「人徳」という言葉が、死語になって久しいように思います。いま、仮に、私たちが、自分より若い人に、「人徳」についての話をすると、分別臭いお説教でもされるのか、と、引かれてしまうかも知れません。それは、話す方に、そうした事を話せるだけの人徳が備わっていないせいでしょうし、人徳は、やはり、日常生活の中での振る舞いに、にじみ出て、他者が感じ取るべきものなのでしょう。アマテラスが語られると、それは古臭くもなく、自然と納得できるようです。天照大御神の、霊界からのメッセージを続けさせて頂きます。
(ここから)
太陽が出ることで、草木も、また、そちらになびいて行きます。水がある所には、魚が集まって参ります。そうしたものが、徳と言われるものです。
太陽の如き存在に対しては、人々は、顔を向けて、心を向けて、伏し拝みたくなるものです。また、水が溢れている所には、魚も、子供達も集まって来ます。小鳥達も憩って行きます。これが徳の姿です。
このように、徳と言われるものは、本来、強制的なものでもなく、人々を畏怖させ、怖がらせるものでもないのです。自然自然に、人々が集まって来るようなもの、それを徳と言うのです。例えば、その人を上に据えれば、人々が、よく治まるような人は、徳がある人、と言われているのです。
このように、自然な感化力で、人々を導かんとする力を、徳、と言うのです。それは、ちょうど、目に見えず声も聴こえない、神、という存在があって、その存在が、人々を、平和に、協力的に、生きさせて行くための、根元的な力となっている事と、同一の事です。徳が大切だという事は、神が、徳そのもの、だからです。
徳は、また、秩序でもあります。物事の成り立ち、でもあります。物事の順序、でもあります。徳は、全てに先立ち、徳ありてこそ、人々は、生きて行く値打ちがあるのです。
徳とは、結局、感化力です。人々が、その徳に触れる事によって、自らも、その様になりたいと思うこと。その人に接する事によって、向上への意欲が湧かざるを得ない様な人、そうした人を、徳ある人、というのです。
徳は、目には見えません。目には見えないが、確かにあるものです。徳があってこそ、初めて、人々は、神近き存在へと進んで行けるのです。結局のところ、人間の偉さとは、この徳いかんに関わっているのです。徳がある人は、その徳が、増えれば増えるほど、神近き人であると言えましょう。
徳がある、という事を、もっと具体的に分析して行った時に、如何なるものを、徳がある、と言えるのでしょうか。
私は、まず、自分の心を、よくよく磨き、清い心で生きている、という事が、徳の第一条件ではないか、と思います。常々、自らの心を見直し、自らの心を清らかにし、そして、悪しき考えや、悪しき思い、悪しき言葉が出た時に、それを一つ一つ反省して行くこと、それが徳ある人の姿であろうと思います。
徳の、あるという事の、第二条件は、それは、英知がある、智恵がある、という事と、同義であろうと思います。人々がこの地上で欲しているものは「調整の原理」です。人と人とが、いかに仲良く暮らして行くか、互いの考えが違い、互いの利害が違う者同士が、如何に、仲睦まじく、この世で生活をして行くか、それを、人々は、常に欲していますし、それに対する解答を求めている、とも言えましょう。このためにこそ、徳が必要になって来ます。即ち、徳の中に光っている、智慧の光、英知の輝きが、必要となって来ます。
人を感服させ、人を感化させるためには、より優れた考え、より優れた判断力、が大事です。それなくしては、指導者となって行くことは出来ません。
つまり、より良き指導者と、なって行くためには、一歩も二歩も、人々より先んじた考えを持っていなければいけない、という事です。人々は、智慧ある人の所に集まって来ます。そうして、その人の判断を仰ぎたい、と思っているのです。智慧ある人の考えを、理解したい、と思うのです。智慧ある人の意見を聞いてみたい、と思っているのです。
この、智慧という事の前提は、一体、何でしょうか。何が、智慧と言えるのでしょうか。智慧の前提となるものに、二つある、と、私は思います。
智慧の前提の、第一は、より多くの経験を積んでいる、という事だと思います。いろんな経験があって、人々が、まだ知らない様な事を知っている。これが、昔から、長老が尊敬されて来た理由でしょう。いろんな経験を積んで来た、という事が、そうした条件を生み出しているのです。
もう一つは何か、というと、神、あるいは、神近き人の声を聴ける、という事です。地上の人間に判断出来る事は限られていますが、地上を去った世界に住む高級諸神霊にとっては、地上の悩みは、実に簡単に解決が着くこともあります。それは、地上に住む人達よりも、遙かに、よく先の事が観えるからです。そうしたことがある、ということです。
徳ある人、であることの条件の、第三に挙げられる事は、結局、人格そのものの美しさ、であろうと思います。いかに優れた判断力を持ち、いかに、いろんな事を経験していたとしても、その人の人格の放つ光が、屈折したものであったり、人を責め苛む様な、棘あるものであった時に、人々は、そこから、善きものを感じることが出来ないのです。即ち、人格の匂いが美しいこと、素晴らしい人格として、美しさがあること、それが大切です。
