アセンション アシスト ASーAS

地球とは、本当はどういう所でしょうか、情報を集め、知っていくページです。

転生輪廻と意識の進化、スウェーデンボルグのメッセージ

2018年11月30日 | 精神世界
これは、今から30年ほど前に、あるチャネラーに語られた、スウェーデンボルグと言われた方のメッセージです。ご自分の過去世をも踏まえ、エネルギー体としての魂の真実について語られています。


(ここから)

スウェーデンボルグです。ここでは、いわゆる転生輪廻について、話をしておきたいと思います。

キリスト教においては、この転生輪廻という考え方が確立しておりません。この点では、大変、物足りない所があると思います。私は、この事についても、色々と考えてみたのですが、なぜ、転生輪廻という考えが、キリスト教に根付かなかったのか、それを考えてみると、やはり、霊的輪廻の仕組み、そのものが、かなり難解であった、という事も、挙げられるのではないかと思います。

仏教の系統では、転生輪廻は、非常にはっきりしておりますが、それとても、個体的な魂があって、それが単純に生まれ変わる様に説かれていると思いますが、それ自体は、真実ではありません。

霊的な、生まれ変わりの法則は、もう少し複雑で混み入っております。この意味において、イエスは、その、真実の、霊的生まれ変わりの真相を知った時に、これは、(仏教で言われる、同じ魂が繰り返し転生する様な)単なる個体の転生輪廻、という様には捉えなかったのではないか、その様に思っていたふしが、あると感じられるのです。

即ち、イエスは、霊界の在り方を見、霊的世界の法則を見るにつけても、転生輪廻が、単純な転生輪廻ではなくて、様々な霊から色々な個性が創り出されてゆくシステムを見ていたのではないか、と思われるのです。

特に、イエスが所属している世界(宇宙界)や、或いは、その近くにある如来界などを見てみれば、地上的肉体に宿る魂は、大きな(或る一つの個性としての)エネルギー(全体)から見れば、ほんの一部にしか過ぎない、という面が、非常に強くなっています。

こういう意味で、ごく一部が地上に出る、という観点から見た際に、単純な転生輪廻を唱えることは出来ないと、イエスは感じたのではないか、と思えるのです。かといって、そうした大きなエネルギー体があって、その一部が肉体に宿って、また(霊界=エネルギー体に、)還って来る、という様な考え方、こういう考え方が、その当時の人々に受け入れられたか、と言えば、これもまた、極めて難しい考えであったと思います。

ただ、思想として、転生輪廻を明確には言ってはいないけれども、その言葉の端々に、人間は実在界(霊界)から地上に生まれ、また実在界に還るものだ、という思想は、明らかにしていた、そう思えるのです。

「アブラハムの生まれる前より、自分が存在する」といった考え方や、例えば、バプテスマのヨハネ、私の過去世の姿でもありますが、このバプテスマのヨハネを称して、「エリヤは、既に来たるなり。」という事を語ったこともあります。

それは、私を、バプテスマのヨハネを、エリヤ、過去世の預言者であるエリヤに、なぞらえて、話をした訳です。エリヤは、必ず、また再臨する、という予言がありました。火の車に乗って天上界に昇ったエリヤは、もう一度、地上に下って来る、という噂が、信憑性のあるものとして、当時、語り継がれていたのです。

それゆえに、「エリヤは既に来たるなり。」と、こういう事を言ったのだと思います。この背景には、もう一つの事情があります。それは、イエス・キリスト自体を、エリヤの再来ではないか、という噂が、かなりあったのです。エリヤの再来ではないか、という噂があった、という事、自体、過去世に肉体を持ったエリヤという人が、もう一度、地上に生まれ変わって来る、という事が、あり得る、と、当時の人に信じられていた、という証拠にもなりましょう。

