持ち合わせた、霊系団の者たちが居る。その者たちの力を、忌み嫌うものとして排他的に扱うのであるならば、それは、根本的に、調和を旨とする日本神道の考え方には、反するのではないかという主張もあった。しかし、今それを、お互いに手を取り合うことにより、我々は、彼らと歩み寄り、彼らも、我々に歩み寄ってくれた。
法というものは、本来が一番大切なものである。我らが裏神道は、どちらかというと、法の神髄を学ぶというよりは、その、元々持てる力を磨くことの方を最優先して来たきらいがある。どうしても、その能力による慢心的な気持ちの中で、その法力合戦になって来た可能性もある。それは、我らが、大いに反省すべき点である。
然れども、そのような力でこそ、魔を封印し、そのような力で、神の使徒たちが道を切り開くというその道を守護し、神の国を、その法のもとに具現せしめる、実現させ、現象化させて行く力、そのような力には、この我々が持つ法力というものが、非常に力を持つ時がある。
造化の瞬間、天地創造の造化の瞬間に神が使われるのは、我らが力と同じである。宇宙の中で、この物質界に、何もない所に波動を集中せしめ、現象化し、物をこの世に映し出していく。この具現化して行く力は、我々が持っている力と同じである。
それを我々は引き継ぎ、それを継承する者としての霊系団がある。その者たちが、モーゼと呼ばれている方にしてもそうであるが、超能力とか、様々な法力とか、中国にも仙人界があるように、そのような力の方を優先している者たちがいるのである。
その者たちの力を、悪とみなし、裏とみなし、忌むべきものとして封印されて来たという歴史がある。常に、表の方だけが最優先されるという、その表の力を、最高の価値あるものとして認められて来た歴史がある。
だが、今は表も裏もない。表も、裏の力を持たぬが、理屈理論だけで、法を学んだと慢心した者が堕ちるということも、反省の中で、あるであろう。
我らが世界は、即実行であり、即実現である。その実現される、具現化される力がなければ、我らが世界では一向に認められぬ。あそこにあるリンゴひとつ、眼力だけで落とせぬようであったら、どう理屈をこねたとて、そなたに「力がある者」と言えぬであろう、というのが、我らの世界である。
それは、もっと言うのなら「この地上で、神の子と、どんなに騒げども、どんなに法を知った坊主であろうとも、人々のために、国民のために、一つでもいいことをなさねば、その口に法を語る資格はないわ」と。「この地上に、行動で具現せしめる力なくて、きれい事を言うのではない」と。逆に、そういうのが我々の立場でもある。
頭だけに神の法を詰め込んでも駄目である。感性の中で、悟りの中で、実際にこの地上において、自らの命を削ってでも、この神の国を実現させる人々の力になるために、どれだけのことが具体的に出来たかという行いを以って、その地上に具現させる力を以って、我らは、神の国の、神の子としての証を示すことを、その使命として来た。それが、我らが裏神道のルーツである。行って来た足跡である。
だが、今やっと、それが認められた。表の神々とも和解をし、我々も、もう少し法を学ぼうと、そのような謙虚な反省の中に入っているのが、我らの今の状況である。
裏神道が、我々のような力を持った者たちが、軽視されるというのは、その法はおかしいぞ。最近はどうじや。やたらあっちにも、こっちも霊言が出るという話も、さっき聞いておった。
いいか。スプーンを曲げてみせたユリゲラー。
いいか。あの世の、いや、下に迷っておる者たちもいるが、その者たちの言葉を伝えた、数々の霊能力者というのも、テレビやなんかに言わせたであろう。あの者たちは、大体、わしの配下にある者たちじゃ。その者たちが邪魔だったと言うか?その人生が無駄だったと言うか?
かつての某団体では、非常に蔑視した言い方をされたであろう。だが、彼らが知性だけで蘊蓄かました時に、多くの人々は目を引いたであろうか。目に見えない世界ということを人々が受け入れただろうか。ああ、ひょっとしたら、この物質至上主義の、この三次元の中で、どうじゃ、目に見えぬ世界があるやもしれぬ。ひょっとしたら死後の世界があるかもしれぬ。そのような、きっかけを強烈に印象づけたのは、我らが配下の者たちの仕事ではなかったのであろうか。違うか?