こうした、美しい人格、光沢のある人格、光ある人格を創って行く事が、何にもまして大事であろうか、と、私は考えています。
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太陽が出ることで、草木も、また、そちらになびいて行きます。水がある所には、魚が集まって参ります。そうしたものが、徳と言われるものです。
太陽の如き存在に対しては、人々は、顔を向けて、心を向けて、伏し拝みたくなるものです。また、水が溢れている所には、魚も、子供達も集まって来ます。小鳥達も憩って行きます。これが徳の姿です。
このように、徳と言われるものは、本来、強制的なものでもなく、人々を畏怖させ、怖がらせるものでもないのです。自然自然に、人々が集まって来るようなもの、それを徳と言うのです。例えば、その人を上に据えれば、人々が、よく治まるような人は、徳がある人、と言われているのです。
このように、自然な感化力で、人々を導かんとする力を、徳、と言うのです。それは、ちょうど、目に見えず声も聴こえない、神、という存在があって、その存在が、人々を、平和に、協力的に、生きさせて行くための、根元的な力となっている事と、同一の事です。徳が大切だという事は、神が、徳そのもの、だからです。
徳は、また、秩序でもあります。物事の成り立ち、でもあります。物事の順序、でもあります。徳は、全てに先立ち、徳ありてこそ、人々は、生きて行く値打ちがあるのです。
徳とは、結局、感化力です。人々が、その徳に触れる事によって、自らも、その様になりたいと思うこと。その人に接する事によって、向上への意欲が湧かざるを得ない様な人、そうした人を、徳ある人、というのです。
徳は、目には見えません。目には見えないが、確かにあるものです。徳があってこそ、初めて、人々は、神近き存在へと進んで行けるのです。結局のところ、人間の偉さとは、この徳いかんに関わっているのです。徳がある人は、その徳が、増えれば増えるほど、神近き人であると言えましょう。
徳がある、という事を、もっと具体的に分析して行った時に、如何なるものを、徳がある、と言えるのでしょうか。
私は、まず、自分の心を、よくよく磨き、清い心で生きている、という事が、徳の第一条件ではないか、と思います。常々、自らの心を見直し、自らの心を清らかにし、そして、悪しき考えや、悪しき思い、悪しき言葉が出た時に、それを一つ一つ反省して行くこと、それが徳ある人の姿であろうと思います。
徳の、あるという事の、第二条件は、それは、英知がある、智恵がある、という事と、同義であろうと思います。人々がこの地上で欲しているものは「調整の原理」です。人と人とが、いかに仲良く暮らして行くか、互いの考えが違い、互いの利害が違う者同士が、如何に、仲睦まじく、この世で生活をして行くか、それを、人々は、常に欲していますし、それに対する解答を求めている、とも言えましょう。このためにこそ、徳が必要になって来ます。即ち、徳の中に光っている、智慧の光、英知の輝きが、必要となって来ます。
人を感服させ、人を感化させるためには、より優れた考え、より優れた判断力、が大事です。それなくしては、指導者となって行くことは出来ません。
つまり、より良き指導者と、なって行くためには、一歩も二歩も、人々より先んじた考えを持っていなければいけない、という事です。人々は、智慧ある人の所に集まって来ます。そうして、その人の判断を仰ぎたい、と思っているのです。智慧ある人の考えを、理解したい、と思うのです。智慧ある人の意見を聞いてみたい、と思っているのです。
この、智慧という事の前提は、一体、何でしょうか。何が、智慧と言えるのでしょうか。智慧の前提となるものに、二つある、と、私は思います。
智慧の前提の、第一は、より多くの経験を積んでいる、という事だと思います。いろんな経験があって、人々が、まだ知らない様な事を知っている。これが、昔から、長老が尊敬されて来た理由でしょう。いろんな経験を積んで来た、という事が、そうした条件を生み出しているのです。
もう一つは何か、というと、神、あるいは、神近き人の声を聴ける、という事です。地上の人間に判断出来る事は限られていますが、地上を去った世界に住む高級諸神霊にとっては、地上の悩みは、実に簡単に解決が着くこともあります。それは、地上に住む人達よりも、遙かに、よく先の事が観えるからです。そうしたことがある、ということです。
徳ある人、であることの条件の、第三に挙げられる事は、結局、人格そのものの美しさ、であろうと思います。いかに優れた判断力を持ち、いかに、いろんな事を経験していたとしても、その人の人格の放つ光が、屈折したものであったり、人を責め苛む様な、棘あるものであった時に、人々は、そこから、善きものを感じることが出来ないのです。即ち、人格の匂いが美しいこと、素晴らしい人格として、美しさがあること、それが大切です。
こうした、美しい人格、光沢のある人格、光ある人格を創って行く事が、何にもまして大事であろうか、と、私は考えています。
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