ただ、イエスは、それを明確に否定し、自分は、そういう者ではない、エリヤは既に来たのだ(と言い)そして、バプテスマのヨハネをエリヤの如く言った、という事になりましよう。これは、恐らく、額面通り取るのではなくて、エリヤの様な役割を果たす預言者、という意味に取ればよいと思います。

そういう意味付けと同時に、自分自身が、エリヤではなくて、もっと大いなるもの、である事、救世主である事を語ったのだ、と思えるのです。

さて、実際に、転生輪廻という事が、どの様に為されているのか、それは、誠に、誠に不思議な事実である、と思えます。私達は、現実に、何度も何度も、地上に生まれ変わって来る、わけなのですが、その生まれ変わりは、実は、次の様な仕組みになっている、と言ってよいでしょう。

公園に行くと、あれは、何という名で呼べばよいのか、分かりませんが、観覧車とでも言いましょうか、二人乗りの椅子の様な物があって、それが円形状になって、上に昇り、下に降りて来るという、そうした物が、客を載せて回転している、こういう遊戯施設が、遊園地には、よくあります。子供も喜ぶし、カップルがよく乗っているものです。こういう物を、頭の中で(思い)描いて下さい。

そして、この設備そのものを、一個と、考えて頂きたいのです。観覧車の一つの客車を見ていると、それは、上に上がり、円を描いて、また地上に降りて来ます。この一番下に降りて来た時、地上に降りて来た時、ここに、地上から、例えば、一メートルなら一メートルの高さまで、プールを作って水が張ってある、としましょう。(この水の中が地上世界という例え)

そうすると、どういう事になるか。ちょうど、水車を回すのと同じ原理が、ここでも働いて来るわけです。お分かりでしょうか。この観覧車が、水車の如くなって、客車が順番に回って来ます。そして、一つのものが、水の中に入って、そして、また出て来ます。そして、次のものが入って出て来る。この、水に入った(状態の)一つの客車の事を、これを、(ここで例えて)肉体、というふうに呼んでも、よいのではないか、と思います。

即ち、私達の(個性の)トータルな意識体、或いは、エネルギー体と称すべきものは、かなり大きなものなのです。そして、ちょうど、地上に出て来る部分が、この一部分、一つの客車、一つの座席、にしか過ぎないのです。そして、その(過去の)経験を、また、まといながら、出て来る形になるのです。

この比喩で、一つという、或いは、一人という意味が、理解できるでしょうか。

或いは、また別な説明をしてもよいでしょう。遊園地の例を引くならば、コーヒー・カップの様な、そういう乗り物があるでしょう。コーヒー・カップの乗り物が幾つもあって、これも、また、子供とか、カップルとかが乗っています。

そして、大きな円盤の上で、コーヒー・カップが、くるくると回転しながら動いています。そして、何個かの、コーヒー・カップの大きな物があるわけですが、この、それぞれを一個と見るか、それとも、その設備全体を一個と見るか、(人間の大本の意識全体と転生時の意識との関係とは)そういう事なのです。

ところが、そのコーヒー・カップの遊戯施設を見ている人が居ますが、その見ている人は、目の前に、一つの双眼鏡、或いは、覗き窓、覗きレンズの様な物があって、それが固定されているとしましょう。そして、その固定された物から見なければいけない。

この比喩が分らなければ、また、別の比喩を言いましょう。ある観察者が居て、この、コーヒー・カップの遊戯施設を見ているけれども、彼の前に、大木があります。その大木は虫が喰ったか、或いは、カッコーがつついたのか、一つの穴が開いています。この穴を通して、しか、彼はこのコーヒー・カップの施設を覗くことが出来ない、と致しましょう。

そして、その穴から覗いてみると、常に、コーヒー・カップは、一つにしか見えないのです。カップは次々に回って行くのですが、一つにしか見えない。ただ、カップの色は、青に見えたり、黄色に見えたり、赤に見えたり、色んな色に塗ってあります。乗っている人も、違う様にも見えるし、同じ人の様にも見えます。そういうものです。