確かに、物珍しさだけで言う、求めるような、現象だけの世界というのは、危険なものはたくさんある。だけども、スプーンをいきなり曲げて見せ、色々な、様々な超常現象というものを見せる者たちがいて、それが一体何になるのであるか。実際、何にもならんのである。
ここにあるワイングラスを、パーンと割ることなど、我らの世界では簡単なことだ。この間、いきなりポーンと、竹筒を割った者がおったであろう。そのような、物質的に、この次元の物を、ある意味で瞬間的になくしてしまうことですら簡単である。そんなことばかりを彼らはやっている。
それが何のためになるのかと、そんなものは、神の子のためには余計なことであり無駄なことであると、そのようにかつての某団体では言われていたのではないか。なんの役割もなかったであろうか。
多くの者たちに、目に見えない世界がある、魂は永遠の命を持ち、転生輪廻を繰り返して行くものがある、そのように伝えておったはずじゃ。
だが、もし死んで迷っているじいちゃん、ばあちゃんでも、自分をいじめ抜いて死んだ、姑や嫁が、出て来たとしても、もしそこで話が出来たり、地獄で苦しんでいる姿を伝えられたら、それは、逆に、魂が永遠で生き通しであるということを、現象の中で示していることであろう。理屈は分らなくても、実証の中で、この三次元の人々に伝えている(と言える)のであろう。
それを我々は、現象の中、現象しかないと言われても、現象を通して、目に見えぬ世界が実在するのだと、人問には、潜在的に持っている、もっともっと多くの力があるのだということを、難しい理屈や法理念が伝えられなくても、ただその現象を通して繰り返して見せることで、人間たちに、物質界以外の世界の力があると、人間には、肉体が滅びれば全てが終わりではなく、霊の力があるのだということ、霊的な力があるのであるということを実証せしめていた(のである)。そのような役割もある(ということだ)。
だから、そのような者たちであっても、今生、生まれて来る使命はあったし、そのような者たちにも、しっかり神の子としての使命があったのだということを、資格があったのだということを、それを、わしは、もっと生前多くの人々に伝えたかったし、それと、この間、何某という者が説いていた某団体の教えというものも、あまりにも難しく、あまりにも立派過ぎて、我々の力を、非常に侮ったところがあった。それが故に、簡単に、ある意味で足をすくわれたというのがあるのではないだろうか。
我々(裏神道)の世界は、全て行いがあるのみ。全て技があるのみ。その力があるかないかは、自己の研鑽にもよるし、実際、地上に生まれて行った時、何が出来たか(という事でのみ判断されるのである)。
人が驚くようなものであっても良い。そのようなことが、何がこの地上に生まれた時に為せたか。それが、たとえ下らないものであったとしても、イタコのようなことであったとしても、霊的な世界の実証の一翼を担ったということには変わりないであろう。何もしなかった人生よりは、ましであろう。
これからは霊性の時代と言われている。この、物質的に、みな満たされたこの時代から、よいか、これから、霊的な自らの神性の中にある、神の子としての霊性に目覚めていく時代が来る。その時に、そなたたちは、もっともっと自らの力を信じ引き出さねばならぬ。
我らが裏神道、裏の力を持った者たち(だけ)が、霊的な力を持つのではない。そなたたち一人ひとりも、気付いていないだけの、もっともっと霊的な力を持っている者たちであるということ。霊言のような、このような力は、神より選ばれし者にだけが降りる力ではあるけれども、我らが磨いている様な力ならば、そなたたち一人ひとりでも十分発揮出来るものである。
それが邪魔になる時もあろう。しかし、これから霊文明の、霊性の証明ということをして行く時に、そなたたちのように知的に法理論も持った者たちが、多くの現象を通して語って行くことが、もし可能であるならば、もっともっと多くの者たちが、そなたたちの言うところの力を信じていくであろう。
だから自己限定をしないこと。自らの力を信じること。そのようなことによって、そなたたちの使命を果たすという、そういう側面が(今は)欠けておろう?違うか?
霊的なことは全てこの者(チャネラー)に任せ、自分たちは表であるという理論の中だけで、悠然としているように我には思われる。しかし、神の子が神の子であるということ。その可能性は無限であるということ。その自らの力をもっと信ぜよ。そうすれば、大いなる力が発揮されて来るであろう。
悟りというものが、難しい、難しい修行の過程の中で、蘊蓄かました、小難しい理論に囲われたものでなければ、何にも高みまでに行けないならば、それは、少しも、神理などというものは人間を自由にしないものであると、わしは思う。
悟りというものは、高くなればなるほど、自己の魂を自由にするものである。自由に、自らの神の子としての神性を表現せしめ、人々に対して、多くの愛というもの、まあ何というか、夢というものを広げて行ける、そのようなものである、と、わしは思う。
その時に、坊主と呼ばれている連中は、あれもしない、これもしない、だから一生懸命、修行して、自分を高みに(上げていくに)連れて多くの悟りを開いて、人々を、衆生を、指導しようとするかも知れないけれども、あれもしてはいけない、これもしてはいけないという思いの中で、非常に魂を不自由に縛っている様に思う。
