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霊界通信3の1、優雅さと美に生きる、天照大御神のメッセージ

2021年01月05日 | アセンション後の暮ら...
だいぶ前に、天照大御神(アマテラス)と言われる方のメッセージを掲載させて頂いたことがありました。これは、その続きですが、霊界通信のシリーズとしての体裁で続けさせて頂きます。アマテラスという方は、ムー時代から、大和へと、大和民族と深く関わり、日本人の、いわばメンタリティの支柱となって来られた、と言えるのではないでしょうか。そのメッセージにも、そうした事が感じられるように思います。私たちが、これまで失ってきた、何か大事なものが、そこには見出せるかも知れません。

(ここから)

大和の心の中で、今ひとつ、大切な心は「優雅であること」という事です。

今、若き女性の中に、優雅さのある女性が居るでしょうか。優雅な立ち居振る舞いをしている方が、どれほどいらっしゃるでしょうか。

そこに、ここ数千年の間に、大和民族が培って来た文化が、西洋の文化によって攻め取られた部分があると思うのです。優雅さ、という価値を見失った時、そこに、古き良きものが姿を消して行くのです。

優雅である、という事は、決して、日本人の中の、女性に対してだけの事ではありません。男性にとっても同じです。

優雅である、という事が、一つの美徳であった時代が、今、消え去ろうとしています。

分刻みのスケジュールの中で、他人と競争しながら生きている中において、優雅さというものは、一体どこに消えて行ったのでしょうか。また、女性の優雅さというものは、どうなったのでしょうか。

優雅さと、よく似たものに、奥ゆかしさ、があります。女性であって奥ゆかしい、という事の価値、これが無くなって久しいのではないでしょうか。

権利を主張し、自我を主張し、自分の意見を、男勝りに堂々と発表する女性の、なんと多くなったことでしょうか。

女性よ、今こそ、あなた方は、心の革命を叫ばなければいけない。ギスギスした男性論理の中で生きてはいけない。現代社会のあり方を、本当だと思ってはいけない。その中に、一番大切な精神が、今、失われつつある、という事を知らなくてはいけません。

皆さんは、どうか、優雅な気持ち、奥ゆかしさの奥にあるもの、を、知って頂きたいと思うのです。

その、奥にあるものは、結局、滲み出す光であり、その人の徳性でもある、ということです。徳というものは、必然的に滲み出して来るべきものであって、他の人々を刺激する様なものではないのです。徳の奥にあるものは、静かに、静かに、味わいを増していく様なものです。それは、優雅な形によって現れて来るものです。

では、優雅であるためには、優雅に振る舞うためには、如何なる事が大事でしょうか。

私は、そこに、現代社会に於いて大切とされる価値、これを乗り越えた世界、が必要であろうと思います。

現代の、利潤を追求する経済の世界で、優雅であることは、ほぼ困難です。、多くの人達に申し上げたい事は、出来れば、利潤や営利の追求をしなくても、人々が平和に暮らせる様な、そうした社会を、一日も早く創り出していく事だと思います。

では、どうすれば、そうした事が可能でしょうか。そのためには、私は、二つのことが大事であると考えます。

第一は、簡素な生活に立ち返る、という事です。大和の精神の奥にあるものは、簡素な美、簡素な生活です。静かな佇まいの中に、美しい魂を育んでいく、という精神が、何にも増して大事なのです。従って(そのためには)欲を出さない事です。欲を出して、世間との比較のもとに、より良きものを求めようとしない事です。

出来れば、都会に住む事を捨てて、小さな街で優雅な生活を送る事を、最高の美、最高の姿とする様な、そうした考え方を、多くの人に持って頂きたい。

ビルの中に住む事が、なぜ、それほど素晴らしいのか、人混みの中に住む事が、なぜ、それほど良い事なのだろうか。大自然に囲まれ、海や、川や、山のある所で住む事こそ、お金に代え難い値打ちと、なぜ考えないか。その中で(心)豊かに暮らす事こそ素晴らしい、と、なぜ考えないのか。こうした価値観の逆転に、今、立ち上がらねばならないと思います。

優雅に生きるための、第二の方法は、無我の生き方、という事です。

我というものを強調し過ぎた西欧文明は、行き詰まりを迎え、今、一つの終焉を迎えている様に思います。我というもので覇を競っていても、やがて、人々は、その競争に疲れ、心の平和を求める様になって来るのです。我を捨てる。無我の生き方。あまり自分というものを打ち出さない生き方。人々の中で、出来るだけ、自分という事を考えずに生きられる生き方。それを追求して頂きたいと思うのです。