一つの木の節の穴からは、一つのカップしか見えない様な、位置関係である。こういう穴から観察していて、そして、転生輪廻(における一つ一つの転生の体験)が、見られている、こう考えてもよいのです。この様に一個しか見えない。

なぜ、一個しか見えないか、と言うと、この、木の穴を通して見る、という事が、地上的に考える、という事に相当するのです。地上から見て、人間の魂を考える場合は、この木の穴を通して見ているのと同じです。その視界が十分でない為に、そこに入るカップが、一つしか見えないのです。他のカップが見えません。その様になっているのです。

或いは、同じく、遊園地の比喩を引くならば、馬ですね、回転木馬の様な物があるでしょう。子供が跨れば、その馬が、やはりコーヒー・カップの遊び道具と同じで回転しています。そして、馬が上がったり下がったり上がったり下がったり、して行くと、他の馬が回っています。

これを、今言った、木の節の穴から覗いていたら、どの様に見えるか、という事ですが、馬が何頭か居るのか、一頭しか居ないのか、これは分かりません。目の前を通り過ぎて行くのは、いつも一頭です。これしか見えないのです。そして、同じ(馬の)様にも見える、違う様にも見える、そういうものです。およそ、地上界における魂の認識は、これ以上に出ることはない、と考えて頂ければよいのです。

私達が、一という数字、一つ、と言う数字で認識し得る物は、実は、自分の身体に相応する様な姿をしている物を、一つ、と言います。ただ、自分の身体から判断して、一つと見えない様な存在もある事を、知らねばなりません。

例えば、私達人間は、そこそこの大きさがあるがゆえに、タコという生き物を見た時に、それが一匹である、という事が分かります。ところが、海岸に打ち上げられたタコ、これを、たまたま海岸を這っている一匹の虫から見たら、或いは、これを限定して、蟻と言ってよいでしょう、砂浜を這う蟻がおりますが、蟻の目で、タコを見たら、どう見えるか、という事です。それが果たして、一匹に見えるかどうか、ですね。

こうして見ると、タコの足の一本一本は、恐らく、蟻にとっては、別個の生き物の様に見えるはずです。そして、タコの胴体は胴体で、また一つの、大きな、うず高く盛り上がった、山の様に見えるでしょう。この様に、自分の身体が、蟻の様なものであれば、タコを見ても、一つには見えず、複数に見えます。

ところが、人間の様な身体であれば、タコを見れば、それが一つに見えます。およそ、こういうものだと考えて下さい。

認識の次元では、物事は、全て相対的です。相対的に見える様に、なっているのです。ですから、もし、魂について、真剣に考えるとしても、これは、地上人には、そういう認識のずれがある、という事を、言っておきたいわけです。

こうしてみると、本当の意味での転生輪廻は、大きな意識体の(ほんの)一部が、地上に生まれ変わって(出て)来ている、という事でよいのです。もし、タコの足の、それぞれに、目があり、口があり、鼻があったとしたら、そして、それぞれの足で考えることが出来るとしたら、皆さんは、どう感じられますか。

それぞれの足は、自分は、全く別個の生き物だと、恐らく思うことでしょう。隣の足を認識しても、これは違う足だと、思いませんでしょうか。ところが、このタコの、足についた目は、前しか見えません。後ろが見えない為に、自分が、他の足とくっ付いている事が、分らないでいるのです。そして、隣の足とは、別個の生き物だと思い易いのです。

ところが、時々、この足も、無理やり、ねじ曲げられて、そして、胴体の上に放り上げられてみると、自分の姿が、実は、胴体を中心にして、八本の足が出ている、という事を知らされ、驚くことになります。

こういうふうな図式を、考えてください。即ち、人間の魂は、単体でもあると同時に、複合体でもある、そういう姿なのです。こう考えざるを得ません。ですから、本当は、自分自身と言われているものの中に、幾種類かの、個性があるのです。私自身、例えば、日本に生まれた時に、源信という名で呼ばれた事がありますし、イスラエルの地で、バプテスマのヨハネと呼ばれた事もあります。