然れども、我が思う悟りの中には、高みに昇れば昇るほどに、修行というものは、魂の中で神の子の神性を開き、自由に、この大海原のように、この宇宙の中を自由に自在に飛んで行き泳ぎ、自分の中の光を自由自在に発揮できる、その様なものが悟りであると、わしは思う。
だから、一面的な画一的なものの中だけで悟りというものを考えず、自分の中に自己限定をせず、自由に、神のもとに自らの与えられた個性というものを信じて、大いに頑張って頂きたいと、わしは思う。
わしが、大本教や、数々の中で予言したもの。それが当たったものもあれば、外れたものもあるであろう。そのようなものは、もう終わったことである。
それは、今日のことを目指し、やはり、そのことを思うための先陣として、わしは、あの時代に命を持った。然れども、今は、その本番の時を迎え、神の国の計画というものが、今、難航、座礁し、また新たな計画が立てられている。
ノストラダムスと呼ばれている世紀の大予言者においても、然りであろう。決して外れたというわけではないけれども、あの時はあの時の計画の中での未来のビジョンというものがあった。
今は、それが最終的な段階に来て、これからどの様になるか、それは、上の神々におかれても分からぬことがあるということ。だから、そなたたちは、みだりな予言は禁止されているはずである。何故ならば、上の神々であって(さえ)も分からぬことがある(からである)。
それは、それ程に、旧来の流れの中での、そなたたちの動きではないということ。その、そなたたちの頑張り、次の世代に生まれた者たちの頑張りにより、未来というものは、いくらでも塗り替えられて行くから(である)。だが、そなたたちが頑張れなければ、その先に見える未来は、語る必要はないということ。逆に言うと、未来はないということである。だからこそ、予言は、今降ろされぬ。
我が降ろした予言。それは、その時代の中で、その当時の計画、神の計画に沿うた未来をそのままに映し出したビジョンであった。それを口にすることで多くの迫害があったけれども、そなたたちに同じ思いをさせたくはない。
つまらない未来を、予言することにより、そなたたちが、本来の使命を果たさねばならぬことから、つまらぬトラブルで、エネルギーや時間を取られることを、わしも望まない。多くの神々も望んではおらぬ。
だから、あの時代と今とでは違うということ。そして、我も、今は、あのとき生を終え、この天上界に帰って来たその当初より、今も、数々の変化を乗り越え、今このような状況の中で、これから先の未来に対する願いに近いような思いで、そなたたちを見ている。
それは、我ら天上界の神々全てがそなたたちに思っている、非常に強い、切ない願いでもある。それを、そなたたちは、我らの思いを引き受け、どうか、自由に、自ら神の子としての力を発揮して、この地上最後の計画の中に邁進されて頂きたいと思う。
決して自己限定されることなかれ。地下の者たちに通じると思って、このような霊能力を全て忌み嫌うことはない。逆に、本当に正しき思いの中で、霊能力というものが使われたのであるのならば、それは多くの、数々の人を、もっと、より円滑に効率良く人々を救ったり、指導する力にもなるであろう。
そして、何よりも大事なことは、目に見えぬ世界が実在するということ。そればかりは、どんな理屈を以っても証明出来ぬ。それはやはり現象を以ってしか証明出来ぬであろう。かの高橋信次と呼ばれる方も、現象を以ってその愛の教えを説かれたからこそ、今日、以って、このような名が残られ、多くの人々に慕われている。
イエス・キリストにしても然り。モーゼにしても然り。多くの預言者、多くの救世主と呼ばれて行った者たちには、やはりその知恵ある愛の法というものに足して、加えて、その霊能力というものがあったればこそ、彼らが、巨大霊媒としての役割として、多くの神々の言葉を地上に降ろせたからこその、法の神髄というものが降りたのであると。巨大霊媒としての、天上界の援助というもの、言霊(ことだま)というものを、地上に降ろす力がなかった救世主は、一人たりと言えどもいないのである。
であるならば、霊媒的な力というものは、救世主界を以って、最上の力を以って常に兼ね備えているものであるのならば、決して、その霊能力というものを、忌み嫌う必要はないはずであろう。
霊能力から入って行っても、最後、法を学べばよいのである。霊能力を持っているからと言って異常な迫害をされた時代がある。ちょっとでも霊視が出来たり、ちょっとでも預言が出来ると、ほんと魔女と言われるような、大変な迫害を受けたのが、世の東西を問わずあったであろう。忌み嫌われ、村八分にされ、殺された者たちもいる。そのような者たちの力を、「裏」と言って忌み嫌う必要はないのである。
それは、神が元々、我々神の子たちに与えられた力である。それが中途半端に出て、教えというものが伴っていないから、霊能力ばかりが優先してしまったから、人々に薄気味悪がられ、それが、表の坊主と呼ばれていた、坊主というか、仏教徒というか、仏弟子の者たちから見たら、その様なものは、いらぬ力であるというふうに言われたかも知れないけれども、やはり、そのような力というものも、人々の中に埋め込まれ、神が与え賜うた力であるということ。
(今、これから向かう先の時代)それが、科学と宗教が統合され、完成を見る時であると言われている。物質至上主義の世界と、霊文明が合体する、総仕上げの時期であると言われている。それと同時に、神の法と、霊能力という、その霊媒の力のようなもの、それが最終的に統合されるということが打ち出される時代でもある。