一日を振り返ってみて「私は 私は」「自分は 自分は」という様な思いが、心に、少なければ、少ないほど、その方は優雅に生きている、と言えると思います。自分の事を考え過ぎている人は、これは、神の目から見れば、悪人です。悪人は、自分の事を考えてばかりいます。

神の目から見た善人は、全てが良くなる事を願っています。社会の良き事を、神の世界が、益々発展、繁栄していく事を、こそ願っています。その中には、我の気持ちはないのです。どうか、無我の生活というものを心掛けてみて下さい。

さて、「美」ということに関して、話をして行きたいと思います。
美は、大和民族が、長らく追求してして来たものです。美の本質にあるのは、美の極致にあるのは、それは崇高なる威厳です。崇高なる威厳こそが、美の極致にあるのです。すなわち、最高の美とは、神そのもの、ということにもなりましょう。神そのものが、美の極致の座に就いて居られるのです。崇高なる尊厳、冒し難い気品、これが美の極致にはあります。

美は、決して、けばけばとしたもの、飾り立てる様な美しさ、を言うのではないのです。あの、伊勢神宮にある様な、広大な空間の中にある、聖なるひととき、聖なる空間、その気品、そこに最高の美がある、と私は思います。従って、美の奥には、また一つの、余裕というものがある、ということ、優雅さがある、ということも真実です。

美には、その奥が限りない所があります。今の日本人の価値尺度が、大部分が、西洋思想にかぶれて、利潤を追求し収入を増やす事ばかりに費やされている事を、私は残念に思います。その人の生活が、如何に優れているかどうかは、如何に、美という事を心に掛けて、(美に)心を傾けて生きているか、という事と、大いに関係があるのです。

一日のうちで、皆さんの魂は、幾たび、美について思いを巡らしたことでしょうか。幾たび、美しいものに出会って感動したことがあるでしょうか。一度もない、というのが、大多数の人々ではないでしょうか。しかし、それは、大いなる価値の損失です。美しいものに感動しないで日を送る事ほど、空しい事はありません。それほど悲しい事もないのです。

人生を彩るものは、感激であり感動です。その頂点にあるのは、美しきものとの出会いです。美しいものとは、決して視覚的にのみ訴えられるものではありません。それは、心の美しさ、魂の美しさ、という形でも現れるものなのです。

あなたは、ひとたび家を出てより、一日を終わるまでの間に、幾たび、この人は美しい心を持っている、と感じたでしょうか。或いは、あなたご自身が、幾たび、美しい心を持った事があったでしょうか。

美の極致にあるのは、神より降って来て、人々の、心と心を結び付けている琴線、この琴線を弾いて、見事な音色を奏でる、その行為です。人間の心と心の間には、目に見えぬ琴線、琴の糸が張り巡らされています。それは、ある感激や感動に出会った時に、等しく、美しい調べを弾き出す、音なのです。そうした琴線が、全ての人の心に張り巡らされているのです。

ある意味では、神の目から見れば、この地上、この日本に住んでいる一億人以上の人達は、神の、一つの琴を創るために存在している様にも思います。日本列島が、ひとつの琴であり、その上に住んでいる人々の、心と心を結んでいるものが、琴の線、琴線です。この、日本列島という琴を、神は手に取られて、その手で奏でて居られるのです。美しい音楽を奏でて居られるのです。そこに、一つの調べが出て来るのです。これが、国民性と言われたり、国の美しさと言われるものです。

この美の極致は、国自体から、そうした調和の光が出、美しき音色が出て来る時です。人々の、心と心に張り巡らされた、その弦に、神の手が触れて、えも言われぬ美しい音楽が奏でられる時、そこに、美の極致が現出するのです。

さすれば、人々よ、あなた方の心の中には、神の弦の糸が繋がっている、という事を知りなさい。あなた方の、心の調整が悪ければ、神の奏でる音楽の音色も、また悪くなってしまいます。そうではなくて、いつもいつも、弾かれる前の琴の様に、ピンと糸を張りなさい。そして、いつもいつも、美しい音を出し続けなさい。そうした努力をする事が、人間としてのあなた方に課された、大きな使命なのです。この美の極致に、神が願って居られる事は、出来るだけ美しい調べを、出来るだけ永い期間、弾き続けて行きたい、という事です。

そうであるならば、心を掻き乱してはなりません。永い永い年月の間、人々の、心から心にと、美しい音色が伝わって行く様に、善き手本となる様な生き方を、目指して行かねばなりません。


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