それ以前でも、ある種の預言者として名前が出された事もあります。或いは、過去、全く違った土地に生まれた事もあります。そうした過去の歴史が、私にはある訳ですが、その、それぞれの個性は、今言った、考える事が出来、目も鼻も口もある、タコの足の様に、お互いを別個のものとして認識する事も出来るし、同一のものとして認識する事も出来る。こういう認識の過程が、採られているのです。

さて、これで、ある程度は、分かって頂けたのではないかと思います。ただ複雑な事は、タコの例を引いて話をしても、それで十分でない所が難しいのです。タコは、あくまでも肉体を持った、三次元的、立体的存在ですが、異次元的タコというのは、どうなるか、と言うと、これが、必ずしも、物理的に、物質的にくっ付いたものではない、という事なのです。

これが、離れた空間に存在しておりながら、同時に一体である、という認識が可能なのです。例えば、一本の手は、全く違った世界に住んでいる。ある種の手は、足と言ってもよいですが、タコの足は、六次元という所に存在し、別種の足は、五次元に、また、もう一つの足は、七次元に存在する、という事があり得る、という事なのです。

この認識は、極めて難しい事です。別のものでありながら同一である、という考え方。そして、それを、空間的視点を離して、空間的にも、別、時間的にも別な様に見えながら、同時に、時空間を超えて一つである、という、統一認識が出来る、という事。これは、かなり、高度で難しい事であると思います。

それは、別な例えで言えば、同姓同名の人、戸籍上、同じ名前の人が何名かいる、という様に考えても良いかも知れません。何名か居て、そして、色んな所で活躍しているのだ、と比喩しても良いかも知れません。ところが、その人の名を呼んだら、全員が「ハーイ」と答えて集まって来る。こういう事で言っても良いでしょう。

双子、三つ子と、色々ありますが、六つ子というのが、もし居たとして、全員に同じ名前をつけてやったとします。太郎という名前をつけてあったとする。ある者は、公園に行き、ある者は畑に行き、ある者は川に行き、ある者は学校に行き、色々しているでしょうが、町内放送で「太郎ちゃん、ご両親が心配しているから、早く家に帰りなさい。」と呼びかけたとすると、太郎は、全員、集まって来るわけです。

太郎という名において一致している。こういう事ですね。これは、霊的に、どういう事になるかと言うと、魂の成り立ちの時に、その製造の段階で、もともと、一つのものから出来ているが、現在、違った形で、魂修行している、というふうに言ってよい、かも知れません。

この様な、不思議な転生輪廻の話が出来る様になったのは、ごくごく最近です。それも、現代という時代であるから、多少、こういう話が出来る訳ですが、少し前、数百、数千年前であれば、こんな話は、とても無理であったと、私は思うのです。

敢えて、こういう転生輪廻の話をする位ならば、人間は、あの世から生まれ変わって、そして、この世で素晴らしい人生を生きれば、天国へ、そうでない人生を生きれば、地獄に堕ちる、そう(単純に)教えても、よいのではないか。私は、その様に思うのです。

こうして見ると、結局、物事は、全て、その(認識の)段階と、その(話を聞く人の置かれた)環境に合わせて、説かれねばならないのだ、という感が、深くなって参ります。転生輪廻の法則については、今は、その様な比喩で言っていますが、やがて、もう少し時代が進めば、もっと違った説明をする事が可能なのではないか、私は、その様にも考えます。

ちょうど、この地球という環境の中に住んでいる人間の魂は、幾つかの覗き窓から外を見ている、海底探査艇にも似ています。海の底に降りて行く船、海洋調査船みたいなものがあるでしょう。それは、上からロープで吊り下げられて、そして、その中に入った人が、色んな窓から、外の世界を見ているでしょう。