それが、文明の最終的な大詰めの、最終試験と呼ばれている総合的な能力を試される、今の時という、その総仕上げの時期に、神から人類に与えられている知恵なのである。その集大成の時にあたっている。だから「卒業試験」と言うのである。その流れの中に、どれだけ、ついて来ることが出来るか。
そなたたちは、その最先端の中で、神から降ろされる叡智というものを、人々に提示していく、最先端の力の中で、今、霊言が降りて来ている。それを、どれだけ理解出来るか。
理解出来ぬ者は、「魔だ」と言う。自らの理解能力の不足を棚に上げ、自らの霊的な知覚能力を棚に上げ、この者(チャネラー)の力を魔だ、と言う。それは、自らの学習が足りぬだけ。自らの器が足りぬだけ。自らの力が、識別力が足りぬだけなのに、神よりの使者を「魔」と言う。それは、いつの時代もそうであった。イエス・キリストでも同じであった。「神の名を語るとは」、と言われた。彼は、最後、十字架にはりつけになった。
ジャンヌ・ダルクという女性もそうである。そうであろう。「神の子、私は、ミカエル大天使より指導されている」と「神により指導されている」と言っただけで、結果的に火あぶりの刑になった。そのような無理解、未熟さ、それが神の使者を最終的に死にやる過程を、今までが踏んで来たのである。
今の日本は法治国家であり、言論の自由が認められている。だから、そのように殺されることはない。そのような平和な時代に、愛の使者として、そなたたちが、神の使者として使命を果たせる時代にあることをこの道を引いてくれた者たちに感謝するべきであろう。そのために、我らが出る前に、明治維新の者たちが出て来たのである。
その明治維新の、多々ある者たちの偉業を、霊言を通して学んだであろう。その中で何が一番大事であったか。彼らが地上に行った時は、もう少し地上的な価値により評価されていた。彼らが死して我らが世界に戻って来た時は、神の国と呼ばれている世界に通ずる者だけで反省を行い、彼らの評価というものが決められて来た。
神の尺度、神の価値観で、何が一番大事なのか。時代的な英雄たちが、このように評価されるのだということを地上に降ろすことにより、神の国の尺度、価値観を、この地上の尺度、価値観として、今降ろす時代にあることを、大切なこととして今霊言を降ろしているのである。
分かるか。そなたたち、三次元の、地上の者たちが持っている価値観などは、我らが世界に、死して来ては、何も通用せぬものであるということ。そのことを思うのならば、今、神の国の価値観、尺度というもの、それを今書籍、霊言により、地上に降ろすということが、いかに、いかに重大なことであるか。
神の目によって、神の子たちを見たときに、どのように評価されるか、どのようなことが一番大切なことであるかということを、我らは、この地上の者たちに伝えるために、こうやって霊言を降ろしている。
神の国の、神の巫女として、神々の言葉を伝えられる者は、それほどたくさんはおらぬ。しかし今、我々の神々の言葉を、今伝えられる者がいる。であるならば、そなたたちは、今我々の言葉を伝えよ。そして、神の国の価値観を、神の国の目からみた尺度というものを、この地上の価値観として、尺度として、人々に伝えて行き、それが、いつかこの三次元、地上で一体化した時に、この地上は神の国になり(地球は)愛の星になるのである。
今の様な、間違った、名声や権力や支配欲や、この地上的な富とか肩書きとかそのようなものが、本当の意味で神の子としての尺度になるのか。神の子としての本来幸せなものであり、神の目から見た、評価される高き尺度になるのかと言ったら、そんなことはない、ということぐらい、もう、そなたたちは理解しているであろう。
然れども、それを知らぬ者たちがいる。その中で、つまらぬつまらぬ限定をしないこと。おなごを抱いたからといって地獄に堕ちるのなら、この出口王仁三郎などは、とうの昔に堕ちておるわ。数々の女を抱いたからといって堕ちるぐらいの、酒を飲むから霊言もとれぬ、酒を飲んだから地獄に堕ちる、そのようなつまらぬ自己限定をするものではない。
人間は、本来、もっともっと自由なのである。その動機こそが大事なのである。
神の国の価値観を、この地上に降ろすということ。そのことを以って、今後の、この地上の体制を立て直して行くのである。そなたたちは、この間から、体制を立て直して行くには、何が一番大事かということを、重ねて聞いておった。
それは、神の目から見た、神の子としての尺度、神の目から見た視点、それによる価値観が、その方向が定まったときに、教育制度も、政治体制も、憲法も、全てが、医療もそうである。そのようなものが、全て連鎖反応的に変わる時が来る。
変わる時は一瞬である。碁をさす時そうであろう。ポーンと勝った時に、瞬間的にパーンと色が変わるであろう。あれじゃ。その瞬間が来ることを、わしは願うとる。そのために今、我々は、こうやって霊言を降ろしている。
そなたたちも、なにゆえ、このような霊言が、次から次へと降りるかを、理解していないとこもあるであろうが、今そなたたちが、これから、無心に本を出していくこと、霊言を降ろして、それを文章化していくということが、後世に対する神の視点というものを、しっかりと明確に打ち出す、そのような規範として、この地上に打ち出される、そのような時が、今であるということで、そなたたちは、今の仕事に邁進されたしと思う。
地上は、決して、そんなに不自由なところではない。間違うてはならぬが、間違ったら引き返せばいい。それぐらいの太っ腹な気持ちで生きてゆけ。間違わないこと、間違わないことばかりを恐れて、ケチくさい小さな器になるな。間違ったって、いつでも帰って来られる。なぜなら、全部、神様の懐の中だから。どこに行ったって神の国さ。下に行ったって神の国。ならば、違ったと気付けば戻って来ればよい。
よいか。そうやって自分を限定し、囲って小さな中に入ってしまう方が、自らの力を引き出せず、自らを限定し、不自由にすることは、他を裁くことに繋がっていく。そのような気持ちで、多くの人々を裁いてはならぬ。
自分が自由になれぬ不幸さを噛み締めるからこそ、その怒りが、他者に対する批判に結びついて来る。それを思うならば、常に自由であれ。
常に、人生を満喫して、自己限定をせず、幸せに臨んで、何ならば神の子として出来るかと、最高に自らを出せることを最優先し、そなたたちの力を出して行けば、必ずや神は、そなたたちに、そなたたちの本来の使命というものを現したもう。
使命が現れて来て、その自らの認識したレベルに応じて使命というものを明かされて行くのだから、その認識したレベルにおいて、与えられた使命を精一杯働け。
そしたら、それを一生懸命したならば、それを通して学んだのならば、その上の認識力を以って、また更に高度な使命がそなたたちに与えられるであろう。そうやって使命というものは、徐々に徐々に上に向かって、多くの者を救済出来る使命が与えられるのである。
だから、実力を持つには、認識力を持ち、行動力を持ち、この地上で、いかに一人でも多くの者たちを幸せにすることが出来るか、行動をなすことが出来るか、そのことが最大の地上の者たちの修行であるということを、心に、肝に銘じ、自由に生きて頂きたい。
どこまで行ってもお釈迦様の手のひら、という言葉があるが、どこまで逃げたって神の手のひらである。ならば恐れることはない。どこに行っても、帰って来れぬ神の国なぞないのである。
間違えればこそ修行になり学べるのが人の道、人間である。ならば、神の子として、もっと安心して、我において如来であるならば、そなたたちだって如来を目指せ。平気で仙女たちと戯れようと、女を抱こうと、酒を飲もうと、我は如来である。そのような、神の国の自由さというものを、もっとそなたたちも学んで頂きたい。そうでなければ、多くの者たちは、ついて来ぬ。
不自由な所で、正しいことだけで清まって、排他的な考え方の中に(いる)、そんな人間に、多くの一般大衆は魅力を感じてついて来るであろうか。多くの者たちがついて来るのは、自分たちとおんなじ、痛みや悲しみや、欲望や快楽やそういうものを、全部呑み込んで、それを一緒に泣き笑いして喜んでくれる者たちにこそ、多くの人々はついて来るのである。その者が語る言葉であるからこそ多くの大衆がついて、後をついて、その人を手本に、ついて来るのであるぞ。酒も飲まぬような奴はダメじゃ。酒ぐらい飲め。女ぐらい抱け。そんなもので神の国が極められないような、ケチくさい神さんなんて捨ててしまえ。
捨てられるぞ、そなたたちは皆んな神の子じゃ。であるならもっともっと自由に生きよ。そして、もっともっと自らの力を信ぜよ。どこまで行っても神の国なんだから、神の子としての可能性を追求せよ。
そして、全生涯を、今回の稀なる計画のために、そなたたちの自由な魂を泳がせ渡る、泳がし生き抜くことで、そなたたちの使命を果たされよ。そうすれば、素晴らしき彩りに満ちた人生と共に、彩りのあるこの世界を具現化させることが出来るであろう。
墨衣だけの世界はいかん。黒と白だけの世界はいかん。神の世界は、もっともっと彩りに満ちている。もっともっと色鮮やかな、喜びや楽しみに満ちている。
我は今、マヌ神と呼ばれている方が出られていることを喜んでいる。非常に自由な方である。そのような方でも九次元におられるということ。我が言葉より、もっともっと説得力があろうが。しかし、あのような神が、今、通信を送っておられるということを、我は、非常に喜んでいる。そのように、今、地球的な意味で、総合的な集大成の時期だ、ということを肝に銘じ、そなたたちは、これからの使命を果たして行かれたい。
この世界に、我々が世界(霊界)に、そなたたちが使命を終えて帰って来られたら、どうか、酒を一献傾けよう。そして、地上の土産話を我に話して頂きたい。地上にも、いい女がたくさんおるが、天上界にも、いい女がごまんとおるから、われが、美しい仙女を紹介しようと思う。
いいぞ、仙女は。かわいいぞ。いいぞお、おなごは。もっと、おなごの力を信ぜよ。このおなご(チャネラー?)も、なかなかいいので、わしも口説こうと思っとるが、言うことを聞かぬ。
今は、非常に多くの神々が見られているので、いらぬことは申せぬ。品の悪いことは申せぬので、少し真面目な話をしたつもりである。そなたたちは見えぬであろう。ものすごい数の神々が、今この場に、おられるということ。次の神に道を譲り、われは今日、これにて失礼しようと思う。
(次の回)
国常立之神がお出になられ、そなたたちにとっては、余りある名誉の中で、霊言を受けることが出来たことを幸せに思うがよいぞ。ついでに、わしも出て来た。そなたたちに祝福しようと思って出て来たのじゃ。
わしの世界の中で、最高位にあられる神であられるということ。その方の指導を受けられるということがどれだけ幸せなことであるか、そなたたちは本当に分かっておるかのう?