この窓に、色んな番号がふってあります。一番の窓から見た、外の世界、二番の窓から見た、外の世界、三番の窓、四番の窓、五番の窓から、こういう窓があって、それで、ぐるりと、世界を見ている。こういう世界を考えて下さい。

そして、この海底調査船の中に座っている人、乗組員が、あなたの実体(霊体)だと思って下さい。あなたの実体は、外に、海水の中に直接出ることはないが、窓を通して、外の世界を知る事が出来る。外の世界と接しているのは、まさしく、そのガラス窓である。こういう事ですね。そのガラス窓の事を、ある時は、ヨハネといい、ある時は、源信といい、ある時は、スウェーデンボルグという、この様に呼んでいるのです。

即ち、神が創られた、この三次元世界を知る為に、その世界を見、感じ取るという事の為に、窓を造る必要がある。この窓が、実は、それぞれの時代に生まれ変わる肉体だ、という事になります。肉体を持つことによって、外を見る窓が出来るのと同じ、だという事ですね。

そして、神の世界を知る為には、時代を変え、環境を変えて、窓を造らないと分からないのです。ちょうど、一番の窓から二番の窓に目を移す間に、一瞬の時間が掛かります。この時間が、神の目から見れば、転生輪廻の時間です。この一瞬が、三百年であったり、五百年であったりします。そして、二番の窓から三番の窓に目が移ります。この間も、また数百年掛かったりします。

こういうふうに、色んな窓から、ぐるりを見渡して、初めて、その宇宙、そして、地球というものが分かって来る、こういうものなのです。この比喩で、多少は、お分かりでしょうか。それが私達の(霊としての真の)姿なのです。

さて、さらに話をして行きたいと思います。それでは、転生輪廻の仕組みがあるという事は、おぼろげながら分かったとして、なにゆえに、そうした複雑なシステムが作られたのか。どうして、そうしなければいけないのか。むしろ、もっと簡単な、転生輪廻、単に、単体としての魂が、繰り返し、繰り返し、生まれ変わって来れば、それでよいではないか。そういう考えがあると思います。

そうでなくて、なぜ、その様な複合的な姿となっているか、この疑問に、私は答えねばならないと思います。これに答える際に、まず、別の意見から言っておけば、確かに、単体としての魂もある。これは事実としてあるが、その進化レベルは、まだ低い、という様に、一般に見られている、と考えて下さい。進歩レベルは低い。

なぜならば、自分の、この体積、容積、この姿でもってしか、自己認識が出来ない、という事は、かなり霊的意識レベルとしては低い、と言わざるを得ないのです。

ところが、この霊的意識が、進歩する、進化するという事は、どういう事だか、皆さんは、お分かりでしょうか。例えば、今、海中探査艇の事を話しましたが、この海中の、水中艇の窓が、もし、一つしか開いていなかったら、どうですか。前方にだけ窓があって、あとは、厚い鉄の船体となって、外が見えない様になっていた、としたら、全く視界が利きません。前方だけしか見えないのですから、下をぶつける事もありますし、他の物に当たる事もあるでしょう。前に障害物があるかどうか、だけしか、見えないわけです。

ところが、側面に窓があれば、どうでしょうか。色々な物が見えます。或いは、下に窓があれば、どうでしょうか。船底の下の様子が見えます。上にも開いていれば、海面まで、どれほどあるか判ります。

この様に、色々な窓があった方が、多様な認識が出来ます。そして、それは、真実の世界を、より分かり易くする、という意味を持っています。この結果、どうなるかと言うと、多くの情報が与えられる事によって、深く知るという事が、出来る様になります。深く知るという事は、どういう事かと言うと、それだけ、神の世界を探検し得た、という事であり、魂の悦びも大きい、という事になりましょう。

ですから、単体として、霊魂が生まれ変わっている、という事は、前に、窓が一つしかない、そういう水中艇の様に思えばよい、という事です。それは、一番、基本的な形ではあるが、進化した姿ではない。