わしが出て来ただけでも、そなたたちは、目が潰れんがばかりの栄誉に浴しているということを、分かっておらぬようだが、どうやら、ここではあまり歓迎されないのであるが、わしは他の所に行くと、大人気な指導霊である、神様であるということを、そなたたちももう少し、ちと理解しなくてはいかんぞよ。
そなたたちが負っているこの使命というものが、これから、やっと具体化して行くということ。今までは時を待っていたということ。それゆえに我らは長いこと待たされていた。荒神一同、最初の頃、あいさつに出たことはあれども、そなたたちに、このように指導を直接する段階に来てはいなかったから、あまり長いことしゃべることは許されなかったのである。
しかし、喜ばしきことに、無事に幾多の霊言が降り、法の中核が降りて、そなたたちが具体的な行動をする段階に来たので、そなたたちの使命がやっと我らが指導のもとに回って来たということ。そのことを、我はとてもうれしく思い、国常立之神と共に喜んでいる。
そなたたちは、見ていると、あまりにも自己限定が多いということを、わしは思う。何をそんなに恐れておるのだ。なんと言われようとよいではないか。女好きと言われようと、酒飲みと言われようと、わしのような素晴らしい境地に達している者もいるのである。
そうやって、「女に触ったから地獄に堕ちる」とか、「酒を飲んだから道を迷う」とか、そのような、つまらないものを考えるから、本当の意昧での、大きな器の仕事が出来ないのである。
大物という者は、つまらないことは詮索せず、大きな、大目標だけに焦点を据えて、自ら研鑽したことを命懸けでやる者のことを言うのだぞ。そなたたちの中で、そのような大きな器の者が、どれほどおるかのう。おなごが好きでなけりや、この世は、少しも楽しくない。酒も飲めなければ喜びも半減するであろう。そういうものを、全ての活力と変えて、そなたたちは命懸けになってこの使命を果たしていく。その位の度胸と大らかさを持て。
先ほど、国常立之神が言われたようなそなたたちの使命というもの、それを繰り返す気は毛頭ないが、わしは、そなたたちに「もっと大物として、器の大きな、魅力的な男として輝け」と言いたいんじゃ。
おなごがキャーキャー騒がんような男で、どうする?酒の一杯や二杯、一升瓶の一本ぐらい飲めないで、どうする?そんなことで地獄に堕ちるなどと思ってるような輩がいるからこの地上でろくな仕事が出来ぬのじゃ。そのようなことを言うから、わしは「裏に行っとけ」とか言われてしまうのじゃがな。だけども、そのような力も必要だということじゃ。
それが、そなたたちの心の垣根を取り払い、鎖を取り払って、そなたたちの魂の中にある本質的な力を開花する。そのような力となって行く、そのような突破口となって行く、ということを、わしは言いたいのじゃ。
自己限定がある限り、自分はこうあるべし、これは出来ないと思っている限りは、本当にその力を使いこなすことは出来ぬ。そこに、ひょっとしたら素晴らしい力が宿っている、かも知れんぞ。だが、それが出来ないと決めてしまったら、永久に出来ないのじゃ。
あらゆる方向の扉を、開けておけ。あらゆる自分に対する可能性を開けておけ。そして、ひるむことなく、そして失敗を恐れることなく、それを味わいながら楽しみながら仕事をして行くのじゃ。
大きな目標さえ、自分が何をしなければいけないかさえわかっていれば、そなたたちが、道を誤ることはなかろう。数々の失敗があるが、あまりにも細かいことに、教条主義的なことにこだわり過ぎて、人間としての大らかさを、神の子としての愛の深さという素晴らしさを、寛容さを見失ったときに、釈迦教団は堕ちて行ったのではなかろうか。
自らを偉しとし、知天狗になったということはそういうこと。知だけが全ての上に立ち、知の階段を登ることだけが全ての悟りの、究極の唯一の道である、と驕り高ぶったとき、人は大らかさを失くす。縛りを一杯付け、自らのあらゆる可能性を、自己限定の鎖で縛り上げてしまう。
だから、皆が、同じような型通りのやり方でしか、修行という形態の中で悟りを上がっては行けぬ。だが(本当は)あらゆる道があるということ。その個性の分だけ、あらゆる階段があり道があるということを、そなたたちが理解するのなら、いくらでも道は開かれようぞ。
魔が来ても、こっちから捕まえようと思ったら、あちらからするり、あっちから捕まえようとしたら、こちらからぬらり、そのように出てみよ。それ位の変幻自在の思いを持ってみよ。そうすれば、そなたたちは、いくらでも魔に引き倒されることはない(ように出来るだろう)。
あまりにも頑なであり、あまりにも一本気であり、あまりにも一つの方向性しかなく、その中に柔軟性を持たなかったが故に、釈迦教団の、今回の救世事業は倒れたのである。
もっと大らかに、もっと寛容さを持って、人の数分だけ可能性があり、人の数分だけ素晴らしさがある。入り口がある。自らもそうである、と思うのならば、人に対する裁き心もなくなるであろう。
裏神であるとか、表であるとか、仏教系であるとか、キリスト教系であるとか、はたまた男が優秀であり、おなごは優秀でないとか、そんなつまらぬものに何ゆえに縛られるかというと、登り口が一つしかないから、一つの方向しかないから、そなたたちは自己限定をするのである。
だけれども、ここにいて自らの蓄えて来た力を発揮せねば、今まで何ゆえの修行であったかということも言えるであろう。
この者も、そして同時に来た者たちも、自らの力を限定することなく、恐れることなく、自分の力を出して行きなさい。そのような力で神の恩に報いる道もあるということ。この救世の事業に役立つ、力も扉もあるということ。
それを、自分の全ての可能性を受け入れ、認め、そして許して、自らの弱さも共に許してそれを受け入れるということ。それでこそ、トータルな力で、神のために使命を果たすことが出来るという、その大らかさを、そなたたちは学ばねばならぬ。
今回のことを見ていると、やはり大らかさというか、寛容さがないが故に、このような、窮屈な思いが出て来ている。裁き心が出て来ている。
今回、裁いて行った者たちの心を見よ。やはり知により、仏陀光線のような者、法だけの道しか道がないという、そのような思いに縛られているから、他の価値観を、表現を受け入れられないのであろう?
そんな狭い、ケツの穴の小さい男でどうするのじゃ。男たちが力を合わせて、本当の意味で、地球規模の救世の大事業をするということ。そのことを、そなたたちは心に決めよ。それでこそ男じゃろう。それでこそ、男としての本懐というものがあるのだ。
そなたたちの中に、大らかな、海より広い、山より大きい、空のように広大な、その様な、大きな器の磊落な気持ちというものを持てば、その心の広さの中に、全人類の弱さも悲しさも喜びも、包み込むことが出来るであろう。受け入れることが出来るであろう。
自ら狭い器の者は、他者の喜びや、悲しみや、喜びを受け入れる余裕がどこにあるのだ。本当の意味での大らかさというものは、愛の深さであり広さであるということ。それを学ばねばならぬ。それが分からないようでは、そなたたちの中には悟りはない。悟りから程遠いということ。
そなたたちの気持ちの中に迷いがあるということは、まだまだ、自らが思う、信仰とか、神という形態について、こうあらねばならぬという思いが強いから、わしのように、仙女にキャーキャーされるような者が出て来て、そなたたちよりも、よっぽど霊格の高い所にいる者として、こうやって天上界でものさばって居られるということをもう一度考えよ。
小さなことで自己限定している坊さんたちのことを思うと、人生を何も楽しんでおらぬ、この、神がお創りになった、この宇宙の素晴らしさを、少しも味わっておらぬ者たち、であると、不潤に思うのである。
神の国は素晴らしい。この宇宙は素晴らしい。それを味おうて、味おうて、味わい尽くそうではないか。
神の世界の素晴らしさは、尽きることなく、おなごの美しさも尽きることなく、わしは、今回、日本神道だけではないおなごがいるということを知って、すっかりファンになったのだが。
仙女たちも美しいが、金髪の女もいいぞ。日本酒も旨いが、たまには赤ワインもいいぞ。わしにも注げ。
そなたたちの中で、味おうている美しさ、味おうている多様さというものを、もっともっと前面から受け入れ、赤ワインを飲んでいる者たちも祝福出来るような男でなくて、どうするのじゃ。そうであろう?
黒髪の女も美しいが、金髪の女も美しいと思うことにロマンというものがある。神はなぜこのように素晴らしい幾多の女性たちを創りたもうたか?