こうして見ると、自己が拡大する意欲を、経験することが出来る、という事ですね。考えてみれば、人間には手が二本ありますが、この手が一本だったら、どうでしょうか、という考えでもあります。

胸から一本の手が生えているだけでも、それで物をつかんで食べる事は、恐らく出来たはずです。しかし、二本あります。足も二本あります。勿論、逆の考えもあって、数が多ければよいのか、という人も、いるでしょうが、人間の、人体との比率で、二本が都合がよい、という事になっているのでしょう。

もっと大きな身体であれば、どうか、という事ですが、私は、本数が増えると思います。もし、人間の身体が四つん這いであって、その長さが、五メートルもあったとしたら、恐らく、手二本、足二本では、役に立たないはずです。五メートルもの身体を支えて、そして、あっちに曲がりこっちに曲がり、する為には、もっと多くの足がいるでしょう。

立ち上がるにしても、本当に背が高い人間であれば、多分、手が二本だけでは、足りないかも知れません。こうした、色々な要素を考えて、創っているのです。

現実に、私が見て来た、宇宙人の姿を挙げますと、宇宙人の中には、手が四本、足が二本あるものがいます。合計六本というのが、結構いるのです。そして、上の二本の手は、食事をしたりする様な、そういう高級な仕事の為に使われており、真ん中にある二本が、様々な雑用をやっている、こういう事があります。それはそれで便利なものです。

また、人間の目は、前に二つ付いていますが、これは、本当ならば、非常に危険な姿です。目が前に二個しかない、というのは、横、及び、後ろに対して、全く無防備となります。従って、常に、後ろから襲いかかられる危険のある世界では、こういう姿は、して居られませんから、後ろにも目が必要となって来ます。そういう世界もあります。

そうすると、こういう、後ろに目がある人間の感じる映像は、どういう映像であるか、推測がつくでしょうか。通常の人間が見える世界は、広く見えて、せいぜい、百八十度、実際は百二十度位の角度までしか見えない事は、お分かりだと思います。

ところが、後ろに目がある、という事は、三百六十度見える、という事ですね。こうすると、どう見えるか、という事ですが、結局、プラネタリウムか何かに映っている様な、立体的な世界が常に見える、という事になりましょう。

これはこれで、非常に進歩した姿であって、素晴らしい事でもあるのです。もっと言えば、実際、人間の身体が、さらに大きくなった場合だと、目は、足の方にもなければ困る様になるでしょう。人間の身長が、十メートル、二十メートル、或いは、それ以上になったら、目は、遠くの物を見るには役に立ちますが、足の周りにある危険物が、見えなくなりますから、足の方にも、目があった方が便利になります。こういう認識も可能なはずです。

こんな比喩を使って、私は、一体、何を語りたいのか、解るでしょうか。それは、実は、霊的進歩というものは、多様な認識力と、高度な認識力という、二つの認識力の要素を、内に秘めている、という事なのです。こういう内容があって、初めて、霊的に進化して行くのです。よく分かり過ぎて、困る事は全くないのです。

その意味で、(進化というものの為の方向性としては)単体として、転生輪廻するのではなく、大いなる複合体を目指して行くのです。それが、本当の進化の過程だからです。こうして見ると、高次元霊ほど、複合的存在形態を取っておりますし、多様な認識が可能です。そして、神になればどうか、と言うと、全ての宇宙の生命をも育んでいる、取り入れている、繋がっている、という事になって来るのではないか、と思われます。

これが、私達の霊的世界の真相です。こうして見ると、転生輪廻は、実は、様々な経験を経、そして、神の世界を、色々な時系列の中で、色々な場所の中で、見る為に出された、目であり、足であり、手であり、そして窓でもある、というふうに言えるのではないか、と思います。そうすることによって、魂そのものが拡大して行く悦びを、感じ取っているのです。