そのような女性を、味わうということかも知れぬ。そのようなものを通して、数々の美しいロマンスと出会って、素晴らしい、男としての仕事をしろということかも知れぬ。違うという声もあるが、だが、わしは、それを活力として仕事をして行きたいぞ。モテて何が悪い。そなたたちも、その位の気概を持て。
僧侶たちは、どうも、おなごに触るとそれだけで地獄まっしぐらと思うようだが、そんなことは少しもない。おなごの美しさを味わわなくて、何が、おなごを愛するという、愛というものを語ることが出来ようぞ。酒の美味しさを味わわなくて人生の喜びを語る資格があるか。
まあ、わしの言うことは、ちと、ちょっと極端なのは知っておるが、だがその位の気持ちで行け。そんなことを言うわしが下に堕ちてはおらぬということ。それを見、聞いただけで、そなたたちは、相当、安心したのであろう。しないか?
わしでも下には堕ちてはおらぬということ。堕ちるのは、逆に、間違わないように、間違わないように、一生懸命、隠れた所で自分の欲望を募らせた、高位高官の僧侶たちの方が下に堕ちておるのだぞ。
一見、大僧正と呼ばれて、一見素晴らしい僧侶であると、仏弟子であると言われて、裏にドロドロの思いをため込んで、醜い思いを膨らませてしまった、そのような鬱積した思いで、下に引きずり降ろされている元宗教家というのが、どれだけ多いことか。
不自然な形で、自らを「宗教の指導者とはこうあるべし」と思って、自らを縛りつけた、その結果の反作用で、逆に宗教家が下に堕ちる場合も多いのである。
当たり前のことは当たり前として楽しむ。神の世界の美しさを、多様さを味おうてこそ、この地上を幸せにする機会もあるということ。
一般庶民の者たちが、女を恋い慕い、男を恋い慕い、酒を飲み、おいしいものを食べ、共に家庭生活をしていく。そして、美しい音色の音楽に聞き惚れ、美しい芝居や、大自然の中で、喜んで遊んで戯れる子供の姿に感動する。そういう姿を理解出来なくて、そういうものを共感出来なくて、どうやって、衆生の心をつかみ、多くの神の子たちを幸せにする方法論を考えつくというのじゃ。
自分だけが悟りすませ、自分だけは問違いのないように、自分だけは堕ちないようにという思いが、清まり過ぎた潔癖さというものを作って、一般衆生は男女まみえるが、自分だけはまみえず、自分だけは堕ちないという、自分たちだけは高い所に、一段上の境地で、他の衆生たちを指導してやらねばならぬという思いそのものに、もう既に、驕り高ぶりがあるということ。
みんなと一緒の思いの中で、分かち合い、共感し合い、彼らが望む、衆生たちが喜ぶその喜びを、本当に味わってこそ、分かち合い、共に彼らが幸せになる手立ての中で、使命を果たすことが出来るのだ。彼らを幸せにして行く道も考えつくというものじゃ。
自分だけが安全な所に居て、他の者たちが不幸になることより、自分だけが安全になることを思っていて、神の使者としての使命なんぞ、仕事の場所なぞはないということ。それを、わしは、極端な形かも知れぬが、こういう形で、そなたたちに見せている。
だから、わしのような者が、このような、ふざけたことを言う者が、下には堕ちていないということ。そのことを思ったのなら、そなたたちは、わしに比べたらまだまだ放縦生活はしてはおらんであろう。だったらば、喜んで前面から受け入れ、自分を許し受け入れ、そして、多くの人々を幸せにして行く活力とせよ。
そして、そなたたちが味おうた、その人間の、煩悩としての力をもって、多くの者たちが本当に幸せになるには、どのような道が一番幸せなのかということを、彼らと共に、手を取りおうて考えて行きなさい。それこそが本当に人を救うということ。神の子を幸せにして行く、救世の事業の担い手となれるということ。わしはそう思うぞ。
だから、これからも、わしを呼んでほしい。もう嫌がらずに、悪さはせぬから呼んでほしい。そなたたちの中で、わしも、このように酒を一献傾けさせて頂きたいと思う。
今まで、竜馬と一緒に飲んでばっかりいて、時を待っていたのだが、竜馬もやにわに人気が出て来て、本なぞ出してもらうようなことを言っておったが、わしの本は出ぬかなあ?
これから、いくらでも、連載で、出口王仁三郎霊示集、以前は出してもらって、なかなか人気があったであろう。わしも、これからは連続して出て、新版で霊言集を一冊、出してもらってもかまわん。いくらでも協力しよう。だから呼んでほしいと思う。
我ら裏神道、荒神一同、そなたたちの成功を、これからの仕事の門出を祝い、今日は参上した。では、そなたたちと一緒に乾杯をしよう。そなたたち、頑張ってほしい、そなたには。乾杯。頑張ってほしい。うまい酒と、いい女はいいのう。では、わしは、これにて失礼しよう。
(2005.4)
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