以上で、転生輪廻の仕組みについて、お話をして来た訳ですが、この考え方自体は、かなり難しい所があると思います。それゆえに、素朴に、一般の方に話をするとするならば、やはり、人間は、生まれ変わって来るのだ、色んな時代や地域を変えて生まれ変わって、様々な魂経験をするのだ、そう言っておいてよいと思います。

この、魂の複合性や多様性を認識する事、自体は、実は、実在界(霊界)での学習になっている訳ですから、ここに、実在界での学習を、そう先取りする必要もない、のではないか、と思います。敢えて、言っておくとすれば、予備知識として知っておくに越した事はない、という事になリますし、霊界でも、この事実を知らないで生きている人は、幾らでもいる、という事です。

さらに、つけ加えるならば、魂の、その分身なり、或いは、一部が、タコの足の様では決してない、という事で、これは、自由自在に変化出来る、という認識が必要です。地獄界の者でも、心の傾向性に合わせた姿に変わって来るのです。ましてや、天上界の諸霊達は、色々な姿を取る事が出来る、という事だけは言っておきたいと思います。

その人の、心境や、心の傾向性に合わせた姿になって行きますし、これも、あの世での学習材料の一つとなりますが、学習が進めば、自分の姿を自由自在に変えて行く事が、出来る様になります。

また、あの世の霊人であっても、肉体意識に引き摺られている者は、自分を変える事が出来ませんが、この、霊的存在(という在り方)の、本当の意味を知れば、自由自在に自分を変えられます。思った通りに、自己を、演出出来る様になります。王族の様にもなれば、或いは、天使の様にもなれば、鳥の様にもなれる。様々に、自己の姿を変化させる事が出来る、それが、魂の真実でもあるのです。
(2020,9 再編集)

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ようこそ (gw(ブログ編集者))
2020-09-09 11:48:22
ようよう様、コメント有難うございます。
ようよう様は、例えば、大学の先生のような、かなり、専門的な事を研究しておられる、ご年配の方の様にお見受けします。
この記事に掲載されている文章は、ブログとして、この場をお借りしている、私(gw)自身のものではありません。
この文章は、既に亡くなられて数百年になるスエーデンボルグという方の霊が、霊界から語りかけて来たとされる言葉をある方が書き取ったものであるとされています。
まあ、スエーデンボルグは、生前から霊界に行き来してその様子を本にしたと言われておりますから、その辺との連関性を私なりに検討してみて、内容的に、スエーデンボルグのものとしての信ぴょう性があるとして、ここに転載させて頂いているものです。
ですから、内容の如何に関しては、ようよう様ご自身が亡くなられてから、直接、スエーデンボルグに質されるか、或いは、この元の文章を書かれたチャネラーの様に、チャネリングでもされて、スエーデンボルグご当人に直接訊かれては、いかがでしょうか。
もう一つ、コメントを頂いている様で、重ね重ね、お礼を申し上げます。そちらの方も、同様の趣旨のお答えにさせて頂きたいと思います。悪しからずご了承下さい。
なお、私自身の文章は、アセンション関連の記事ですとか、雑感のような、ちょっとユルめの記事でご覧になれます。そちらの方も、ご笑覧頂けると光栄です。
返信する
人間視点 (ようよう)
2020-09-07 12:45:14
ひどいものです。

貴方が書いているように、
地上に顕現している自我が、自己の一つの側面であるとしましょう。

だとしたら、スエーデンボルグならば、自我と他の側面との関係における視点から話すでしょう。なぜならば、彼の自我はすでに、他の側面と意識をつかえているからです。
 しかし、相変わらず、自我からの視点でしか語られていません。その神父?はなんぞの本でもよんで語ってるのでしょうが、他の側面を全く意識できていまでん。語っていながら、意識出来ていない。 スエーデンボルグを引きずり落としてますね。
返信する

コメントを投稿